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<東京怪談ノベル(シングル)>


十の拘束の解放


 レイリー・クロウは哂っている。

 ***

 ない。ない。――無い!
 女はたいそう、焦って、いた。
 しじまを知るのは音のあるからこそ。車や音楽や人々の生活音がふっと途切れるその公園で、女はまるで犬のように地面を這いまわっている。昼間ならばすぐ近くを都電の線路がとおっているので、その様はきっと奇異に映ったことであろうが、終電も過ぎた昔ながらの住宅ひしめくこの一帯は、ただどんよりと闇を抱えこむばかりである。その裡で、女は携帯電話の刺すような光を、黒い土の表面に頼りなく走らせ、薄紅色の爪を汚していた。
「どうしよう……」
 じっとりとした汗が肌に纏いつくのに比して、乾ききった声音が洩れる。
 たしかに、ここだ。ここしか、考えられないのだ。
 夜を待って彼の家を抜け出して、駅まで走った。ちょうど来ていた電車に乗ったあとは、そのまま自分の家のある駅までじっとしていた。下りてすぐに、バッグの中を確認したら、もうなかったのだ。中身をすべて引っくり返しても、なかったのだ。
「絶対、あのとき。あのときに落としたはず――」
「落としたのか?」
 咽喉の奥で、呼吸を呑みそこねて、ヒッと音が引き攣れる。
 地面にてのひらを突いたまま、首を後ろへ向けると、切れかけた電灯がふたつの影をつくりだす。公園の低い車止めの横に肩を上下させた彼が立っていた。
 追ってきたんだ。追ってきて、くれたんだ。
 こんなときなのに、かすかな昂揚が胸に湧いて、女は思わず、笑んでいた。


 女は、やはり、笑っていた。
 コイツ、と口の中で、頭の中で、何度も繰り返してきた罵詈を並べ立てて、男は努めて冷静に息を整えた。
「なあ、なんで急に帰ったんだ。しかも俺の寝ている間に」
 いつもの優しく聴こえるらしい声で話しかけると、目に見えて女はほっとして、へらりと頬の強張りを解いた。
「だって、いきなり、別れるなんて、いうのだもの」
「だからって、ソレを持って行くことは、ないだろう?」
「だって、」
 まただ。だって。言い訳でもないのなら、繰り返すんじゃない。ざわつく焦燥を苦労して押し止める。
 コイツは、変に頑固なところがあるから、怯えさせると、厄介だ。
「あの指環を買ってから、あなた、おかしくなったわ」


 指環。

 そうだ、指環だ!


 彼女が最初に、男の異変に気づいたのは、思えば、あの指環を自慢げに手にするようになってからだった。なんでも、ずいぶんと印象的で運命的な出逢いを果たしたとかで、女が指環に触れようとすると、めずらしく癇癪を起こして決してさせなかった。
 赤く小さな石を頂いた、華奢なリング。
 それは男の太い手指には不似合いだと思っていたのだが、填めてみると、不思議と肌の質や色ともすっかり馴染んで、永いこと指と添うていたような落ち着き具合だった。それはもちろん男も知っていて、暇さえあれば指環を填めた指をかざしてみたり、意味もなく机に広げてみたり、どこか世情とは隔絶したところのある女にも、さすがに気味の悪い様子がつづいた。やがてその行動は、暇がなくとも、暇と呼ばれる時間を作り出してまで、及ぶようになった。仕事へ行かなくなり、外へすら出ようともしない。
 男の家の前で、女はずっと、待っていた。ひとり、待っていた。ただ一羽の鴉だけが、ときおり家の塀の上を優雅に渡り歩いて、女を嘲笑うようにアアと啼く。待っていた。
「指環と、わたし、どちらが大事?」
 陳腐な台詞は、台本にあらかじめ書かれていたように、さらりと口から滑りでた。
「別れよう」
 返答も使い古されすぎて、きっとお話にならないようなストーリーが終わり、あるいは、廻る。
 環のごとく。


「指環はどこにある!」
 男は、その指環という単語を認識した途端、唐突に飛びかかった。
 横で、べつの男が、興を惹かれたのか、くいと帽子を上げて、金眸を細めた。


「ないの。さっき、あなたも聞いたでしょう。わたし、ここで転んで、バッグの中身と一緒に、落としてしまったの」
「嘘をつけ。隠し持っているのだろう」
「ほんとうよ、ほんとう。――そうよ、鴉が持っていってしまったの」
「なんだと」
「ほら、鴉って、光り物を好むでしょう。あの指環、ずいぶん綺麗な色の石が嵌めこまれていたのだもの。きっとそれを気に入って、鴉が持っていってしまったのだわ」
 この女は、どこまで俺を莫迦にすれば気がすむのだ。
 男の常で、その怒りは出口を求めて渦巻き、全身を巡った末に、結局奥底へと収まるものなのだが、このときは、違った。怒りは純粋なままに指先へと集約し、なお単純化されて、ひとつの行動を択び取った。
 ――痙攣は、女がすべての行動を放棄したのちも、つづいていた。


