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名探偵 草間武彦
「犯人は――この中にいる」
ガシャァアアアアアン!
窓の外で雷鳴響き、古びた洋館の食堂に集められた6人の容疑者たちの顔が、まるで鮮烈なモノクロ・アートのように浮かび上がる。
食堂の大きなテーブルを取り囲むように、思い思いに緊張を走らせる6人。あるものは手許の紅茶カップを指でもてあそび、あるものは窓に打ち付けられる大粒の雨をじっと見つめ、またあるものは、ちらり、ちらり、と探偵の顔色をうかがっている。
探偵――ひょんなことから、この殺意渦巻く洋館に居合わせてしまった、名探偵草間武彦の顔を。
とゆーよーな様子を、部屋のすみっこに「ちょこなん」と立ち尽くす零は、額に一条の汗なんぞ浮かべながら眺めていた。
(なんか……ヘンです……)
そう。ヘンなのだ。今日は。なんか。朝から。
「じゃあアンタは、あたしたちの誰かが殺人鬼『烈怒羅無』だというのっ!?」
金切り声を上げる木之下英子――容疑者の一人に、武彦はフッと気障な笑みを返した。
「今からご説明します。
……零クン! 例のものを!」
「うえ!? え? あ、はい」
惚けているところに突然名前を呼ばれ、零はワタワタしながら、てててっ、と武彦に駆けよった。彼から預かっていた証拠の品を、おずおずと武彦に手渡し、
「えーと……これですか、兄さん?」
「フッ……いけないな、零。今の私は、『兄さん』ではなく『草間先生』だよ」
武彦の人差し指が、ちょめ、と零の唇にあてられたりする。
「あ、はあ……ごめんなさい、草間……先生……」
零の額の汗が二条に増えた。
(やっぱりヘン……絶対ヘン……)
呆然とする零にかまわず、武彦は受けとった証拠品を高々と掲げた。その場にいた全員の視線がそこに集中する。
「そ、それは……」
「そう! これは工藤B作さんの殺害現場……客間に落ちていたボタンです!」
ざわっ……
ざわめきが、食堂中に広がっていった。全員の視線がたった一人に集中する。そう、誰もが覚えていたのだ。あの特徴的な縞柄のカフスボタン……自慢げに、イタリア製のスーツだと吹聴していた、一人の男の存在を。
椎崎佐間之助。
「椎崎さんっ!? まさかあんたが……」
「ち、違う! ワシじゃない! ワシはただ……」
「フッ……そう。犯人は椎崎さんではありません」
まるで冷気のような武彦の声が、容疑者たちの視線を再び引き寄せた。
「椎崎さん……あなたはあの晩、B作さんと口論になった……そうですね?」
「あ、ああ……そうだ……」
「そして揉み合いの末、あなたはB作さんを突き飛ばしてしまった。このカフスボタンは、その時B作さんがもぎ取ったものだ」
「その通りだ! しかしワシが殺したんじゃない……確かにあの時、B作は机の角で頭をぶつけたが……あんな血まみれになってはいかなかった!」
「そうです! そして、その十数分後、私たちがB作さんの部屋に駆けつけたときも……B作さんは、まだ生きていた!」
ドシャアアアンッ!!
雷鳴、再び。
「そ、そんな馬鹿な!? あの時、確かに部屋は血の海で、とても生きているようには……」
「あれは鶏の血です」
「鶏ですって!?」
「昨晩の食事に出された鶏ですよ! 鶏肉は臭みがキツく、血抜きの善し悪しで味が左右される……調理場には、調理の直前に抜かれた鶏の血が残されていたのです。
真犯人は、気絶したB作さんの周囲に鶏の血をばらまき、一目見てB作さんが死んでいると思えるように装った。そして私たちがホールに戻った後で、ゆっくりとB作さんを殺害したのです……」
「で、でもよ? いくら血をばらまいたって、誰かが確かめれば死んでいるかどうかくらい……ハッ!?」
周囲の空気が凍り付く。
英子は、自分が言ったことの意味を、半ば直感的に理解して、彫像のように全身を強ばらせた。人の心を貫く、鋭い刃のような武彦の視線が、英子の胸を真っ正面から突き通す。
「そうです……英子さん。
だからこそ、真犯人はあの時、真っ先に殺害現場に駆けつけた。
そしてB作さんを一目みるなり『死んでいる』と叫び! 部屋に入ろうとする私たちを、『現場を荒らしてはいけない』と制止した! その場にいた全員の心理を、巧みに操作したのです!!
つまり……」
ぎんっ!
武彦の剣が、
「殺人鬼『烈怒羅無』の正体は――」
一人の男の瞳を捉えた。
「あなただ!! イタリア料理人、ディーマン・ムラドッレ!!」
ドォォォオオオオオン!
