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12月への道標
藍原和馬は引きこもっていた。べつに世の中がいやになったわけではない。現在和馬は3つばかりMMOをかけもちでプレイしているのだが、たまたま各ゲームのリアルタイムイベントが重なってしまったのだ。開始時間もばらばらで、一日中パソコンの前にかじりついていなければならなかった。
いや、このゲームのイベントも、特に強制されているわけではないのだから、和馬にはパソコンに張り付く義務などない。ただ何となく、ここ数日は仕事を入れる気にもならず、やりたいことも特になく、茫漠とした時間をとりあえずネットゲームで埋めているだけだ。実にひどい、実に自堕落な日々だと、和馬も自覚している。だが、年がら年中こうして引きこもっているわけではない――たまにはこういう数日間があってもバチは当たらないだろう、とも考えていた。
どんより、ねっとりと双肩にのしかかってくる淀んだ空気。電気代節約のため午後6時になるまで明かりはつけない方針だ。しかし、いつしか季節は秋に変わっていて、日が落ちるのはめっきり早くなっていた。昼下がりを過ぎてしまっただけで、室内は音もない薄暗さに包まれている。
暗い部屋、淀んだ空気、聞こえてくるのはパソコンのファンとハードディスクが回る音、キーボードが叩かれる音、マウスのクリック音。
暗い。とてつもなく重い暗さだ。現代の闇である。
何もかもが抑圧されているかのような濁った室内を、一陣の甲高い音が切り裂いた。
クリック音は唐突にやみ、か細い呼吸さえ一瞬止まったようだった。
「おッ、なんだ、誰だ」
和馬はタオルケットをかぶっていた。秋の日陰は冷えるからだ。ハロウィンのゴーストよろしく、ぬくぬくとしたタオルケットを引きずり、和馬は充電器に接続しっぱなしの携帯電話を取った。
「げ」
電話は骨董品屋『神影』からのものだった。
『神影』のカウンターでは、藍原和馬に強引な呼び出しをかけた店主が、爪に息を吹きかけている。手元にはマニキュアの小瓶。曰くつきの金のマニキュアだが、マリィはそんな些細な曰くなどものともしない。
今から5分以内に来い、とマリィは和馬に命じた。
――まァ、でも、15分はかかるだろうねえ。あの声からして、一日中寝てたか、起きててもずっと家にいたか、って感じだったから……大慌てでシャワー浴びてヒゲ剃って着替えて……。
マリィはふうふうと爪に息をかけながら、売り物の古時計に目をやった。
――車に飛び乗ってエンジンふかして制限速度無視して……警察に止められて……すぐそこの交差点で赤信号に捕まって「んがー」とか吼えて……。
マニキュアが乾き、マリィは毛皮のコートを取ってカウンターを出た。余裕綽々とした、堂々たる動きだった。
――そろそろ到着、と。
ばうん!
