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その女、近寄るべからず
五合庵という離れがある。曹洞宗荘厳寺の敷地内にひっそりと建てられ、下界とわざと切り離されているような離れである。
その庵の主人、妙円寺しえんは、のんびり一人杯を傾けていた。
狭い板の間の上に一人用の小さな炬燵を設え、背中を丸めてもぐりこみ。
ガスコンロの土鍋の中身が煮えるのを、今か今かとうきうきしながら待っているその様は、立派な生臭坊主である。
「…ぷはぁ」
時折鍋の中身をつつきながら、熱燗の日本酒をくいっとやる。…この一杯のために生きているよなあ、と言いたくなる様な、そんな至福の時間。
冬は寒いのが道理である。仏に仕える僧たるもの、自然の理を曲げるわけにはいかないし、そんなちからもない。
ならば自然に逆らわず、寒いのならばそれに応じた対処をするべきである。
というわけで、しえんは小さな庵の中で、ぬくぬくと引き篭もっていた。
これぞ至福。欲を言えば白濁色の温泉なんぞに肩まで浸かって温まりたいものだが、いかんせんそこまで懐は暖かくない。
「上を見ず、現状に満足することも必要ですわ」
最もらしいことを呟き、こぼれそうな杯におっとっと、と口をつけるしえん。全くもって、いいご身分である。
…だが。
「…このお酒がなくなれば、如何致しましょう…」
そう、ぽつりと呟き、傍らの一升瓶を見た。寺の蔵から勝手に持ち出してきたのだが、確かあまり在庫がなかったように思われる。
冬といえば熱燗、熱燗といえば冬。今のしえんには、目の前から湯気がたちのぼる杯が消えることは有ってはならない。
「ふぅ…」
しえんは仕方無さそうに、ため息を洩らした。
「アンティークショップ、レン…」
しえんの元には、時折調伏の依頼が舞い込んでくる。それらは懐の寂しいしえんにとって、絶好の機会だ。
だが依頼書を手に、袈裟をはためかせながら道を行くしえんの顔は明るいものではなかった。
「レン…あの女の店には行きたくなかった…」
ほぅ、とまるで恋煩いに罹った女学生のようなため息を洩らす。
しえんとて妙齢の見目麗しい女性である。眉を微かに寄せ、そんなため息を洩らせば、すれ違う男性も思わず振り向くというものだ。
だがそんなしえんの腹の中は、外見とは裏腹にふつふつと煮えていた。
アンティークショップ、レン。その店の名は、しえんにとっては禍々しい凶星のようなものである。
関われば必ずと言っていいほど騒動が起き、自分の身に火の粉がふりかかる。
当事者に言わせれば、それは少なからずしえん自身のせいである場合が多いのだが、しえん本人はそんな戯言には耳を貸さない。
ただ自分は、自分の信じる道を突き進んだまでのこと。すべての厄介ごとはあの女、店主の碧摩蓮が巻き起こしたことである、と硬く信じているからである。
「今度こそ…まともな依頼でありますように」
しえんはそう西洋式に手を組み、自分の中の何かに祈りを捧げた。
「いやぁ、悪いねェ。寒い中、わざわざ足運んでもらって」
「いえ、お構いなく。ただ炬燵とお友達になろうとしていただけですから」
言葉の隅に、わざわざ自分の店までしえんを呼び出した蓮への嫌味を込める。
だが蓮は全く気にする素振りを見せず、トレードマークのチャイナドレスの腰に手を当てて、
「あっはっは、そりゃよかった。いい若いモンが寒いからって閉じ篭ってちゃいけないよ」
そうけらけらと笑いながら言うので、しえんのこめかみはピクピクと痙攣してしまう。
誰のせいであの至福の時間を放り出したと思っているのか。だがそう反論すれば、依頼を受けたのはアンタだろ、と言い返されかねない。
こんな寒い季節に依頼など、しかも凶星である蓮からのそれなど、喜んで受けたわけがない。
