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<東京怪談・PCゲームノベル>


商物「影法師」

 素足で踏みしめる、床板の冷たさは気を引き締める。
 道場正面、櫻紫桜は武道場に掲げられた「和」の一文字を見上げた。
 紫桜の前に背を向けて並ぶのは同校の学生達、袴を身につけた剣道部員達である。上座に到るほどに高学年或いは実力者、最奥には師範代が壁に背を向け、全員を見渡す形に座っている。
 紫桜は剣道部に所属している訳ではない為、最も下座、出口の前扉の狭間から隙間風の冷たい末席に座していた。
 部員でもない紫桜が練習に参加しているのは、身の裡に潜む刀に理由を所以する。
 己が手にあればなまくらもいい所だが、人手に渡れば洒落にならない斬れ味で以て魅了する。なんちゃって斬鉄剣、とは自称親友の言だが、当たらずとも遠からず、言い得て妙なネーミングだ。
 それを身に宿して以降、以前と変わらぬ生活に混じり在るようになった怪異の存在に、しばしば刀を用いねばならない事態に見舞われる羽目に陥っていた。
 元より文武両道を旨とする紫桜、武道に関しては心得すぎるほど身についているが、メインは体術を主にした無手の技であり、道を同じくすれど、長物を使った武道は勝手が掴めない……という事に割と最近気が付いた。
 どうにも、踏み込む間合いが近すぎるのだ。
 腕の届く距離と、刀を手にした距離、長短で言えば当然間合いを広く取らねばならないというのに、加減の出来る距離を掴めない。
 紫桜の手では白刃でも峰打ち同然と言えど、至近距離で打ち込めば想定以上のダメージになるのは必至である。
 その事態を打開すべく、己で為すべき努力を為すを厭わぬ紫桜らしい生真面目さで、見学の名目で練習に参加するのを顧問に頼み込んで許可を得た。
「一同、礼ッ!」
主将の号令に、部員全員が頭を下げるのに倣い、紫桜もまた頭を下げて、ふと気付く。
 背後、扉の隙間から差し込む冬の陽射しに、前方へと落ちかかる、影。
 確かな光源は背から伸びる一筋のみであるというのに、同じ濃淡の影が二つ左右に並んでいるのだ。
 訝しい思いに首を傾げつつも、些細な気掛かりだと立ち上がろうとした紫桜だが、すぐ脇に足を止めた人影に動きを制された。
「櫻、ちょっといいか」
そう声をかけて来たのは剣道部主将を務める二年生である。
 片膝を立てた姿勢で止まる紫桜に、影も当然添う筈……なのだが。
 右側の影が流れのままに立ち上がり、紫桜の見守る中あたふたと同じ姿勢に戻る。
 あからさまな異常事態に紫桜は凍り付く。
「……床がどうかしたのか?」
影を凝視したまま動かない紫桜の異変に、主将は気付いていないようだ。
「いいえ……何でも」
そっと立ち上がる紫桜に影は今度は動きを過たず、紫桜はほっと胸を撫で下ろした。


「で、話なんだけど」
改めて話を切り出されたのは、壁際に移動してからだ。
 稽古が終われば地位学年に関係なく、総員で道場の掃除にかかるのが剣道部の不文律、正規の部員でなくとも、進んで清掃に参加する紫桜に他部員の好感度は高い。
 とはいえ、如何に礼と義を重んずる道であっても、学生達なりの楽しみは健在で、休日の練習日の締めは二チームに別れてじゃんけん雑巾掛けが開催される。
 ルールは簡単、右と左に別れたチーム、メンバーの一人ずつが板目に添って雑巾掛けを初め、相手チームと行き会った中央でじゃんけんをし、勝った方がそのまま進んで負けた者は開始位置に戻り、どちらかのチームが相手の始点に行き着くまでひたすら雑巾掛けをするという実に実用的なゲームだ。
 コレが意外と盛り上がるもので、休日の稽古は任意なのだが呼気為に参加者が多いと言っても過言ではない。
「例の話、考えてくれたか」
 雑巾片手に共に列を並び、順番を待ちながらの会話は先頭の生徒の勝敗に一喜一憂する賑やかさに紛れてしまうには、真面目な響きを持っていた。
 声をかけられた時点で先を読めていた紫桜は、二人きりで話せる場に持ち込もうとする主将の意図に気付かぬ振りでとっとと掃除に参加したのだ。
