コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


秋山賛歌



「凋落の秋」と古人は言うが、今この瞬間を表現する言葉としては適切でない。
 眼下に広がる光景を視界に留め、烏丸織はそう思った。
 染色に用いる植物を見るために入った山は、竜田姫の裳裾のごとく艶やかな色彩で染め上げられていた。樹々が落葉し、細い山道は燃えるような朱や黄で覆いつくされている。
 晩秋の景観は何故こんなにも見る者を圧巻させるのだろうと思わずにはいられない。
 織は、いつしか己を取り囲む錦の世界に心を奪われ、無意識の内に一つの和歌を口ずさんでいた。
「経もなく 緯も定めず 娘子らが 織るもみぢ葉に 霜な降りそね――」
 人間では決して織り成す事の出来ない色彩が織の目の前にあった。
 規則性を持たない色の結集。縦糸も横糸も張り整える事無く、時候により色彩を自在に移ろわせて人間を魅了する。
 その秋の木々をいただき、植物の魂の色を、染めに、織りに、少しでも自分のこの手で再現したいと渇望する。それは、染織家として織が常に抱く感情でもあった。
 見上げると、紅葉の合間からは抜けるような青空が見え、その中を鳥が群れを為して羽ばたいている。
「雁か……もう秋も終わりだな」
 渡り鳥の姿に冬の到来を感じながらも、織は晩秋の艶やかな色彩を己の目に焼き付ける為に山を登った。

 急勾配が暫く続き、心地よい疲労感を覚えながら紅葉の降り注ぐ中を歩いていると、不意に開けた場所へと行き当たった。
 一息つこうとしてその場で足を止め、前方へ瞳を向けた時。織は思わず息を呑んだ。
 遅咲きの萩が細い枝をしなやかに揺らして、小さな白い花を咲かせていたのである。
 色という色を全てそぎ落としたような純白の萩は、紅葉する木々の中にあって一際美しく見えた。
 織は穢れのない真白の花に心を奪われ、本来の目的であった植物の選定さえも忘れて、ゆっくりと萩へ近づいた。
 周囲に溢れる鮮やかな紅葉の様相とは異なり、その萩からは楚々とした可憐な印象を受ける。
 そっと萩に触れてみると、柔らく瑞々しい葉の感触が掌から伝わってきた。
 一枝手折り、誰かに土産として見せようか。それとも今日という日の思い出に、自室へ飾って秋を堪能しようか。一瞬そんな考えが織の脳裏を過ぎったが、すぐに首を横に振った。この萩の姿を見られただけでも十分だと思い直したのだ。
「本当に、一人で来るには惜しい場所だな」
 今この瞬間、誰かとこの秋山の美しさを語りあえたら、どんなにか楽しいだろう。
 言葉では語りつくせないかもしれない。それでも、この感動を誰かに伝えたい。
 そう思った時、ふと一つの庭と、そこに住まう住人が織の脳裏を過ぎった。
「……漣さんの自宅の庭にも、今頃は秋の草花が咲いているのかな」
 織は萩を手折るかわりに、己の傍らに舞い落ちた鮮やかな紅葉の葉を数枚手に取ると、久々に漣の自宅へ赴いてみようか、とそんな事を考えた。


