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最高のプレゼント
買い物から帰って来た零を見て草間は軽く目を見開き、その後で大きくひとつ溜息をついた。
「路地裏に倒れていました」
零は簡潔に事実だけを述べ、お姫様だっこの形で抱えた少女をさっさと奥の部屋に運んでいく。さらに「体を拭きますから兄さんは入ってこないでください」ときつく言い添えることも忘れない。言われなくたって誰が見たがるかと内心で毒づきつつ草間はタバコに火をつける。
それでも、零が大して広くない事務所の玄関から奥へと運んでいく間に草間の探偵の目は彼女の腕の中の少女を素早く観察していた。ずいぶん汚れた少女だった。ブラウン系の髪は埃や泥にまみれ、身に着けているワンピースらしき服もあちこち破れて手足に傷がついている。しかし生傷や砂埃の付着した肌は息を呑むほど白く、ぼろぼろの着衣も決して安物ではない。歳の頃は中学生程度だろうか。おおかた何かわけありなのだろう。厄介なことに巻き込まれなければいいが。そんなことを考えながら草間は事務机に腰掛け、溜息とともに細く紫煙を吐き出す。
だが、草間の探偵の勘というのはこういう時だけ当たるもので――少女を連れた零が帰って来て一時間と経たないうちに玄関のブザーが濁った音を立てて来客を告げたのである。
「少女を探してほしいのです。一週間前から姿が見えなくなったそうで」
でっぷりとした体をぴっちりとしたスーツに包み、てかてかとした頭に浮く脂汗をせわしなくハンカチで拭いながら依頼人の男性は用件を切り出す。鼻の上に押し込むようにしてかけた小さな丸い眼鏡の奥の目はさらに小さく、ネズミのように落ち着きなくきょろきょろと動く。もっとも、ネズミというにはかなり大きな体格をしているが。彼の尻の下で苦しそうに軋む応接ソファが壊れやしないかと草間は不安を禁じ得ない。
「人探しなら警察に捜索願でも出せばいい。そのほうが手っ取り早いし、確実性もある」
草間は眼鏡の奥の目を軽く細めながら至極もっともな指摘をした。「なのにわざわざこんな所に来た。警察に言えないようなわけありのケースと考えていいのか?」
権田原(ごんだわら)と名乗った依頼人は「はあ、まあ、別に」と曖昧な返事をしながらひっきりなしに汗を拭う。その後でひとつ溜息をつき、観念したように分厚い唇を舐めてから再び口を開いた。
「まあ、隠してもしょうがありませんねえ。探してほしいのはオークションの落札品なのです」
「落札品? あんた、“少女を探してほしい”って言ったばっかりだろうが」
「はあ、まあ、それが、何と申しましょうか」
権田原はしきりに手もみしながら身を縮める。「私どもの会社では、観賞用の少年少女のオークションを行っておりまして。えり抜きの美少年や美少女を集めたオークションです」
「観賞用の少年少女のオークション?」
草間はやや素っ頓狂に権田原の言葉を反復した。人間をオークションにかけるだなんて、それも観賞用だなんて。観葉植物や熱帯魚ではあるまいし。しかしそんな草間の内心など知る由もなく、権田原は汗を拭き拭き言葉を継ぐ。
「今回探してほしいのは先日開催されたクリスマスオークションで落札されて落札主に引き取られた物件なんですが、一週間ほど前に家出をしてしまったそうでして。以来、とんと行方がつかめずに」
「物件なんて言い方はよせ」
少女を物として扱うような言い方に違和感と吐き気を覚えつつ草間は苦虫を噛み潰す。「それに、解せないな。なぜあんたがうちに来る必要がある。落札主本人が依頼に来るべきじゃないのか」
「ごもっともです、はい。しかしお客様にも事情というものがございましてですね」
権田原は眼鏡の奥の小さな目をきょろりと持ち上げて草間を見る。「そのー……何と申しますか、社会的にですね、地位のあるお方でございまして。そのような方がこのようなオークションに参加していたことが知れると非常に世間体がよろしくないとご本人からきつく申し渡されておりまして。草間興信所さんならばそういう秘密は絶対に守ってくれるはずだと、はい」
「なるほどな。で、そいつは一体誰なんだ。有名な奴なのか」
「いや、まあ、はあ、お名前を明らかにするわけには……」
「ならこの話は受けないぜ。依頼に関して最大限の情報を集めるのが探偵の義務だ」
「はあ」
うつむいた権田原の太い手の中で汗のしみこんだハンカチが開かれ、またしわくちゃに丸められる。そのせわしないしぐさを幾度か繰り返した後で権田原はようやく顔を上げた。
「民政党の、芹沢龍之介先生です」
草間は「ほう」という相槌とともに眼鏡の奥の目を軽く細めた。民政党の芹沢龍之介といえば子供でも名前を知っている。若手の切れ者と名高い政治家で、民政党の次期幹事長と目されている男だ。なおおかつ、かつて総理大臣の職を務めた芹沢慎之介の養子でもある。
「なるほどな。政治家のセンセイさまが美少女オークションなんかに参加していたことが知れたら有権者の支持が得られなくなるってわけか」
「はあ、いや、その、誤解しないでいただきたいのです。美少女・美少年のオークションといっても決して猥褻目的ではございません。参加するのは子供を欲しながら不幸にも子供ができなかった夫婦や、配偶者に先立たれた寡婦や寡夫のかたがたです。まったくもって健全なオークションでございますよ。いわば養子を売っているわけですなぁ、ハイ。見た目や毛並みのよい子犬や子猫のみを厳選して店頭で売るのと同じことです。参加者さまの身元や経歴は厳格に調査し、商品に肉体的・精神的・性的な虐待を決して加えることのないように落札後も年に二回の定期報告を義務付け、なおかつきちんと養子縁組の届出をしたかどうかも――」
「分かった、分かった」
草間は面倒くさそうに片手を上げて権田原の饒舌を遮る。「その子のプロフィールや顔写真なんかは持って来てくれてるんだろうな?」
「は、はい、それはもう」
