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<東京怪談ノベル(シングル)>


常花


 水面に花が、揺れている。
 磨りガラスの窓の外は仄か。気怠く変わりない月光が浴室のなかを照らす。
 事が過ぎてもう数日が経とうとしている。
 朱色を溶かしこんだ水中でゆるやかに腐敗をすすめる青い躰も、浴槽の端に寄り集まって少しずつ色を変えはじめた花弁も、ただただじっとして、僅かに射しこむ明かりを身に受けている。
 しかし、その花だけは、揺れている。
 女の頸から提げられた細い鎖の先が、ふいに浮かび上がる。
 すぐに乳房の間に力なく戻る装飾だが、そこには既にあるべきものはない。
 波紋。
 静かな水面を刹那騒がせた主は、艶やかな黒の羽根が一枚。
 そして、羽音が遠い。


 差し出したてのひらに、筒状の小さな銀細工が乗っている。
「ほんとうだ、お母さんのペンダントだ」
 それを無邪気にはしゃぐ子供へ手渡して、優雅な微笑を唇に刻むのは漆黒のマントを纏う紳士だ。
「おじさん、すごいや。でもこれ、お母さんの? お母さんに逢ったの?」
 器用に片眉だけを跳ね上げると、
「その呼び名は改めていただきたい。名はレイリー・クロウ。お望みとあればいかような品でもその手のなかへお届けいたしましょう」
 商人は名乗り、子供の質問をはぐらかす。
「くろう?」
「そちらでも構いませんが、どうぞレイリーと」
「れいりー」
「はい」
「れいりーはぼくのお母さんに逢った?」
 子供は意外としつこい。ペンダントトップを大事そうにコートのポケットへしまいながら、無垢な眼差しがレイリーを仰ぐ。
 それへ嫌な顔をせず、黒の皮手袋が子供のやわらかな髪を掻きまわした。
「ええ、お逢いしましたよ。あなたのお家で」
 家、と聞いた途端にぱっと満面に笑みを浮かべ、レイリーの言葉が終わらぬ間に細く開けた和室の窓へ戻っていく子供の姿だ。
「お父さん! お母さん帰ってきたって! ぼくたちのお家に帰ってきてるんだって! 早くぼくたちも帰ろうよ。もうおばあちゃんちも飽きちゃった――」
 そう家のなかで叫ぶ子供の声から数分と置かず、玄関から父親が青い顔で駈け出してくる。家の周囲を何度も窺うのは、子供にあるはずのない事実を吹きこんだ輩を捜すためか。
 無駄です。
 嘲笑う声はない。ただ庭木の枝上にひっそりと、一羽の鴉があるだけだ。
「お父さん、お父さんってば! ぼく嘘つきじゃないもん。ほんとだよ。だってこれ、お母さんのでしょ? お母さんが、いつも持ってた、ペンダント……」
 父の後を追ってきた子供が、泣きじゃくりながら必死に訴える。
 子供が月明かりにさらした銀色を見た父親は、ますますその表情を硬くした。
「おまえ、それどこで!」
「れいりーが持ってきてくれたの」
「レイリーって誰だ!」
「わかんない……あ!」
 子供の手から素早く装飾を奪ってしまうと、父親は無理矢理子供の手を引いて引きかえし、今度は一人だけで家を後にする。腕時計を眺めてから車に乗りこむと乱暴に発進させた。
 行き先は知れている。
 ふたたび人の姿をとったレイリーの耳に、家のなかから子供の泣き声とそれを宥めるらしい老婆の声。
 それも途切れて、子供がやっと蒲団に入るしな、
「れいりー!」
 名を呼ぶ子供を指を立てて黙らせて、屈みこむ。目線を合わせると、みるみる瞳に涙を溜める子供が、
「れいりー……せっかく持ってきてもらったのに、お母さんのペンダントね、お父さんに取られちゃった……」
「心配いりませんよ。ちゃんと私が取り返してきてさしあげましたから」
「ほんとう?」
「ほら、ここに」
 そういって暗闇のなか開かせたてのひらには、たしかにあのペンダントの銀細工だ。小さな筒ながら、細かな薔薇のモチーフが絡みついた純銀製のアクセサリーは、一見では知れぬだろうがそれなりに古いものらしい。
 そのまま渡すことはせず、レイリーはいったん自分の指に戻すと、おもむろにその上部を撫でて子供に語りかける。
「これが、開くことをご存知ですか?」
「え? 知らない……」
 首を振る子供の前で、ペンダントトップの上部だけをくるくると回転させる。やがて持ち上げられた蓋を見て、子供は目を瞠った。
「このなかに、大事なものを入れて、肌身離さず身に着けるのですよ」
「大事なもの? そこにはお母さんの大事なものが、入ってるの?」
「そう、これにはあなたの母君の妹……でしたか。とにかく大事な方の――骨が、入っている」
「骨」
 いったきり、口を噤む。
 意味を正しく解しているのか、否か。どちらでも構わないが、もう少し、これを愉しませてやってくれればいい。
 装飾の蓋を元通りに閉めると、レイリーはそれを子供へ差し出して、悪戯を仕掛ける忍び笑いを質素な部屋に響かせる。
「これへ、あなたの母君の骨を入れてご覧なさい。そうすれば、永久に一緒にいられます。……そう、愚かな父親に無理矢理引き離されることも、つまらぬ家に留め置かれることもありません」
 レイリーの開いた胸に、子供は躊躇いなく飛びこんでくる。
 大した重みもない身体を抱き上げる腕のなか、子供の呟きに、レイリーの笑みは深い。
「うん、ぼく……お父さん、嫌い」