「例の話……」
暫し記憶を探るように言い淀んで、紫桜は今思い出したというように、軽く眉を上げた。
「主将が、俺とより深いお付き合いに至りたいと仰っていた件ですね」
ごふッ、と吐き出す息と吸い込む息のタイミングを間違え、主将が奇妙な咳を吐き出す。
「あれ? 違いました……か?」
確認を求める紫桜も目を瞬かせた。
 口から出た言葉は、確かに意味としては間違っていない。
 主将の話とは、紫桜を正規の剣道部員として迎え入れたいと言う要望であり、確かに更に深い付き合いになりはする。が、そんな言葉を意識的に選んだつもりは毛頭なく、つるっと口を突いて出た意味深な言に紫桜の方が驚いていた。
 これでは、まるで友人のようではないか。
 自分に都合の悪い事態を言葉と態度で煙に巻くのは得意技、その影響を受けたと言ってしまうにはあまりのまんまな言動に、丁重にこちらの意思と意見とを述べて、納得の上辞退しようとしていた思惑は霧散する。
「いや、違ってはない、違ってはないが……」
咽せ込んでいた主将が漸く息を整えるが、涙目になっているのは咳のせいだけではないだろう。
「が? 違ってはないが、何ですか? アレだけ情熱的に俺が欲しいと言って下さっていたのに……カワイイ部員の前では言うに憚られますか?」
胸の前、雑巾を軽く握り締めて上目遣いに唇を尖らせる。
 紫桜の眼差しを受けて主将は一歩下がりかけるが、最後尾なのが災いし、三人を制して健闘したも四人目で敗してしまった先発の部員が息を切らせて戻って来た。
「主将、スイマセン負けましたー……ッ、てアレ? 顔色悪いですよ?」
何も知らない部員の指摘に、主将は生返事を返して首筋に冷たい汗を拭う……手にしていた雑巾で。
 普段との落差激しい言動に、主将を初め、戻ってきた部員以外は引いているのが解ってはいるのだが、紫桜は続く言葉を止められない。口が、手足が勝手に動いて紡ぐ言葉は紫桜の意図から外れきらないだけに、抗おうにも隙を突かれるのだ。
「でも俺なんかが居なくても、主将には既にカワイくて素直で素敵な部員さんがよりどりみどり、掴み放題好き放題ですし」
掴んだ上に好き放題に使ってやろうという、主将の隠された意図を紫桜に暴露される形に、ずざっと周囲が音を立てて引いた。
「俺なんて……いなくても……」
斜めに視線を逸らして唇を噛みしめ、心許なげな風情を醸す紫桜に、動揺しながらも主将は果敢に挑んだ。
「それでも今、お前が必要なんだ!」
次の大会に。
 という肝心な主語が抜けていることに、すっかりペースを乱された本人は気付いていない。
 夏に三年生が引退し、主将を引き継いでから初めてと言って良い地区大会が新年に控えている。
 剣道に関しては初心者も同然の紫桜だが、他の武術で培われたセンスは侮れたものではない……責任有る立場にあって、勝利を確実なものにしたいという切実な願いに、試合が終わるまででの間だけでも部員になって欲しいというのが本来であった筈だ、が、今の二人の遣り取りでそこまで深読みできる者が居る筈はない。
 その間も武道場中央でのじゃんけん合戦の攻防は続いており、右チーム……紫桜が所属する方が劣勢を強いられていた。
 というのも、気掛かりな展開にメンバーが早々に負けては戻ってきて遠巻きに二人の会話を見守っている為だ。
「それでも俺には……今まで主将と運命を共にして来た皆さんを差し置いて、あなたの隣に立つなんて出来ないッ」
日々、練習を共にして来た部員の努力を無視する形で、試合に出場する事は出来ないの意である。
「お前との関係なら、皆理解して祝福してくれる!」
人望に厚く実力を備えた紫桜ならば、主将の人選ミスだと言う声も上がらずに結果を出せる、の意である。
「それでも……俺には出来ませんッ」
試合の為だけに部員になるという真似は義に悖る、の意である。
「待ってくれ、考え直してくれ櫻!」
これはそのままの意味合い。
「さようなら……俺のことは忘れて幸せになってください」
試合に使ってくれようとはするな、来週の練習はいつも通り10時からですね?