権田原は脇に置いた黒川のバッグからあたふたとA4サイズの茶封筒を取り出してテーブルの上に差し出す。――封を開けてざっと目を通した草間は思わず目を見開いた。
肌の白さ。髪の色。鼻や口の造作。零が連れて帰ってきたあの少女にそっくりではないか。
「何か?」
草間の表情に気付いたのであろう、権田原が怪訝そうに尋ねる。草間は「いや」と短く返事をして封筒の口を閉じ、立ち上がった。
「引き受けよう。ただし条件がある」
「条件?」
「芹沢センセイの自宅の住所と電話番号を書いていけ。調査報告は直接芹沢センセイに行う。でなければこの仕事は受けない」
「……承知いたしました」
権田原は苦渋の表情で肯いた。
「何ですって」
草間から話を聞いた零は怒りに声を震わせた。零の傍らに敷かれた布団には綺麗に体を拭かれ、零のパジャマを着せられた少女が弱々しい寝息を立てて眠っている。
「そんな人の所に帰すわけにはいきません。兄さん、まさか引き受けたんじゃないでしょうね」
「引き受けたさ。が、ただで帰そうとは思っていない」
草間は首の後ろをがりがりとかきむしった。「なぜこの子を選んだのか、芹沢センセイの身辺や人となりはどうなのか……その辺りを調べてから帰すかどうか決めようと思う。あの権田原って奴の話じゃ、金持ちの善人を相手にしたオークションらしいからな。おまえが思うほどひどい環境に置かれるわけじゃないかも知れない」
「だからって……人間をオークションにかけるだなんて」
零は色を失った顔で少女に目を落とす。丁寧に清拭された少女の肌は真っ白で、きれいに梳かれた柔らかな栗色の髪はまるでフランス人形のようである。目は頑なに閉じられているが、すっと通った鼻筋といい、ピンク色の染料を垂らした蝋のように透き通った唇といい、美少女であることがうかがえた。
「調べてからでも遅くない」
草間は零の肩をぽんぽんと叩いた。「調べた事実を告げて、この先どうするかこの子に選ばせればいい。だろう?」
零は唇を噛み締め、少し間を置いてから肯いた。
アフターケアがいくらよかろうと、商品という言い方や扱いは人権無視もいいところである。中の鳥島での零の扱いを思い出すと余計にいたたまれなくなり、シュライン・エマは内心で唇を噛み締める。もっとも、それを顔に出すシュラインではないが。そんな彼女の心中に気付いたのであろう、草間がシュラインの肩を二、三度叩く。
「まあ、いいんじゃないのか」
対照的にドライなのは黒一色の着衣に身を包んだ黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)であった。白い顔にかかる長い黒髪を物憂げにかき上げ、閉じた目を軽く開いて権田原の置いていった資料に目を落としている。「例え本当にペットじみた扱いだとしても、まともな生活ができるんだろう」
実の親から虐待を受けて死んでしまう子もいるし、貧困のために犬以下の生活を強いられる子供もいる、金のためにわが子を売る親だっている。それでもシュラインは首を横に振り、「一番大切なのは彼女の気持ちよ」と言い切った。
「私だって問題がないとは思っていないさ」
冥月は東洋系の切れ長の瞳をちらりとシュラインに向ける。「それよりも、問題なのは子供の入手経路のほう――」
「入手経路なんて言い方はやめて」
冥月の言葉を半ば遮るように声をかぶせ、シュラインはかすかに柳眉を寄せた。冥月は「悪かった」と肩をすくめて言葉を継ぐ。
「孤児や浮浪児ならともかく、こういう話には誘拐や身売りも多い。子供を被写体にしたいかがわしいムービーがあることくらいは知っているな? 裏の世界ではその為に買う奴も売られる子供も溢れ返っている。そして買う側の大半は地位も立場も金もある退廃的な奴らだ。世界中の有名どころを挙げたら――知っているが言わんぞ――芹沢なんぞ小粒も小粒だ。それに、買った子供を殺さずとも奴隷にする奴や、仕方なく自ら奴隷に身を堕とす人間も多い」
そんなのに比べれば天国だと、冥月はそう言って言葉を結んだ。
「でも、やっぱり、かわいそうだと思います」
ややのんびりとした少女の声が二人の会話を遮る。「何が?」と同時に聞き返した二人ににっこりと微笑んでみせたのは樋口・真帆であった。
「彼女が、です」
真帆は緩やかに小首をかしげ、ココア色の髪の毛をふわりと揺らしてもう一度微笑んだ。「だって、あんなにぼろぼろになって逃げ出してきたくらいですもの。幸せな生活ができていたとは限らないと思いますよ」
「そうね」
ややテンポの遅れた指摘にシュラインは苦笑しつつも肯く。「彼女、早く目を覚ましてくれればいいんだけど。彼女の気持ちを聞かないことには・・・・・・」
そしてシュラインは冥月から手渡された少女の資料に目を落とした。
――少女の名は塚本・琴美(つかもと・ことみ)、十三歳。実の両親は三年前に死亡。その後、例のオークションを主催する“ウェルフェア・カンパニー”が経営する孤児施設“ウェルフェア・ハートネス園”に預けられ、オークションに“出品”された。そして十日前に開催されたクリスマスオークションで芹沢龍之介に“落札”されて芹沢の別邸に引き取られるも、そこを逃げ出して零に助けられたということのようである。
「未成年者を養子にするときは、配偶者と共にすることが必要じゃなかったかしら」
民法の規定を思い出しながらシュラインは顎に指を当てて考え込む。「ということは、結婚していないと養親にはなれないということよね。家庭裁判所の許可もいるはず。それから、養子になる子が十五歳未満の時はその子の法定代理人の代諾が必要・・・・・・未成年者の法定代理人っていったら普通は親権者だけど、彼女の親はもう亡くなっているわけよね。ということは未成年後見人がついていないといけないはずだわ。未成年後見人は家裁が選任するか親が遺言で指定するかだけど、その辺りもオークション側でフォローしてくれるのかしら」