三度目の、雷鳴と共に。
ディーマンはその場にくずおれた。
「まさか……まさかあなたが『烈怒羅無』だったなんて……」
よろめきながら、飯田恵美は震える声を挙げた。ディーマンと恋人同士だった彼女の驚きが、そして悲しみと絶望が、どれほどのものか。武彦はすっと、人知れず目を細める。
「いつから……デスか……いつからワタシがアヤシイと……」
「最初から、ですよ」
武彦は小さく溜息を吐く。
「あなたの名字の『ムラドッレ』……これは『烈怒羅無』のアナグラムだ。その時点からあなたが犯人だと思っていました」
「くっ……!」
ギュッ、とディーマンは毛羽だったカーペットを握りしめた。
「許せなかっタ……ワタシの故郷イテァリアの料理を……あんな風ニおとしめタ……あの男が許せなかっタのデス……!」
「ディーマンさん……」
武彦は、ジャケットの胸ポケットから、いつもの安煙草の箱を取り出した。その隅にうずくまっていた最後の一本を口にくわえ、ライターの揺らめく炎で、そっと火を付ける。
「それならあなたは、ご自分の料理で彼の意見を変えてやるべきだった……どんな理由があろうとも、どれほど計画を練ろうとも……殺人は、悲劇しか生まないんですよ……」
ディーマンの慟哭は、いつまでも洋館の中に響いていた。
いつまでも、いつまでも……
「雨が止む……な」
夜明けの光を浴びながら、武彦は傘を畳んだ。その隣をチョコチョコと付き従う、零もまた。
止まない雨はない。明けない夜もない。
ぬぐい去れない悲しみも、ない。
武彦の推理がもたらした、あらたな悲しみも、いずれはぬぐい去られて、ディーマンと飯田は新たな道を歩み始めるだろう。
それでいいんだ。まるで自分に言い聞かせるかのように、武彦は思う。
「あのー、草間先生……」
疲れ果てた声で零が言う。武彦はひょいと肩をすくめて……
肩をすくめるな肩を。を零は思った。
「おいおい! よしてくれよ、零。今の私は『草間先生』じゃなくて……『兄さん』、だろ?」
そしてトドメのウィンク。
「……………はあ。」
もう汗は、何条流れているのかすら分からない。
「さあ、零! 興信所に帰ったら、頭の冴える、旨いコーヒーを煎れてくれよ。名探偵に休息の時はないからね。
次の事件が、私を待っているよ!」
爽やかに言うと、朝焼けの空を目指して、武彦は颯爽と歩んでいく。
その背を見つめ、零は思った。
(やっぱり絶対なんかヘンだ!
フツーの事件を、フツーに解決するなんて……
……そんなの、兄さんじゃないっ!!)
草間興信所……東京の片隅にひっそりと存在しているそこを知る者はそう多くない。
愛想のない、鉄筋作りの古い雑居ビル。その一室に居を構える探偵の仕事場。
申し訳ばかりの応接セットと、事務机一つに棚が少々という手狭なその部屋の中を、鉱石ラジオから溢れ出る名も知らぬ女性歌手の甘ったるい歌……そして、優雅な朝のティー・セットがたてる、上品な響きが満たしていた。
脳の奥に溜まった疲れをほぐし出してくれるような、優しく温かいダージリンの香り。事務机の椅子に足を組んで腰掛け、ブラインド越しに差し込んでくる爽やかな朝日を見つめながら、草間武彦は胸一杯に香りを吸い込んだ。
「今日も素敵な朝になりそうだね……」
ふっ、と口元に笑みを浮かべれば、きらりと白い歯が朝日に輝く。
そのとき、アンティークな黒電話が、ちりりりりんっ、と可愛らしい声を挙げた。武彦は紅茶のカップをソーサーに戻しつつ、
「おや、早速新しい事件かな? ……はい、こちら草間興信所! やっかいごとなら大歓迎しますよ!」
……なんて、一人でやっている武彦を。
「……ヘンね」
「……ヘンだな」
「……ヘンでしょう?」
ドアの脇からヒョコヒョコヒョコンと生えてきた、三つの頭が見つめていた。
上から身長順に、探偵助手のシュライン・エマ。荒事担当のアルバイト探偵、黒冥月(ヘイ・ミンユェ)。そして武彦の妹、草間零である。
生えてきた時と同様に、ヒョコヒョコヒョコンと頭を引っ込めて、三人の女はドアの影に身を隠した。三人が三人とも、あの武彦と顔を合わせる勇気が出ないのである。無理もない。つい二三日前までは、ボサボサ頭にヤニ臭いスーツ、口が悪くてお金に縁がなくて、ひがな居眠りしてばっかだったあの武彦が、この変わりようである。
武彦と付き合いの長いエマにとっては、特にこの異変は深刻である。というか、キモチワルくて仕方がない。
エマは壁にぺたりと背中を預け、沈痛な面持ちで眉間を揉みながら、
「う、うーむ……武彦さん、熱でもあるんじゃないの?」
「はあ……私も最初、そう思ったんですけど……」
胸の前で両手を組んで、零はプルプルと首を横に振る。
「熱があるどころか、なんていうか……むしろ、普段より生き生きしてるみたいで……」
「た、確かに……」
エマはかすれた声を出しながら、ほがらかに電話応対している武彦の姿をのぞき見て、だはぁーっ、と大きく溜息を吐いた。
武彦が今の仕事を嫌がっていたのは周知の事実だ。彼が憧れているのは、密室殺人とか時刻表トリックとかを颯爽と解決するハードボイルド探偵であって、ユーレイアクリョーの類と日夜格闘する怪奇探偵などでは、断じてない。
ほら見ろ。この興信所のドアにも、でかでかと張り紙がしてあるではないか。「怪奇事件お断り」と。
「ま、そういう意味では」
冥月は自分を納得させるかのように、こくりこくりと頷いた。とはいえ、そのたびにさらりと流れる長い黒髪の隙間から、冷や汗が一条伝い落ちてはいるのだが。
「このまま放っておいたほうが、草間も幸せなのかもしれん」
ぽんっ、と零は手を打った。
「なるほどっ! そういう解決策もありますね。今の兄さん、部屋を汚しませんし。むやみと煙草吸ったりしませんし」
「いや待てちょい待て。」
納得しかける二人にパタパタ手を振り、エマはがっくり肩を落とした。
「ともかく、武彦さん自身に話を聞いてみましょ。なんとかして元に戻す手掛かりを掴まなきゃ……」
「いいじゃないですか、このままで。パンツ脱ぎ捨てませんし」
「そうそう。幸せの形は、当人に決める権利があるんだぞ」
「よくないわよ! このままじゃ気持ち悪いったらないわ!」
などとワイワイ言いながら、三人組が興信所に入っていくと、武彦はチィン、と音を立てながら受話器を置いた。
普段滅多に着ない三つ揃いのベストが、これまた絶妙に似合わない。確かに、これはこれで武彦の望む姿なのかもしれないが、やはり人には分というものがあるのである。望む姿になることが幸せとは限らないのだ……と、エマは思う。
そんなエマの気持ちも知らず、武彦は口元に微笑みを……例によって微妙に不自然な微笑みを浮かべ、
「やあ、エマ!」
すっ、と手を伸ばして、エマの手を優しく握った。
「今日も一段と綺麗だ……ね!」
その手の甲に、そっとキスをする武彦。
ビシィッ!