*


「珍しいですねぇ。織君が酒を持参して来るとは」
 翌日、織は日本酒を手土産に漣の自宅を訪ねた。
 漣は酒と織とを交互に眺めながら驚きの表情を浮かべている。織自身、まさか自分が土産に酒を選ぼうとは予想だにしていなかった。だが、昨日山へ登った折に拾い上げた紅葉を眺めているうちに、これを酒肴にしたら面白いのではないかと考えついたのだ。
「染織は指先や手先の神経を使う職業ですので普段は余り酒を飲みませんが、紅葉の葉を浮かべてお酒を飲んだら、趣深いかと思いまして」
 織は漣へ日本酒を手渡すと、自ら染色したハンカチを取り出して、包んであった数枚の紅葉を漣に見せた。
「昨日、染色に使用する為の木々を見に山へ登ったのですが、紅葉があまりに奇麗でしたので、つい」
 手の中にある紅葉を見ながら、織は艶やかな山の色彩を思い出す。昨日よりは今日。今日よりは明日。あの山の色合いはいっそう深まって行くのだろうと思うと、毎日でも山に登りたい気にさせられる。
 そんな想いが織の表情にあらわれていたのだろう。漣はふと穏やかな笑顔を見せると、「では酒を飲みながら、その折の話を聞かせては頂けませんか」と、織をいつもの縁側へ通した。
 案内されながら織が漣の庭先へ視線を向けると、普段とは異なるその様相に思わず「おや」と首を傾げた。
「焚き火をしていたんですか?」
「ええ。丁度今、散り落ちた葉や枯れ木を集めて火にくべていたところでしてねぇ。酒を飲むにはいささか殺風景かもしれません」
 どうせなら焼き芋でも作っておくべきでしたか、と告げる漣に織は思わず苦笑した。
「やはり庭が広いと手入れも大変でしょう」
「そうでもありませんよ。草木灰は良い堆肥になりますからねぇ。枯れた枝にも色々な想いは宿っていますから、彼らを再び庭に撒いて土へ還せば、来年は更に赴き深い庭になりますよ」
 楽しそうに告げる漣の言葉を聞いて、枯れ枝に宿る想いとはどんなものだろう、と思いながら、織は「そうですね」と相槌を打った。


 漣の言うとおり、刈られたばかりの庭はやや寂しい面持ちだった。
 庭の中央には木々がかき集められ、微かな炎と煙が立ち上っている。
 それでも、庭先に差し込む黄金色の日差しは柔らかく、晩秋の気配を感じる事ができた。
「本当にこの庭は落ち着きますね」
 織が縁側に座って独りごちていると、しばらくして漣が白磁の小皿と酒の入った徳利を盆に乗せて遣って来た。
 ここへ来ると当然のように見られるいつもの光景。だがそれさえも、季節が秋というだけで感慨深く見えるから不思議だ。
「……良い木はありましたか?」
「え?」
 唐突に問われ、織は何のことだろうと思わず思考を巡らした。その様子に漣は微かな苦笑を零す。
「昨日は染色に使用する草木を見に行かれたのでしょう?」
「……あ、はい」
 紅葉の美しさに、萩の可憐な姿に魅せられて、本来の「染料になる植物を選定する」という目的が、いつの間にか「秋の景観を誰かと語り合う」という方向にかわってしまっていた。織は今更ながらその事に気がついて、些か返答に困った。
 それを察したのか、漣は話題を秋山へと移す。
「この時季の紅葉は格別に美しいですからねぇ」
「そうですね。春は佐保姫、秋は竜田姫と言いますが、あの光景を見てしまうと、本当に秋の神が山を紅葉させているのではないかと錯覚してしまいます」
 織が言うと、漣は己の口元に人差し指を当てながら首を竦めた。
「春と秋を比べてしまうのは厳禁です」
 織は漣の言葉の意味を汲み取れず、首をかしげる。
「何故です?」
「誰でも他者と比べられるのは嫌なものでしょう。殊、私の知り合いの秋神は、つねに春神と比較されていたようで、今では『春』という言葉を出しただけで怒りますからねぇ」
 その様子を思い出しているのだろう。漣はのほほんとした笑顔を見せながら、白磁の小皿に酒を少量注ぐと、紅葉の小さいものをそこへ落とした。
 朱に染め上げられた紅葉は、皿の中でゆらゆらと揺らいでいる。
 それを織の前に差し出すと、漣は己の酒にも紅葉を置き「まだ口はつけずに居てくださいねぇ」と楽しげに告げて、部屋の奥へと姿を消した。


