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<東京怪談ノベル(シングル)>


Fight!

「今日はどんな訓練なのかな…」
 動きやすいようなジャージにTシャツ。肩ぐらいまである髪をゴムで二つに結わえながら、立花 香里亜(たちばな・かりあ)は、床に開けられた穴にそっと足を入れた。
 いつものように蒼月亭で後かたづけをしている香里亜の所に、黒 冥月(へい・みんゆぇ)がやって来て「仕事が終わったら来い」と、床に冥月が亜空間内に持っているジムへと繋がる穴を開けていったのだ。
 冥月が「来い」と言うからには、遊びにというわけではないだろう。元々冥月に無理を言って「鍛えてください」と言ったのは香里亜なので、言われたとおり筋トレやジョギングは続けている。最近成果が出てきたのか、距離も少し長く走れるようになってきた。
「こんばんはー」
「よし、ちゃんと来たな」
 滑り台を降りるようにひょいと床に立つと、そこは前に間合いを取る練習をした道場で、冥月が床の上で柔軟体操をしている。
 ただの柔軟ではない。
 片脚を垂直に上げ座り180度開脚をしてそのまま体を前にぱたんと倒したりと、ある意味ヨガの達人のような体の柔らかさだ。脚を広げたまま片手で逆立ちをしたり、そのまま片手で飛び上り空中で一回転捻りし両脚揃え着地などは、体操選手や雑伎団のようでもある。ただ体が柔らかいだけではなく、それを支える柔軟な筋肉があってこそ出来る技だ。
「はう…体の柔らかさには自信あったけど、それは出来ないです」
 自分で言うのも何だが、香里亜もそれなりに柔軟性には自信があった。しかし流石に冥月がやっているようなことは出来ない。せいぜい足を伸ばしたまま前屈して、ぺたりと体が床に着くぐらいのものだ。思わず肩を落としている香里亜に、冥月がふっと笑う。
「体が柔らかくない格闘家なんていないぞ」
「それはそうですけど…あっ、痛い痛い、見てるだけで背骨が痛いですっ」
 冥月は床に俯せになった後、そのまま上体と足を弓なりに反らせる。肩の所につま先が来ている姿を見ているだけで香里亜的には自分の背骨が痙りそうな気になるが、冥月にとっては朝飯前だ。
「自分の肘は顎につかないって言いますけど、冥月さんならくっつきそうですね」
「…それは人間の体の構造的に無茶があるだろう。私だって出来ないことはあるぞ」
 くるりとアクロバティックなポーズから真っ直ぐ床に立ち、冥月は香里亜の顔を見た。
 今日は柔軟をしっかりやらせようと思ってここに呼んだのだ。元々体は柔らかいようだが、本格的にヨガなどをやらせてみるのもいいだろう。体の歪みが治るだけではなく、体の深い場所にある筋力も鍛えられる。
「今日は柔軟がメインだ。最終的にはここまで出来るように、少しずつやっていくぞ」
 そう言うと冥月は180度開脚のまま、そのまま体を前倒しにしてお腹を床に着けた。
「そこまでですか…頑張ります。老師」
 早速床に座り足を広げようとする香里亜を、冥月は手で止めた。柔軟体操でも何でもいきなり高いところを目指そうとすると筋や筋肉を痛める。頑張りやな所があるので、とにかく冥月に追いつきたいのは分かるのだが、それで身体を壊しては元も子もない。
「待て、焦るな。まず呼吸をゆっくり整えて、基本のポーズからやらないと筋を痛める。それは最終的な目標だから、私が教えるとおりにやっていけ」
 ヨガの一連の流れに沿って柔軟をやっていった方がいいだろう。まずは『パッダコーナ・アーサナー(開脚のポーズ)』と呼ばれる、足の裏を合わせたまま背筋を伸ばし、息を吐きながら体を前に倒す…というポーズから順に教えることにした。
「上体を前に沈めるように意識して、出来るだけ膝は床に着けるようにしろ。体を倒す時に息を吐き、起こす時に息を吸うのを忘れるなよ」
「ひーっ、膝が床に着きま…痛たっ…」
 冥月は簡単に言ってやってみせるが、それでも香里亜からすると一杯一杯だ。息をゆっくり吐くように意識すると膝が床から離れ、膝を意識すると呼吸を忘れる。
「毎日やれ、鍛錬がより活きる…やる時には床にマットなどを敷くのを忘れるなよ。私が持っているのを一枚やるから」
「はい…私意外と股関節硬いかも…」
「それは毎日やってほぐすしかないな」
 ヨガを使った柔軟も初めてなので、一つのポーズを終える事に『シャヴァ・アーサナー(屍のポーズ)』と呼ばれる、仰向けになって足を肩幅に開き、背骨を中心に左右対称になるようなポーズをさせていく事にした。そのまま十回ほど深呼吸をして、緊張した筋肉をほぐしていく。冥月ほど慣れてくるとそう頻繁にほぐさなくてもいいのだが、今日が初めての香里亜にはこれも重要だ。何事も基本からやっていかないと怪我の元になる。
「あちこち伸びて気持ちいいですけど、やっぱりもうちょっと柔らかさが足りない気が…」
 コブラのポーズや弓のポーズなどをした後、今度は股割りだ。やらせてみると、香里亜はかなり180度に近い開脚は出来るのだが、そのまま体がなかなか前に倒れない。
「痛いです。膝の裏の筋がー」
「喋りながらやると怪我するぞ。ちゃんと息を吐きながら」
「は、はい」
 背中をゆっくり押し、少しずつ体の筋を伸ばしていく。怪我をしないように気をつけてはいるが、痛がる香里亜に容赦なく冥月は柔軟をやらせた。ある程度体に覚えさせ、それを習慣にしなければ体の筋は伸びていかない。少し厳しいかも知れないが、これぐらいやらなければダメだろう。
