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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


最高のプレゼント





 買い物から帰って来た零を見て草間は軽く目を見開き、その後で大きくひとつ溜息をついた。
 「路地裏に倒れていました」
 零は簡潔に事実だけを述べ、お姫様だっこの形で抱えた少女をさっさと奥の部屋に運んでいく。さらに「体を拭きますから兄さんは入ってこないでください」ときつく言い添えることも忘れない。言われなくたって誰が見たがるかと内心で毒づきつつ草間はタバコに火をつける。
 それでも、零が大して広くない事務所の玄関から奥へと運んでいく間に草間の探偵の目は彼女の腕の中の少女を素早く観察していた。ずいぶん汚れた少女だった。ブラウン系の髪は埃や泥にまみれ、身に着けているワンピースらしき服もあちこち破れて手足に傷がついている。しかし生傷や砂埃の付着した肌は息を呑むほど白く、ぼろぼろの着衣も決して安物ではない。歳の頃は中学生程度だろうか。おおかた何かわけありなのだろう。厄介なことに巻き込まれなければいいが。そんなことを考えながら草間は事務机に腰掛け、溜息とともに細く紫煙を吐き出す。
 だが、草間の探偵の勘というのはこういう時だけ当たるもので――少女を連れた零が帰って来て一時間と経たないうちに玄関のブザーが濁った音を立てて来客を告げたのである。



 「少女を探してほしいのです。一週間前から姿が見えなくなったそうで」
 でっぷりとした体をぴっちりとしたスーツに包み、てかてかとした頭に浮く脂汗をせわしなくハンカチで拭いながら依頼人の男性は用件を切り出す。鼻の上に押し込むようにしてかけた小さな丸い眼鏡の奥の目はさらに小さく、ネズミのように落ち着きなくきょろきょろと動く。もっとも、ネズミというにはかなり大きな体格をしているが。彼の尻の下で苦しそうに軋む応接ソファが壊れやしないかと草間は不安を禁じ得ない。
 「人探しなら警察に捜索願でも出せばいい。そのほうが手っ取り早いし、確実性もある」
 草間は眼鏡の奥の目を軽く細めながら至極もっともな指摘をした。「なのにわざわざこんな所に来た。警察に言えないようなわけありのケースと考えていいのか?」
 権田原(ごんだわら)と名乗った依頼人は「はあ、まあ、別に」と曖昧な返事をしながらひっきりなしに汗を拭う。その後でひとつ溜息をつき、観念したように分厚い唇を舐めてから再び口を開いた。
 「まあ、隠してもしょうがありませんねえ。探してほしいのはオークションの落札品なのです」
 「落札品? あんた、“少女を探してほしい”って言ったばっかりだろうが」
 「はあ、まあ、それが、何と申しましょうか」
 権田原はしきりに手もみしながら身を縮める。「私どもの会社では、観賞用の少年少女のオークションを行っておりまして。えり抜きの美少年や美少女を集めたオークションです」
 「観賞用の少年少女のオークション?」
 草間はやや素っ頓狂に権田原の言葉を反復した。人間をオークションにかけるだなんて、それも観賞用だなんて。観葉植物や熱帯魚ではあるまいし。しかしそんな草間の内心など知る由もなく、権田原は汗を拭き拭き言葉を継ぐ。
 「今回探してほしいのは先日開催されたクリスマスオークションで落札されて落札主に引き取られた物件なんですが、一週間ほど前に家出をしてしまったそうでして。以来、とんと行方がつかめずに」
 「物件なんて言い方はよせ」
 少女を物として扱うような言い方に違和感と吐き気を覚えつつ草間は苦虫を噛み潰す。「それに、解せないな。なぜあんたがうちに来る必要がある。落札主本人が依頼に来るべきじゃないのか」
 「ごもっともです、はい。しかしお客様にも事情というものがございましてですね」
 権田原は眼鏡の奥の小さな目をきょろりと持ち上げて草間を見る。「そのー……何と申しますか、社会的にですね、地位のあるお方でございまして。そのような方がこのようなオークションに参加していたことが知れると非常に世間体がよろしくないとご本人からきつく申し渡されておりまして。草間興信所さんならばそういう秘密は絶対に守ってくれるはずだと、はい」
 「なるほどな。で、そいつは一体誰なんだ。有名な奴なのか」
 「いや、まあ、はあ、お名前を明らかにするわけには……」
 「ならこの話は受けないぜ。依頼に関して最大限の情報を集めるのが探偵の義務だ」
 「はあ」
 うつむいた権田原の太い手の中で汗のしみこんだハンカチが開かれ、またしわくちゃに丸められる。そのせわしないしぐさを幾度か繰り返した後で権田原はようやく顔を上げた。
 「民政党の、芹沢龍之介先生です」
 草間は「ほう」という相槌とともに眼鏡の奥の目を軽く細めた。民政党の芹沢龍之介といえば子供でも名前を知っている。若手の切れ者と名高い政治家で、民政党の次期幹事長と目されている男だ。なおおかつ、かつて総理大臣の職を務めた芹沢慎之介の養子でもある。
 「なるほどな。政治家のセンセイさまが美少女オークションなんかに参加していたことが知れたら有権者の支持が得られなくなるってわけか」
 「はあ、いや、その、誤解しないでいただきたいのです。美少女・美少年のオークションといっても決して猥褻目的ではございません。参加するのは子供を欲しながら不幸にも子供ができなかった夫婦や、配偶者に先立たれた寡婦や寡夫のかたがたです。まったくもって健全なオークションでございますよ。いわば養子を売っているわけですなぁ、ハイ。見た目や毛並みのよい子犬や子猫のみを厳選して店頭で売るのと同じことです。参加者さまの身元や経歴は厳格に調査し、商品に肉体的・精神的・性的な虐待を決して加えることのないように落札後も年に二回の定期報告を義務付け、なおかつきちんと養子縁組の届出をしたかどうかも――」
 「分かった、分かった」
 草間は面倒くさそうに片手を上げて権田原の饒舌を遮る。「その子のプロフィールや顔写真なんかは持って来てくれてるんだろうな?」
 「は、はい、それはもう」
 権田原は脇に置いた黒川のバッグからあたふたとA4サイズの茶封筒を取り出してテーブルの上に差し出す。――封を開けてざっと目を通した草間は思わず目を見開いた。
 肌の白さ。髪の色。鼻や口の造作。零が連れて帰ってきたあの少女にそっくりではないか。
 「何か?」
 草間の表情に気付いたのであろう、権田原が怪訝そうに尋ねる。草間は「いや」と短く返事をして封筒の口を閉じ、立ち上がった。
 「引き受けよう。ただし条件がある」
 「条件?」
 「芹沢センセイの自宅の住所と電話番号を書いていけ。調査報告は直接芹沢センセイに行う。でなければこの仕事は受けない」
 「……承知いたしました」
 権田原は苦渋の表情で肯いた。