「うーん。私にはよく分かりませんけど」
真帆は次々とシュラインの口からついて出る言葉にしきりに首をかしげつつ唇に指を当てる。「その辺りのことは関係者に聞いてみればいいんじゃないでしょうか?」
「そうだな。そのために来てもらっている」
冥月がちらりと応接ソファに目を向ける。ソファにちょこんと腰掛けた権田原は大きな体を一生懸命小さくしながら三人の視線を受けた。
「わが社はオークションの“商品”になりうる子供を探すための独自のネットワークとコネを持っておりまして、ハイ。親を亡くした子供ですとか、虐待されて施設に保護された子供ですとか、そういう情報はふんだんにございます。ですがなにぶんこういった業種ですから、その辺は詳らかに話すことはできません。どうかご容赦ください」
権田原は大きな体には不似合いな小さなハンカチで汗を拭き拭き答える。「塚本琴美の場合もそのネットワークに引っかかりましてな。ウェルフェア・ハートネス園に引き取り、充分に時間をかけて養育すれば未成年後見人として家裁に選任してもらうことも可能です。そのうえで極秘裏にオークションに出品し、落札者の家で一定以上の期間平穏に養育させてから養子縁組の申請をする。そうすれば養子縁組の許可もおりやすいというわけです、ハイ。もちろん子供本人にはオークションの存在など知らせません。オークションには子供のプロフィールと動画・静止画のみを出品します。そして落札者が新たな保護者として子供を迎えにハートネス園にやってくる。円滑な養親子関係を築くための配慮でございますよ。子供にも落札者にも福音をもたらすのがわが社のオークションでございます」
「すべて計算ずくということですか」
シュラインはかすかに唇を歪ませる。初めからオークションに“出品”するつもりで何年も前から下準備を重ねるというわけだ。だが、こんなオークションを運営していれば裁判所とて黙ってはいない。それなのに許可が下りるということは、裁判所の目すら欺けるほど入念かつ周到に手配しているということであろう。反吐が出る。
「芹沢先生って、あの有名な政治家さんですよね。確か年齢は四十歳過ぎくらいで」
眉毛をハの字に曲げて不思議そうに口を開くのは真帆である。「えーっと、未成年の子を養子にする時は結婚してなきゃいけないんですよね?」
「そうよ。芹沢さんは独身で未婚、結婚歴はないはず」
シュラインが肯いて真帆の後を引き継いだ。「養子縁組を前提として、オークション参加者の身元や経歴は詳細に調査するとおっしゃっていましたね。どうして未婚の芹沢氏に許可が下りたんですか」
「・・・・・・極秘情報なのですがねえ」
権田原は渋い顔をしたが、仕方ないと諦めているのだろう。ひとつ息をついてから口を開いた。「芹沢先生は来年結婚するご予定なのです。結婚してしばらく少女と暮らしてからならば養子縁組の許可も下りると思いまして許可を出した次第で。もちろんお相手の女性の身元も調査済みでございます、ハイ」
「芹沢がオークションに参加したのは婚約者と話し合ってのことか」
それまで黙ってやり取りに耳を傾けていた冥月が初めて口を開いた。「それとも、芹沢自身の独断か」
「さて・・・・・・そこまでは」
「芹沢の婚約者はオークションや塚本琴美の存在を知っているのか?」
「さあ。分かりませんが」
権田原は困惑したように眉間に皺を寄せる。「当社は極秘の会員制ホームページでしか宣伝を行っておりません。そのホームページを閲覧するためにも厳格な審査と手続が必要で、会員のリストもきちんと作成して保管しているのですが・・・・・・リストには芹沢先生の婚約者のお名前はありませんでした」
そこへ零がコーヒーカップを乗せたトレイを持って現れ、話は一時中断した。
「お話が終わったらすぐ来てもらえますか」
カップをテーブルに置いた後で零はトレイを口に当て、三人にだけ聞こえるように囁いた。「ついさっき、彼女が目を覚ましました」
琴美の薄い虹彩は虚ろに天井を見つめていた。権田原が帰った後で零に案内されて三人が入ってきた気配に気付いても、半ば機械的に頭を傾けただけだった。
「こんにちは」
まず口を開いたのは一番歳の近い真帆であった。にこりと微笑み、琴美が横たわった布団のそばに膝をついてゆっくりと話しかける。くりくりとしたアーモンド形の琴美の目が緩慢に真帆に向けられる。
「私は樋口真帆っていうの。お名前、教えてくれるかな?」
名前はすでに資料で確認して知っていたが、少しでも琴美の口を開かせるために真帆はあえてそう問うた。琴美は答えずに、無言で真帆から目を逸らす。しかし、その瞳が一瞬だけ真帆に釘付けになっていたことを冥月は見逃さなかった。
「何かしたのか?」
冥月はひそひそと真帆に囁く。まさか以前どこかで会ったことがあるというわけではなかろう。夢渡りという真帆の能力を使って少女と何らかのコンタクトを取ったのであろうか。しかし真帆は冥月を見上げていつものように可愛らしく微笑んでみせただけだった。
「頑張ったね」
シュラインは琴美のそばに膝をつき、たった一言、そう言った。白い手が琴美の柔らかな髪の毛をそっと撫でる。琴美は何も言わなかった。ただびくっと体を震わせ、かすかに唇をわななかせただけだった。
「何か食べたい物はある? 何でも言ってちょうだい」
琴美は首を横に振る。「じゃあ」とシュラインは気を取り直して続けた。
「どこか行きたい所は? どこでも連れて行ってあげる、体が治ったらね」
「どこでも?」
琴美は初めて反応を見せた。薄茶色の瞳が順々に三人を見る。「本当にどこでもいいんですか?」
フランス人形のような大きな瞳に音もなく涙が盛り上がり、やがて堰を切って静かに溢れ出した。
「あたし」
と、琴美は白い頬を流れる涙を拭おうともせずに言った。「お父さんとお母さん……おじいちゃんとおばあちゃんでもいい。家族の所に行きたい」