その場の空気が音をたてて凍り付いた。
目を丸々と見開いて、身動き一つできない零と冥月。ただ一人、エマだけがギギーと骨を軋ませながら後ろの二人を振り返り、
「このままでいいかも。」
「喜んでるのかよ!?」
「そりゃ喜ぶわよ」
その時、ツバを散らして必死のツッコミ飛ばす冥月に、武彦は音も立てず優雅に歩み寄った。ビクリ、と警戒して身を強ばらせる冥月の肩を、武彦の手がそっと撫で、
「やあ、冥月。またそんな、男みたいな格好してるのかい?
そんなんじゃ、キミのキュートな笑顔が台無しだ……ぜ!」
ウィンク一発。
ぞわわわわっ!
冥月の背筋を駆け抜ける悪寒。彼女の顔がみるみる朱に染まっていき、
「き……ききき気持ち悪いーッ!!」
どばきぃっ!!
「がふっ!?」
最速の拳が武彦を興信所の天井目がけて吹っ飛ばした。
天井にぶつかり、跳ね返って落ちてくる武彦に背を向けて、冥月は荒く肩を上下させる。興奮して血の巡りが良くなったのか、何か他の理由なのか、普段白い彼女の肌は、耳まで真っ赤である。
「零! エマ! 絶ッッッ対にこのバカを元に戻すぞ! いいな!!」
しかし零はポリポリと頭を掻いた。
「はあ、でも……」
☆★☆黒冥月 心理グラフ☆★☆
気持ち悪い 42%
死ね 25%
キュート? 18%
ときめき☆ 15%
「こうなってますけど」
「まんざらでもないんじゃない。」
「や、やかまひいっ!」
生温かい目で見つめるエマに、冥月は必死の反論返したのだった。
東京郊外に、そのスジではちょっと有名な個人病院、「四ノ宮医院」はある。清潔感のある白い建物。植え込みの中に埋もれそうな看板。プランターでツンとくる香りを立てているのは、薬効のあるハーブの一種か。
何の変哲もない小さな病院だが、ここが有名なのには、それなりの理由がある。
この病院の主……四位いづるは、人間以外のものを癒す力を持った医師なのである。
待合室には、絵本を読みふける少女と、ぼうっと時計を見つめる老人と、そして人間に化けた怪奇の類が、いっしょくたに混ざり合って、大人しく順番を待っている。そんな不思議な空間が広がっているのだった。
その四ノ宮医院の、診察室に――
「それでその、兄さんはどうなんでしょうか、先生」
「やっぱり、脳の病気か何か?」
「ハハハ、心配性だなあ、みんな! 私の体はなんでもないさ。ま、心配してくれるのは嬉しいけど……ね!」
ごちゃごちゃっと3人ばかり、ダンゴになっているのだった。
言うまでもないが、零とエマと武彦である。
武彦の異変の原因は、何かの病気――それも、霊やら何やらに絡んだ――ではないかと考えた三人は、気持ち悪い微笑を浮かべ続ける武彦を引きずって、この病院までやってきたのだ。
3人分の真っ直ぐな視線に貫かれながらも、医師、四位いづるは、眉一つ動かさない。カルテに自分が書き留めたばかりのドイツ語を、じいっと両の瞳で見つめ、やがて小さく溜息を吐く。
「お気の毒に……」
彼女の静かな一声に、どちらかといえば、本気で武彦の心配などしていなかったエマも、ごくりとツバを飲み込んだ。
まさか、想像していたよりも……
そんな悪い予感が脳裏を駆けめぐり、辺りを冷えた空気が包み込む。
「草間武彦さんは、保って、あと――」
静かに、次の言葉を待つ3人に、いづるは淡々と、診断結果を述べた。
「20年です」
『長いよ。』
エマと零の声が見事にハモった。
が、いづるは細い眉をきゅっと眉間に寄せて、ツッコミ娘たちに冷たい視線を送った。
「あんたらお気楽に言うけど、これでも寿命30年以上は縮んでんねんで?」
「寿命?」
エマが問うと、いづるは壁に貼り付けてあったレントゲン写真を、長い指で順に指さしていく。
「人間は、誰しも体内に『命の流れ』というものを持っている……その流れが異常な形になってるの。たとえて言えば、洪水で川の流れが変わっちゃったみたいなもん」
「じゃ、武彦さんがヘンになっちゃったのも?」
「そのせい。ついでに言えば、命の流れの変化は本人以外にも影響する……たとえば、怪奇事件と縁がなくなる、とかね」
「治せないんですか?」
零に問われると、いづるはふぅーっ、と長い溜息を吐いた。
まるで現実から逃避するかのように、カルテを持ったまま、くるっとイスを回して武彦たちに背を向ける。ペンを引っ張り出し、カルテに何事か朱書きしているように見せかけて、実はクルクルとペンを回しているだけだったりする。
要するに、
「しょーがないわね、お手上げか」
ひょい、とエマは肩をすくめる。
「ちゃうわっ! できなくはないけど、やらないも同然とゆーか、なんちゅーか……」