「櫻ーッ!」
「どうか追わないで……ッ!」
たっと駆け出した紫桜の芸は細かく、小指が立っている。
 しかし追うなと言っても無理がある。
 主将の後ろに鈴なりに、右チームのメンバー全員が並んでいるという事は紫桜の順番、続くのは当然主将だ。
 広げた雑巾に両手を添え、床を蹴る勢いに滑らせて進んでいく。
 左チームの先頭が既に壁の端まで進行しているのに、紫桜は一旦足を止め、袖を捲って拳を突き出した
「じゃーんけん、ぽんッ!」
勝利は近いという油断と、足に来る疲れから速度を緩めていた相手は前置きのない挑戦に一瞬怯んで雑巾から手を離した位置で勝負を決する羽目となった。
 パー対チョキ。紫桜の勝ちである。
「くそーっ!」
目前で行く手を阻まれ、口惜しさに歯噛みしながら始点に駆けていく。
「待ってくれ櫻、もう一度……、もう一度話し合おう!」
後を追って来ようとする主将だが、じゃんけん雑巾掛けのルールとして、一列に一人を配置する事になっており、紫桜がもう一勝して隣の列に移らなければ始点から出発出来ない。
 即ち、それ以上の距離を詰められないという意味でもある。
「幾ら話し合っても、俺の気持ちは変わりません!」
言い合いながら紫桜は着実に勝ちを納め、敗北目前から一人で駒を進め、一気に勝利に大手をかけた。
 その勝負強さに互いの勝利を願う左右チームは盛り上がりを見せ、紫桜と相対する者に激が飛ぶ……中で、諦めることなく勧誘を続ける主将の心意気はいっそ天晴れだ。
「それでも俺はお前を諦められないッ!」
その心からの叫びに、紫桜はぴたりと足を止めた。
 雑巾は踏破する距離に水気を無くして、すっかり滑りが悪くなっている。
「ここで俺が負けて、主将が条件を一つ呑んで下さるなら再考して構いません」
折れる形での紫桜の申し出に、諦めずに押し続けていた主将が飛びつかない筈がない。
「何だ? 俺に出来ることなら何でも……ッ」
勢い込む主将に、紫桜はしばし動きを止めた後、彼らしからぬ……最も先から紫桜らしくなさは爆発していたのだが、更に違和感のある動き、で天に向けた掌を顎の線まで上げて、そのまま肩を竦めて見せた。
「主将にでっきるっかなー?」
「言ってみなければ判らないだろう!」
出来ない筈はない、否どんな難問でもやり遂げてみせると、勝利に目の眩んだ主将が力強く促す先に、紫桜は巫山戯た動作と裏腹に、ごく真面目な声で条件を告げた。
「なら、今後しーたんと呼んで下さい」
主将、主将を務めるだけあって、かなり礼儀に煩い方である。
 幼児ですら相性で呼ぶに躊躇い、さんを付けるそんな人種に同性・後輩・実力派な紫桜をしーたん等という礼を欠くにも程がある乱れた日本語で呼べと強要するのは、精神的な苛めに近い。
 礼儀と誇りと尊厳と、天秤にすら乗らない三つの煩悶にフリーズをかました主将に紫桜はふっとニヒルな笑みを零した。
「これだけは譲れません、何故なら俺の主義は……」
言い切らぬ間に、左チーム最後の砦が紫桜に挑み掛かる。
 乾きかけの雑巾を膝で押さえ、紫桜は迎え撃つに片膝を立てた。
「敬語禁止、タメ口推奨ぉーッ!」
上部から振り下ろして手を示すのではなく、脇の下、力を矯めて突き出す拳が風を斬る。
 全ての勝負は、その一戦で決した。


 色濃い疲労と後悔と、羞恥とに苛まれながら紫桜は陰陽堂の戸口を潜った。
「いらっしゃいまし、櫻様……おや、随分と元気の足りないご様子で」
台場に膝を立て、行李に何やら着物をしまっている様子の店主にそう言い当てられるのに、紫桜は思わず自分の頬を擦る。
「そう……でしょうか」
こういう時こそ冷静さが必要だと、務めて顔に出さないように心掛けていた筈がそう一目で評されて、紫桜は軽い動揺を隠そうとした。
「ハイ、何かやらかしちまった感じなお顔で御座いますよ?」
あっさりとした口調で言い当てられた的に、表情にほとんど変化を見せないながらも、紫桜の雰囲気はずんと音を立てて重みを増した。
「おや、図星のようで」
紫桜には最早頷くしか出来ない。
 その後、無事勝利を納めはしたが、まさしく逃げるように……というかその場を逃げるしかなかった紫桜である。
