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色なき風が吹く森で
『むかしむかし、碧く広い森がありました。そこにはなまえない神様が住んでいて、鳥も獣もひともみんなが仲良くくらしていたのです。
しかし、あるとき、ひとの王様がよその王様とケンカを始めたのです。
長いながいたたかいになりました。たくさんのひとが死にました。鳥も獣もひとも、みんながなまえのない神様にすがりました。
ああ、でも、よその王様はなまえのない神様の森に炎を放ったのです。
雨の降らない日が何日も何日も続いた後のことです。空気も森もひとの心もぜんぶがからからに乾いた日のことなのです。炎はあっという間に森を焼きました。ひとも鳥も獣も、なまえのない神様も、みんなが仲良く焼かれてしまったのです。』
灯は夜の中にいた。
生温い風と、腐った水の臭いと、赤黒い邪光を吐き出す三日月のある夜だった。
眼前にある森は黒々とした口蓋をぽっかりと広げていて、数年振りに訪ねて来た灯を迎えている。
薄暗い赤と黒ばかりの中に、灯が身につけている式服ばかりが白じらとひらめいている。闇を寄せない強固たる眼差しで森を睨みやり、指先で爆ぜる炎を強く握り締めた。
灯には、鳳凰に似た姿の聖獣が住んでいる。それはそのまま灯の力として揮うことが可能なのだ。ただし数分間のみという時間の制約を要する事になるが。
幼い時分より、立ち入ってはならないと戒められ続けてきた禁忌の森。
幼い頃にただ一度立ち入ってしまったおりに味わった恐怖の刻を、灯は今でも克明に思い出す。
森に潜んでいたのは数知れぬ亡者たちの怨念だった。
立ち入るものをすべて喰らいつくし同胞に取り入れてしまおうと、昏い眼孔をぎらつかせている、救われぬままの哀れな闇共だった。
心を射抜く恐怖の追憶に目を伏せて、灯は手の中で爆ぜる聖なる焔に気持ちを寄せる。
大丈夫、信じている。
自分の内側で息吹いている朱雀の加護を。
――なにより、自分の中には、揺るがぬ勇気がある事を。
踏み入った森の中に満ちていたのは光のひとつすら射さない絶対の暗黒だった。
風も淀み、空気までが饐えている。
踏みしめる大地はすべてが汚泥を敷き詰めた泥沼で、立ち止まればたちどころに呑みこまれてしまいそうだ。
天地すらも知れない。方向感覚は森に踏み入ってからすぐに失われた。果たして自分は今どこを歩いているのかもしれない。
もしかしたら、森は現世のものではないのかもしれない。
そんな感覚が全身を走る。
いや、元より、森が異界であることなど承知の上だ。それは幼い頃に体験した恐怖をもって理解している。
生きているかのようにうねる枯れ枝も、灯の足を捕らえようと這いずり回るひとの手の形をした草花も、灯の首を括ろうとして垂れ下がる蔦も、そのすべてが森の意思によるものなのだ。
すなわち、森へ踏み入った者を捕らえ喰らおうという、ただひとつきりの意思によって、森は息吹いているのだろう。
森に関する歴史は、手の届きうる限りに調べてきた。
森に関する文献はとても少なく、また、森が抱えている歴史は想像していたものよりも古いらしく、明確な答えというものは杳として知れないままだった。
が、文献を紐解いていく内に、灯はひとつの伝説ともいえる昔語りに行き着いたのだ。
世界にまだ神と呼ばれるものたちが根付いていた神代の頃。森には名前のない神が住んでいた。
名前のない神は、それでも自分を慕う人間達を非常に愛でて守護していたが、ある王の治世の折、他国の軍勢が攻め入ってきたために、愛でていた人間達の多くが死に絶えてしまった。
神は残った人間達を森の中へとかくまったのだが、圧倒的な力を所有していた敵軍の手により、森ごと火を放たれてしまう。
神は人間達を懸命に守護しようとしたが、久しく雨のない日が続いていた年であったせいもあってか、焔はあっという間に森を焼き人間達を生きたままで焼き殺したのだ。
気の触れてしまった神は焼けた森の奥へと姿を消し、そしてそのまま二度とは姿を現さなくなった。
やがて森は再び緑を茂らせたが、その頃にはもうすでに森は呪われた場所と化していたのだという。
生きたままで焼かれていった人間達の怨念が渦巻く、禁忌の森となっていたのだというのだ。
高い位置で風を受けている、人骨の形をした枝葉が、灯の身体を目掛けてなにかをぽたりと降らせた。
見ればそれは一匹の黒々とした蛭だった。蛭は灯の腕に食いついて、やがてのそりと吸血を始めたのだ。
それを合図にしたかのように、まるで土砂降りの雨のように、次から次へと蛭が降りかかる。