額に冷や汗を浮かべ、いづるは必死にまくし立てた。だがその言葉尻が徐々にしぼんでいくのがもの悲しい。
「その……武彦さんの命の流れをおかしくしている原因が、まだ彼の体内にいるわけよ。だから、私の治療で流れを修復したとしても、またすぐに同じ状態に戻ってしまう。オマケにその『原因』ってやつが、ちょっとずつ命の流れを飲み込んでいってるから、寿命も縮む……」
「で、その原因って何なわけ?」
「それは私も興味があるところやね。それを調べるには、まず……」
言うなりキラリと目を輝かせ、いづるはシャキン! と研ぎ澄まされたメスを取り出した。
「大脳、摘出してもいい?」
ごっ。
ずっこけた拍子に、エマはデスクのカドで頭を打った。
「あ、あんたねぇ……」
「冗談やがな。まー気合いの入ったズッコケしてくれてからに」
「やりたくてやったんじゃないわよっ!」
しかし隣の零は真剣な面持ちでこくりと頷き、
「分かりました先生、お願いします!」
「すな!!」
エマは痛みを堪えて立ち上がり、ツバを飛ばしながら零に詰め寄った。鼻息も荒くにじり寄るエマの顔面に怯えるように、零は胸の前で手を組んで、プルプルと首を横に振りつつ、
「ええっ!? でも私、戦中は調子が悪くなるたびによく……」
「あんたと武彦さんを一緒にしないの! 死ぬの! 脳取ったら! フツーは!」
「零さん。その話、詳しくうかがってもいいかしら?」
「おまいも目ェキラキラさせてんじゃなーいっ! この人体おたく!!」
一方その頃――
「うおお……うおおおおー!」
何でも屋の氷室浩介は、草間興信所にほど近い繁華街を行きながら、吠えていた。
ツンツン頭にラフなジーンズ姿、それなりに鍛えられた肉体から、バリバリと元ヤンキーのオーラを放つ氷室は、周囲の視線などものともしない。彼は今、それどころではないのである。
「あ……あんなの、俺の知ってる草間さんじゃねぇぇぇ!」
隣に並んで歩く冥月は、ぽりぽりと後ろ頭を掻いた。
この氷室くん、何の因果か知らないが、あの武彦をアニキと慕う、世にも希有な感性を持つ人物である。まあ、努力家だし、人はいいし、物事にスジは通す硬派な好青年なのだが……
熱くなると周りが見えなくなるのが少々困りものだ。隣にいる冥月は、周りの視線が恥ずかしくて仕方がない。
「あまり叫ぶな、氷室……」
「これが叫ばずにいられるか、てんですよ! 冥月の姐さん!」
ぐわぁっ、と手を広げ、氷室はますます声のトーンを上げる。藪を突いて蛇を出すとはこのことか。冥月は思わず額に手を当てた。
「呼ばれて興信所に行ってみりゃあ! 草間さんがヘンになってる! 俺のショック療法も効果なし!」
「そりゃー効果ないだろ、頭突きしただけじゃ……記憶喪失じゃないんだぞ」
「とにかく俺ァ……切ねェっスよ! 悲しいっスよ! 何の役にも立てねェなんて……せめて霊能力でもありゃァ……はっ!?」
はた、と氷室は何かに気付いたかのように、その場に硬直した。
彼がじっと、睨むように見つめる先には、新しいインクの臭いを漂わせる書店が一件。
「すんません、姐さん! ちょっと待っててください!」
「あ?」
そして書店に駆け込む氷室。
数分経って、息せき切って戻ってきた彼の手には、一冊の小さな本が握りしめられていた。冥月は眉をひそめつつ、彼が持つ本の表紙をちらりと見やり、
「なんだ? ……陰陽師の本?」
「そうっスよ! クールでビューティな陰陽師……カッコイイ! コレ読んで勉強すれば、俺にだって目覚めますよ! 陰陽パワー!」
「いや……夢枕獏で目覚めるとは思えんが……」
「見ててください、草間さんッ! 俺ァ……俺ァ……必ずあんたの役に立って見せますからァー!」
まーいいか、本人がそう信じて努力できるなら……と、自分を納得させる冥月であった。
「ところでな、氷室」
「ああ」
何気ない世間話を続けているかのような口調で、二人は短く声を交わした。そのまま歩き出す二人。しかし、冥月がすっと目を細める。隣で氷室の眉がぴくりと動いたのを見ると、彼も感じ取ったらしい。
「早速かかった、な……」
「そうっスね。撒き餌作戦、成功ってとこスか」
3人……いや、4人。
後ろすら振り向かず、冥月と氷室は、背後の気配のみで勘定する。
――敵の数を。
仮に、武彦の異変が誰かに仕組まれた者だとしたら、そいつらは武彦の様子を確かめるため、近くで監視している可能性が高い。そして武彦のみならず、草間興信所そのものを狙っていると仮定すれば……
このとおり。興信所と縁のある冥月と氷室を、尾行してきたというわけだ。
「さて……どっちに来るかな」
「両方じゃないっスか?」
「――かもな」
バッ!