 「何ですって」
 草間から話を聞いた零は怒りに声を震わせた。零の傍らに敷かれた布団には綺麗に体を拭かれ、零のパジャマを着せられた少女が弱々しい寝息を立てて眠っている。
 「そんな人の所に帰すわけにはいきません。兄さん、まさか引き受けたんじゃないでしょうね」
 「引き受けたさ。が、ただで帰そうとは思っていない」
 草間は首の後ろをがりがりとかきむしった。「なぜこの子を選んだのか、芹沢センセイの身辺や人となりはどうなのか……その辺りを調べてから帰すかどうか決めようと思う。あの権田原って奴の話じゃ、金持ちの善人を相手にしたオークションらしいからな。おまえが思うほどひどい環境に置かれるわけじゃないかも知れない」
 「だからって……人間をオークションにかけるだなんて」
 零は色を失った顔で少女に目を落とす。丁寧に清拭された少女の肌は真っ白で、きれいに梳かれた柔らかな栗色の髪はまるでフランス人形のようである。目は頑なに閉じられているが、すっと通った鼻筋といい、ピンク色の染料を垂らした蝋のように透き通った唇といい、美少女であることがうかがえた。
 「調べてからでも遅くない」
 草間は零の肩をぽんぽんと叩いた。「調べた事実を告げて、この先どうするかこの子に選ばせればいい。だろう?」
 零は唇を噛み締め、少し間を置いてから肯いた。



 楽しい記憶。
 貧しいけれど、家族三人のささやかな幸福。優しい父と母。それだけで充分であった。
 でも、それはいつまでも続かなくて。
 母は病院に行くこともできずに自宅で死に、父もすぐに後を追うように亡くなった。
 一人残された少女はあてもなく闇をさまよう。
 ――お母さん。お父さん。
 泣きべそをかきながら、どことも知れぬ闇の中をさまよう少女。愛しい家族の名をいくら呼んでも答える者はない。
 ――さあ。今日から私が君の家族だ。
 代わりに現れて少女の手を引いたのは、銀縁の眼鏡をかけた四十過ぎの男。テレビや新聞で見たことのある、ある有名な政治家。
 政治家は養子で、養父母と三人で暮らしているらしかった。少女が引き取られたのは政治家の別邸。政治家は仕事が忙しくてあまり少女のそばにはいてくれなかったが、それでも何くれとなく少女を気遣い、あたたかい食事と寝床を用意してくれた。それは少女がしばらくぶりで味わう家庭の温かさであった。
 だが、少女はドアの隙間から政治家の電話を聞いてしまった。
 ――もうすぐクリスマスだろう。素敵なプレゼントを買ったんだ。見てのお楽しみさ、別邸に隠してある。
 政治家はそこまで言って少女の気配に気付き、慌てて電話を切る。少女はその場を離れることも部屋中に入ることもできず、ただ立ち尽くしていた。
 ああ……そうか。
 少女はぼんやりとした頭で冷静に考えていた。
 あたしは買われたんだね。誰かにあげるプレゼントとして。
 あたしは、“モノ”なんだね。
 少女の足元が、まるで薄氷ででもあったかのように音を立てて亀裂を生じた。足元が、自分の世界ががらがらと音を立てて崩れる気配を感じた。少女は抗わず、逃げようともせず、ただその崩壊に身を任せた。
 底の見えない闇へ落ちていこうとした、その瞬間。
 何かが少女の腕をつかんだ。
 目を開いた少女は唖然とした。
 少女の腕をつかんで引き上げたのは、ホウキに乗って宙に浮かび、黒のトンガリ帽子にローブワンピースというまるでおとぎ話の魔法使いのようないでたちをした童顔の少女であった。
 「大丈夫だよ」
 小柄な魔女は背中まで届くココア色の髪の毛を揺らしてにっこりと微笑んだ。「きっといい夢を見られるようにしてあげる。だから泣かないで」
 言われて初めて、少女は自分が泣いていることに気付いた。



 ――樋口真帆はゆっくりと目を開いた。
 興信所の奥の部屋の布団に横たえられた少女は昏々と眠り続けている。
 (ごめんね。ちょっと夢を見せてもらっちゃった)
 真帆は少女の肩に布団をかけ直して立ち上がる。
 (大丈夫だよ)
 そして真帆はその言葉をもう一度繰り返した。(泣かなくていいようにしてあげるからね)
 少女の目尻から涙が溢れ、耳へと伝っていく。真帆は指でそっと涙を拭ってやり、事務所へと続くドアのノブを回した。
 