「おおおお待たせしましたアアアししし師匠ォッ!!」
「遅い!」
「ぎゃいん!」
騒々しくドアを開けて『神影』に飛び込んだ直後、藍原和馬は、マリィの予想的中の鉄拳を食らって店外に吹っ飛んでいた。
「まったく、暇なくせになにグズグズしてたんだい!」
「あいだだだ、す、すんません! ちょっとキップ切られちまって。参りましたよハハハ」
「そりゃお気の毒。ちゃんと罰金払っとかないと面倒なことになるよ」
「ちょ、だ、誰のために急いだと思っ――」
「何だって?」
「なんでもありませんただのひとりごとです」
「銀座まで行ってくれる? 冬物を見たいのよ」
「ウインドウショッピングっつーやつですかい」
「いいえ。今日は買う予定」
「……」
「その顔だと、自分の役割はわかってるみたいだね。ほら、早く行くよ。ただでさえあんたの遅刻で押してるんだから、時間が」
「…………」
冬物も夏物も服なら山ほど持ってるじゃないか、だとか、10分の遅刻で時間が押すなんてどこの大統領ですか、だとか、荷物を運ぶのは俺なんですからハデに買わんでください、などという『余計な一言』を、和馬はかろうじて呑みこんだ。その苦虫を噛み潰したような顔で、和馬は愛車の助手席のドアを開ける。マリィは車に滑りこんだ。彼女が着込んだコートの襟の毛が、ゆらゆらと揺れている。
銀座のショーウインドウは暖かそうな色合いと洋服で彩られていた。マリィが着ているコートも、ショーウインドウのマネキンが着ているものと大差ない。が、これは去年のものだ、着ているのは恥ずかしい、とマリィは言い捨てた。毎年上着も新調する、これがオシャレなセレブなのだろう――マリィの後ろを従順について歩きながら、和馬はぼんやりオシャレを解釈していた。年中黒スーツで過ごす和馬とはあまり縁のない世界だ。
木枯らしが吹いて、和馬は肩をすくめる。今日は慌てていたので、上着を持ってきていなかった。
「あんた、マフラーは?」
「はい?」
「ほら、あの灰色のような緑色のような……お気に入りのさ」
「!」
マリィはにやにやしている。和馬はその笑みと台詞に息を呑んだ。彼は冬になれば必ずマリィが言うマフラーを使うようになっていたのだ。それは手編みのマフラーで、彼にとっては特別な人から贈られたもので、確かに、お気に入りであった。
「そろそろ押入れから出して使ったほうがいいんじゃないのかい?」
「……な、何なんスかそのステキな笑顔は……」
「べつに。――寒いねえ、中に入ろうか」
(和馬にとっては)不気味な笑みを浮かべたまま、つかつかとマリィは手近なデパートに入った。控えめな暖房がふたりを包む。そして、視界は赤と緑の飾りつけに覆われそうになった。
「おや、もうそんな時期かい」
マリィはどこか呆れたような口ぶりで呟いた。
クリスマスだ。あとひと月ほどで。
しかし彼女は、そう呟いてから、街中もクリスマスを迎える準備を整えつつあったことに気づいた。さすがにまだ道ばたをサンタの扮装をしたアルバイトが歩く時期ではなかったから、ショーウインドウの中の毛皮を見て歩いているだけではなかなか気づかなかったのだ。
和馬も和馬で、心中でぼやきながら背を丸めてマリィに歩いていたから、街の模様替えに気づかなかった。ここのところ引きこもっていたのだから、街の変化には敏感であるはずなのだが。
「……稼ぎ時だな」
「そうだろうねえ、あんたにとっちゃ」
「俺ァカトリックじゃないスけど、なんつうか、特別な感じがしますねえ、クリスマスって。何ででしょう」
「……私たちも人間と同じ。ひとりじゃやっていけないからさ」
吹き抜けの天井から吊り下げられた金銀の飾りつけを見て、マリィは言う。
「周りが騒いでいるから、ついついその気になっちまうんだよ」
「でも、べつにそれってヤバいことじゃないすよね?」
何気なく、和馬はそう返した。マリィの意見をはねつけたわけではない。マリィの台詞もまた、否定的な響きを持ってはいなかったのだ。
「あんたからそんな答えを聞けるなんてね。ちょっとは変わったかい?」
「え?」
「気づいてない、か。それが変化よ」
マリィは笑って、前に向き直り、またつかつかといつもの調子で歩きだす。和馬はどういうわけか、マリィのその笑みにぎくりとして、束の間硬直していた。師が、ひどく優しく微笑んでいたような気がする。
――いやいや、勘違いだ。深い意味はないはずだ。