 自分の発言も行動も、全て覚えているだけに、今思い返しても顔から火を吹きそうだ。
 お世話になっている身である為、何某かの形で恩義を返したく思っていたが、正規の部員を差し置いて試合に出場するのだけはどうしても無理だ、と理を尽くす筈が先の事態に雪崩れ込むに至り、予定も何もあったものではない。
 今後、剣道場に出入りが出来るとは思えず、あらゆる予定の狂いは新たに増えた影に、その原因と思しきと疑いを向けるより他なく、紫桜は助言を求めて陰陽堂を訪れたのだ。
 不思議を扱うこの店ならば、何某かの良策を有しているのではと期待しての事である。
 言葉少なに事態を説明する紫桜に、店主は蜂蜜で甘みをつけてさっぱりと仕上げたゆず湯を供しながら親身に相槌を打って耳を傾けてくれる。
「そいつぁ難儀をしましたねぇ」
しみじみとした店主の言に、紫桜は万感の想いを込めて深く深く頷いた。
「その影に、覚えは御座いませんので?」
今も光源を無視して足下に落ちる、二つの影の一方を煙管の先で示し、問いを向ける店主に紫桜は首を傾げる。
「身に覚えがないと言えば……嘘になりますが」
最後のじゃんけん勝負で叫んだ主義を、常日頃主張している人物になら心当たりがあり過ぎて疑う余地は存在しないものの。
「彼に解決出来るとは思えません」
あまりにきっぱりとした物言いに、店主は思わず拍手を送った。
「とすれば、あたしは解決に必要な何かを提供すればよろしい訳ですね」
すっかり事情を弁えた店主が、紫桜が意図を明確に口にするより先んじる。
「あります……でしょうか」
そんな事態に添った、都合の良い物が、と不安を滲ませる紫桜に店主はしばし中空に視線をやって煙管の吸い口を軽く歯で噛んだ。
「二、三お勧めの品は御座いますが」
言葉に併せて揺れる煙管の先から、同じようにゆらゆらと煙が漂い出るのに何とはなし、目を奪われる。
「この場合は、原因のその影をどうにかするのが一番の早道で御座いましょうねぇ」
思案の経過を口にして、店主は紫桜に真っ直ぐ視線を向けた。
「如何で御座いましょう。件の影、お邪魔なようでしたらこちらで引き取らせて頂きますが」
「お願いします」
邪魔と引き取りの二つの単語に反応した、紫桜の決断に迷いはない。
 が、即断した直後に迷いが過ぎった。
「出来るんですか、そんな事が」
勝手にくっついて来た影であるが、それを引き取る、剥がす方法となるととんと見当がつかない。
 何か刃物で切り取ろうにも……実は身の裡の刀で切り取れないか試しはしたものの、やはり影は影、手応えも何もあったものではなかった故に、自力での打開は諦めた次第だ。
「出来ない事ならば申し上げませんとも。さ、ちと此方に上がって頂けますかね、一度よく拝見させてやって下さいまし」
請われて台場に上がり込み、紫桜は店主の正面に座り直そうとした。
「あぁ、出来ましたらこちら、影が広く見える場所に来て頂いてよございますかね。そう、其処らで。ありがとうございます」
光源の位置も関係するらしく、店主の指示に素直に従う紫桜に、二つの影は素知らぬ風で付いて来る。
「まぁ昔から。影の病というだけあって浮かれて一人歩きする影は結構いるモンで。うちもそんな辺りで商いさせて頂いておりますよ」
どうするのかと、紫桜が興味深く見守る中、影の傍らに膝を突いた店主は、す、と影の上に指を走らせて輪郭を確かめ、次いでコツコツと指の背で叩いてみている。
「それは何を……?」
「濃さとか、密度とか、そう言った物も重要でしてね」
引き取ると言われたそれを、剥がして終わりと簡単に考えていた紫桜だが、それなりの審査を要するらしい。
 我が影ならず迷惑をかけられたとは言え、それなりに縁あって一日を共にした仲である。
 厄介払いが出来るという打算とは他に、それなりの情で以て紫桜は店主のお眼鏡に適う質を有しているといいと願わずに居られない。
 店主は検分の最後,中空に両の手を入れて何かを支える形に重さを確かめて、紫桜に一つ頷いて見せた。
「……よござんしょう、此方でお引き取りさせて頂きます」
店主の決に紫桜がほっと胸を撫で下ろす間、店主は荒神ほうきでパタパタと畳ごと影を掃く。
「お代は三百円ばかりになりますが、それでようございますか?」