 「まあ、いいんじゃないのか」
 事務所に集まった面々の中で、まずドライな一言を放ったのは黒一色の着衣に身を包んだ黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)であった。白い顔にかかる長い黒髪を物憂げにかき上げ、閉じた目を軽く開いて権田原の置いていった資料に目を落としている。「例え本当にペットじみた扱いだとしても、まともな生活ができるんだろう」
 「一番大切なのは彼女の気持ちよ」
 と言い切るのは興信所古参のシュライン・エマ。黒い髪に白い肌、青い瞳という異国の風情。凛々しく整った顔立ちは綺麗とか可愛いというよりも中性的で、クールだ。冥月は東洋系の切れ長の瞳をちらりとシュラインに向ける。
 「私だって問題がないとは思っていないさ。それよりも、問題なのは子供の入手経路のほう――」
 「入手経路なんて言い方はやめて」
 冥月の言葉を半ば遮るように声をかぶせ、シュラインはかすかに柳眉を寄せた。冥月は「悪かった」と肩をすくめて言葉を継ぐ。
 「孤児や浮浪児ならともかく、こういう話には誘拐や身売りも多い。子供を被写体にしたいかがわしいムービーがあることくらいは知っているな? 裏の世界ではその為に買う奴も売られる子供も溢れ返っている。そして買う側の大半は地位も立場も金もある退廃的な奴らだ。世界中の有名どころを挙げたら――知っているが言わんぞ――芹沢なんぞ小粒も小粒だ。それに、買った子供を殺さずとも奴隷にする奴や、仕方なく自ら奴隷に身を堕とす人間も多い」
 そんなのに比べれば天国だと、冥月はそう言って言葉を結んだ。
 「でも、やっぱり、かわいそうだと思います」
 真帆はようやく口を開いた。「何が?」と同時に聞き返す。真帆はにこりと微笑んだ。
 「彼女が、です」
 真帆は緩やかに小首をかしげ、髪の毛をふわりと揺らしてもう一度微笑んだ。「だって、あんなにぼろぼろになって逃げ出してきたくらいですもの。幸せな生活ができていたとは限らないと思いますよ」
 「そうね」
 ややテンポの遅れた真帆の指摘にシュラインは苦笑しつつも肯く。「彼女、早く目を覚ましてくれればいいんだけど。彼女の気持ちを聞かないことには・・・・・・」
 そしてシュラインは冥月から手渡された少女の資料を真帆に渡し、自身も一緒に目を通した。
 ――少女の名は塚本・琴美(つかもと・ことみ)、十三歳。実の両親は三年前に死亡。その後、例のオークションを主催する“ウェルフェア・カンパニー”が経営する孤児施設“ウェルフェア・ハートネス園”に預けられ、オークションに“出品”された。そして十日前に開催されたクリスマスオークションで芹沢龍之介に“落札”されて芹沢の別邸に引き取られるも、そこを逃げ出して零に助けられたということのようである。
 「未成年者を養子にするときは、配偶者と共にすることが必要じゃなかったかしら」
 民法の規定を思い出しながらシュラインは顎に指を当てて考え込む。「ということは、結婚していないと養親にはなれないということよね。家庭裁判所の許可もいるはず。それから、養子になる子が十五歳未満の時はその子の法定代理人の代諾が必要・・・・・・未成年者の法定代理人っていったら普通は親権者だけど、彼女の親はもう亡くなっているわけよね。ということは未成年後見人がついていないといけないはずだわ。未成年後見人は家裁が選任するか親が遺言で指定するかだけど、その辺りもオークション側でフォローしてくれるのかしら」
 「うーん。私にはよく分かりませんけど」
 真帆は次々とシュラインの口からついて出る言葉にしきりに首をかしげつつ唇に指を当てる。「その辺りのことは関係者に聞いてみればいいんじゃないでしょうか?」
 「そうだな。そのために来てもらっている」
 冥月がちらりと応接ソファに目を向ける。ソファにちょこんと腰掛けた権田原は大きな体を一生懸命小さくしながら三人の視線を受けた。



 「わが社はオークションの“商品”になりうる子供を探すための独自のネットワークとコネを持っておりまして、ハイ。親を亡くした子供ですとか、虐待されて施設に保護された子供ですとか、そういう情報はふんだんにございます。ですがなにぶんこういった業種ですから、その辺は詳らかに話すことはできません。どうかご容赦ください」
 権田原は大きな体には不似合いな小さなハンカチで汗を拭き拭き答える。「塚本琴美の場合もそのネットワークに引っかかりましてな。ウェルフェア・ハートネス園に引き取り、充分に時間をかけて養育すれば未成年後見人として家裁に選任してもらうことも可能です。そのうえで極秘裏にオークションに出品し、落札者の家で一定以上の期間平穏に養育させてから養子縁組の申請をする。そうすれば養子縁組の許可もおりやすいというわけです、ハイ。もちろん子供本人にはオークションの存在など知らせません。オークションには子供のプロフィールと動画・静止画のみを出品します。そして落札者が新たな保護者として子供を迎えにハートネス園にやってくる。円滑な養親子関係を築くための配慮でございますよ。子供にも落札者にも福音をもたらすのがわが社のオークションでございます」
 「すべて計算ずくということですか」
 シュラインはかすかに唇を歪ませる。初めからオークションに“出品”するつもりで何年も前から下準備を重ねるというわけだ。だが、こんなオークションを運営していれば裁判所とて黙ってはいない。それなのに許可が下りるということは、裁判所の目すら欺けるほど入念かつ周到に手配しているということであろう。反吐が出る。
 「芹沢先生って、あの有名な政治家さんですよね。確か年齢は四十歳過ぎくらいで」
 眉毛をハの字に曲げて不思議そうに口を開くのは真帆である。「えーっと、未成年の子を養子にする時は結婚してなきゃいけないんですよね?」
 「そうよ。芹沢さんは独身で未婚、結婚歴はないはず」
 シュラインが肯いて真帆の後を引き継いだ。「養子縁組を前提として、オークション参加者の身元や経歴は詳細に調査するとおっしゃっていましたね。どうして未婚の芹沢氏に許可が下りたんですか」
 「・・・・・・極秘情報なのですがねえ」
 権田原は渋い顔をしたが、仕方ないと諦めているのだろう。ひとつ息をついてから口を開いた。「芹沢先生は来年結婚するご予定なのです。結婚してしばらく少女と暮らしてからならば養子縁組の許可も下りると思いまして許可を出した次第で。もちろんお相手の女性の身元も調査済みでございます、ハイ」
 「芹沢がオークションに参加したのは婚約者と話し合ってのことか」
 それまで黙ってやり取りに耳を傾けていた冥月が初めて口を開いた。「それとも、芹沢自身の独断か」
 「さて・・・・・・そこまでは」
 「芹沢の婚約者はオークションや塚本琴美の存在を知っているのか?」
 「さあ。分かりませんが」
 権田原は困惑したように眉間に皺を寄せる。「当社は極秘の会員制ホームページでしか宣伝を行っておりません。そのホームページを閲覧するためにも厳格な審査と手続が必要で、会員のリストもきちんと作成して保管しているのですが・・・・・・リストには芹沢先生の婚約者のお名前はありませんでした」
 そこへ零がコーヒーカップを乗せたトレイを持って現れ、話は一時中断した。
 「お話が終わったらすぐ来てもらえますか」
 カップをテーブルに置いた後で零はトレイを口に当て、三人にだけ聞こえるように囁いた。「ついさっき、彼女が目を覚ましました」