「な、何かあちこちの関節が外れるような…でも、体の芯の筋肉を使うって感じがしますね」
「それが分かればいいんだ。毎日少しずつでもやれよ…少し面倒でも一回ごとに『シャヴァ・アーサナー』は入れてな」
「はい」
 今日はこれぐらいだろうか。『シャヴァ・アーサナー』をやっている香里亜を尻目に、冥月はそのまま前に「掌以外の場所に触る訓練」をした場所に歩いていく。
 前回は実践形式で間合いを取る事と、相手の力を受け流すことを教えた。何者かに襲われた時、恐怖で萎縮する体を動かす為には結局反復訓練しかない。頭で完璧に理論を覚えていたとしても、体が一ミリも動かなければどうしようもない。
「今日は香里亜にハンデをやろう」
「えっ?」
 次に何をするのか分かっているのか、近くまで来た香里亜に冥月はマットを指さした。そこには一メートルの円が描いてあり、その中に冥月が立っている。
「私はここから出ないから、私に少しでも触れたりこの円から出させる事が出来たら、褒美をやろう。やる気が出るだろ?」
 ふっと冥月が目を細めた。
「ご褒美ですか…?」
「ああ、丸一日何でも言う事きいてやるとかでもいいぞ。どうする?」
「やります!頑張ります!」
 香里亜が真剣な表情で間合いを取り始める。前回やった訓練で相手との間合いが分かってきたのだろう…ジリジリとした緊張感がお互いの間に走る。
 だが…。
「行きます!」
 戦闘時に声を出すのは、体の力を抜き己を鼓舞するという点では間違っていないのだが、香里亜はどうしても仕掛ける前にそれを言ってしまうらしい。その攻撃をひょいと避け、冥月は香里亜の手を捻って投げ飛ばす。
「攻撃する前に『行きます』って言ったら、奇襲にならんだろう」
「うっ…言わないように頑張ってるんですけど…」
 真っ直ぐ特攻してきてみたり、タイミングをずらすのに横にステップを踏んだみたりしながら何度も香里亜が懐に飛び込んでくる。それでも冥月は掌以外に触れさせず、更に香里亜に受け身を取らせる練習をさせた。
「香里亜、後ろに転ぶ時は必ず顎を引く癖をつけろ。それで頭を怪我する確率は減る」
「顎を引く…」
「頭にダメージが来ると、それが致命傷にもなる…氷の上で滑った時にも受け身が取れてるとケガをしない」
 すると香里亜がぴょんと立ち上がりながら、にっこり笑う。
「あ、転ぶのは北海道で慣れてるんで大丈夫です。多分」
 さて…やる気を出させるために『褒美をやる』とは言ってみたが、香里亜はどんな戦法を取ってくるだろうか。間合いはある程度分かってきたようだが、普通の奇襲や力押しでは簡単に体に触らせるつもりはない。足下を狙うという目の付け所は良いが、それだけではジャンプで交わすことが出来る。
「うーっ、この前は全然ダメだったから、今日はちょっとでいいから触りたい…」
 そう呟きながら香里亜が額の汗を拭った。息を整え、冥月の隙をうかがおうとしている。前回ならわざと作った隙にそのまま突っ込んできたのだが、流石にそれでは通用しないと気付いたようだ。
「降参してもいいぞ」
「それは絶対嫌です…」
 そうは言うものの足下がだんだんよろよろとしてきている。もう少し持つと思っていたが、柔軟の疲れが足に溜まっているのだろうか…それでも冥月の方をきっと見ながら香里亜は姿勢を低くして走り込んでくる。
「たあーっ!」
 これが最後の攻撃か。咄嗟に手を床に着き、足を使って転ばせようとしたのを冥月は冷静に払いのけ、後ろに転ばせた。
 顎を引きながら香里亜がパタンと後ろに倒れる。
「もう終わりか?」
「………」
 返事がない。
「香里亜?」
 受け身は取っていたはずだ。だが躍起になっていたせいで自分の体力の限界を見誤ったか…それでも頑張った方だ。冥月がそっと様子をうかがおうとした時だった。
「ふふふ…触りました!」
「………!」
 床に倒れていたはずの香里亜が、冥月の足を触りながらニコニコ笑って顔を上げる。
「騙したのか?」
「いえ、騙したというか…転んだ時に『どうしたら触れるのかな…』って考えて、一回だけなら通用するかなって。でも、やっぱりズルだからダメですよね」
 マットの上に正座したまま自分を見上げる香里亜に、冥月は苦笑した。確かに『ズルをしてはいけない』とは言っていないし、実際の戦闘ではずるいとかフェアなどという言葉はない。どんな方法でも生き残った方が勝ちだ。香里亜が正々堂々としか戦わないと思っていた自分にも非はある。
 まあ香里亜の言う通り、二度と同じ相手に通用しない手なのだが。
「…仕方ない、私が油断していた。今日の所は香里亜の作戦勝ちだな」
「わーい。でも、次は正々堂々と触れるよう頑張ります」
「褒美は何がいい?何でもいいぞ」
 たまにはこうやってやる気を出させるのもいいだろう。意外な一面も見られたし、自分が油断しやすい場所も分かった。だが香里亜は、正座のまま膝に手を置き何かを考えている。
「ご、ごめんなさい…触るのに夢中で何も考えてませんでしたっ!」
「…は?」
 本当に勝つことしか考えていなかったのか。
 防御向きだと思っていたが、負けず嫌いの所もあるようだ。そういえば思い返すと勝負事などに意外と熱くなっていた所もある。
「じゃあ褒美は保留だな。今日の所はこれぐらいにしておくか」
「ありがとうございました。何か考えてきますね」
 ぺこりとお辞儀をした香里亜の頭を撫でながら、冥月はもう一度くすっと笑った。

