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unendliche Melodie
冬枯れた木立ちが、枝に積もった雪の重みで低い軋みをあげながら崩れ落ちていく。
その夜は全ての音が雪に埋め尽くされ、凍てついた地の上を撫でてゆく風の声までもが無音だった。ゆえに、古枝が折れゆく音はいやに大きく響いた。
庭に咲く冬薔薇の具合を見て周った後に、モーリスは屋敷内に踏み入って、そのまま施錠しようと息を吐く。
モーリスが仕えるセレスティが所有している屋敷は、西欧の、貴族文化華やかなりし時分のものをそのまま再現させたような造りのなされたものだ。
豪奢な屋敷に見合った、華奢で豪奢な銀細工の鍵を持ち上げて、その時モーリスははたりと視線を細ませる。
無音であったはずの場所に、いつ来たのかも知れぬ老婆が一人立っている。
夜の色を映した粗末なローブを頭から被り、皺と染みだらけの骨ばった細腕で一枚の額縁を抱え持って、鉤鼻の下の大きな口を真横に引いてニタリと笑った。
「美しいお兄さん、美しい画はいらないかい」
しゃがれた声音でそう云って、老婆はひくひくと醜い笑みを零す。
モーリスは意識せずに鍵を後ろ手にまわし、老婆の視線には映らないようにと隠し持った。
「お婆さんは画商なんですか? こんな夜遅く、しかも雪の降る寒い晩にわざわざお越しいただけるとは、さぞかしお身体も冷えていらっしゃいますでしょう」
「いいや、心遣いはいらないよ。それよりもお兄さん、美しい画はいらんかい」
「申し訳ないのですが、お婆さん。私はこの屋敷の庭師にすぎない立場の者です。一枚の画を買うか否かの判断は、私の主でなければ下せないのですよ」
「それならその主とやらに訊いとくれ」
老婆は頑なにそう口にして、まるで根が伸びているかのように、じわりとも動かない。
モーリスは困ったように首を傾げ、しかしその反面で愉しい玩具を目にした時のような笑みをも浮かべ、春の野の色をした眼差しをゆったりと細めて応えた。
「畏まりました。ただいま、我が主をお呼びいたしましょう。お婆さん、貴女が直に主へ話をされてみたら宜しいでしょう」
そう告げて大仰な所作で腰を折り曲げ、近くを通りかかったメイドの一人に用事を言いつける。
メイドはモーリスの言を受けると深々と腰を折り曲げて、それから小走り気味に廊下の奥へと走り去って行った。
開け放たれたままの扉からは冬の夜の凍てついた風が容赦なく流れ行って来る。
老婆は数度ばかり屋敷内への立ち入りを申し出たが、モーリスはそれをいちいちやんわりと押し留め、断り続けたのだった。
凍てついた風は老婆の身から吹いて来る。
夜の色のローブが僅か程にも動かないのを見て取って、モーリスは心の内だけで小さく笑っていたのだ。
今、眼前にある老婆が何者であるのか。考えれば心が歓喜に躍る。
冬の夜は長い。
恐らくはモーリスの主――セレスティも、モーリスと同じ愉悦を見出してくれるだろう。
が、災禍の種は屋敷内に立ち入らせるわけにはいかないのだ。
「もうしばし、こちらでお待ちください。ただいま、先ほどのメイドかそれに代わる者が、温かな飲み物をお持ちいたしますので」
デッキチェアーに腰をかけ、暖炉が落とす火影の中で古書に指をかけていたセレスティは、控え目にドアを叩く何者かの気配で視線を持ち上げた。
壁掛けの時計に目を遣れば、時刻は夜の二十三時を過ぎている。深夜と呼ぶに相応しい時間帯だ。
しかし、セレスティは気を悪くするでもなしに穏やかに応え、静かにドアを押し開ける。
「モーリス様がお呼びです」
小走りに駆けて来たのだろう。若いメイドは小さく息を跳ね上げ、僅かに顔を紅潮させて、口早にそう告げた。
「モーリスが?」
訊ね返したセレスティに、メイドは更に言葉を続けようとする。
が、彼女の声が言葉を成すよりも先に、セレスティは静かにそれを制したのだ。
「分かりました。モーリスはどこに?」
ナイトガウンを纏い、使い慣れた杖をついて、セレスティはゆっくりと廊下を歩く。
メイドが告げた応えに頷くと、セレスティは絹糸のような銀髪をさらりとかきあげた。
「こんな夜更けに画商の方が見えるとは。――楽しいお客人のようですね」
「画商の方だそうですね」
モーリスの背中を見つけ、その向こうに隠れている老婆の姿を確めて、セレスティは柔らかな声音で微笑みかける。
モーリスは肩越しに視線を向けてよこし、眼差しだけで笑みを浮かべて小さな会釈をした。
老婆が手にしている画は未だにその内容を明らかにはしておらず、主を迎えたモーリスも肩を竦めて笑んでみせるぐらいしかなかったのだ。
「こちらの婦人が、この画を買っていただきたいのだと仰るのです」
「金はいらんさ。ただ、この画を部屋に飾って、少ぉしでも愛でてくれりゃあ、それで充分なのさね」
鉤鼻をひくつかせながら、老婆はひしゃげた笑みを零す。
セレスティは画に視線を落とし、次いで小さく頷いた。
「なるほど、そうでしたか。――しかし、この寒さの中にあっては冷え込みますでしょう。中で温かなお飲み物でもいかがですか」
「セレスティ様」
穏やかな声音でそう述べた主に、モーリスが瞬時に顔色を変える。
しかしセレスティはモーリスを見遣って静かに頷いたきり、喜色をこめて笑い出した老婆を伴って応接間の方へと歩き出したのだった。