 琴美の薄い虹彩は虚ろに天井を見つめていた。権田原が帰った後で零に案内されて三人が入ってきた気配に気付いても、半ば機械的に頭を傾けただけだった。
 「こんにちは」
 まず口を開いたのは一番歳の近い真帆であった。にこりと微笑み、琴美が横たわった布団のそばに膝をついてゆっくりと話しかける。くりくりとしたアーモンド形の琴美の目が緩慢に真帆に向けられる。
 「私は樋口真帆っていうの。お名前、教えてくれるかな?」
 名前はすでに資料で確認して知っていたが、少しでも琴美の口を開かせるために真帆はあえてそう問うた。琴美は答えずに、無言で真帆から目を逸らす。しかし、その瞳は一瞬だけ真帆に釘付けになっていた。
 「何かしたのか?」
 琴美の様子に気付いたのであろう、冥月はひそひそと真帆に囁く。真帆は冥月を見上げていつものように可愛らしく微笑んでみせただけだった。
 「頑張ったね」
 シュラインは琴美のそばに膝をつき、たった一言、そう言った。白い手が琴美の柔らかな髪の毛をそっと撫でる。琴美は何も言わなかった。ただびくっと体を震わせ、かすかに唇をわななかせただけだった。
 「何か食べたい物はある? 何でも言ってちょうだい」
 琴美は首を横に振る。「じゃあ」とシュラインは気を取り直して続けた。
 「どこか行きたい所は? どこでも連れて行ってあげる、体が治ったらね」
 「どこでも?」
 琴美は初めて反応を見せた。薄茶色の瞳が順々に三人を見る。「本当にどこでもいいんですか?」
 フランス人形のような大きな瞳に音もなく涙が盛り上がり、やがて堰を切って静かに溢れ出した。
 「あたし」
 と、琴美は白い頬を流れる涙を拭おうともせずに言った。「お父さんとお母さん……おじいちゃんとおばあちゃんでもいい。家族の所に行きたい」
 真帆の指が無言で琴美の頬に伸び、そっと涙を拭う。それが合図だったかのように琴美は一気に声を上げて泣き出した。体を丸め、薄い布団にしがみついて、幼子のようにただただ泣きじゃくり続けた。
 「つらかったのね」
 琴美の肩をさすりながらシュラインが呟く。冥月は腕を組んで目を閉じ、壁に背をもたせかけてその様子を見守っていた。自分の出る幕ではないと感じているらしかった。
 「何か怖いことがあったの?」
 シュラインは琴美の様子を見ながら慎重に尋ねる。しかし、琴美は首を横に振った。
 「あたしは、“商品”なんです」
 琴美は嗚咽の合間に途切れ途切れにそう言った。「芹沢のおじさんはとっても優しくしてくれました。あたし、おじさんが大好きでした。でも、おじさんが電話してるのを聞いちゃったんです。おじさんはあたしを“買った”んだって。誰かにあげるためにあたしを“買った”んだって」
 ちょうど誰かにプレゼントでも買うかのように。たどたどしくそう口にした琴美にシュラインは顔を歪ませる。
 「芹沢のおじさんはハートネス園にあたしを迎えに来てくれたんです。園の先生たちが“あなたの新しい家族だよ”って言って送り出してくれたのに、芹沢のおじさんはあたしを家族にする気なんかなかったんです」
 権田原の話では、オークションに“出品”される子供にはオークションの存在は知らされていないという。落札者と子供が円滑な親子関係を築けるようにするためだと。しかし何かの拍子に自分がオークションで落札された“商品”だと知ったらどうだろう。施設に引き取られたわけありの子供と子供のいない大人、両方に幸せをもたらすオークションであると権田原は言っていたが、果たして本当にそうであろうか。
 「それでショックを受けて家出してきたのか?」
 冥月が目を閉じたままそう尋ねると、琴美は鼻をすすり上げながら肯いた。
 「ありがとう。よく話してくれたね」
 シュラインは心から琴美に礼を述べ、乱れた琴美の髪を丁寧に指ですいてやる。「ゆっくり休んで。食欲が戻ったら腕によりをかけてごちそうを作るわ。リクエストがあったら考えておいてね」
 琴美は布団を抱き締めたまま何度も何度も肯いた。



 シュラインは琴美の実親や芹沢の養親についての聞き込み、冥月は芹沢の監視に赴いたが、真帆は興信所に残って少女のそばにいることにした。
 「次回の党首討論に向けて、民政党では入念な準備が進められています」
 興信所の古いテレビはお昼のワイドショーを映し出している。お湯が沸くのを待つ間、真帆はソファにちょこんと腰掛けて見るともなしにテレビを眺めていた。ブラウン管の中で国会議事堂を背景にしたアナウンサーが早口に喋っている。
 「あ、たった今、芹沢議員が出て来ました。ちょっとお話を伺ってみましょう」
 映し出された芹沢の顔は理知的の一言に尽きる。丁寧に整えられた黒い髪、切れ長の涼しげな目元。銀縁の華奢な眼鏡とやや角ばった顔の骨格もクールさを演出するのに一役買っていると言ってよい。なかなかの男前である。若い頃はさぞかし美少年だったであろう。
 (そういえば、芹沢さんも養子って言ってたっけ。もしかして琴美ちゃんと似た境遇なのかな)
 そろそろお湯が沸く頃である。小柄な真帆は興信所の隅から椅子を引っ張ってきてその上に乗り、「うんしょ」と背伸びして棚をのぞきながら思案する。
 (悪い人には見えないけど。あの権田原さんっていう人があっさり落札者の名前を出したってことは、芹沢さんには後ろめたいことはないってこと?)
 その瞬間、けたたましい音とともにケトルが湯の沸騰を告げた。真帆は慌てて椅子を降りようとしたが、足元のバランスが崩れて「わ」と声を上げる。その後に続いたのはガラガラ、ドシンという大きな物音。ただならぬ様子に驚いたのであろう、草間が慌てて駆け付けた。
 「……大丈夫か?」
 鳴り響くケトル、床の上にぶちまけられた食器や茶葉、そしてうっすらと埃をかぶって床の上にしりもちをついた真帆を順々に見て、草間は半ば呆れているらしかった。