瞬時、繁華街を風が切り裂く!
突如冥月と氷室は、地を蹴って横道に飛び込んだのである。目視すら困難なスピードで姿を消した二人に、後ろでこそこそしていた追っ手達は、驚きに身を強ばらせながらも、
「左右に分かれた! 追えっ!」
ときの声を上げて走り出す。
――2人来たか!
冥月は裏通りの影に飛び込みながら、舌なめずりして『影』を読む。
こちらに迫ってくる影は2つ。あの角を曲がって姿を現すのは――
3秒後。
ずっ。
「がっ!?」
コンマ数秒の狂いすらなく、冥月が測った通りのタイミングで飛び出してきた男を、ゴミバケツの裏から飛び出した影の剣が両断する!
鮮血を影の中に迸らせて、その場に倒れ伏す男。その姿を遠くに見つめながら、フン、と冥月は冷たく鼻を鳴らした。
チャイニーズ・マフィアの暗殺者(ビジネスウーマン)だった冥月は、影を操るこの特技で一世を風靡した。真昼の光の中でも、東京の街はあっちこっちに色濃い影の領域を創り出す。その全てが冥月の武器。
「なんだっ!?」
もう一人が恐怖の声を挙げながらも、倒れた相棒に駆けよってくる。そして遥か彼方の物陰に、黒髪と黒い衣服に身を包んだ、影そのもののような女が立っているのを見つけると――
「くそっ!」
!
――光っ!?
思うより疾く――
バジイッ!!
すさまじい雷光が裏通りを照らし出す!
男が指先から放った雷が、蛇のようにうねりながら裏通りのあらゆる物を焼き尽くしたのである。雷を呼ぶ魔術。その轟音を聞きつけて、表通りの方からざわめきが聞こえてくる。
だが、雷を放った魔術師は、冥月の姿がどこにもない……跡形もないほど焼けこげてしまった、という結果に満足したのか、にいっ、と口の端に笑みを浮かべ――
「舐めるな」
次の瞬間、その笑みを凍り付かせた。
ざんっ!!
背後から出現した影の刃が、魔術師の胸を貫く。
まるで地面から……地面に伸びた魔術師の影から、塔のように生えた刃。その刃に引き抜かれるようにして、黒い髪と、白い肌が姿を現す。
冥月。
「私の能力が、影を個体にすることだけと思ったか? 体を影に溶かし込むことくらい、わけないさ――」
ずぶっ、と音を立てながら冥月は刃を引き抜いた。唯一の支えを失った魔術師の体は、糸の切れた人形のように、がくっ、とその場に倒れ伏す。
刃を再び影の中に溶け込ませ、一仕事終えた満足の溜息を吐くと……突然、冥月は声を挙げた。
「……あ! しまった……二人とも殺しちゃ尋問できんじゃないか」
一方、氷室を追っていった二人は、裏通りに駆け込むなり、氷室を見失って足を止めた。
「おい、いないぞ」
「どこに行った……?」
などと呟きながら、必死に辺りを見回す二人――
その背後に、一つの影が舞い降りる。
「ここだぜ!」
ごがっ!
言うなり放ったラリアットが、追っ手の一人の後頭部に叩き込まれる。見た目よりも遥かに強力な筋肉を持った氷室の一撃。たったそれだけで、追っ手は意識を失い、頭からその場に倒れ込む。
「ち!」
だがもう一人はバカではない。氷室が肉弾戦を得意とするのを、今の一瞬で見破ったか、身構えながら素早く後ずさった。その追っ手の掌中に、激しい光を放つ矢のような物が生み出される。
「魔術かよ! いいなあ!」
しかし氷室は気にも留めず、そのまま敵に向かってダッシュをかけた。
みるみる詰まる二人の距離。だが、氷室が間合いを詰めてパンチを繰り出すより早く、敵の魔術が完成する。
「死ねっ!」
至近距離から放たれる光の矢。さしもの氷室とて、これをかわす術はない!
が……
「うぉりゃァーッ!」
ずばあっ!