ただしえんの頭にあるのは、美酒で満たされた一升瓶と、隙間風の無い本堂である。
そのためには、嫌味ったらしいクソ女の下にも足を運ぶというわけだ。
「まあ世間話をするために呼び出したわけじゃないからね。さっさと本題に入るよ」
「それもそうですわ」
しえんは蓮の言葉に頷いた。これ以上蓮の無駄話を聞いていると、そのうち依頼をこなす前に頭がどうにかなってしまいそうだ。
「で、あんたに任せたいのはね。仏像なんだよ」
「…はぁ」
しえんは気のない返事を返す。これまた厄介なことになりそうだ、とひしひしそんな予感を感じつつ。
蓮はしえんの様子など何処吹く風で、店の奥を親指で指した。
確かにそこには、たいして大きくも無い仏像が鎮座している。背丈はしえんの腰ほどだろうか。
「この仏像が何か?」
「何かってあんた。この仏像が、あたしの夜食を食っちまったんだよ」
「……」
しえんは仏像を見、そして蓮のほうにもう一度顔を向けた。
「…はい?」
自分の聞き間違いだろうか。いやそうであって欲しいと祈りつつ、しえんは素っ頓狂な声で聞き返す。
「…夜食?」
「そうだよ。ほら、雑誌にも乗った中華街の饅頭屋。あそこの餡マンをねえ、夜食用に買いだめしてたんだよ。それをこいつがぺろっと食っちまって」
蓮は憎々しげに仏像を睨む。しえんはボーゼンとしながら、蓮に尋ねる。
「…それで、わたくしに、この仏像を?」
「そうだよ、退治してもらおうと思ってね。あんた一応尼さんなんだし、仏像はお手のモンだろ?」
…ということは、だ。
自分が寒風吹きすさぶ中、熱燗と鍋物の誘惑を振り切りやって来たのは、アンマンのためだと?
「おまっ…!」
思わず怒鳴りつけようと口を開いたしえんだが、はっと気づいて口をつぐんだ。
そんなしえんの様子にハテナマークを浮かべる連をちらりと見、ううむ、と考える。
饅頭を食う仏像。否、仏像が食ったと言い張る女。…どこかで聞いたような話だ。
はぁ、とため息をつき、しえんは蓮に言った。
「…貴様。もしかして、空腹に負けて、全部自分一人で召し上がったのでは?」
ちら、と横目で蓮を見てやると、蓮は眉を寄せて反論する。
「はぁ? 冗談いうんじゃないよ。饅頭10個も一人で食べられるかい」
…10個も買いだめしやがったのか、この女…。
そうツッコみたい気持ちを抑えつつ、しえんはわざと大仰に身をすくめて見せる。
「ですが、証人が貴様本人しかいないのならば、信用するのは難しいですわね」
何か言い返そうとした蓮を遮るように、しえんは続ける。
「貴様の言い分を聞くだけでは埒があきませんので、仏像本人に聞いてみましょう」
しえんは、きょとんとしている蓮の目の前で、袈裟の中からさっとりん棒を取り出した。
何かあったときのために、寺からもってきたのだ。
そしてつかつかと仏像に近寄り、仏像の身体を適当に2,3度叩く。
すると金属で出来ている仏像は、くわ〜ん…とぼんやりした音を響かせた。
しえんは、ほらね?と蓮のほうに得意げに振り返った。
「仏像は、くわん…つまり、食ってないと申しておりますわ。ほほほ、いい加減シラを切るのはおよしになったら如何ですか。
饅頭10個、蓮さんがぺろりと召し上がってしまったのでしょう?」
しえんは得意げに胸を張り、軽やかな笑い声をあげてみせた。
ざまあみろ…そんな目で蓮を見てみる。蓮は半眼でしえんを見返している。しえんが何をやりたいのか、既に察しているのだろう。
つまりは良くある小話の一つなのだ。
寺の小坊主が饅頭を食ってしまったことを住職から隠すため、仏像が食ってしまったと嘘をつき。
住職は小坊主の嘘を暴くため、仏像を棒で叩く。すると金属で作られ、中が空洞の仏像からは、くわんくわん、と音が鳴る。
ほれ見てみろ、仏像は食っていないといってるじゃないか、と問い詰める、という話。
しえんはそれを模倣してみせた。ならば、続きは?