 紙袋を細い腕に提げ、魔法瓶製のティーポットと温めたカップをトレイに乗せて入って来た真帆を見て、琴美は慌てて涙を拭った。
 「喉乾かないかなと思って」
 真帆はにこりと笑い、銀のトレイを琴美の枕元に置いた。スライスしたレモンと角砂糖、それに温めたミルクも一緒に準備してある。紅茶かな、と琴美は見当をつけた。
 「ここに置いておくね。一気に飲むとお腹がびっくりしちゃうから、少しずつ飲むんだよ」
 琴美は答えずに、横になったまま真帆の動きを目で追った。真帆はひなたの中にちょこんと座り、紙袋をごそごそさせて鉤針と毛糸の玉を取り出す。何をするのかと琴美が怪訝に思いながら見ていると、真帆はそのまま編み物を始めた。
 なぜ編み物など始めるのだろう。何か話を聞きたくて自分の所に来たのではないのか……。それに、先程見た夢に出て来たあの魔女は真帆にそっくりだ。琴美は布団の中から訝しげに真帆を見上げる。真帆は琴美の視線に気付いているのかいないのか、ただのんびりと、ゆっくりと手を動かし続ける。小さな手に握られた二本の鉤針が互いの毛糸を互いにくぐるたび、白い毛糸の中にパステルピンクの模様が編みこまれていくのだった。
 「何、してるんですか?」
 琴美はややかすれた声で尋ねた。真帆は「ん?」と首をかしげてから答える。
 「靴下。サンタクロースがプレゼント入れてくれるようにって」
 「どうして?」
 「好きなの。編み物」
 微笑んで答えた真帆に、琴美はちょっと拍子抜けしたような顔をした。それから一拍置いて尋ねた。
 「楽しい、ですか?」
 「楽しいよ。一緒にやってみる?」
 「……別に」
 いいです、と呟いて琴美は寝返りを打って真帆に背を向ける。そのとき、きゅるる、と可愛らしく腹の虫が鳴った。琴美の肩がかすかに震え、真帆に向けられた背中がきゅっと縮まる。
 真帆は小さく声を上げて笑った。
 「おやつにしようよ」
 そして布団のそばに膝をつき、ぽんと琴美の肩を叩く。「紅茶、飲む? これでも私、紅茶とお菓子は自信あるんだよ」
 真帆は答えなかったが、その代わりに柔らかな髪の毛に包まれた頭が小さく縦に動いた。
 
 

 琴美は小さな手でカップを包み込むように持ち、こくり、とひとくち紅茶を飲んだ。
 「おいしい。すごくいい香り」
 小さな吐息とともに琴美の表情が幼く和む。「しあわせ……」
 「ありがとう」
 真帆は心からそう言い、自身もカップに口をつけた。真帆がセレクトしたのはスタンダードなダージリン。フルーツ系のフレーバーはあえて用いず、本来の香りをシンプルに生かすことのみを考えた。カップの脇の小皿に乗るのは真帆の手製のフルーツタルトである。さっくりと焼き上げられた生地、その上に乗せられたふんわりとした口当たりのムース、それにガラス細工のように透き通ったラズベリーやブルーベリーの果肉は見た目も味も抜群であった。
 「色、白いね。目も大きいし、お人形さんみたい」
 真帆はしげしげと琴美をのぞきこんで言う。琴美はちょっぴりはにかみを見せてうつむいた。
 「そんなことないです。樋口さんのほうが可愛いです」
 「“真帆”でいいよ。丁寧語も使わないで」
 「でも」
 「いいから。ね?」
 琴美の手をそっと握り、真帆は首をかしげて緩やかに微笑む。琴美は少々逡巡した後にほんの少しだけ笑って肯いた。
 「おいしい? タルト」
 「うん」
 「よかった。趣味なの、お菓子作り。あなたの趣味はなあに?」
 「お料理。ちょっとだけしかできないけど、好き」
 「そうなんだ。どの料理が得意? 好きな物、一緒に作ろうよ」
 「ハンバーグとオムライス。よくお母さんが作ってくれたの」
 「そうなんだあ」
 真帆は指についたクリームをぺろりと舐めた。「優しいお母さんとお父さんだったんだよね」
 琴美は小さく肯いてうつむいた。真帆はそれに気付かないふりをして続ける。
 「でもね、芹沢さんも結構いい人だと思うな。そんなに悪い人には見えなかったよ?」
 「うん。芹沢のおじさんはいい人。とっても優しくしてくれた。仕事が忙しい忙しいって言ってたけど、休みの日はずっとあたしといてくれたもん」
 真帆は肯いてそう言い切った。その後で「だから」と言って視線を泳がせる。カップを握った手がかすかに震えていた。
 「余計にショックだった。芹沢のおじさんがあたしをモノとして見てたなんて。だからカッとなって家出しちゃったの」
 真帆はそっと琴美の手を包み、カップに紅茶を注いだ。絹糸のようにたちのぼる湯気が鼻腔をふうわりとくすぐる。琴美は小さく鼻をすすり上げた。
 「ねえ、真帆ちゃん」
 顔を上げた琴美の瞳は薄く濡れていた。「芹沢のおじさんは何を考えてるのかな。おじさん、婚約してるって言ってた。難しいことは分からないけど、結婚してないとあたしを引き取れないんだって。でも、おじさんの彼女なんか見たことない。名前も知らないの。おじさん、ほんとに彼女がいるのかな? もし嘘だとしたら、どうして嘘ついてまであたしを“買った”のかな?」
 「さあ。どうしてかなあ」
 真帆は顎に指をあてて一緒に考え込む。「まだ分からないけど……それはね、きっとエマさんと冥月さんが調べてくれると思うよ」
 「そう、だね」
 一拍置いて琴美は言った。伏せられた長い睫毛がかすかに震えている。「怖いな。少し」
 真帆はそっと琴美の手をとり、夕焼け色の瞳を細めて音もなく微笑んだ。
 「心配しないで。たぶん、そんなに悪い結果じゃないと思うんだ」
 そして言った。「大丈夫。きっと、もう泣かなくていいはずだよ」
 肯きかけた琴美であったが、首の動きを途中で止めて不思議そうに真帆を見た。
 「真帆ちゃん、魔女さんにそっくり。顔も台詞も」
 「魔女?」
 「夢を見たの。お父さんとお母さんが生きてた頃の夢。でも、とっても怖い夢」
 真帆の手を握り返す琴美の手に無意識のうちに力がこもる。「お父さんとお母さんが死んで、芹沢のおじさんのおうちに引き取られて……おじさんの電話を聞いてショックを受けて、暗い闇の中におっこちそうになったあたしを、真帆ちゃんそっくりの魔女さんが助けてくれたんだ」
 「そう」
 真帆は小さな手をもっと小さな琴美の手の上に重ねた。「でもそれはね、たぶん魔女さんの力じゃないと思うよ」
 日が少し傾いたようだ。真帆の上に落ちる光は斜めで、暖かい色をしている。その光を受けて真帆の髪の毛はいっそう柔らかく輝いていた。
 「魔女さんはね、誰かの夢の中で自由に動くことはできても、夢の筋書きを変えることはできないの――」
 琴美は不思議そうな顔をして真帆の言葉を聞いている。「だからね」と真帆は言い、続けた。
 「あなたは最初から助けられることになってたんだよ。たまたま助けたのが魔女さんだっただけ」
 真帆はぎゅっと琴美の手を握った。「だからもう泣かないで。きっといい夢を見られるようになるから。きっと幸せになれるから」
 言われて初めて、琴美は自分が泣いていることに気付いた。
 「あれ」
 琴美は慌てて真帆の手を離し、ごしごしと涙を拭った。「どうしたのかな。なんで……」
 真帆は手を伸ばし、琴美をそっと抱き締めた。小さな体が壊れてしまわないように細心の注意を払いながら。
 「今は泣いてもいいんだよ。明日からはきっと幸せになれるから。だって明日はクリスマスイブだもん」
 琴美は泣きじゃくりながら真帆の腕の中で何度も何度も肯いた。それから、涙の合間に途切れ途切れに言った。
 「真帆ちゃん。名前、まだ言ってなかったよね」
 琴美は大きく鼻をすすり上げた。「あたし、琴美っていうの。塚本、琴美」
 「そう。琴美ちゃんっていうの。ありがとう、教えてくれて」
 琴美の名はとうに知っていたが、真帆は微笑んで琴美の頭を撫でた。