突如、光の矢が弾け飛び、無害な光の粒子となって空中に霧散する。
「な……」
驚愕に体を強ばらせる敵。無理もあるまい。
氷室は、あろうことか……命中寸前の矢に、頭突きをぶちかましたのである。
魔術で生み出した魔力の矢を、頭で思いっきりぶち叩いて、それでも平然としている氷室。タフというよりは、もはや人間のレベルを越えている。
「本当に人間かっ!?」
「だらァ!!」
叫ぶ敵に肉薄した氷室は、大砲のようなパンチをその鼻っ面にめり込ませた。
これまた、たった一撃で沈黙し、仰向けにひっくり返る魔術師。氷室はちょっとコゲて、美味しそうな香りを放つオデコをさすりながら、完全に気絶している敵を見下ろし、こう言った。
「根性が違うンだよ、根性が」
「……そーゆー問題じゃないと思うぞ」
自分の敵を片付けて駆けつけた冥月が、本日何度目かのツッコミを飛ばしたのだった。
「銀色の夜明け騎士団〜ッ?」
エマのひっくり返った声が、いつもの興信所に響き渡る。
草間興信所には、一同が――武彦、零、エマ、冥月、氷室、そして学術的興味に惹かれたいづるが集合していた。ちなみに、武彦はそのままにしておくとキモチワルイという冥月の要望があって、いづるの針治療で一時的に眠ってもらっている。
くかー、と気持ちよさそうな寝息を立てるソファの武彦を、憎々しげに見下ろしながら、冥月は鼻息を吹いた。彼女が手に持った黒いロープ……影から実体化させた荒縄の先には、グルグル巻きに縛られて、顔を風船のように膨らませた男が一人。
冥月と氷室が捉えた敵の片方である。
「すいませんすいませんすいませんごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
……とても怯えているようであるが。
エマはぽりぽりと頭を掻いて、
「ちょっと冥月、氷室くん……何やったの?」
「いやなに」
「尋問スよ、尋問」
ニコニコと不気味な笑みを浮かべる二人に、男はますます怯えて縮こまる。
「すいませんごめんなさい何でも喋る喋りますからもーやめて……」
(いーけどね、まあ……)
この二人は怒らせないようにしとこう……と、心に決めつつ、エマは腕組みして捕虜を見つめたのだった。
いづるは白衣のポケットに手を入れたまま、ひょいと肩をすくめると、
「で、なんやのん、その……『銀の星』と『黄金の夜明け』と『東方聖堂騎士団』を足して3で割ったような連中は」
「ぼ、僕たちぃ……東京で活動してる魔術教団なんですぅ……世界を滅亡させるために、日夜真面目に努力してるんですけどぉ……」
『するな。』
その場の全員の声がハモった。
捕虜の男は目からドバドバと涙を流し、
「な、なんでみんなして、そんなこと言うんですかぁーっ!? 僕たち、ホントに一生懸命やってるんですよぉ!」
「何でも一生懸命やればええてモンでもないやろ!」
「ヒドイ……差別だ……あの草間武彦も、そうやって僕らの陰謀をいくつも潰してきたんだ! だから僕たちは、草間武彦に復讐することにしたんだっ!」
零は隣のエマの顔を不思議そうに見上げると、
「兄さん、そんなことしましたっけ?」
「うーん……その手の事件、ウチにはいっぱい舞い込んでくるからね……その中のどれかに、裏でこいつら関わってたんじゃないかしら?」
それを聞くなり捕虜は顔を真っ赤にして、ツバを飛ばしながらまくし立てた。
「ヒドイぞ! 覚えてもいないのか! フン……そんなお前らにはいい気味だ! 我らが呼び出した大悪魔、ソロモン72柱が1柱、願いの悪魔『ホセ』に取り憑かれ、理想と現実のギャップに苦しみながら悲しい余生を送るがよいわー!!」
「もうちょっと派手な復讐はねーのかよッ!」
ごきゅっ!
氷室が背後から捕虜の首に腕を回し、その人間離れした筋力で締め上げる。捕虜は口から泡など吹いて、
「痛い痛い痛い痛いやめてやめてくださーいもういいませんもうやりませんーっ!!」
「ったく……」
氷室に開放されてぐったりした捕虜の首に、スッ、と黒い刃が当てられた。冥月が生み出した影の刃である。捕虜はヒッと小さく声を挙げ、恐る恐る上を見上げる。
そこには、暗殺者の、凍て付くような光を放つ、冥月の二つの目があった。
「状況は分かった。なら私たちが要求することは……一つだ」
「さっさと武彦さんから悪魔を追い払いなさい! でないと……」
ぎらりん!
エマの言葉にぴったりとタイミングを合わせて、冥月が刃を傾ける。その途端、光など反射しないはずの影の刃が、まるで血を求めるように輝いた。
「ひー! や、やります! やらせていただきます! で、でも……」
「でも?」
「じ、実はその悪魔、呼び出して取り憑かせたはいーものの……僕らじゃ制御しきれなくて♪ ちょっぴり暴走状態なんです♪ てへっ♪」
『てへっ♪ であるかぁー!!』
全員のアッパーが、同時に捕虜のアゴを捉えたのだった。
「みんな、準備はいいわねっ!?」
ソファに寝そべる武彦を中心に、全員がぐるりと円を描いて取り囲む。武彦のそばにいるのはただ一人、悪魔を体から追い出す役目を押しつけられた、あの捕虜である。
「悪魔が武彦さんの体から出てきたら、私たちで急いで悪魔を倒すのよ。零ちゃんも冥月も氷室くんもいるし、戦力的には大丈夫だと思うけど……相手は願いの悪魔。誰かが取り憑かれたら、一気にヤバくなるわ! 気をつけてね!」
こくり、とその場の全員が頷いた。
零は既に、侍の霊から大太刀を産みだし、両手でしっかりと構えている。
冥月はじっと武彦を見詰め、いつでも影の刃を呼び出せる状態。
氷室は拳を握りしめて、ファイティングポーズを取り……
いづるは、悪魔に取り憑かれた者をすぐさま治療すべく、両手の指の間で、長い針を煌めかせている。
「さあ……やってちょうだい!」
エマに指示され、捕虜は震えながら呪文を唱える。
静まりかえり、緊張に包まれた草間興信所に、低い妖しげな呪詛の声が、しばし響き渡り――
突如。
ごわあっ!