真帆の指が無言で琴美の頬に伸び、そっと涙を拭う。それが合図だったかのように琴美は一気に声を上げて泣き出した。体を丸め、薄い布団にしがみついて、幼子のようにただただ泣きじゃくり続けた。
「つらかったのね」
琴美の肩をさすりながらシュラインが呟く。冥月は腕を組んで目を閉じ、壁に背をもたせかけてその様子を見守っていた。自分の出る幕ではないと感じているらしかった。
「何か怖いことがあったの?」
シュラインは琴美の様子を見ながら慎重に尋ねる。しかし、琴美は首を横に振った。
「あたしは、“商品”なんです」
琴美は嗚咽の合間に途切れ途切れにそう言った。「芹沢のおじさんはとっても優しくしてくれました。あたし、おじさんが大好きでした。でも、おじさんが電話してるのを聞いちゃったんです。おじさんはあたしを“買った”んだって。誰かにあげるためにあたしを“買った”んだって」
ちょうど誰かにプレゼントでも買うかのように。たどたどしくそう口にした琴美にシュラインは顔を歪ませる。
「芹沢のおじさんはハートネス園にあたしを迎えに来てくれたんです。園の先生たちが“あなたの新しい家族だよ”って言って送り出してくれたのに、芹沢のおじさんはあたしを家族にする気なんかなかったんです」
権田原の話では、オークションに“出品”される子供にはオークションの存在は知らされていないという。落札者と子供が円滑な親子関係を築けるようにするためだと。しかし何かの拍子に自分がオークションで落札された“商品”だと知ったらどうだろう。施設に引き取られたわけありの子供と子供のいない大人、両方に幸せをもたらすオークションであると権田原は言っていたが、果たして本当にそうであろうか。
「それでショックを受けて家出してきたのか?」
冥月が目を閉じたままそう尋ねると、琴美は鼻をすすり上げながら肯いた。
「ありがとう。よく話してくれたね」
シュラインは心から琴美に礼を述べ、乱れた琴美の髪を丁寧に指ですいてやる。「ゆっくり休んで。食欲が戻ったら腕によりをかけてごちそうを作るわ。リクエストがあったら考えておいてね」
琴美は布団を抱き締めたまま何度も何度も肯いた。
「ひどい扱いを受けていたわけではないのだな」
琴美がいる部屋のドアを後ろ手に閉めて冥月が呟く。シュラインも「意外ね」と小さく言って肯いた。真帆は琴美のそばに残っている。調査よりも精神的フォローに回るつもりなのであろう。
「思ったほど劣悪な環境というわけではなさそうだ。商品として売買されたことを除けばな」
日はずいぶん高く昇った。興信所の古びた床に落ちる冥月の影はだいぶ短いものになっている。
「つまり、あの子の判断材料になる事を探せと・・・・・・そういうことだろう?」
冥月は斜めにシュラインを見やる。「商品として平穏に暮らすことが完全に不幸とも限らないからな」
「そうね。逆を言えば、商品として大事に扱われることが幸せとも限らない」
時には厳しくも、きちんとした一人の人間として内面や個性を見て接してあげていてほしい。琴美の話を聞くまでシュラインは心からそう願っていたのだが、どうもそうではなかったようだ。物質的な面での幸福は別として、である。
「琴美ちゃん、“誰かにあげるためにあたしを買った”って言ってたわね。芹沢氏は自分の養子にするために琴美ちゃんを引き取ったんじゃないのかしら。それに・・・・・・あの短い話じゃ分からないけれど、琴美ちゃんは芹沢氏の婚約者のことには触れなかった。二人で養子にするつもりなら二人一緒に琴美ちゃんに接していてもよさそうなものなのに。テレビや新聞でも芹沢氏が婚約したなんて聞いたことがないわ。あれだけの有名人ならちょっとは話題になるはずよ」
「道理だな。勘だが、芹沢の婚約者は――もし本当に婚約者がいるのであればの話だが――恐らく塚本琴美のことを知らない。芹沢が独断でやったことだと思う」
冥月の足が床に伸びた己の影に音もなく沈んでいく。「芹沢が何のために少女を落札したのか・・・・・・しばらく芹沢を監視していよう。少女を気遣う言動などがあればよいが」
「そうね。私は琴美ちゃんの実親と芹沢氏の実親や養親について調べてみる。芹沢氏の婚約者のことなんかも少し・・・・・・とりあえず夜にまたここで合流しましょう」
シュラインも肯いてそう言い、ヒールをかつんと打ち鳴らして踵を返した。
シュラインがまず電話をかけたのは、琴美が芹沢に“落札”されるまで暮らしていたというウェルフェア・ハートネス園であった。
「琴美ちゃんの実のご両親はすでに死亡しておりますよ」
電話に出た園長は物腰柔らかな女性であった。「琴美ちゃんは明るくて優しい子です。みんなの前では涙ひとつ見せずに。でも、一人でいる時はご両親を懐かしんですすり泣いていることもありました。しっかりした子ですけれど、まだ少女ですものね」
「ご両親は間違いなく亡くなっているのですね?」
とシュラインは念を押す。しかし園長はすらすらと答えた。
「ええ、残念なことですが。死亡届も確認しております。何でしたらそちら様でお調べいただいても・・・・・・」
シュラインは「そうですか」とだけ相槌を打った。嘘を言っているようには思えない。
「ご両親は大変なご苦労をなさったようです」
園長は一拍置いてから再び口を開いた。「ひどい貧困に喘ぎ、生活保護を受けようにもお若い身では稼働年齢にあるとされて認定が下りず・・・・・・先に亡くなったのはお母様だったそうです。琴美ちゃんを学校に行かせるためにお母様は病院にも通えず、琴美ちゃんを気にかけながらご自宅のお布団で亡くなったと聞いております。その後お父様も気が抜けたようにあっさりと逝去して」
「誰も援助してくれなかったのですか?」
シュラインは怪訝に思って尋ねた。父母双方の親や親類などに助けを求めはしなかったのだろうか。大人として親類を頼るような真似はできないといえばそれまでだが、子供の生活もかかっているとなれば話は別であろう。