腕に這うそれの顔は、ニタニタと嗤うひしゃげた人間の顔を模していた。
灯は、しかし、うろたえず、一歩も引かず、静かにすうと瞼を閉じる。
指先で爆ぜた小さな炎は、次の瞬間には灯の全身を囲う甲冑のようなものとなっていた。
否、それは灯の身体を抱き包む両翼をもった炎の鳥となっていたのだ。
炎は灯にまとわりつく全ての蛭を焼き包む。
人間の顔を模した蟲たちは、――しかし、苦悶の表情など一切浮かべずに、気味の悪い笑みを顔から打ち消して、嬉しそうな面持ちでふつりと焼け消えていく。
そう。
灯は、森を消滅させるために踏み入ったわけではないのだ。
出来うるのならば森を救いたいと思ったがために、再びこの地を訪ねて来たのだ。
人骨の形をした木々が焼けていく。むろん、焼けているのはそこにある暗い念ばかり。実際に木立ちが焼失しているわけではない。
灯を留めようと、刃と化した木々や草花が次々と襲い掛かる。
葉は剃刀よりも鋭利なものとなって灯の首を狙いすまし、飛んでくる。そのひとつが灯の頬をわずかに裂いたが、灯は身じろぐ事もせずに片手を上げた。
朱雀が片翼を大きく広げる。
舞う羽のひとつひとつが、飛来する葉や枝の全てを受け止めて焼き落とす。
灯は、舞を舞うがごとくに小さく跳ねた。
森が呪いと苦悶と歓喜の声を張り上げる。
灯が舞う場所を中心として、黒々としていた森が少しづつ明るさを取り戻していく。
数知れぬ魂が、清められていく端々から天を目指して昇っていくのが見える。
灯は小さな笑みを滲ませて、ようやく解放されていく彼らの姿を見送った。
が、それは真っ直ぐに天に帰す事もなく、森の木立ちのてっぺん辺りで踏みとどまっている。
全ての声がひたりと止んだのに気がついて、灯は舞うのを止めた。
見据える先に、少女がひとり立っている。
幼い時分に遊んだ、あの少女だ。
少女の口がゆっくりと押し開かれる。
(灯ちゃん、なにしてはるの)
声は少女のものではあるが、しかし、地の底から陰々と響くようなものでもあった。
(うちの友だち、そんなんしはったらあかんえ)
笑っている。
まるで精巧に作られた人形のような姿をした少女が笑っている。
少女が歩くたびに湿った音が木霊する。
灯は、真っ直ぐに少女の顔を見つめた。
「もうやめよう、神さま」
言いながらもう片方の腕を揮い上げる。
朱雀が残る片翼を大きく広げた。
「この森で、またみんなが遊ぶようになったら、その方が神さまだって嬉しいでしょ? 死んじゃった人たちは――きっととてもひどい思いをしたんだろうけど、……でも、いつかはそういう思いも乗り越えなくちゃダメなんじゃないのかな」
(灯ちゃん、なんぎな事を言わはるわ)
少女がケタケタと笑う。
(灯ちゃんもうちらとここに住んだらええわ)
少女は、いつの間にか灯のすぐ眼前に立っていた。いや、おそらくその虚ろな眼は何をも見てはいないのだ。
びくりとも動かぬ暗い眼孔を見据え、灯は小さく息を整える。
「ううん、神さま。……私、今日は神さまを助けに来たの。昔みたいに優しくなった神さまと遊びたいから」
灯もまた少女の背に手を回す。
ひそりと抱き合う格好となったふたりを、朱雀の両翼が抱き包む。
不可視の焔が森のすべてを一瞬にして抱き包んだ。
無数の魂が天を目指して昇っていく。
灯の腕の中で、少女は、小さな小さな息を吐いた。
(……かなわんわあ)
数日の後、森の真ん中に、新しい祠が建てられた。灯の母が建ててくれたものだ。
森は、もう禁忌の場所ではなくなった。
祠を建てるために恐々と足を踏み入れた男たちも、それに付き添ってきた灯の母も、そこにある風景の美しさに、感嘆の息を吐くばかりだった。
気の遠くなるような長い歴史の中で、人の立ち入りもなく、結果的に手付かずで太古の風景を留めるに至った森には、ただただ安穏とした空気ばかりが満ちていたのだ。
明るい陽の射す緑の枝葉は、しかし、急激に季節の移り変わりを受けたためなのか、風が枝葉を撫でてゆくたびに秋の色彩で染まっていく。
緑と赤と黄と、そして落ち葉やどんぐりを拾う子供たちの歓声と。
灯は祠の横で子供たちの遊ぶのを見やり、眼差しを緩めて微笑みを浮かべる。
秋の空には青がたたえられている。
子供たちは見ず知らずの少女とも仲良く遊び、駆け回っている。
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2006 November 24
MR
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