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<東京怪談ノベル(シングル)>


glissando



 部屋に残された神崎美桜は、ぼんやりと床に敷かれた絨毯を眺めた。
 和彦の言葉が、頭の中で反響する。
 選べ。
(自分で、選ぶ?)
 どうやって?
 その方法がわからない。
 美桜はこれまで誰かに頼った生き方しかしていないのだ。守ってもらう生き方しか、していない。
 自分の力だけで得たものなど、ほんの一握りしかない。
 この大きな屋敷も、庭も、動物も、植物も。
 自分で得たものではない。用意されたものだ。
(私が選んで……いいんでしょうか、本当に)
 自信がない。
 頭を抱えていた美桜は、家のドアが閉まる音がして顔をあげた。慌てて窓に近づき、そこから外を眺める。
 家から颯爽と出て行く和彦の姿が見えた。あ、と美桜は小さく呟く。
 くるぶしまで伸びた黒いコートをひるがえし、彼は眼鏡を押し上げ、ドアを見て嘆息するとすぐさま背を向けて歩き出した。
 迷いのない、足取り。
(和彦さんは……もう戻ってくる気がないんだ……)
 躊躇いのない、その足音。
 彼の小さくなっていく背中を見て、美桜はたまらなくなる。こうなってしまったのは自分が原因なのだ。自分が迷ってばかりでまともに決められないから。選べないから。
(後悔したくない!)
 やっていないことで後悔するより、やって後悔したほうが何倍もマシだ!
 美桜はバッグを引っ張り出し、必要最低限のものを詰めていく。それが終わるとレターセットを出してきて便箋にボールペンを走らせる。
 手紙になんて書いたらいいのかわからない。けれども、心配しないようにとは書いた。こんなことを書いても心配されると思ってはいるが、ないよりはいいだろう。
 テーブルの上に手紙を置くとすぐさま玄関に向かった。慌しく靴を履く。こんな時間さえ惜しく、そして自分のトロさにもどかしくなる。
(和彦さんはもう待ってくれない!)
 今まで散々待ってくれた。もう待ってくれないだろう。
 美桜はドアを開けた。鍵なんて閉めてもしょうがない。
 走らなければ追いつけない! 追いつけなければもう二度と彼には会えない。会う資格を失う!
(ヤだ……!)
 涙が滲む。
 彼の隣に居たい。彼の隣に立つ資格がなくなってしまう……! そんなの!
(嫌よ!)
 怪我をしている足を引きずって走る。こんなに広い敷地を、美桜は恨んだ。