「お父様は身寄りのない方でございました。お母様もお若い頃にご両親と縁をお切りになったとか。頼る人もいなかったのでございましょう」
電話の向こうで園長が目頭を押さえる気配が感じられ、シュラインは短く礼を言って電話を切った。
次に手をつけたのは芹沢龍之介の身辺と家族に関して。芹沢の最終学歴を確認し、大学や入学・卒業年度を割り出す。それを元に芹沢と親しそうな同級生を割り出し、聞き込みへ。もちろん塚本琴美の写真を携帯することも忘れない。
「龍之介・・・・・・いや、先生と申し上げるべきですね。何ですかな、先生に関して聞きたいこととは」
コンタクトを取れたのは芹沢の同級生で、芹沢の事務所で後援会長を務める相馬という男性だった。政治家の事務所となればさすがに広く、清潔だ。どこかの興信所とは大違いだとシュラインは内心で溜息をつきつつ、通された応接室で出された湯飲みに口をつける。
「芹沢氏は芹沢慎之介さんの養子だそうですね。どういう経緯で養子に?」
「先生の両親は先生が中学生の頃に亡くなっておられます。その後施設に入り・・・・・・ナントカハートネスとかいう児童福祉施設だったと思いますが」
「ハートネス?」
シュラインは眉を寄せて聞き返した。「もしかして、ウェルフェア・ハートネス園ですか?」
「ああ、そうそう、ウェルフェア・ハートネス園です。そこに入って大学入学後にバイトを始めたのが慎之介先生の事務所で、それがご縁で養子縁組をなさったと聞いておりますが」
「なるほど」
シュラインは事務所の壁に貼られた芹沢龍之介のポスターに目をやった。斜め下のアングルから、前方をまっすぐに見詰める芹沢の顔を捉えた構図である。丁寧に整えられた黒い髪、切れ長の理知的な目元。銀縁の華奢な眼鏡とやや角ばった顔の骨格もクールさを演出するのに一役買っていると言ってよい。なかなかの男前である。若い頃はさぞかし美少年だったであろう。そんな少年がウェルフェア・ハートネス園にいた。偶然であろうか。
「芹沢氏の実親のお子さんは芹沢氏だけですか? 芹沢氏にご兄弟などは・・・・・・」
「先生は一人っ子と伺っております。お身内の少ないかたでしてね。先生の実親も互いに一人っ子だったそうですから、いとこなどもいらっしゃらないようですよ」
「芹沢慎之介さんご夫妻には実のお子さんはいらっしゃらなかったんでしょうか」
「さて、昔はいらしたようですが」
相馬は軽く腕組みをして考え込むそぶりを見せた。「確か、娘さんが一人いらしたと・・・・・・今はどこで何をしているのかは分かりません。少なくとも、先生が養子になった頃には一緒に暮らしてはいなかったようですが」
「さようですか。それでは――」
シュラインはハンドバッグから琴美の写真を取り出してテーブルの上に置いた。「この子に見覚えはございますか?」
「はあ」
相馬は首をかしげて写真を手に取った。「申し訳ありませんが、存じ上げません。この子が何か?」
「芹沢氏の昔の恋人の子です」
シュラインはカマをかけた。その後で「もちろん、父親は芹沢氏ではありませんが」と言い添える。
「さようでございますか」
相馬は怪訝そうに相槌を打ってまた首をかしげる。「先生の昔の恋人でしたら私も知っておりますが、この子には見覚えはありませんなあ。特に先生の恋人に似ているとも見えませんし・・・・・・なぜこの写真を私に?」
シュラインは「いえ、別に」とだけ言って写真をバッグにおさめた。芹沢が琴美を引き取ったのは昔の恋人もしくはその子供に似ているからだとか、あるいは養父母の実子に似ているせいではないかと考えていたのだが、前者の可能性は消えたようだ。
「ああ、そうそう」
礼を言ってソファを立ち上がりかけたシュラインはさも今思い出したかのように相馬に尋ねた。「芹沢氏には婚約者がいらっしゃるそうですね。ニュースなどではさっぱり話題になっていませんが」
「婚約者ですか? いえ、先生には――」
と言いかけた相馬の目が一瞬だけ揺れる。シュラインは整った眉を中央に寄せた。
「あ、ああ、そうなんですよ。よくご存知で。来年にも籍を入れるご予定です」
相馬は慌てて取り繕うかのように笑みを浮かべた。「相手はうちの事務所に務めている女性です。マスコミにはどうかご内密に」
「その女性にお会いできませんか?」
「申し訳ありませんが、ただいま席を外しておりまして」
相馬はそう言って軽く頭を下げた。シュラインは「そうですか」と言い、礼を述べて事務所を後にした。本人に会えなくとも、今の相馬のリアクションだけで充分だと考えたからだった。相馬の反応は明らかに不自然である。あれではまるで誰かに「婚約したことにしておいてくれ」と言い含められているかのようだ。
それでは、何のために婚約を擬装する必要があるのか。もしやオークションで琴美を“落札”するためではなかろうか――。
オークションの宣伝は極秘のホームページでしか行っていないという。芹沢はなぜそのホームページを探したのだろう。結婚していなければ未成年者を養子にすることはできない。独身の芹沢が養子を持とうなどと考えるだろうか。そして芹沢がかつてウェルフェア・ハートネス園にいたという事実は何を示すのだろう。新たな事実が新たな疑問を生み、シュラインはひとつ息をついて次の目的地へと向かった。
最後に訪れたのは、芹沢の養父母と旧知の仲だという川村ヨシエという女性の自宅であった。
「美智子さんと慎之介さんにはしばらくお会いしていませんが」
眼鏡をかけた川村ヨシエはシュラインに紅茶を出しながら静かにそう言った。美智子というのは芹沢の養母の名である。
「龍之介さんはずいぶん立派になられましたわねえ。次は党の幹事長、いずれは総理にという噂もあるんでしょう?」
「そうらしいですね」
「本当に親孝行な息子さんだと伺っております」
本当によかったと、ヨシエはそう言って目を細める。「美智子さんも娘さんとああいうことがありましたからねえ」
「ああいうこと、とは?」
間髪入れずに尋ねたシュラインにヨシエは「あら、まずかったかしら」と口に手を当てる。