 日がすっかり暮れた頃にまず冥月が、その少し後にシュラインが帰って来た。眠ってしまった琴美を部屋に残して真帆は部屋を出る。
 「どうでしたか? 芹沢さんは信用できそうな人でした?」
 真帆は二人の顔を見るなり真っ先にそう問う。冥月は肯定も否定もせずにちょっと肩をすくめてみせた。
 「ま、無難な部類だろう。悪くない代わりに強調するほど良くもない」
 「琴美ちゃん、芹沢さんのことが大好きだって言ってました。大好きだからこそ“商品”として買われたことがショックだったって・・・・・・芹沢さんは琴美ちゃんを気にかけていましたか?」
 「ああ、気にかけていたさ。大事なクリスマスプレゼントがなくなってしまったとな。どうやら養父母にプレゼントする気らしい。明日はイブだし、どうやらイブに合わせてプレゼントしたかったらしいぞ。それに、後援会に妙な電話をかけていた。“そっちに興信所の人間が行くかも知れない、私の婚約については以前から頼んでおいた通りに話してくれ”などと」
 「琴美ちゃんの両親は病院にも行けず、頼る人もいなくて、貧困の末に亡くなったんですって」
 次に口を開くのはシュラインである。「琴美ちゃんは芹沢氏の養父母の実の娘にそっくりだそうよ。芹沢氏は琴美ちゃんがいたのと同じウェルフェア・ハートネス園にいて、今の養父母に引き取られたんですって。芹沢氏の養母の名前は美智子さん、養父は慎之介さん、娘さんは美雪さん。美雪さんは結婚のことで両親と大喧嘩し、駆け落ち同然で家を飛び出したと聞いたわ。芹沢夫妻も激怒して娘さんと縁を切り、その後娘さんとは一度も連絡を取っていないそうよ。大変後悔したようだけど。でも・・・・・・」
 シュラインの話の続きを聞いて冥月はひょいと眉を持ち上げた。
 「なるほどな。芹沢の婚約に関してはどうだ?」
 「後援事務所の会長の相馬さんという人に話を聞いたんだけど・・・・・・芹沢氏の婚約の件を聞いたら、ちょっと不自然な反応をしていたわね。“芹沢先生は婚約なんかしていない”って言いかけて、慌てて“来年結婚する予定です”って言い直したの」
 「あ・・・・・・そういえば」
 真帆が思い出したように口を開いた。「琴美ちゃん、芹沢さんの婚約者なんか知らないって言ってました。会ったこともないって」
 「決まりね」
 真帆の話と冥月の報告を考え合わせてシュラインは小さく息をついた。「芹沢氏の婚約は擬装。恐らく、琴美ちゃんを引き取るためのね。いったん引き取ってしまえば養父母に面倒を見させて縁組の申請をすることだってできるし」
 「解せないな。なぜそこまでする」
 冥月はやや怪訝そうに眉を寄せる。「あの少女が養父母の実の娘に似ているからか? それに芹沢がこんなことを言っていたが、あるいは・・・・・・」
 と冥月が口にした可能性はシュラインが考えていたものとほぼ同じであった。
 「うん、きっとそうです。それがいい」
 真帆の顔にぱっと笑みが広がった。「とりあえずごはんを食べて・・・・・・調査結果を話すのはその後でいいですよね。私、琴美ちゃんを呼んで来ます」
 そして軽やかにスカートの裾を翻して踵を返したが、二、三歩行った所でシュラインを振り返った。
 「シュラインさん、冥月さん。琴美ちゃん、オムライスとハンバーグが食べたいって言ってました。一緒に作ろうって話してたんです。手伝ってもらえませんか?」
 「もちろん」
 シュラインはにっこりと微笑み、冥月はその隣でそっと溜息をついた。