ソファの武彦を中心に、猛烈な風が竜巻のように吹き荒れる! 呪文を唱えていた捕虜は為す術もなく吹き飛ばされて、デスクの角に頭を打ってぴくりとも動かなくなる。
そして風が収まった後、武彦が寝そべるソファのそばに、すっくと立つ一つの人影。その姿は黒いローブを身に纏った人間のようだが、フードの隙間から覗く肌や顔は豹のそれ。これが豹頭の悪魔――
「出たわね、オセ……」
《いかにも。余を解放してくれたこと、感謝するぞ。人間どもよ……》
その一声だけで、体が芯から震えるような気さえする。さすがに相手は高位の大悪魔である。危険を感じたその場の全員が、反射的に攻撃を始めようとするのを、オセは静かに手を挙げて制した。
《まあ待て……余は、汝らと敵対するつもりはない。この愚かな魔術師どもにいいように使われ、口惜しく思っていたのだ。そこから解放してくれた汝らを憎む理由はない……》
「このまま退散する……ということか?」
僅かに警戒の色を薄め、冥月が低い声で問いかけた。悪魔はゆっくりかぶりを振ると、
《それでは我が感謝の気持ちが示せぬ。どうだろう、我が魔力を以て、汝らにいくばくかの礼をしよう思うのだが……》
一瞬、興信所じゅうに漂う弛緩した空気――
「!」
エマはぶるりと身を震わせて、あらん限りの声を張り上げた。
「ダメよっ! こいつ、私たちを懐柔しようとしてるわ!」
「あっ!」
声を挙げ、我に返る全員。早くも悪魔の魔術に取り込まれかけていたことに気付いて、冥月が、氷室が、零が、一斉に攻撃を開始する。
《気付かれたか。賢しいな、人間よ! だがっ……》
ぼうっ!
《一歩及ばぬ!》
軽い爆発音と共に、真っ白な煙が零の体を包み込む!
そしてその煙が収まった後には……
三角巾にレースのエプロン、手にはホウキとハタキの二刀流……完全無欠のお掃除スタイルに身を包んだ、零の姿。
「ああーっ! こ、こんなにお部屋が汚れてるぅ! お掃除しなきゃあーっ!」
そしてパタパタと部屋を駆け回り、かいがいしく掃除を始める零!
零と悪魔を除くその場の全員が、がっくりと肩を落とした。
「ああ……掃除しても掃除しても終わらない……し・あ・わ・せ!」
「家事に喜び見いだしてたんかいっ! おまいはー!」
「うちに任しときっ! すぐ治したる!」
一声叫び、いづるが零に駆けよろうとする。その手にはギラリと輝く針。悪魔が体内におらず、ただ魔術で変化してしまっただけなら、いづるの治療で元に戻すことができるはずである。
だがしかし!
《させんよ!》
ぼうっ!
再び巻き起こる白い煙……包まれたのは、いづる。
煙はすぐに消え失せて……
その場にぺたりと座り込んだ、幼い少女が姿を現した。
「い、いづるさん……」
「ふぇ……」
エマの呼びかけに、じわっ、と目に涙を浮かべる幼女いづる。
「ふぇぇぇぇーん! おっちゃんどこいってんー!?」
「うわあああ! いづるさんが幼児退行をーっ!!」
慌てて頭を抱えるエマに、腕組みしてうんうんと頷く氷室と冥月。
「あれが四位先生の望む姿なんスねえ……」
「色々苦労があったんだろうな……」
「のんきに言ってるばやいじゃないでしょっ! あとはあんたたちだけよ! 気をつけて、冥月! 氷室くんっ!」
だがしかし……
《とう!》
ぼうぼわん。
三度巻き起こる白い煙。氷室と冥月、二人一緒にその中に囚われ……
まず出てきたのは、目にうるうると涙を浮かべ、両手を胸の前で握り合わせ、自分のへそだしパンツルックを恥ずかしそうに隠している冥月の姿。
「やだ……こんなかっこう、恥ずかしいですぅ……」
「……………」
思わずエマは絶句した。
「おーい……冥月ー……戦ってー……」
「できませんっ! 戦うなんて……ミン、怖いですぅ」
ぴくぴくぴく……
冥月の隠された一面をかいま見て、エマはまな板の上の魚よろしく痙攣した。
(こ、こーゆーキャラに憧れてたんか、あんたは……)
まー、確かに、女の子然とした女の子に内心で憧れているようなフシはないではなかったが……
「と、とにかくっ! こーなったら頼りはあんただけよ、氷室くん!」
チン……トン……シャン……
どこからともなく聞こえる琴の音色。
プヨォ〜ン……
なんだかよく分からん雅な笛を吹きながら、煙の中から現れる一人の男。優美な着物に身を包んだ彼は……
「フッ……陰陽師・氷室浩介麻呂、参上いたしたでござるなり。物の怪はいずこでおじゃ候?」
「あんたの目の前じゃぁあああああっ!!」
ごめりっ!
