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聖夜ニ過ル 還ラザル人
来客の正体を確認した瞬間、妙円寺・しえんはたった今開けたばかりの玄関の引き戸を、そのまま思いっきり閉めてやりたい衝動に駆られた。
『開けるんじゃなかった』
或いは、
『見なかった事にしていいだろうか』
――つまり心境としてはそんなところである。
しかし、その衝動を実行に移すには、少しだけ時間が足りなかったようだ。
「なんだい、その顔は」
しえんが戸を引くより一瞬早く、来客が口を開いてしまったからだ。しかもその声を聞きつけて、奥の間から小走りに出迎えに来た僧まで居たりしたものだから、もう目の前の現実を受け入れるしかない。
「どうも歓迎されてないみたいだねぇ?」
内心で舌打ちするしえんとは対照的に、来客であるところの碧摩・蓮の顔には、皮肉と余裕を交えた笑みがある。己の登場がしえんの精神にどのような影響を与えているか、それを承知し面白がってすらいるのだろう。
それに対するしえんの反応は――
「歓迎する理由がございませんからね」
――即答。
焼けて半壊した本堂はまだ再建中……いやさ、資金やら本山の思惑やら、その他諸々「オトナの事情」のため、そもそも再建の目途すら立っていない。仮住まいのこの離れ「五合庵」で年を越す事が、もう完全に確定だ。
そんな現状の原因を作った蓮は、しえんとすれば招かれざる客最右翼。他にも散々沸点を超えさせられた前科があるため、手放しで歓迎できる方がどうかしている。
「これ以上奇怪な品を持ち込むおつもりでしたら、他所を当たって頂きたいのですが?」
「まぁそう云いなさんなって」
きっぱり云い放っても尚、蓮の顔から笑みは消えなかった。しかしそれは、先程までの相手を見透かすような笑いではなく、苦笑。
そして、しえんの目の前にスッと差し出された物があった。
「確かに手ぶらじゃないけどさ――近くで買って来たプリン。別に怪しげな物なんかじゃないってば」
蓮が掲げているのは、手提げ型の白い小さな箱。その側面にプリントされているロゴには、しえんも見覚えがある。確かに、駅前の商店街にあるケーキ屋のロゴだ。
もしや手土産……という事だろうか。
何と珍しい。
(明日は台風……いえ、大地震かも知れませんわね)
想定外の展開を前に、しえんは本気で呆気に取られていた。
相手の警戒心が薄れ掛けたのを感じ取ってか、蓮の苦笑が色を濃くする。
「ホラ、今日はクリスマスイヴだろ? こんな日にひとりで店に篭ってるのもどうかと思ってねぇ……どうせヒマだろ? 女同士のささやかな祝宴って事で、付き合っとくれよ」
つまりクリスマスパーティのつもりらしい。
「……」
色々あちこち「規格外れ」で型破りではあるが、一応にもしえんは尼僧――即ち仏門の徒だ。クリスマスなどという異教の風習とは無縁どころか、最も遠い世界の住人である。
祝うべきは、聖夜ではなく釈迦の誕生日である灌仏会だ。
そこんとこ、わかって云っているのだろうか……
「…………」
呆れるにも程がある。
しかし手土産持参とあっては、「帰れ」と無碍にも出来ぬだろう。
「歩いてくる間にすっかり凍えちまってね――とにかく入れとくれよ」
半ばなし崩し的に押し切られる格好で、しえんは蓮を五合庵へと招き入れた。
□■□
アールグレイの独特の香りが、湯気と共に室内を漂う。
「って、これ……」
深い紅色の液体で満たされた器を見下ろす蓮の顔には、しかし何故か困惑があった。
「何か、違うんじゃないかい……?」
紅茶と云えばティーカップ――一般的にはそうであろう。
しかしこの時しえんが差し出した紅茶は、どういうわけだか織部の抹茶椀に入っていたのだ。
つまり、すんごいミスマッチ。
出された相手が戸惑うのも、至極当然なのである。
「食器の類は、本堂ともども殆ど壊れてしまいましたので」
しえんの答えはさらりとしていた。
これしか無いのだから仕方あるまいと、彼女とすれば至極ナチュラルな発想なのだろう。
だがその言葉の裏には、本堂破壊の原因は誰にあるんだと、そんな意味が含まれているように思うのは、蓮の邪推か。
「――ま、いいんだけどね」
こぼれかけた溜息を、蓮は紅茶と共に飲み込んだ。
それから、静かに椀を口に運ぶしえんを見ながら、持参の箱へと手を伸ばす。
「さて……せっかく買ってきたんだし、食べとくれよ。クリスマス限定品なんだってさ」
取り出されたプリンは、切子細工が施された緑の器に収まっていた。そこに赤いセロハンのフタが被せられており、確かにクリスマスらしい小洒落た外見となっている。
「まぁ、こういうのは見た目の雰囲気だけで、中身はいつものプリンと同じだったりするんだろうけどね」 あっけらかんと笑いながらセロハンをはがしにかかる蓮につられ、しえんも笑みと共に自分の分の蓋を開けようとして――
「……」
――つと、その手が止まった。
「……」
たった今浮かべたばかりの笑みは、もうそこには無い。
「――どうしたんだい?」
蓮の問いかけも耳には届いていない様子で、しえんはじっと、手にしたプリンを見つめていた。
「……」
真っ赤なセロハン。
その中央には、恐らくこのプリンの名前と思しき文字が、白く印刷されている。
その文字が……
――遠い昔のある場面を、しえんに思い起こさせていた。
□■□
それは、彼女が生まれる前の場面だ。
故に勿論、自身の目で直接見たわけではない。
しかし、これを抜きには語れぬほど、彼女の人生に大きな関わりを持つ場面である。