「如何致しましょう。これでは蓮さんの体重が大変なことになってしまいますわ」
日頃のお礼とばかり、ほほほと笑ってみせるしえん。
小話では、まだ続きがある。今度は小坊主が、釜で仏像を煮るのだ。
すると中が空洞になっている仏像は、次第に中の空気が洩れてきて、くったくった、と音をさせる。
そこで小坊主は、ほら食ったといっていますよ、と言い返す…という、所謂頓知の一つである。
蓮がこの話を知っているなら、しえんに負けじと続きを模倣するだろう。
鍋を持ち出してきて、仏像を煮るかしら。大して大きくはないといえども、しえんの腰ほどまではあるのだから、
そんじょそこらの鍋には収まらないだろう。ドラム缶でも持ち出すのか…としえんが思っていると、蓮が早速行動に出た。
「ふっ…上等じゃないか」
蓮は薄く笑みを浮かべている。なぜかその笑みを見て、しえんは薄ら寒いものを感じた。
しえんが眉を寄せていると、蓮は仏像をがっしと掴み、そのまま店の中を引きずっていく。
よくもまあ、あの細い身体にあんな力が眠っているものだと半ば感心しつつ、しえんはその跡を付いていく。
「…蓮さん?」
そう声をかけてみるが、蓮は反応しない。
ぽいっと仏像を店の外に出したかと思うと、やけくそのような勢いで、げしげしっと仏像を蹴りつけるではないか。
「ていっ、ていっ! お前のせいで恥かいたじゃないか! くのっ、くのっ」
そんな勢いの蓮をとめることなど出来ず、しえんは、あ〜あ、と思いながらぼんやり見つめていた。
無論、自分のせいだとは微塵も思っていない。
しかし、やはり仏道に身を置くしえん。そのまま黙ってみているのも、気分が悪い。
「蓮さん、それぐらいに。以降はだいえっとに励めば宜しいじゃありませんか」
「だから、あたしは食ってな―…!」
蓮がそう反論しようとしたとき、蓮の足がぴたりと止まった。
あれ?と不思議に思い、覗き込むしえん。そのしえんの目が、まん丸に開かれた。
「…なっ」
しえんは思わずぽかん、と口をあける。今しがた蓮に蹴りつけられていた仏像が、何の作用でか、むくむくと膨らむように大きくなっていく。
あっという間にしえんの背を越し、倍以上の大きさになった仏像は、ぎょろり、としえんを見下ろした。
「ちょっ」
…何でわたくしが?
そう問いかける間もなく、仏像はぎしぎしと動き出し、しえん目掛けてその大きな腕を振り下ろした。
しえんは持ち前の運動神経で、済んでのところでひらりと身をかわしたが、しえんが立っていたコンクリートの地面は、めりっとひび割れている。
思わずぞっと青くなるしえん。助けを求めるかのように首をめぐらすが、先程まで横に立っていたはずの蓮は、いつの間にか姿を消していた。
「おどりゃ、たいがいにせぇよ!!」
しえんは脱兎のごとく逃げ出していた蓮に向かって怒鳴った。すっかり頭に血がのぼり、しえんの本性が出てしまっている。
だがもう既に姿が無い蓮に怒鳴っても、目の前の仏像が止まってくれるわけもなく。
飽きもせず、太い腕をたたきつけてくる攻撃を避けながら、しえんは袈裟に手を突っ込み、素早く両手を突き出した。
その手には、袈裟とは全く似合わない二丁の拳銃―…コルトガバメントが握られている。
「われ、じゃかぁしいんじゃ!」
しえんはそう怒鳴り、コルトガバメントをぶっ放した。…道のど真ん中で。
「…どういうことですかな、これは」
後日。寺の僧侶に呼び出されたしえんは、目を背けながら縮こまっていた。
僧侶がしえんの目の前に置いた薄っぺらい紙には、ゼロがいくつも連なる数字が記載されている。
「…何でも、これは某アンティークショップの家屋修理代だとか。…貴女様が損壊させたとは本当ですか?」
「ほ…ほほほ」
しえんはそう、乾いた笑いを立てるしかなかった。
肩を落とした僧侶が退室したあと、しえんはダン、と片足で板の間を踏みつけ、蓮からの請求書を握りつぶしていた。
そして空の星を睨みつけ、心の中で思う。
―…やはりあの女は、自分にとっての凶星だ、と。
隙間風がぴゅうぴゅうと鳴る本堂を建て直せる日は、まだまだ遠い。
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