渾身の力を込めてエマが放ったダッシュ・ジャンプ・キックが、氷室の後頭部にめり込んだ。
そのままうつぶせに倒れ込み、ぴくりともしなくなる氷室の上に着地すると、エマはぜーはーと肩で荒い息を吐く。
《これで、残るは汝だけだ……見たところ、戦う力は持っておるまい?》
「くっ……」
豹頭の悪魔に嘲るように言われ、エマは奥歯を噛みしめる。
こういうときは、ただの人間でしかない自分が悔やまれる。零や、他の仲間達が命をかけて戦っている時に、自分が出来るのはせいぜい応援くらいなのだ……
《汝の願いも叶えてやろう! 幸せな夢の中、我が苗床として生き続けるがよい!》
ぼうっ!
為す術もなく――
エマの体もまた、白い煙に包まれた。
……と。
るるるるるる……
興信所の中に、低い音が響き渡る。
《何だ……?》
豹頭の悪魔が、始めて表情を歪めた。
るるるるるるるる……
それはまるで、獲物を求める獣のような、不気味な響き……
《はっ! ま、まさか!》
悪魔が何事かに気付いた、その瞬間!
るるるるるるるるおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!
凄まじい絶叫と共に、煙の中からそれが姿を現した!
エマ。しかしその目は真っ赤な光に包まれて、しかも彼女の体躯は今や3mを越えるまでに巨大化している。エマの体は際限なく膨張し、やがて天井に背中がついたかと思うと……
「うがあー!」
どばきいっ!!
気合い一発で、鉄筋コンクリートの天井をぶち抜いた!
《そうか、汝の願いは……》
そう、エマの願いは。
10m、20m、どこまでもどこまでも巨大化していくエマを見上げ、愕然としながら、豹頭の悪魔はようやく気付いた。エマの願いは……
悪魔を倒せるほどの力を持った自分。
《し……》
悪魔はぴくぴくと顔を引きつらせ、
《しまったあああああああああああっ!?》
絶叫を東京の青空に響かせた。
ぽつんと立ち尽くす悪魔の目の前には、今や全長300m、東京タワーなみのサイズにまで巨大化したエマの姿! 名付けてウルトラエマは獣のように唸りながら、自分の足下の悪魔を見下ろし、すうっと不気味に目を細め……
《や、やめてくれ! 話し合おうっ! な! 他の人たち元に戻すから! ね? ねっ? だからや……》
「んがー」
《やめっ!》
ぷちっ。
無造作に、豹頭の悪魔を踏みつぶしたのだった。
かんごんかんごん……
どどどどど……
東京の青空に、心地よい工事の音が響き渡る。
「いやー、また迷惑かけちまったな、みんなには」
表の道路から、完全に崩壊した草間興信所を見上げつつ、武彦は肩をすくめた。もちろん、あの似合わない三つ揃い姿ではない。いつもの、着古したヨレヨレのスーツだ。その口には、紅茶ではなく安煙草。
エマの巨大化によって興信所は無茶苦茶になってしまったが、そこはそれ。とっつかまえた「銀色の夜明け騎士団」のみなさんに、泣きながら修理してもらっている。何の問題もなく、一件落着である。
「し、四位先生〜……もうダメです、僕もう倒れそうです……」
「心配あらへん。うちの治療で、疲れの元となる乳酸その他の疲労物質はぜーんぶ吹っ飛ばしたるわ。夜も寝んと働き」
「ひ、ひええ〜っ!」
などとゆー声は聞こえるが、一件落着である。
「ん……よぉ零、煙草切れちまったよ。買ってくるから小遣いくれ」
「ダメですっ! 煙草は一日三本までです、兄さん」
「固いこと言うなよ、いーじゃねーか」
いつも通りのやりとりをする武彦と零に、後ろの氷室は、一人うんうんと頷いた。
「うんうん。やっぱりこーじゃないと。それでこそ草間さんっスよ!」
「ま、あの武彦さんも悪くなかったけどね〜」
手のひらに残るキスの感触を思い出し、にやついているのはエマである。
と、そこに、甲高い冥月の声が響き渡った。手に握った書類をぴらぴらさせて、颯爽と歩いてくる凛々しい冥月。どーも彼女を見ていると、悪魔に操られていた時の姿を思い起こしてしまって……エマは笑いが止まらない。しばらくは思い出し笑いに苦しむことになるだろう。
「おーい! 草間ーっ! 仕事の依頼が私の所に来たぞ。興信所の電話が通じないからって……」
「やあ! ありがとう、冥月! お前、今日はまた一段と……」
ぴぴくうっ!!
どっかで聞いたよーなフレーズを聴いて、零が、エマが、氷室が、いづるが、そして反射的に顔を赤らめた冥月が、一斉に武彦に注目した。
「一段と、男らしいな!」
……………。
「だ……」
冥月の震えた声。
「誰が男だぁあああああああああッ!!」
どげすぅっ!!
そのジャンピング・アッパーが武彦のアゴを捉え、
「あーよかった……またヘンになったかと」
「ま、いつもの武彦さんだわね」
ホッとする一同の頭上を、武彦の体が優雅に舞ったのだった――
(終)
◆登場人物◆
0086 シュライン・エマ (しゅらいん・えま)
6725 氷室・浩介 (ひむろ・こうすけ)
6808 四位・いづる (しい・いづる)
2778 黒・冥月 (ヘイ・ミンユェ)
(敬称略、受注順)
◆ライター通信◆
不死身探偵! 不死身の探! 偵!
これはオマージュである、と言い張りたい自分がいるのです。
そしてまたしても締め切りをオーバーしてしまいました……すいません。
四位さん、参加していないPCは名前出してはいけないそうなので、呼び方変えました。ご了承あれ。
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