そのため、まるでその場に居たかの如く、鮮明に思い描く事が出来る。
(26年、たつのですね……)
乾いた砂と岩肌が剥き出しになった山とに囲まれた、国境近くの小さな集落――日本からは遠く離れた国、アフガニスタンでの出来事だ。
小屋と呼んでもいいほどに粗末な家の中には、幾人かの人影。誰もが銃や手榴弾を腰に提げ、物々しい気配を漂わせているその中に、見知った男の顔がひとつ――
あれは、父だ。
そしてその傍らには、ひっそりと寄り添うような風情で小さな椅子に腰掛けた女性の姿……そう、重火器の密売などという、決して安全とは云えない旅にさえ連れ添って行くような、母はそういう人だったのだそうだ。
そこには愛があったのだろう。
『輸送手段は?』
『大丈夫だ、確保してある。日本に荷揚げした後の安全は、勿論あんたの手腕次第だがな』
『アシがつくのが心配か? もし万が一の事があったとしても、お前達にまで火の粉を飛ばす事はしない――安心しろ』
火器や弾薬の詰められた木箱を前に、若き日の父が、居並ぶ男達と語らっている。
傍らの母は、そんな夫の様子を黙って見つめている。
『もうすぐトラックが到着する。今夜中に国境を越えてしまおう』
『そうだな』
その時、荒々しく戸を開けて飛び込んできた人影があった。
一同の視線が、素早くそちらへ動く。
『ソ連軍だ!』
現れたのは、外の見張りを任せていた男だった。気が動転しているのだろう、叫ぶ声は悲鳴のように上ずっている。
『奴らとうとう国境を越えやがった! もう近くまで来てる――逃げろ!』
――そう。この時のアフガニスタンは、紛争のさなかにあったのだ。
イランに端を発したイスラム革命の余波が、この地に誕生した共産主義政権を脅かしており、この政府を支援するため、同じ共産主義国であるソビエトが軍事介入するのではないか――そんな観測が、世界中でなされている頃であった。
ついに来たか。
目前に迫った危機に対し、彼らの行動は迅速だった。
無言で手早く荷をまとめ、銃を構えた者を先頭に外へ出る。父に庇われるようにして、母もその最後尾についた。
キャタピラの隊列が立てる地響きを聞きながら、一行は裏手の山へ――
だがその動きは、完全に読まれていた。
轟音が響く。
放たれたのは、自動小銃による一斉掃射。
民間人か否かの確認など、彼らはする気も無かったのだろう。
『伏せろ!』
銃弾を浴び跳ね上がる砂煙の中で、父が叫ぶ。
しかし……
『ああ…ッ!!』
――この時既に身重だった母には、咄嗟にその言葉に応じる事が出来なかった。宿した生命への衝撃を考え、一瞬反応が遅れた彼女の身体を、無慈悲にも弾丸が貫いてゆく。
ゆっくりと地に倒れる身体。
流れ出た血が、乾いた砂の中へと染み込んでいった。
□■□
そんな場面の末に、しえんは生まれた。
早産だったそうだ。
それには恐らく、銃撃のショックもあったのだろう。
傷の癒えぬ身体で、しかも月満ちるより早いタイミングでの出産は、やはり多大な負担であったらしく、しえんに生命を与えるのと引き換えに、母の生命は失われた。
(あれから26年……)
押し殺した溜息と共に、もう一度、手の中を見る。
遠い場面を思い起こすきっかけとなった小さな菓子。その蓋に書かれた文字を、もう一度見る。
そこに記されていたのは――
『プーチンプリン』
(他愛も無い……)
そう、他愛も無い連想だ。
プリンに付けられた名前からそんな昔を思い出すなど、人によっては笑うであろう。
「そのプリンがどうかしたのかい?」
顔を上げれば、蓮が訝しげに首を傾げている。
「いえ……何も」
語るべき事は何も無い。
仮に語って聞かせたところで、胸を塞ぐ思いが薄れる事は無いだろう。
そう、今となっては、この怒りは何処にもやり場が無いのだ。
あの日母を銃撃した「ソビエト」という名の国は、もう存在しない。時の流れ、世情の流れの中で体制を変え、今や別の国となった。
母を奪われた怒りをぶつけるべき相手は、もう居ないのだ。
行き場を失った思いは、これからもしえんの中で燻り続ける事であろう。そして時おり、今のように何かのきっかけで頭をもたげるのだ。
そんな事を、あと何年、何十年繰り返さねばならないのだろうか――
失われたものが元に戻るなど、ありえはしない。
そして、時の流れるうちにこの怒りが薄れ消える事も、ありえはしないだろう。
そもそも、そんな事は望んでいない。
母に寄せる思いそのものすらも、共に薄れてしまいそうだからだ。
故に、やり場の無いこの思いと共に、生き続けて行くより他に無い。
生涯、忘れてなどやるものか。
「随分、怖い顔になってるねぇ……それじゃまるで、プリンが親の仇みたいだよ」
事情を知らぬ蓮は、訝りながらももはや呆れ顔となっている。
その表情を見返しつつ、うっすらと冷たくも見える笑みを浮かべると、しえんは短く言葉を返した。
「ええ――仇ですわ」
そして、持て余す感情を振り払うかの如く、真っ赤なセロハンをむしり取る。
「あ……云い忘れてたけど」
「? 何でしょう?」
「そのプリン、上にアイスが乗ってるからね。だからそんなずっと握り締めてたんじゃ……」
「――!?」
緑色のガラスの器。
愕然とした目でしえんがそれを見下ろすと……
「あ〜あ……やっぱりねぇ」
その中では、かつてアイスだった筈の白い液体が、たぷたぷと池を作っていた……。
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