*


 束の間の後、漣は一枚の紙と筆とを手に縁側へ戻った。
「絵を描くのですか?」
 織は首を傾げながら漣に問う。
 秋山の情景でも描くのだろうかと思いはすれど、漣の手元には墨も岩料も無い。
 筆と紙だけで一体なにをするつもりなのか、織には皆目検討もつかなかった。そんな織に、漣は悪戯を仕掛ける前の子供のような笑顔を見せる。
「織君は、あぶり出しという遊びを知っていますか?」
 言いながら、漣は手にしていた筆を、おもむろに紅葉を浮かべた酒へ浸した。
 織は何事かと驚いて、思わず漣の顔をまじまじと見つめる。漣はそれに構わず酒を含ませた筆を紙に置くと、するすると何某かを描き始めた。だが如何せん酒で描いたものだ。無色の絵を織が見たところで、漣が何を描いているのかなど解るはずも無い。織は、器用に動く漣の手先を見つめていた。
「焚き火を見ながらの酒というのも、味気がないですからねぇ。少々趣向を凝らしてみましょうか」
 絵を描き終えたのか、漣は筆を置くと縁側から降りて焚き火の前へと向かった。
 火は勢いこそ無いものの、依然木々の合間で燻っている。漣はそこに、酒で描いた己の絵をかざした。
 織は漣の所業に興味を抱いて立ち上がると、己も縁側から降りて漣の傍に歩み寄り、漣の持つ紙を覗き込んだ。
「……絵が」
 真白の紙を火であぶっているうちに、漣の描いた絵が鮮やかな朱の色を帯びて、うっすらと浮かび上がってくる。
「紅葉の絵ですね。ですがお酒で描いたものなのに、何故朱色なんですか?」
「酒の中に入れた紅葉の色ですよ」
 言って、漣は手にしていた紙を焚き火の中へ落とした。瞬間、織の目の前に在った光景が一転した。


「これは……」
 先程まで、織は漣の自宅の庭先に立っていたはずだった。
 けれど今、織の眼下には艶やかな色彩で染め上げられた秋山があった。
 織は思わず言葉を失って周囲を見渡す。
 細い山道に降り注ぐ落葉。木々の合間から覗く透き通った青空。その中を飛びゆく渡り鳥の群れ。それは、昨日織が山で見た光景と同じだった。
「……漣さんは、私が昨日見た景色を知っているのですか?」
 驚いて織が問いかけると、漣はにこやかな表情で首を横に振った。
「いいえ。僕がこの景色を見るのは今日が初めてです。これは、織君が拾ってきた、あの紅葉が見ていた光景ですよ」
 折角酒を飲むのでしたら、いっそのこと秋山の景観を眺めながらの方が楽しくて良い、と告げる漣に、織は唖然とした。
 全くこの人は、こちらが驚くことを平然とやってのけてしまうのだから不思議だ、とそう思わずにはいられない。
 そして、それに慣れつつある自分がいるのも確かだった。

「……紅葉を拾った近くに、萩が咲いては居ませんでしたか?」
「ええ、咲いていました。真白の花がとても美しかった」
 問われ、織が頷きながら答えると、漣はのんびりとした仕草で織の後ろを指差した。
 促されるようにして織が振り返ると、そこには昨日見た萩が可憐な様相で咲き誇っていた。
「秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七草の花」
 ふと漣が笑う。漣が詠んだのは憶良の歌だった。
 織は再び萩へと視線を移すと、その嫋やかな姿の萩を前に、次の句を詠んだ。
「萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花」
「織君が美しいと感じた光景を、あの紅葉も美しいと思っていたのかもしれませんねぇ」
 漣が織へ告げる。
 秋の草花や木々の彩りは見る者を魅了するほどに美しい。それは、冬の訪れと共に朽ちて行く植物が見せる、最期の命の色だからかもしれない。

「さて。この景色を眺めながら、織君から頂いた酒でも飲みましょうか」
 漣がのほほんとした口調で言う。
 見れば、いつの間にか秋山の中に漣の自宅の縁側が姿を現していた。
「……本当に漣さんは不思議な人ですね」
「おや、不思議があるから、この世は面白いんじゃないですか」
 漣の言葉に、織は苦笑しながらも頷いた。



<了>