 訓練の後はいつものように広いバスルームで汗を流す。
 香里亜が持ってきた杏仁豆腐の香りがする石鹸で冥月が体を洗っていると、同じように体を洗っていた香里亜がじっとその様子を見ている。
「どうした?」
 そう聞くと、香里亜は何故か溜息をつく。
「私と冥月さん、やっぱり体洗う手順が違う〜」
「………?」
 体を洗う手順の意味が分からない。足や手から洗うとか、そういう意味なのかと思っていたが話を聞くとそうではなさそうだった。
「胸が大きいと『胸の下を洗う』ってアクションがあるんですよね…私も体を洗う時は胸の下から洗うとか、柔軟で俯せになる時胸が邪魔とか言ってみたい。言ってみたいですっ」
「そんなに強調してまで主張することか!」
 この前胸を触られたので、冥月は石鹸の泡がついたままの手で香里亜の胸を揉みかえしてみた。確かに小さくはあるが、それはそれで香里亜の体のバランスには合っていると思うのだが、やっぱりそれでもコンプレックスらしい。
「ほにゃ!触られたっ!」
「この前のお返しだ」
 思わず不敵に笑ってみせると、香里亜は左手で自分の胸を隠しながら右手を伸ばしてくる。
「えいっ!私のは片手で隠せますけど、冥月さんは隠せませんよ…って、自分で言って悲しくなりました」
「…言わなきゃいいのに」
 しょんぼりと肩を落とす香里亜をみて、冥月がボディスポンジを持ちながら呆れたように笑う。
「バストアップ体操とかもしようかな…」
「それは置いといて、背中を流してやるからそんなに気を落とすな」
 隣の芝生は青いのか。
 一生懸命両手を合わせてグッと力を入れる香里亜の背中を流しながら、冥月は溜息をついた。

fin

◆ライター通信◆
いつもありがとうございます、水月小織です。
柔軟と前回のシチュノベでもやった訓練の二回目という事で、色々調べて書いてみました。柔軟はヨガがいいみたいですね…息を吐きながらと意識するのが大変そうです。
そして訓練は、意外と負けず嫌いな香里亜が「一度しか通用しない」作戦で頑張ってます。何をおねだりするんでしょうね…まだ保留みたいです。オチのシーンはいつものお約束で…。
リテイク、ご意見は遠慮なく言ってください。
またよろしくお願いいたします。