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<東京怪談ノベル(シングル)>


混沌、在りし時

 それは東京のビル街の隅。

 少女は、ただそこにいた、だけだった。
 ――暗い空の下。
 ただそこにいた、だけだった。

 暗い暗い闇の下。

 ただただそこにいた、だけだった――

     ++ +++ ++

 なぜその少女に舞い降りたのか? それは綾瀬も知りはしない。
 なぜその少女に決めたのか? それは綾瀬も知りはしない。
 闇。
 暗く暗く暗く。何も見えないそこ。
 何もかもであり、また何もないそこ。
 混沌<カオス>――
 そう、綾瀬は混沌と呼ばれるべきものだった。

 なぜ、混沌のままでいなかったのか? それは綾瀬も知りはしない。
 否……知っていたのかもしれない。
 そんなことはどうでもよかった。なぜなら彼女は<混沌>なのだから。

 混沌である綾瀬に接触してしまった。少女の不運はただそれだけだったのかもしれない。
 混沌である綾瀬には、少女の魂を呑みこんでしまうことなど簡単なことだった。

 少女の意識は簡単に溶けて綾瀬と混じりあう。
 そのときの感覚を、綾瀬は鮮明に覚えている。
 まるで自分の半身を得たような――……
 一方で自分の半身を引きちぎられているような――……
 不思議な快楽に身をゆだねていたような、
 また一方で、不愉快な異物感に嫌悪していたような、

 やがて、少女の意識がはかない花びらのように混沌に沈み、消えていく。

 長い黒い髪。混沌をそのまま映したような黒い双眸。
 その黒をまるで引き立たせるような、なめらかな白い肌。
 そんな体を得て、綾瀬は<生>を知った。
 混沌には決して必要のなかった、生きるということを知った。

「なぜ……だったのだろうな」

 すべては混沌なる綾瀬にさえも、図りかねる出来事――

     ++ +++ ++

 東京のビル街は、夜でも騒がしかった。
 まわりには人っ子ひとりいないように見えて、なぜか騒がしかった。
 綾瀬はビルのひとつの屋上にたたずみながら、思い返していた。
 少女と、融合したあの瞬間を。

 ――あのときも、東京のビル街だった。

 なぜ、だったのだろう……

 ―――っ
 唐突にぴくりと綾瀬の指先が震えた。
 体中の感覚がそれを訴える。綾瀬は回想をやめた。
 少女を呑みこんだときの記憶を思い返すのをやめた。そして、
 上空を、見た。

 こうこうと輝く満月――
 今夜は妖しく神々しい、赤い色の満月。

「美しい夜だ……」

 雲に隠されていない赤い満月の輝きに、綾瀬は目を細めた。

「このような夜に来るとは……無粋としか言いようがない」

 吸収した少女の記憶から得た言葉を紡いでみる。
 綾瀬の言葉が聞こえていたのかどうか――

 少女の周囲に現れたのは、誰だと言われれば答えようがない。
 そう、異世界から来た『敵』としか言いようがない。
 綾瀬にとって、その連中はそういう認識にしかなりえなかったから。
 『敵』は獣のようなうなり声で声高らかに言葉を放つ。

「――混沌よ、貴様さえ殺せば多くの世界が救われる……!」

 言うなり『敵』は綾瀬に襲いかかってきた。
 猛獣のようなうなり声が、少女の聴覚を埋めた。
「雑魚が……力の差を思い知るがいい」
 綾瀬は静かにそう囁き、その掌から力を解放しようとする。
 だが――
「………?」
 ――力が発動しない。
 綾瀬は右手を見下ろした。何も起こらない。
 『敵』は綾瀬の困惑顔を見ながら、あざわらうように言った。
「ニンゲンなどという脆弱な体に乗り移ったばかりの貴様に、混沌の力は使えまい!」
「その体は、もろいものだ――」
「混沌を受け止めるのには時間がかかる、その間に我々は貴様を殺す!」
 バチッ、バチリと『敵』の力が空中で火花を散らす。
 爪を持つ者爪を、牙を持つものは牙を、綾瀬に向けた。
 すべての殺気は、綾瀬のみに向けられ、
 綾瀬は――
「……そうか、まだ未完成ということか……」
 つぶやきながらも、応戦した。
 綾瀬には接触した相手を吸収する能力がある。
 そして、吸収した者の能力をすべてコピーできる能力がある。
 ――だが、その力がうまく発動しない。
 体さばきだけで敵の攻撃を避ける。ある者は火を使い、またある者は打撃を使い。多種多様の『敵』の攻撃を、それでも綾瀬は避け続けた。
 ぴっ
 ぴしっ
 すべてを避けきれず、綾瀬の得た白い肌に、赤い血が流れる。
「………」
 手の甲で血をぬぐってみて、綾瀬は不思議な気分になる。
「……血、か……」
 <混沌>だった頃には、決して自身から流れることのなかったもの――
 それは赤い月に照らされ、混じり合った色に光った。
 ――自分の本来の体ではない。そのことを思い知ったような。

 一瞬の物思いが致命傷になる。『敵』の攻撃が、綾瀬の腹に苦痛を与える。
 ニンゲンの体など脆弱なもの。本当ならその苦痛だけで死んでいただろう。
 だが、今この瞬間の支配者は綾瀬だ――
 綾瀬が死ぬなどありえなかった。
 なぜなら彼女は<混沌>なのだから。

 いくつものビルの屋上を、身軽に移動しながら、綾瀬は『敵』の追撃を避ける。
 動かしにくい体だ。なんと無駄の多い体だろう。
 否、今まで綾瀬に<体>などなかった。
 だからこそ得たことに興味がある。
「使いこなせるのなら……面白い」
 この体を捨てることは簡単だった。
 だが綾瀬は、この体を完全に取り込むことを選んだ。

 ビルの屋上。
 跳ねる綾瀬の血。
 無数の『敵』。
 ――すべてを影にする、妖しく赤い満月。
 赤い、赤い、赤い――

 そしてその瞬間はやってくる。
 赤い満月が、すべてを照らしていた。

 綾瀬の手刀が、一体の『敵』の体を貫いた。

 綾瀬の『筋力』は、おそろしいほど発達していた。『敵』の体を、軽々とぶち抜いて。
 しかし――
 同時に、やはり少女の体が耐えられなかったのだろう――
 綾瀬の右手の骨も、粉々に砕け散った。

 『敵』の残りは、綾瀬の能力の開花に気づき、撤退を決める。
「見ていろ、<混沌>よ! いつか必ず貴様を殺す!」
 それだけの言葉を残して。
 一瞬にして、赤い満月の下は静かになる。
 愚かしい。綾瀬は『敵』の残滓を左手で無造作に払いながら思う。
「まずはこの体に馴染まねばならんな……」
 綾瀬は自分が殺した『敵』の一体を吸収し、そこから情報を集めるとつぶやいた。

 赤い満月。こうこうと。
 ――再生した綾瀬の右手を照らし出す。
 流れていた血もいつの間にか消え去り、彼女の白い肌は復活していた。

 綾瀬は満月を見上げる。
 妖しい色の満月は、まるで綾瀬の流した血を吸収したかのように、いつまでもいつまでも赤いまま。
 赤く赤く赤く――

 やがて綾瀬は、満月に背を向ける。手に入れた体で、堂々と。
「この体が、私、だ」
 つぶやいた言葉。周りに人はなく。動物の気配さえ、なく。
 満月だけが、<混沌>の落とした言の葉を聞いていた――