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言食み【ことはみ】
近所の小さな古びた社。それに願い事をすると叶うという噂がある。
叶ったと言う者もいれば、叶わなかったと言う者もいる。
だが、彼女はそれを信じなかった。あんなボロい社にそんな力があるものかと。
しかも、願い事が叶えば、供物として「死んだモノ」を捧げなければならないという。
──気味が悪い。
虫だろうが小鳥だろうが鼠だろうが、死骸を欲しがるなどどうせロクなモノではない。
だから彼女は願掛けなどしなかった。
それでもある日、唐突に母親から「次のテストでいい点をとれなければピアノをやめさせる」と言われて、全く勉強をしていなかった彼女は慌てた。
たまたま社の前を通りかかり、藁にもすがる気持ちで手を合わせた。
結果、少女は母親の言いつけを守ることができたが、それは自分の底力の賜物であると思い、願掛けのお陰だなどとは思わなかった。
そして夢を見た。
「約束を破ったな」
手が喉に食い込む夢。それは人のものとは思えないほど長く、真っ黒だった。
「言食みの罪は重い」
手はぎりぎりと喉を押し潰す。それを渾身の力で払いのけたところで目が覚めた。
そして、声が出なくなっていることに気がついた。
蒼白になった彼女の耳元で誰かが囁く。──次は目だ。
弾かれたように振り向いたが何もいない。
彼女は総毛立った。
事務所に戻ると瀬名雫がソファの上で寛いでいて、シュライン・エマの姿を見るなりにっこり笑った。
「やっほーシュラインさん。例の件どうだったー?」
「何とか、ね。情報ありがと、雫ちゃん」
「何の。あたしの代わりに誰か調べてくんないかなーと思ってたとこなんだ。立候補してもらって助かっちゃった」
雫は隣のスペースを空けて手招きする。そこに腰掛け、シュラインはバッグの中から二枚の古びた紙切れを取り出した。
「まずは被害者の様子から報告するわね。──あの社が一応の利益をもたらしてくれるってことから、金蚕蠱毒の可能性を疑ってみたの。だから念の為、石榴の根を煮詰めて作った煮汁を持参して飲ませたら……」
「吐いた? どんな虫だった?」
詳細を知る雫は、シュラインの話に爛々と目を輝かせて身を乗り出した。
金蚕蠱毒とは、一つの壺の中に複数の虫を入れて互いに食い殺させ、最後に残った一匹を使って行う呪詛である。
虫は強い霊力を持ち、主に利益をもたらすが、これを養うことを怠れば主を食い殺すと言われている。そして蠱毒は、石榴の根の煮汁を飲ませれば治ると言われていた。そうしてその口碑の通り、少女は虫を吐き出して快癒した。
「見たこともない、何だか得体の知れない虫だったわよ。緑色でぶよぶよした……」
「見たかったぁ!」
両手を胸の前で組んで雫は言う。黙って座っていれば明朗快活な雰囲気を損なうことのない美少女なのに、口を開けばこれである。シュラインは苦笑するしかない。
「そう言えば雫ちゃん、言ってたわね。あの女の子は何かを隠してるって」
「うん。あの社は前から有名だったし、それこそお礼をしないで祟られちゃった子も何人もいたしね。なのにあの子だけ祟りが酷いのって変だもん。普通は祟りが出たらすぐにお参りし直して、供物を倍にして捧げたらそれで済むのに」
雫の読みは正しかった。シュラインはそれを証明する為に、バッグの中から小さな壺を取り出した。宝石で華美な装飾がなされた、いかにも高価そうな壺だ。
「わ。何それ。きれーい」
「社に祀られていた壺よ。中には虫が閉じ込められていたみたい。……覗いても中には何もいないわよ」
壺に飛びついた雫は、シュラインの言葉に残念そうな表情を浮かべて口縁から顔を離した。
「それよりもこっちを見てくれる? これはその壺の裏側に貼り付けてあったものなんだけど」」
言って、シュラインは最初にバッグから出した紙のうちの一枚を雫に向かって差し出した。
雫は興味津々という表情で今にも破れそうなそれを広げたが、そこに書かれているのが梵字と見るや、癇癪を起こしたようにぽいっと投げ捨ててしまった。
「何これー! 読めなーい!」