 門のところまで来た美桜は荒い息を吐く。喉が痛い。胸が辛い。酸素が欲しい。
「っは、はぁ……! はっ、」
 きょろきょろと見回す。だが和彦の姿はない。
(ど、どっちへ行ったんだろう……)
 右の道。左の道。それぞれ見遣るが暗くて和彦の姿はうかがえない。
「っ」
 唇を噛んだ。
 間違えば彼には会えない。
 決意して美桜は右の道へ進んだ。駅を目指すにしろ、タクシーを拾うにしろ、こちらの道の先だ。
 走って走って。それでも走って。呼吸が辛くて。息をするのがうまくできなくて。
 街灯の明かりがぎりぎり届く場所に彼のコートの端が見えた。
「和彦さん! 私もっ、はぁ……私も一緒に連れて……っ、はぁ……はぁ……いえ、一緒に行きます!」
 彼が足を止めて振り向く気配がした。急には止まれなかった美桜は彼に突っ込む形になる。そのまま抱きつこうとした美桜の両肩を彼は押し、それを止めた。
「和彦さん?」
「なにしてる?」
「何って……一緒に行きます……!」
 座り込んだ美桜はへとへとだった。呼吸が整うには時間がかかるだろう。
 和彦は腰に片手を当てた。
「こんな道端で座るな」
「も、もう一歩も動けません……」
「…………」
 和彦は目の前に佇んだままだ。座ろうともしない。ただ美桜を見下ろしている。
「ちょ、ちょっと休ませてください」
「ヤだ」
 彼は即答した。美桜は信じられないような顔をして見上げる。
「息が整うまでしか待たないぞ」
 随分と冷たいことを言うようになった。美桜は早く息を整えようと深呼吸をする。
 和彦は嘆息した。呆れていた感じもする。
 息がやっと少し整うと、美桜はよろよろと立ち上がった。
「無理しなくていいのに……。俺について来ても、苦労するだけだぞ」
「ついて行きます!」
「いちいち今みたいに待てない場合もある。わかってるのか?」
 危険な仕事をしているために、息が整うのを待つ余裕もないことだってある。
 美桜は頷いた。
「今わかりました」
「…………」
「あの、それでこれから如何しますか? 家が決まるまではと思って一応、以前療養中に住んでいた私の家と、お祖父様の家の鍵を持ってきましたけど」
「…………」
 和彦の目がさらに細められる。そして彼は腕組みした。
「捨てろ」
「はい?」
「そんな家の鍵は受け取らない。俺について来るというなら、今までのものは全部捨てる覚悟をしろと言ったはずだぞ」
「あ……」
 美桜は肩を落とす。そういえばそうだ。自分はまたやってしまった。相変わらず反省しないというか……。
「捨てないならついて来るな。帰れ」
「で、でも! 住むところはどうするんですか?」
「どうにだってできる」
 言い放った彼は美桜に背を向けた。
「俺はおまえの世話になるつもりはない。だいたいなんだその家の鍵は。金持ちの少年が別荘に行くのと同じくらい安直だぞ」
「……そうですね」
 それでは今までと同じだ。美桜はきょろきょろと見回し、自販機の傍に設置されていたゴミ箱に鍵を捨てた。
「これでいいですか?」
「…………」
 和彦は唖然としていた。美桜が本気で捨てるとは思わなかったようだ。
 美桜は和彦を見上げる。
「それで、どこへ行くんですか?」
「……とりあえずしばらくは俺が以前暮らしていた朧荘に行こうかと思ってはいるが……」
「朧荘?」
 ぱちぱちと瞬きをする美桜に、彼は説明する。
「憑物封印をしている間、俺が住んでいたアパートだ」
「…………」
 そういえば一度だけ行ったことがある。外付け階段の、あのオンボロアパートのことだろうか?
「朧荘でしばらく暮らすんですね?」
「しばらくな。ずっとじゃない。色々と旅をして回ろうかなと思っているから」
「旅?」
「……おまえはもっと外に触れたほうがいいだろうし、いざとなったら上海に行こうかと」
「上海って……」
 半年間遠征に行っていた……?
 美桜は胸がときめくのを感じる。辛いことになるかもしれないし、バテてしまうことだってあるだろう。でも、なんだろう。
 家に居た時のような安心感ではなく……もっと前向きな、どきどきするような、この楽しみな気持ちは――――!
「おまえの兄はストーカーみたいにしつこそうだし……目が届かない場所なんてないだろうけど。はっきり言ってあの人はおまえの癌だからな」
「癌!?」
「実際誰が見てもそう思うぞ」
 すっぱりと言いのける彼は歩き出した。美桜もそれに慌てて続き、横に並ぶ。彼は普通に歩いているが、どうしても美桜は早足になってしまった。これが『ついて行く』ということなのだ。
「ところでおまえ、学校はどうするんだ?」
「そうですね……どうしましょうか」
「……考えなしで出てきたのか。軽率なことする」
 呆れる和彦の横で彼女は頬を膨らませた。
「和彦さんのせいです!」
「だから別に追いかけてこなくても……」
「追いかけなかったら永遠のサヨナラじゃないですか。そんなの嫌です!
 あ、そうだ」
 美桜は微笑んだ。
「お蕎麦持ってきました。落ち着いたら食べましょうね♪」
「………………」
 彼女の言葉に和彦は呆気にとられ、渋々というように溜息を洩らす。
 けれど、本当は不安で仕方がない。先の見えないこの道のように、未来が真っ暗で……。
 身体が、震える。
 その震えを見た和彦が帰れと言いそうな雰囲気だったので、美桜は慌てて言った。
「寒いですね、今日」
「…………そうだな。急に冷えてきたな」
 あえて何も言わなかった彼の優しさに美桜は感謝する。そして誓う。
 大切な人を二人とも守れるようになれるよう、努力しようと――。