 その晩、草間興信所では琴美を囲んで夕食会が催された。オムライスにハンバーグにオニオンスープ、ポテトサラダ、プリンアラモード・・・・・・。四人で作った心尽くしのごちそうが所狭しとテーブルに並ぶ。栄養バランスやカロリーといった問題は二の次にして、今日だけは琴美に食べたい物を食べたいだけ食べてほしい。そんなささやかな願いが込められた食卓であった。
 「おいしそう」
 食卓に着いた琴美は無邪気な声を上げ、大粒の瞳に涙をにじませる。「お母さんがよく作ってくれたっけ」
 「琴美ちゃん、あたたかいうちに食べて」
 シュラインは琴美が涙をこぼす前に食事をすすめた。琴美は「うん」と肯いてスプーンを取り、お行儀よく「いただきます」と言ってオムライスに手をつけた。半熟の卵を崩し、よく炒められたチキンライスと一緒にデミグラスソースに浸す。口に運んだ瞬間、琴美の顔にぱっと喜色が満ちた。
 「おいしい。すごくおいしい」
 「そう。よかった」
 シュラインは心からそう言って席に着いた。真帆もスープを一口飲んで幼い歓声を上げる。冥月だけはやや持て余し気味にスプーンを握って無言で口に運んでいた。彼女はこういう席にはあまり縁がないのかも知れない。料理を作る間も無言でジャガイモをつぶしていた。
 楽しい時間はあっという間に過ぎる。シュラインと冥月の前で最初は硬かった琴美の口と表情も徐々にほぐれ、問わず語りに自分のことを断片的に話して聞かせるようになった。話の内容はやはり家族のことが大きな比重を占めており、「お父さんとお母さんはもう死んだからしょうがないけど、お母さんにはおじいちゃんやおばあちゃんがいるはず。一度でいいから会いたい」と言って涙をにじませるのだった。
 「ねえ、琴美ちゃん」
 後片付けが済み、真帆の淹れた紅茶を飲みながらシュラインは口を開いた。「私たちね、芹沢のおじさんのことについて色々調べてきたの」
 その言葉に琴美の目と体がわずかに緊張する。再び口を開きかけたシュラインを冥月が「待て」と制した。その後で真帆に目配せする。三人の中で一番琴美と仲がいいのは恐らく真帆であろう。真帆もその辺りを心得て、琴美の隣に座って優しく両手を取った。
 「琴美ちゃん。よく聞いてね」
 そして可愛らしく小首をかしげ、そっと語り始める。「芹沢のおじさんはね、やっぱり琴美ちゃんを誰かにプレゼントするつもりだったの」
 琴美の目に悲しみと驚愕が満ちる。「でも」と真帆は琴美の手を握る手にぎゅっと力を込めた。琴美は唇を震わせて真帆の夕焼け色の瞳を見つめる。
 「でも」
 と真帆はもう一度言った。「それはね、琴美ちゃんのことを“商品”として扱ってるからじゃないんだよ。ほんとはね――」



 一通りの報告が終わると琴美は風呂に入り、真帆に付き添われて部屋に戻った。
 「じゃあ、おやすみ。ゆっくり休んでね」
 琴美に布団をかけ、真帆は蛍光灯から下がる紐に手を伸ばす。「待って」と琴美がそれを止めた。
 「真帆ちゃん。あたし、どうすればいいのかな」
 琴美の小さな手は己のパジャマの裾をぎゅっと握り、かすかに震えていた。まるでそのパジャマだけが唯一信じられるものであるかのように。
 「それは琴美ちゃんが決めることだよ」
 真帆は微笑みつつもきっぱりとそう言い切った。真帆を見上げる琴美の目がかすかに揺れる。真帆はゆっくりと首を傾けて続けた。
 「でもね、もし養子になることを選ぶなら、ひとつアドバイス。琴美ちゃんの作ったごはんを新しい家族に食べてもらうといいよ」
 真帆の言わんとすることを察しかねたのだろう、琴美の眉がかすかに中央に寄る。真帆は人差し指を立て、口許にぷくりとえくぼを浮かばせて続けた。
 「仲のいい家族への第一歩は、一緒に“いただきます”って言うことだよ」
 そう言って、真帆はもう一度柔らかく微笑んだ。
 「……うん」
 琴美は小さく笑って肯いた。「ありがとう。ゆっくり考えてみる」



 音を立てないようにドアを閉め、真帆は琴美の部屋を後にした。事務所に戻った真帆にシュラインと冥月が物問いたげな視線を向ける。
 「ゆっくり考えてみるって言ってました」
 二人の心中を察して真帆は微笑んだ。「後はあの子が自分で答えを出すと思うから。大丈夫ですよ」
 そして琴美の部屋の方向を振り返る。琴美の部屋は静かで、ただ静寂が漏れ出してくるだけだった。

 
 
 翌24日。琴美は自ら起き出して興信所の面々の前に姿を見せた。真帆も冥月も朝から興信所に姿を見せている。
 「あら、おはよう。早いわね」
 きちんと着替えを済ませ、身づくろいもした琴美の姿にシュラインは目を丸くする。琴美はワンピースの裾をぎゅっと掴み、唇を噛んでうつむいていたが、やがて顔を上げて言った。
 「あたし」
 琴美はまっすぐに目を上げ、順々に三人を見詰めた。そしてはっきりと言った。
 「芹沢のおじさんの所に行きます。連れて行ってください」
 シュラインは冥月と顔を見合わせた。「それでいいのか」と問うたのは冥月であった。しかし琴美はしっかりと肯き、「ちゃんと考えて決めたんです」と言った。
 「そう。じゃあ一緒に行こう。その前に」
 真帆がぴょこんと椅子から降りて琴美の手を取った。「髪の毛、結んであげる。可愛くしていかなきゃね」
 「うん」
 琴美はにっこりと笑って真帆に手を引かれ、鏡のある洗面所へと向かった。