「美智子さんには美雪さんという娘さんがいらしたんですのよ」
しかし、やがて気を取り直したかのように語り始める。「美雪さんがお若い頃に喧嘩をして家を出られたと聞いております」
「喧嘩、ですか」
「ええ。美雪さんがある男性と結婚したいと言ったのですが、芸術家を目指していた彼は定職もなくアルバイトで食いつないでおり、美智子さんご夫妻からすればとても娘を任せられるような人物には見えなかったとか・・・・・・それに美雪さんは頭のいいかたで、一流大学を出て官公庁に勤めていらっしゃいました。その職を捨てて無職同然の男性と一緒になることなんて、親としては許せなかったのでしょうね。そしてしまいには大喧嘩して美雪さんは駆け落ち同然に家を飛び出し、激怒した美智子さん夫妻も美雪さんと縁を切ったそうです」
「そうでしたか」
シュラインは呟くように相槌を打った。「美智子さんと慎之介さんはそのことを後悔していなかったんでしょうか」
「たいそう悔やんでいたようですよ。娘を追い出してしまったようなものだと涙ぐんでおられました。その罪を償うように龍之介さんを引き取り、育てたそうです」
「さようですか。この写真の子に見覚えは?」
シュラインは琴美の写真を取り出してヨシエに示す。ヨシエは老眼鏡をずらしながらしげしげと写真を見ていたが、「あら」と不意に懐かしそうに声を上げた。
「この子、どなたですの? 美雪さんにそっくり」
「そうですか」
淡々と相槌を打つシュラインの言葉の裏にはわずかなたかぶりが感じられる。琴美が養父母の実子に似ていたから引き取ったのではないか。その仮説が真実だと証明されたかも知れない。
「美雪さんは本当にお気の毒で」
ヨシエはシュラインに写真を返しながら溜息をついた。「美智子さんから聞いたんですけど、美雪さんは――」
そう前置きした後でヨシエが語った事実に、シュラインの青い瞳が大きく見開かれた。
日がとっぷりと暮れた頃。シュラインが興信所に戻った時には冥月も戻って来ていた。琴美は眠ってしまったという。代わりに琴美とずっとおしゃべりしていたという真帆が応対した。
「どうでしたか? 芹沢さんは信用できそうな人でした?」
真帆は二人の顔を見るなり真っ先にそう問う。冥月は肯定も否定もせずにちょっと肩をすくめてみせた。
「ま、無難な部類だろう。悪くない代わりに強調するほど良くもない」
「琴美ちゃん、芹沢さんのことが大好きだって言ってました。大好きだからこそ“商品”として買われたことがショックだったって・・・・・・芹沢さんは琴美ちゃんを気にかけていましたか?」
「ああ、気にかけていたさ。大事なクリスマスプレゼントがなくなってしまったとな。どうやら養父母にプレゼントする気らしい。明日はイブだし、どうやらイブに合わせてプレゼントしたかったらしいぞ。それに、後援会に妙な電話をかけていた。“そっちに興信所の人間が行くかも知れない、私の婚約については以前から頼んでおいた通りに話してくれ”などと」
「琴美ちゃんは芹沢氏の養父母の実の娘にそっくりだそうよ」
シュラインはそう言って調査の結果を要約して二人に話して聞かせた。シュラインの報告を聞いた後で真帆が思い出したように口を開く。
「あ・・・・・・そういえば琴美ちゃん、芹沢さんの婚約者なんか知らないって言ってました。会ったこともないって」
「決まりね」
真帆の話と冥月の報告を考え合わせてシュラインは小さく息をついた。「芹沢氏の婚約は擬装。恐らく、琴美ちゃんを引き取るためのね。いったん引き取ってしまえば養父母に面倒を見させて縁組の申請をすることだってできるし」
「解せないな。なぜそこまでする」
冥月はやや怪訝そうに眉を寄せる。「あの少女が養父母の実の娘に似ているからか? それに芹沢がこんなことを言っていたが、あるいは・・・・・・」
と冥月が口にした可能性はシュラインが考えていたものとほぼ同じであった。
「うん、きっとそうです。それがいい」
まだあどけなさの残る真帆の顔にぱっと笑みが広がる。「とりあえずごはんを食べて・・・・・・調査結果を話すのはその後でいいですよね。私、琴美ちゃんを呼んで来ます」
そして軽やかにスカートの裾を翻して踵を返したが、二、三歩行った所でシュラインを振り返った。
「シュラインさん、冥月さん。琴美ちゃん、オムライスとハンバーグが食べたいって言ってました。みんなで作ろうって話してたんです。手伝ってもらえませんか?」
「もちろん」
シュラインはにっこりと微笑んだ。
その晩、草間興信所では琴美を囲んで夕食会が催された。オムライスにハンバーグにオニオンスープ、ポテトサラダ、プリンアラモード・・・・・・。四人で作った心尽くしのごちそうが所狭しとテーブルに並ぶ。栄養バランスやカロリーといった問題は二の次にして、今日だけは琴美に食べたい物を食べたいだけ食べてほしい。そんなささやかな願いが込められた食卓であった。
「おいしそう」
食卓に着いた琴美は無邪気な声を上げ、大粒の瞳に涙をにじませる。「お母さんがよく作ってくれたっけ」
「琴美ちゃん、あたたかいうちに食べて」
シュラインは琴美が涙をこぼす前に食事をすすめた。琴美は「うん」と肯いてスプーンを取り、お行儀よく「いただきます」と言ってオムライスに手をつけた。半熟の卵を崩し、よく炒められたチキンライスと一緒にデミグラスソースに浸す。口に運んだ瞬間、琴美の顔にぱっと喜色が満ちた。
「おいしい。すごくおいしい」
「そう。よかった」
シュラインは心からそう言って席に着いた。真帆もスープを一口飲んで幼い歓声を上げる。冥月だけはやや持て余し気味にスプーンを握って無言で口に運んでいた。彼女はこういう席にはあまり縁がないのかも知れない。料理を作る間も無言でジャガイモをつぶしていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。最初は硬かった琴美の口と表情も徐々にほぐれ、問わず語りに自分のことを断片的に話して聞かせるようになった。話の内容はやはり家族のことが大きな比重を占めており、「お父さんとお母さんはもう死んだからしょうがないけど、お母さんにはおじいちゃんやおばあちゃんがいるはず。一度でいいから会いたい」と言って涙をにじませるのだった。