 小遣い銭程度で引き取って貰えるのであれば紫桜に否やない。制服のポケットから小銭入れを取り出し、中身を改めようとする紫桜を店主が笑って手で制した。
「お間違いなく櫻様。お支払いするのはあたしの方でさ」
言って店主は和装の袂から、いくつかの硬貨を探り出す。
「この影は後、一体どうなさるんですか?」
手放す段になって、紫桜はふと過ぎった疑問に店主に問いを向けた。
「お売りになる方がいらっしゃれば、当然、お買上げになる方もお出でになる。そうやって商いをさせて頂いておりますのですね、ご入り用の方が見えられるまではあの中でさ」
台場の隅に置かれた行李を視線で示し、店主は紫桜の手を取った。
「まぁ言っても物は影ですから、大概切り売りで。まんままるごとお買上げになるのはごく稀で御座いますねぇ」
代金を支払おうという店主の意図を察してはいても、紫桜は指を緩く折ったまま問いを重ねた。
「影を無くしたままだと、どう……?」
「影は生まれてから絶えず添うモノ、魂の半身。無くしたまま長く生きた例というのは、あまりお聞きいたしませんが」
知人と同じ主張をしてのけた影の、本来の所有。
 それが思う人物であるのなら、店主に譲り渡しては不味くはないかと紫桜は逡巡する。
「まぁあたしは別に困りゃしませんが。一つ身に影が二つ、というのは何かと不便を強いられましょうからオススメ致しませんねぇ」
決定権を委ねる店主に、迷の内に答えを出そうとした紫桜が口を開くより先、店の扉が勢いよく開かれた。


「犯人はしーたんニャアァッ!」
決定的証拠を押さえたと言わんばかりの弓削森羅の断言は、それに見合った音量で紫桜の手を硬直に開かせ、店主の手から硬貨を取り零させた。
 バスで移動途中、紫桜の姿を見つけて次の停留所で降り、駆け戻ってきた息の乱れに肩が上下している。
「え、どうかしたんですか森羅さん」
森羅の唐突な出現と共に、犯人呼ばわりされた紫桜は目を丸くして戸口に立つ森羅を見、声を失った。
 頭頂部の左右に出現した猫耳をぴこぴこと動かしながら、ずんずんと近付いてくる森羅の姿に言葉もない、と言った方が正しいか。
 しかし森羅は自分の姿に全く違和感を感じていないのか、指を関節だけで内側に曲げ、猫の手のそれによく似た握り方で紫桜の腕をぽかぽかと叩く。
「ヒドいニャ、酷いニャ,友達甲斐がないニャーッ! バスの窓から一生懸命叫んだのに、全く気付かないニャんて理不尽だニャ、愛が足りないニャ愛がッ!」
まるで今までに両者の間に愛情があったような言い様でそんな風に殴られ、痛くはないが不気味である。
 バカバカと続けて責める森羅を、紫桜は冷たく静かに宥めた。
「落ち着いてください、弓削さん」
「敬語禁止! タメ口推奨ニャ!」
人間関係に対して固さの抜けない友人に、強要することで柔軟さを求め親しさを許す一種の気遣いを、いつものように打てば響くように返した森羅だが、今日は受け止める紫桜の様子が些か違う。
「止めて下さい弓削さん」
飽くまでも冷ややかに、そして丁寧に。
「そんな事をしたら、知り合いだと思われるじゃありませんか」
遠慮や習い性から来るのではなく、距離を置く為の敬語、所謂慇懃無礼を心底真面目に発動させた紫桜に、猫耳装備、語尾はニャに変化させた森羅は、その場に泣き崩れた。
 親友の謂れのない仕打ちに言葉もない。
 小刻みに震える耳が、千の言葉よりも万感の想いを表して、見る者の胸を打つ。
「……冗談ですよ」
紛れもない本気で拒絶したとしか取れない声音であったが、紫桜は一応なりとそう取りなし、泣き崩れる森羅の肩に優しく手を置いた。
「俺に何か用があったのでは?」
バスから呼び止めたという言を受け、用件を改める紫桜に森羅はがばりと身を起こした。
「そーだったニャ! 泣いてる場合じゃないニャ!」
言って森羅は、やおら身を伏せると紫桜の足下、その靴先を嗅いだ。
「やっぱりニャ! しーたんが俺の影持ってたニャ! すぐに返すニャ……?!」
くんくんくん、と鼻を鳴らしながら床に匂いを追い、台場に到達し、畳の上を膝行して森羅は行李に行き着いた。
 影を納めた、その行李に、自分の影の匂いが続いている、という事は……?