和馬は自分をそう納得させ、前を行くマリィのあとを追った。自信たっぷりに自分の速度で歩くマリィなので、目を離していると見失ってしまう可能性(危険性)が高い。
――変化? 何だそりゃ。
マリィの何気なさそうなようで意味深な言葉を、和馬は反芻する。クリスマスの装いを眺めながら。
――俺が変わったっていうのか? どんな風にだよ。
釈然としない気持ちで、今度は自分の言葉と気持ちを反芻してみた。
自分が今、焦りを感じているのは確かだ。引きこもってごろごろ好きなことをしているうちに――それはこれまでの生活とコンセプト自体は何も変わらないような気がする――世の中はクリスマス準備期間に入ってしまっていたのだ。自分も準備をしなければならないのである。今年も、一緒にキリストの誕生日前夜を祝ってくれる者が健在なのだから。
――そう言えば、こんなクリスマスが当たり前になってるな。キリストさんの誕生日を祝うわけじゃなくて……一緒にいられる夜を祝うような感じだ。あいつと知り合うまでは、俺のクリスマスって、ただの平日だったよな。
和馬とマリィの時間は止められている。ぼんやりとした鬱屈を抱きながら、ふたりは老いることもなく生きつづけなければならない。和馬は気がついた。平日であるはずのクリスマスが近づくことに焦りを感じている自分は、同時にクリスマスを楽しみにしている。どうあがこうとつづいていく時間に、メリハリを求めなくなって久しくなっていたはずが、今は違うのだ。彼には楽しみがある。
「あの、師匠――」
「はいはい、これも持つ」
和馬の左腕の関節が、危うく抜けかけた。マリィがどっかりとブランドの紙袋を和馬の手首に引っかけたのだ。
「うぉっと!」
我に返って、和馬はよろめく。
いつの間にか和馬は、両腕にごっそりと紙袋の持ち手を引っかけられたり、箱を持たせられたりしていた。今さら感じる重量に、和馬は目を白黒させながら、危なっかしい千鳥足をつづけた。和馬がずいぶんと長い間物思いにふけっていたのか、マリィが凄まじい速度で買い物をつづけたか、その両方か、いずれかがもたらした結果だ。
「落とすんじゃないよ!」
「無理っす、師匠も何か持ってくださいよ少しは!」
「あんたを何のために連れてきたと思ってんだい!」
「あーもー駄目っす! 限界! 体力の限界ッ!」
「……落としたら承知しないよ」
「…………!!」
奇跡が起きた。和馬はマリィの低い声に硬直し、奇妙な格好で静止した。崩壊しかかっていた荷物は、和馬の硬直を受けて、ごとりともっとも安定する角度で落ち着く。和馬がやみくもにあがかなければ、何の問題もなかったということか。
「やればできるじゃないの。さ、帰りましょうか」
「ま、満足したんすか」
「まあね」
マリィは意気揚々と、和馬はよろよろとデパートを出る。まだ時刻は午後6時をまわったばかりだが、辺りは冷えきった夜の闇に包まれていた。
『10!』『9!』
「ん?」
「おっ?」
『8!』『7!』
突然のカウントダウンが聞こえてきた。誰かがマイクか拡声器を使っている。大勢がそれに便乗しているようだ。声は、銀座のビルというビルに跳ね返り、どこからやってきているのかさだかではない。
『6!』『5!』『4!』『3!』
「なんだァ?」
「しっ!」
『2!』『1!』
『0!』
拍手と歓声がやってきて、闇は輝いた。歩道と街路樹、一部のデパートの外壁が、東京の街角が、薄い金色のイルミネーションに彩られていく。変化は一瞬だった。寒々とした秋の終わりが、冬の始まりの輝きを帯びた。
「点灯式ってところかい。運がよかったねえ、たまたまこんなものが見られるなんて」
イルミネーションの色は、マリィの瞳の色にも似ている。彼女は笑っていた。和馬はしばらく、ぽかんと呆気に取られて光の渦を見ていたが、次第に胸が高鳴っていくのを感じて、息を呑む。クリスマスまでもう時間がない。うかうかしていたら、あっという間だ。早く来てほしいが、まだ何も準備をしていないから、すぐ来られても困るのだ。
――ちょっと待ってくれ。ほんのちょっとでいい。
時間に、待ったをかけたのは久しぶり。
荷物を抱えてイルミネーションを睨む和馬を、マリィは微笑しながら見守っていた。
〈了〉
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