「ねえ、琴美ちゃん」
後片付けが済み、真帆の淹れた紅茶を飲みながらシュラインは口を開いた。「私たちね、芹沢のおじさんのことについて色々調べてきたの」
その言葉に琴美の目と体がわずかに緊張する。再び口を開きかけたシュラインを冥月が「待て」と制した。その後で真帆に目配せする。三人の中で一番琴美と仲がいいのは恐らく真帆であろう。真帆も心得ていたのか、琴美の隣に座って優しく両手を取った。
「琴美ちゃん。よく聞いてね」
そして可愛らしく小首をかしげ、そっと語り始める。「芹沢のおじさんはね、やっぱり琴美ちゃんを誰かにプレゼントするつもりだったの」
琴美の目に悲しみと驚愕が満ちる。「でも」と真帆は琴美の手を握る手にぎゅっと力を込めた。琴美は唇を震わせて真帆の夕焼け色の瞳を見つめる。
「でも」
と真帆はもう一度言った。「それはね、琴美ちゃんのことを“商品”として扱ってるからじゃないんだよ。ほんとはね――」
一通りの報告が終わると琴美は風呂に入り、真帆に付き添われて部屋に戻った。
「どうするんだろうな」
冥月は古びた壁に背をもたせかけ、いつものように目を閉じて呟く。「芹沢の所に戻るんだろうか」
「どっちが幸せなのかしらね。結末はどうあれ、彼女がオークションで“落札”されたことには変わりないわけだし」
シュラインはやや複雑な色を浮かべている。冥月は後頭部を壁につけ、やや顎を上向かせる姿勢をとった。
「終わりよければすべてよしとも言う。最後に幸せになれればそれでいい。そういう考え方もありなんじゃないか」
そこへ真帆が戻って来た。琴美におやすみを言い、一人にしてきたのだという。
「どうだった? 琴美ちゃん」
「ゆっくり考えてみるって言ってました。後は琴美ちゃんが自分で答えを出すと思うから。大丈夫ですよ」
真帆は二人に温かい紅茶を淹れて差し出した。「それに、アドバイスもしましたし」
「アドバイス?」
「もし養子になることを選ぶなら、琴美ちゃんの作ったごはんを養親に食べてもらうといいよって」
真帆は人差し指を立てて口許にぷくりとえくぼを浮かばせた。「仲のいい家族への第一歩は、一緒にいただきますって言うことなんですよ」
シュラインと冥月は互いに顔を見合わせ、そしてどちらからともなく微笑んだ。
翌24日。琴美は自ら起き出して興信所の面々の前に姿を見せた。冥月と真帆も朝から興信所に姿を見せている。
「あら、おはよう。早いわね」
きちんと着替えを済ませ、身づくろいもした琴美の姿にシュラインは目を丸くする。琴美はワンピースの裾をぎゅっと掴み、唇を噛んでうつむいていたが、やがて顔を上げて言った。
「あたし」
琴美はまっすぐに目を上げ、順々に三人を見詰めた。そしてはっきりと言った。
「芹沢のおじさんの所に行きます。連れて行ってください」
シュラインは冥月と顔を見合わせた。「それでいいのか」と問うたのは冥月であった。しかし琴美はしっかりと肯き、「ちゃんと考えて決めたんです」と言った。
「そう。じゃあ一緒に行こう。その前に」
真帆がぴょこんと椅子から降りて琴美の手を取った。「髪の毛、結んであげる。可愛くしていかなきゃね」
「うん」
琴美はにっこりと笑って真帆に手を引かれ、鏡のある洗面所へと向かった。
草間が芹沢に連絡を入れ、琴美は芹沢の自宅、すなわち芹沢慎之介・美智子夫妻の前で芹沢と対面することになった。真帆の手によって髪の毛をツインテールに結い上げられた琴美は芹沢の自宅へ向かう間も終始緊張し通しで、口数が少なかった。真帆は隣にいてずっと琴美の手を握っていた。もちろんシュラインと冥月も同行している。
芹沢邸は郊外の某高級住宅地に建っていた。さすがは元総理大臣の家、三百坪はあろうか。昔ながらの木の門を開け、敷石を踏んで草木の植えられた庭を歩いて玄関にたどり着くと内側からドアが開いた。姿を見せたのは芹沢龍之介であった。
「よかった」
芹沢は琴美の姿を見てそう言った。「戻って来てくれてよかった。本当によかった」
そして芹沢はスーツが汚れるのも構わずにその場に膝をつき、琴美を抱き締めた。琴美はただ無言で肯いた。唇を噛み締めたその顔は、気を抜けば溢れそうになる涙を必死に抑えているかのように見えた。
「さあ、こっちだよ。琴美ちゃんに会わせたい人がいる。皆さん方もどうか一緒においでください」
芹沢は琴美の手を引き、三人に軽く頭を下げてついてくるように促した。
案内されたのは縁側つきの窓際の大きな部屋だった。龍之介は琴美をその場にとどめ置き、中に一言声をかけてから襖を開く。和服に身を包んで畳に正座しているのは芹沢慎之介であろう。脚が悪いという芹沢美智子は縁側の陽だまりに出した座椅子に深く腰掛けていた。
「何事だ、龍之介」
先に部屋に入って来た龍之介とシュラインたちを見て慎之介は訝しげに問う。「私たちに会わせたい人がいるとか言っていたが、その人たちのことか?」
「いいや。さあ、母さんもこっちに来て」
龍之介は美智子に手を貸して立たせ、座椅子を慎之介の隣まで運んで座らせた。そして襖の向こうの琴美に声をかける。「こっちにおいで、琴美ちゃん」
琴美は襖の影から不安そうに三人を見上げた。シュラインが「大丈夫」と囁いて微笑む。冥月も無言で肯いた。真帆はにっこり笑って琴美の手を取り、そして優しく促すように琴美の手をそっと引いた。
琴美は三人に送り出されて慎之介と美智子の前に立った。
芹沢夫妻の目が大きく見開かれる。
「美雪・・・・・・?」
先に口を開いたのは美智子だった。座椅子から腰を浮かせ、琴美に歩み寄ろうとする。龍之介がそれを支え、手を引いた。