 しばらく、男は立ち尽くしていた。手には、いつの間にか、優美な装飾の施された、短剣がある。
 そして、またべつの男は、相変わらず、哂っている。
 眼の前に転がった女の屍骸は、やっと沈黙して、半天を透きとおった眸が恨めしげに見つめている。
「そうだ」
 人殺しの男は、一歩踏み出して、確かなのか曖昧なのかわからぬ動きで、女の躰を探り出した。
「どこだ。どこにある!」
 指、環。円。まるく。ほっそりとした指に、きっと似合いの。
「あれは、彼女に差し上げるおつもりでは、なかったのですか」
「こんな女にやるには、もったいない」
「ほう。私がそれをあなたにお渡しした際、あなたはこう仰った。『きっと彼女に似合うだろう』」
「おまえ!」
 そこで初めて、男は男を振り向いた。
 時代と場所を錯誤した男の姿は闇を吸う。そこだけ空間を違えたように、帽子も服もマントも手袋も黒で統一されたなかで、くすんだ肌色と硬質な金属の瞳の色がちろり、揺れ動く。ずっと夜に融けこんでいた商人は、恭しく一礼を返した。
「おまえ、今更あの指環をどうこうするつもりじゃ、ないだろうな」
「どう、とは」
「返してもらいにきたなんていっても、遅い。あれはもう、俺のものなのだ」
「もちろんです。あなたはたしかに私へお求めになりました。自分の給金では、家では、一生では、決して持つことのかなわぬ指環を、と」
 ご満足いただけたようで、と添えて芝居じみた動作で首を傾けた。
「あの指環を作ったのは、おまえ自身だといったな」
「確かに」
「ならばどこへ行ったのか、わかるだろうか」
「無論」
「どこだ!」
「そこに」
 すい、と黒皮に覆われた商人の指が、指環の本来あるべき場所を指し示した。
「あなたはとっくに、彼女から、受け取っていたではありませんか」
 そうだ!
 男ははっとして、あさっていた骸から離れると、示された己の両手を見た。
 ああ、あった!
 右手の薬指に、はたして指環は、填まっている。
 ところが、どうにも落ち着かないのだ。この指では、不似合いな心地がする。もっと、ほっそりとして、薄い肉のついた、桜貝のような爪を持つ指でなければいけないような――いや、そうでなければ、いけないのだ。
 さっそく指環を外そうとしたが、どうしたことか、ぴったりと指の肉に埋まっていて、抜けなかった。いくら引っ張ってみても、周囲の皮がともに伸縮するだけである。
 はやく、はやく、指環を不恰好なこの指から外さなければ!
「指ごと奪えばよろしい」
 なるほど、そうだ、と、男は自分の、誰かの、思いつきに大きく頷くと、躊躇いなく短剣を左手に握って、指ごと指環を取り去った。
「まだ、残っているようですが?」
 男の言葉に、男は改めて指を見ると、やはりまた、あるのである。畜生。この指め。もはや憎々しくたまらなくなって、男は今度は、薬指を奪い取った。それでも、今度は人差し指に、指環は輝いている。
 男は夢中で、片手をすっかり綺麗にしてしまうと、短剣を口にくわえて手をそえて、右手の指も綺麗にしはじめた。
「ただほんの少し、うつくしすぎる石を持ったばかりに、魔性を宿してしまった指環」
 男を冷たく見下ろして、商人はうたうように告げる。覗いた舌が、味わうように蠢く。
 両手をまったく短くしてしまった男は、今度はまた、いまだ解放されぬ十の指を見つけて、ひどく愚かな姿勢に屈みこんで、靴を脱ぎ捨てた。
 もう、こうなってしまうと、単調なものである。
「そう。――あなたにはやはり、不相応な品物だったのです。高望みも程々がよろしい」
 男から吸い取れるものはもうないと判断して、レイリーはてのひらの上の指環に面を寄せた。戯れに吐息を届かせると、わずかな曇りを持った金属は、けれどその中心の宝玉だけは、孤高に一点の翳りもなく色濃い闇のなか煌煌としている。

 肌色と等しい色づきの薄い唇をすいと持ち上げて、
 ――レイリー・クロウはただ、哂っている。


 <了>