老婆が歩むと、その足跡はたちどころに黒々としたものへと姿を変える。
見送るモーリスの前を、したり顔の老婆と、凍てついた風と、それに引かれていくかのように、幾つかの黒い影とが過ぎて行った。
「さて、それでは、その画をお見せいただきましょう」
ソファに腰を落とし、早々、セレスティは老婆に向けてそう述べる。
老婆は待っていたかのように、抱え持っていた画をガラステーブルの上へ置く。
「これは」
「凍土さね」
老婆のひしゃげた笑みが部屋の中に充ちてゆく。
「この画は凍てついた死の大地を描いたものでね」
「ああ、だから白と黒の二色きりなのですね」
頷き、セレスティはゆっくりと足を組みかえる。
開かれた額縁の中、白で塗り固められた一面に、黒が所々で差し込まれているのだ。
部屋の温度が見る間に低くなっていく。窓ガラスは、今や、触れれば砕ける氷の塊のようになっていた。
「この画を飾れば、」
「そこに住まう者は皆、死の凍土に踏み潰される。呪物っていうのは存じておいでかい、美しいお兄さん」
老婆の顔からローブが滑り落ちる。
顕わになった老婆の顔は骨と皮ばかりになった死の使者たるもののそれになっていた。
死が嗤っている。
「アタシを迎え入れてくれて有難うよ」
触れたドアノブが異常を示しているのを知って――いや、それ以前に、屋敷の中には大いなる異変が生じていた。
瞬時にして全身の温度を奪われ、凍り付いて腐ってゆくメイド達。一瞬にして干乾びた食物に、凍てついて用を成さなくなった全ての機能。
モーリスは客人のためにと命じられ、温かな茶を淹れに席を外していたのだ。今や、茶を淹れるにも、肝心の茶器や給湯がその用途を成さなくなっている。
急ぎ駆けつけた応接間は不可視の膜によって覆われているかのように感じられたが、構わず、モーリスはドアノブを押し開けた。
そうして目にしたそれは、老婆の姿を借りた死神と、死で侵食されつつある部屋の光景と、それらに呑まれつつある主の、――主は、それでも安穏とした笑みを絶やさずにいる。
「セレスティ様!」
主の名を口にして、モーリスは凍りついた空気を一蹴するかのように、大きく一度手を打った。
部屋の中を――ひいては屋敷の中を充たしつつあった死の影は、その音と共に大きく爆ぜた。
老婆の姿の死神は、甲高く不快な叫びをあげて潰れていった。
死を描いた一枚の画は死神と共に消失し、後にはその痕跡ひとつ残されてはいなかった。
老婆の亡骸であったのだろうか。その場に遺された汚土は、最後に大きく吹き抜けた冬の風に巻かれ、何所へともなく散っていったのだ。
「セレスティ様、お怪我は」
急いでセレスティの傍へと歩み寄り、手を取って脈拍等を確める。
「大丈夫ですよ、モーリス。……ああ、余計な心配をかけてしまいましたね」
対するセレスティはひどくのんびりとしたもので、僅かに乱れた銀髪を手櫛で軽く整えた。
モーリスは大きく息を吐き、屋敷内の機能が正常に働きだしたのを横目に見遣りながら頷く。
「悪戯心が過ぎますよ。……あれが不浄の者であるのを知っていながら、何故屋敷内に通したりしたのですか」
訊ねると、セレスティは少しばかり気恥ずかしげに目をしばたかせ、それから手にしていたままの古書をモーリスの前へと差し伸べた。
「ちょうど、死神に関する記述を読んでいたところだったのです」
「……それで、はかったように現れた彼女をわざと招きいれたのだ、と?」
「……実は、その古書は、召喚術に関しても言述しているもので」
セレスティが申し訳なさげに首を竦める。
モーリスはしばし唖然とし、思い出したように口を開けた。
「……まさか、セレスティ様が呼んだのでは」
訊ねるが、セレスティは応えようとはしない。
ただ、悪戯を見つかった子供のように、首を竦めているばかり。
モーリスはしばし唖然と主を見据えた後に、呆れたようにかぶりを振った。
「温かな飲み物でも淹れてきますよ。紅茶で宜しいですか」
立ち上がり、セレスティに一瞥する。
――悪戯では済まない惨事だ。メイド達は何人もが犠牲になっている。
「……ブランデーを落としてください」
モーリスが怒りを見せないのに安堵してか、セレスティはたちまち満面の笑みを浮かべた。
「畏まりました。……片付けもしてまいりますので、十数分ばかりお待ちください。――ああ、でも、この古書はもういけません」
云って、モーリスはセレスティの手から古書をするりと抜き取る。
セレスティは後ろ髪を引かれるような顔をしていたが、モーリスは構う事なく歩みを進めた。
気紛れに人の命を脅かすのが死神と称されるものならば、
――モーリスはちらりと後ろを一瞥し、ソファの上の主の姿を目にとめる。
悪戯に惨禍を引き起こすセレスティでさえも、そう呼ばれる者となりうるのかもしれない。
自分が仕えている者が果たして何者であるのか。――例えば死を引き起こす存在であるとしたならば。
考え、モーリスはドアを閉める。
浮かぶのは、それならば自分はその手足となって、その処理を担うだけなのだという結論だけだ。
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
January 4, 2007
MR
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