琴身はワンピースの裾を握ってうつむいていた。そして顔を上げた。
「初めまして」
そして、震える声で言った。「あたし、琴美っていいます。おじいちゃん、おばあちゃん」
「まさか――」
慎之介が腰を浮かす。「美雪の子か?」
慎之介がそう言うと同時に美智子はその場に泣き崩れた。
「さあ」
龍之介は養母の手を引き、養父を促して、もう一方の手で琴美の手を引く。龍之介によって引き合わされた三人の手が互いにそっと触れ、そしてしっかりと握り合わされた。
「ことみ。琴美っていうのね」
美智子は琴美の小さな体をかき抱いてむせび泣いた。「可愛いわ。美雪にそっくり。本当にそっくり」
「済まない。本当に済まない。美雪にも君にもつらい思いをさせたね・・・・・・」
慎之介も着物の裾が乱れるのを厭わずに膝をついて琴美の手を握る。琴美は口を真一文字に結んだままふるふると首を横に振った。が、次の瞬間には固く結んだ唇が歪んでいた。
「おじいちゃん。おばあちゃん」
そして、琴美は声を上げて泣き出した。決して離すまいと二人に縋りついた小さな手がかすかに震えている。皺の寄った祖父母の手が琴美の頭を幾度も幾度もいとおしそうに往復する。龍之介はそっと三人のそばを離れ、シュラインたちを促して廊下に出た。
「慎之介さんご夫妻の娘さんは貧困の末に亡くなっているそうですね。そして美智子さんはそれを悔やんでいた。どうして助けを求めて来なかったのかと・・・・・・」
広い廊下を歩きながらシュラインは龍之介の背中に語りかける。「美雪さんは、縁を切った親に助けを求めても応じてくれないだろうと考えて最初から諦めていたのかも知れませんね」
「ええ。母も同じことを言っておりました」
龍之介は軽く背中を揺すり、年下のシュラインに丁寧な言葉遣いで応じる。「たいそう悔やんでおりました。なぜ縁を切るなどと言ってしまったのかと。自分が娘を殺したようなものだと・・・・・・」
「最初からあの子が養父母の孫だと知ってオークションに参加したのだな? オークションに参加したのを秘密にしたかったのは、おまえのためというより少女と養父母のためだろう。少女と養父母の将来と経歴に傷がつかないように」
「やれやれ。全部お見通しというわけですか」
龍之介は足を止め、三人を振り返って苦笑する。「オークションだなんて問題があるとは思いましたがね。琴美ちゃんを見つけた以上、どうしても父母に会わせたかった。だから後援事務所の人間に頼んで婚約を擬装してまで・・・・・・いろんな人に迷惑をかけてしまいました」
「芹沢さん、かっこいいですね。顔が」
唐突に真帆が微笑とともに言う。「そうですか」と芹沢は苦笑して答えた。「うん」と肯いて真帆は続けた。
「若い頃はイケメンさんだったんじゃないですか? それに養子だなんて、もしかして琴美ちゃんと同じ境遇なんですかね。あのオークションに“出品”されてたりして」
――けろっとした真帆の口ぶりに、芹沢の口許から一瞬だけ笑みが消えた。
「あのオークションは極秘のホームページでしか宣伝していないと権田原さんが言っていました」
シュラインの青い瞳がじっと眼鏡の奥の芹沢の目を見つめる。「少し不思議に思っていたんです。どうして結婚歴のないかたが・・・・・・養子を持とうなどと考えそうもないかたが極秘ホームページに行き着くことができたのか。最初からオークションの存在を知っていたからではないのですか? そしてあの極秘のオークションを知っていたのは、自身もかつてそれを経験したから・・・・・・でしょう?」
「どうかそれはご内密に」
芹沢はシュラインの問いに答える代わりに深々と頭を下げた。「養子を非人道的なオークションで手に入れたと知れれば父と母の名に傷がつきます」
「自分よりも養父母の面子を気にするのか。気に入ったよ」
冥月はわずかに口の端を持ち上げた。「それに、気に病むことはない。非人道的なオークションに出品されるような不幸な子供を引き取って育てる。それが縁を切った娘に対する養父母なりの罪滅ぼし。そうだろう?」
「ご想像にお任せいたします」
芹沢はそっと微笑んで冥月への答えとした。
廊下の奥からはむせび泣く夫妻の声と、琴美の嗚咽が聞こえてくる。
「幸せになってね。今までの分を取り返すくらい」
シュラインは廊下の奥を見つめて呟いた。「メリークリスマス」
口の中でそう呟いた後にそっと添えられた微笑。それは琴美に向けられたものか、それとも慎之介夫妻に対してのものだったのだろうか。 (了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
2778/黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)/女性/20歳/元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒
6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生/見習い魔女
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマさま
お世話になっております&ご無沙汰しております、宮本ぽちです。
今回も発注してくださり、まことにありがとうございます。
詳細な手がかり集めに加えて、琴美を気遣うプレイングに感謝しております。
そのお気持ちがとても嬉しかったので、琴美に優しさを見せたり一緒に料理を作ったりと・・・・・・一部独断で書いてしまった部分もありますが(汗)、エマさまのキャラクターに沿って書けたでしょうか。
いつか機会がありましたら、またお力をお貸しくださいませ。
今回のご注文、重ねてありがとうございました。
宮本ぽち 拝
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