「梵字表記されてるけど中身は日本語よ。『この壺を手にした欲深き者に中身を譲渡するものなり』と書かれてるわ」
「それって、壺を持ってる人が虫の主人になっちゃうってこと? じゃあやっぱり誰かが意図的に嫁金蚕を始めたってことだよね?」
シュラインは頷き、もう一枚の紙を手に取る。
「雫ちゃんの言ってた通り、彼女は隠し事をしてたわ。最初に願い事をした時に、興味本位で社の扉を開けてこの壺を盗んでいたの」
「あらら。泥棒? そりゃ祟りも治まらないわけだ」
「どうかしら。そもそもあの社を作った人物は、どうやら彼女のような人間を待ってたみたいよ」
広げたもう一枚の紙は、シュラインが荒んだ社を見かねて掃除をした時に、天井の部分からひらりと落ちてきたものだった。そこにはこう書かれている。『この社に願立てる者、ことごとく欲深し。苦せずして己の欲望を果たさんとす全ての愚者に呪いあれ』。
「待ってたってどういう意味?」
目をぱちくりさせる雫に、シュラインは自分の考えを纏めながら説明を始めた。
「多分こういうことだと思うの。あの社を作った人物は、欲をかく者を懲らしめる為に蠱法を行って、それと同時により欲深い人間を選り分けていた」
「何の為に? ……あ」
何かに気がついたように雫は壺に目をやった。雫の思考に、シュラインは目顔で同意する。
「多分、欲を出した人間に壺を盗ませて、虫に仮の主を食べさせる事で力を蓄えようとしていたんだと思うの」
少女は壺を盗んだことが祟りの原因と判断し、声を失ってすぐに社に壺を戻したのだという。それなのに、部屋に帰ったら壺はそこに居座っていた。何度戻そうとしても結果は同じだったという。
「そうやって虫を更に強力にして、最終的には願を掛けただけで……、いえ、ひょっとしたら、近くを通りがかった人間が何かを望んだだけで殺してしまえるようにするつもりだったんじゃないかしら」
「うわぁ、何それぇ! 無差別殺人ならぬ無差別呪い? それ作った奴、絶対性格悪いよね!」
シュラインはそれには答えず、壺に視線を落とす。
これは確かに呪いの様相を呈しているが、それはおそらく『さしたる苦労もせずに、他力本願で自分の願いを成就させようとする者』への強い軽蔑から生まれたものなのではないかという気がする。
結局、調べても調べてもあの社の来歴は知れなかったのだが、できることならシュラインはこの呪詛を行った者と話をしてみたかった。
努力と研鑽を重ねた人間には、簡単に神仏に依存してしまえる者を唾棄し排除してしまいたいという欲望があるのだろうか。
欲心を抱く者を憎む者。それの持つ欲心とは何なのかを教えてほしかった。
「で、この壺とかあの社とか、これからどうするの? それに、虫はどこやっちゃったの?」
雫はまだ未練がましく壺の中を覗き込んでいる。
「壺は蓮さんに頼んで、然るべき人の手に渡るよう計らってもらうわ。虫は、ちょうど近くに神社があったから訪ねてみたら、そこの宮司さんがしっかりした人でね」
言いながら、ふとシュラインは気づく。草間武彦の姿が見えないが、一体どこに行ったのだろう。
「虫をきちんとお札で封印して、誰も掘り起こせない場所に埋めて処分して下さるそうだからお任せしてきたわ」
社は、その神社で分けてもらったお神酒で清め、さらに清めの塩も撒いた。しかも宮司が振鈴と呼ばれる神呼びの鈴を貸してくれたので、それを打ち鳴らしてお参りしておいたから、もう善くないモノが住み着くこともないだろう。
「ところで雫ちゃん、武彦さんは?」
「あー、草間さんはねぇ」
ずず、と音を立てて冷めたコーヒーを啜り、雫は上目遣いにシュラインを見た。
「あたしが色々やらかしちゃったせいで、ちょっとご機嫌斜めかも。多分屋上で煙草吸ってるんじゃないかな」
「やらかしたって、何を?」
「えっとね、まず、シュラインさんが残してった書き置きがあったでしょ?」
雫はその上にコーヒーを派手にぶちまけて判読不能にしてしまったのだという。
「ホントはね、気になることがあって出かけるから休みくれ、って文脈だったの分かってたんだけど、草間さんが内容を気にしてソワソワするもんだから、面白くってつい……」