 草間が芹沢に連絡を入れ、琴美は芹沢の自宅、すなわち芹沢慎之介・美智子夫妻の前で芹沢と対面することになった。真帆の手によって髪の毛をツインテールに結い上げられた琴美は芹沢の自宅へ向かう間も終始緊張し通しで、口数が少なかった。真帆は隣にいてずっと琴美の手を握っていた。もちろんシュラインと冥月も同行している。
 芹沢邸は郊外の某高級住宅地に建っていた。さすがは元総理大臣の家、三百坪はあろうか。昔ながらの木の門を開け、敷石を踏んで草木の植えられた庭を歩いて玄関にたどり着くと内側からドアが開いた。姿を見せたのは芹沢龍之介であった。
 「よかった」
 芹沢は琴美の姿を見てそう言った。「戻って来てくれてよかった。本当によかった」
 そして芹沢はスーツが汚れるのも構わずにその場に膝をつき、琴美を抱き締めた。琴美はただ無言で肯いた。唇を噛み締めたその顔は、気を抜けば溢れそうになる涙を必死に抑えているかのように見えた。
 「さあ、こっちだよ。琴美ちゃんに会わせたい人がいる。皆さん方もどうか一緒においでください」
 芹沢は琴美の手を引き、三人に軽く頭を下げてついてくるように促した。
 案内されたのは縁側つきの窓際の大きな部屋だった。龍之介は琴美をその場にとどめ置き、中に一言声をかけてから襖を開く。和服に身を包んで畳に正座しているのは芹沢慎之介であろう。脚が悪いという芹沢美智子は縁側の陽だまりに出した座椅子に深く腰掛けていた。
 「何事だ、龍之介」
 先に部屋に入って来た龍之介と真帆たちを見て慎之介は訝しげに問う。「私たちに会わせたい人がいるとか言っていたが、その人たちのことか?」
 「いいや。さあ、母さんもこっちに来て」
 龍之介は美智子に手を貸して立たせ、座椅子を慎之介の隣まで運んで座らせた。そして襖の向こうの琴美に声をかける。「こっちにおいで、琴美ちゃん」
 琴美は襖の影から不安そうに三人を見上げた。シュラインが「大丈夫」と囁いて微笑む。冥月も無言で肯いた。真帆はにっこり笑って琴美の手を取り、そして優しく促すように琴美の手をそっと引いた。
 琴美は三人に送り出されて慎之介と美智子の前に立った。
 芹沢夫妻の目が大きく見開かれる。
 「美雪・・・・・・?」
 先に口を開いたのは美智子だった。座椅子から腰を浮かせ、琴美に歩み寄ろうとする。龍之介がそれを支え、手を引いた。
 琴身はワンピースの裾を握ってうつむいていた。そして顔を上げた。
 「初めまして」
 そして、震える声で言った。「あたし、琴美っていいます。おじいちゃん、おばあちゃん」
 「まさか――」
 慎之介が腰を浮かす。「美雪の子か?」
 慎之介がそう言うと同時に美智子はその場に泣き崩れた。
 「さあ」
 龍之介は養母の手を引き、養父を促して、もう一方の手で琴美の手を引く。龍之介によって引き合わされた三人の手が互いにそっと触れ、そしてしっかりと握り合わされた。
 「ことみ。琴美っていうのね」
 美智子は琴美の小さな体をかき抱いてむせび泣いた。「可愛いわ。美雪にそっくり。本当にそっくり」
 「済まない。本当に済まない。美雪にも君にもつらい思いをさせたね・・・・・・」
 慎之介も着物の裾が乱れるのを厭わずに膝をついて琴美の手を握る。琴美は口を真一文字に結んだままふるふると首を横に振った。が、次の瞬間には固く結んだ唇が歪んでいた。
 「おじいちゃん。おばあちゃん」
 そして、琴美は声を上げて泣き出した。決して離すまいと二人に縋りついた小さな手がかすかに震えている。皺の寄った祖父母の手が琴美の頭を幾度も幾度もいとおしそうに往復する。龍之介はそっと三人のそばを離れ、真帆たちを促して廊下に出た。
 「慎之介さんご夫妻の娘さんは貧困の末に亡くなっているそうですね。そして美智子さんはそれを悔やんでいた。どうして助けを求めて来なかったのかと・・・・・・」
 広い廊下を歩きながらシュラインは龍之介の背中に語りかける。「美雪さんは、縁を切った親に助けを求めても応じてくれないだろうと考えて最初から諦めていたのかも知れませんね」
 「ええ。母も同じことを言っておりました」
 龍之介は軽く背中を揺すり、年下のシュラインに丁寧な言葉遣いで応じる。「たいそう悔やんでおりました。なぜ縁を切るなどと言ってしまったのかと。自分が娘を殺したようなものだと・・・・・・」
 「最初からあの子が養父母の孫だと知ってオークションに参加したのだな? オークションに参加したのを秘密にしたかったのは、おまえのためというより少女と養父母のためだろう。少女と養父母の将来と経歴に傷がつかないように」
 「やれやれ。全部お見通しというわけですか」
 龍之介は足を止め、三人を振り返って苦笑する。「オークションだなんて問題があるとは思いましたがね。琴美ちゃんを見つけた以上、どうしても父母に会わせたかった。だから後援事務所の人間に頼んで婚約を擬装してまで・・・・・・いろんな人に迷惑をかけてしまいました」
 「芹沢さん、かっこいいですね。顔が」
 唐突に真帆が微笑とともに言う。「そうですか」と芹沢は苦笑して答えた。「うん」と肯いて真帆は続けた。
 「若い頃はイケメンさんだったんじゃないですか? それに養子だなんて、もしかして琴美ちゃんと同じ境遇なんですかね。あのオークションに“出品”されてたりして」
 ――けろっとした真帆の口ぶりに、芹沢の口許から一瞬だけ笑みが消えた。
 「あのオークションは極秘のホームページでしか宣伝していないと権田原さんが言っていました」 
 シュラインの青い瞳がじっと眼鏡の奥の芹沢の目を見つめる。「少し不思議に思っていたんです。どうして結婚歴のないかたが・・・・・・養子を持とうなどと考えそうもないかたが極秘ホームページに行き着くことができたのか。最初からオークションの存在を知っていたからではないのですか? そしてあの極秘のオークションを知っていたのは、自身もかつてそれを経験したから・・・・・・でしょう?」
 「どうかそれはご内密に」
 芹沢はシュラインの問いに答える代わりに深々と頭を下げた。「養子を非人道的なオークションで手に入れたと知れれば父と母の名に傷がつきます」
 「自分よりも養父母の面子を気にするのか。気に入ったよ」
 冥月はわずかに口の端を持ち上げた。「それに、気に病むことはない。非人道的なオークションに出品されるような不幸な子供を引き取って育てる。それが縁を切った娘に対する養父母なりの罪滅ぼし。そうだろう?」
 「ご想像にお任せいたします」
 芹沢はそっと微笑んで冥月への答えとした。
 廊下の奥からはむせび泣く夫妻の声と、琴美の嗚咽が聞こえてくる。
 (どうせ見るなら悪い夢よりいい夢のほうがいいよね)
 真帆は廊下の奥を振り返って内心で呟いた。(メリークリスマス、琴美ちゃん。今日からはいっぱいいっぱいい幸せになって、いい夢を見られますように)
 そして心からそう願い、祈るようにそっと両手を組み合わせた。 (了)
  
 
 
 
 
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生・見習い魔女
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
2778/黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)/女性/20歳/元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒



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■         ライター通信          ■
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樋口真帆さま


お初にお目にかかります、宮本ぽちと申します。
ご注文まことにありがとうございました。

琴美を気遣ってくれたこと、感謝しております。
愛らしく優しい魔女さん……書いたことのないタイプだったため多少苦労したしましたが、何とかこのような形で落ち着きました。
ただ、他のかたとの兼ね合いでプレイングを加工させていただきましたこと、どうかご容赦ください。

もし機会がありましたら、また樋口さまの物語を書かせていただければ幸いです。
今回の発注、重ねてありがとうございました。


宮本ぽち 拝