 森羅は己の内に過ぎる嫌な予感、半ば以上確信から来る不安に先ず店主を見上げた。
「毎度ご贔屓にありがとうございます」
場の微妙な空気の中でも、店主の商売人気質は健在だ。
 続いて、紫桜を振り返る。
 チャリンチャリンと紫桜の手の中で音を立てる硬貨が主張する事は即ち。
 店主との間に紫桜に取り付いていた影……即ち、森羅の影の売買契約が為されたことを無情に示していた。
 事態を取り返しのつかない窮状に陥らせたのは、名探偵風に犯人を言い当てて見たかった、という己の他愛ない、且つ下らない欲求が決定打であったことに、森羅自身気付いていない。
「何て事だニャ……ッ!」
両の目から溢れる涙を押さえることなく、森羅はポケットから残金……現時点、全財産である二百円を取り出した。
「俺は何て不幸な少年ニャ……!」
硬貨の上に、涙がポタポタと滴り落ちる。
「信じていた友に裏切られ、暴利を貪る店主に影を奪われ、たった二百円ぽっちけじゃ買い戻す事も出来ないニャ……」
二百円を握り締めた拳を胸に当て、森羅はくぅっと息を呑んで天を仰ぐ。
「このまま一生猫の影をひっつけて、人に指差され笑われ、見世物になって猫男として生きて行くニャアァァッ」
一応、笑える姿であるという自覚はあったらしい。
 しかし台詞は悲哀に満ちているものの、身を捩り、ハンカチの端を噛み締める等、追随する動作は楽しんでいるとしか思えない。
 森羅の独り遊びは放っておいて、紫桜はごく冷静に店主に問い掛けた。
「先程引き取っていただいた影、全部頂こうとしたらお幾らになりますか?」
「そうですねぇ」
森羅の一人芝居を眺めていた店主は、無精髭の浮いた顎に手をやってザリと撫でる。
「うーん、売値は五百円、と言った所ですかね」
猫の影、二千五百円より遥かに安い。
 それを知ればまた泣き崩れる所だろうが、森羅は己の世界に浸りきるを幸い、二人の遣り取りに気付いていない。
 紫桜は先に受け取った三百円を、店主の手に戻した。
「じゃぁ、コレで。残金二百円は森羅から貰って下さい」
言ってスタスタと戸口に足向ける。
「おや、お持ち帰りにならないんで?」
わざわざスポットライト的に光源のある位置まで移動し、己が不幸を楽しく嘆く森羅を放って帰ろうとする紫桜に、店主が当然の問いを向ける。
「腹が減ったら勝手に帰ると思うんで、暫く置いておいてやって下さい」
非情に無情に、そして的確に。
 森羅の行動パターンを読んだ紫桜は言い置いてとっとと帰路に着いてしまう。
「……取り敢えず、影をお戻しして」
前金に半額以上を預かった手前、このまま夕刻まで影を返さずに放置する気は、流石の店主にもないようだ。
「何時になったら気付くか、拝見させて頂きましょうかねぇ」
コキ、と肩を鳴らした店主の暇つぶしにされようとしている事に、森羅は全く気付いていなかった。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【5453/櫻・紫桜/男性/15歳/高校生】
【6608/弓削・森羅/男性/16歳/高校生】

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■         ライター通信          ■
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お久しぶりの御依頼有り難う御座います、 闇に蠢く駄文書き、北斗玻璃に御座います。
森羅くんがコメディ方向であった為、それに倣ってゲームを楽しんで(?)頂いてみました。
お二人の関係を書くのに、折角影響力の高い物を使うんだからー♪ とばかりに何か校内での立ち位置を微妙なものにしてしまった気がしますが、常の真面目さ加減にそんな噂はすぐ払拭出来る事を信じております!(待て)
因み剣道の間合い云々は北斗の拘りです。メインが体術だしね、折角だからね! と道着を着せたかった裏を覗かせつつ、楽しんで頂けます事を願うばかりに御座います。
それではまた、時が遇う事を祈りつつ。