気になるヒトがいてどうのこうの、という内容だったんじゃないかなー、などという冗談を雫は口にしたらしい。
草間はそれを真に受けなかった。だが、そこに零がやって来て、シュラインは鍋で謎の物体を煮詰めたものを持って出かけたと証言した。
「あたし、惚れ薬でも作って気になるヒトに飲ませに行ったのかも、って冗談言ったら、『帰れ』って怒られちゃった」
雫は舌を出す。それでも居座っていられるのだから大したものだ。おそらく草間の方がからかわれるのにうんざりして屋上に逃げたのだろう。
「悪いんだけど、ご機嫌うかがいおねがーい。あ、あと事後報告の書き込みよろしくねー」
「はいはい」
シュラインは苦笑を浮かべて立ち上がった。
屋上からの景色を眺める草間の足元には何本もの煙草の吸殻が転がっていた。
「ただいま武彦さん。急にお休み貰ってしまってごめんなさいね。しかも事後承諾になっちゃって」
声を掛けると、彼は振り向かずに答える。
「今日はどうせ暇だったから構わん」
その背中に、シュラインは今回の件を話して聞かせる。彼は一度も相槌を打たなかったが、話が終わるとおもむろに口を開いた。
「その社、死んだモノを捧げろという命令は口承でしか伝わってないんだな?」
「ええ。文献には、願いの叶う社だと言われている、としか書かれてなかったの」
「シュライン、おまえはその社にどんな神が来ればいいと思う?」
「え?」
質問の意図が分からぬまま、シュラインは答える。
「そうね。特にお願いは聞いてくれなくても構わないけど、見守ってくれる神様がいいかしら。困ってたらちょっと手を貸してくれたり、危ない目に遭ったら助けてくれたり」
「後で改めてその社に詣でてみろ。多分、おまえの望んだ通りの神が居ついてるはずだ」
「どういうこと?」
「これは俺の勘だが、多分、その宮司は社の件に一枚噛んでる」
ようやく草間は振り向き、何本か目の煙草を落として揉み消した。
「嫁金蚕も、あの宮司さんがやった事だって言うの?」
「いや、宮司は何者かに振鈴を貸してやっただけだと思う。蠱毒は、おまえの前にその社の前で振鈴を鳴らした奴の願いが具現化したものだろう。空の社と振鈴、この二つがおそらく鍵だ。社の建立時期と振鈴がその神社に渡った時期が同じなら、おそらく当たりだろうな」
草間の勘はよく当たる。調べずとも、おそらく彼の説が真実であろうという予感がした。
だがそもそも、オカルトとはラテン語で『隠されたもの』という意味だ。今回の件はゴーストネットOFFというオカルトの世界からやって来たものなのだから、真実を秘匿しておくのも悪くはないだろう。わざわざ調べ立てる必要もない。
「零の話を聞いた時は驚いたぞ。うちの事務員が魔女の大釜でも始めたのかと思った」
彼はそう言って意地悪そうに笑う。シュラインは苦笑を返した。
「心配しなくても、私は惚れ薬なんて作ったりしないわよ。必要ないもの」
「必要ない?」
「ええ。だって、薬を使って好きな人の心を射止めても全然意味ないでしょ」
一番の願いこそ、自分の力で叶えなければならない。それが大切な願いであるならなおさらだ。
「でも、武彦さんがあえて飲みたいと言うなら作るわよ?」
ふふっと笑って挑むように草間を見ると、彼は何やらぼそぼそと呟いてから言った。
「そう言えば、今日はまだ一杯も飲んでなかったな。戻って早々悪いがコーヒーを淹れてくれないか?」
はぐらかされちゃった、と心の中で呟き、シュラインは返事を返して背を翻す。
その背を追い越して、先に事務所へ戻ろうとする草間の、「そう言えば」という言葉が文脈に与える意味。それにシュラインが気づいた時には、彼は自分の言葉に照れて逃げたかのようにいなくなっていた。
■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■
【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
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