 車を入れたのは、自宅から少し離れた空き地だった。家にも駐車スペースは設けてあるが、狭くて今の状況で無事に車庫入れできるとも思えない。それがわかるほどには、落ち着いている。
 大丈夫だ、そう口に出してみて、唐突に背を悪寒が走り抜ける。頸裏に思わず手をやる。冬の夜だ、汗など掻いているはずはないのに、そこがひどく湿っている。
 舌打ちしようとして、上手く舌が動かない。それどころかカチカチと歯が鳴っている。すべて、すべて寒さのせいだ――そう片付けて、今の状況を顧みる。
 妻を殺したのが、三日前の晩。
 俺の浮気がばれて、離婚届を突きつけられたのがその二日前。
「浮気なんて、今更だろうが……それをなんでこんな時期に」
 やっと決まった資金援助なのだ。
 妻の実家の力を借りて、興した会社が軌道に乗ることができたのは去年の春のこと。
 ところが取引先の倒産に巻きこまれ経営が危うくなったのが今秋に入ってから。
 やはり妻の旧姓をちらつかせて、なんとか取りつけた援助の話で人心地ついたところへの離婚話だった。
 あの家との縁が切れたことを知られたら、資金援助は間違いなく反故にされる。
 それだけは、なんとしても避けねばならなかった。
 だが。
「殺すことは……なかった……」
 呆然と立ち尽くす。
 三日前に慌てて出たままの家の様子が、どこかよそよそしさを感じさせる。
 軋みひとつあげぬ廊下を浴室に向かってゆっくりと歩きながら、暗い部屋々々に知らず視線が彷徨う。誰もいるはずのないそこここに、なにものかの気配が蹲っているような、今にもそれらが襲いかかってくるような……らしくもない妄想が次々と浮かんできて、強く頭を振った。
 そうして、浴室の前。
 扉を開けようと、ゆるく腕を持ち上げる。
 把手に掛けた手を、まわそうとしたそのとき。
 唐突に――背後に人の気配。
「……ッ」
 反射的に振り向いた視界に、ひどく綺麗な女の顔が映りこむ。
 ――それは、この扉の向こうに沈んでいるはずの、女だ。


「あ、また聞こえた……」
「あなたは耳が良いのですね」
 褒められたのが嬉しくて、子供は勢いよく頷いた。
 さきほどから風に乗って、僅かに男の声が届く。それは誰かの名前であったり、意味不明の叫びであったりしたが、その数も段々、少なくなってきている。
 いや、それは轟音に掻き消されているためだろうか。
 爆ぜる音に、崩れる音、割れる音、なによりも炎、それ自体が大気を震わせるとどろきが、深夜の住宅街を明々と照らしながら辺りを支配している。
 眼前で赤い炎に舐められる家を見つめながら、子供はレイリーのマントの裾を引いた。
「ねえ、れいりー。あとどれくらいでお母さんは骨になる?」
「そうですね……もういくらも必要ないでしょう」
「お父さんも一緒なんだよね?」
「ええ。不服ですか?」
 ふふく? と首を傾げる子供へ簡単に言い換えると、取り出したペンダントトップを両手でぎゅっと握りしめた。
「お母さんね、お父さんのことが大好きだったんだよ。それなのに、お父さんはお家に帰ってこないし、お母さんのこと、よく殴るんだ。でもね、それでもお母さんは、お父さんが好きなんだよ」
 だからね、と置いて、レイリーを振り向いた。
「お父さんも、一緒にここに入れてあげるの。ぼくは嫌だけど、そうすれば、お母さんはずっとお父さんと一緒だ。もうお父さん、どこにも行けないね」
「なるほど。それは妙案。どうです? あの老婆の骨も入れてみては」
 ろうば、とまた繰り返す子供に祖母のことだと告げる。
「おばあちゃんも一緒? うん、いいね。……でも、そんなにいっぱい入るかな?」
 心細く視線を銀へ落とす子供の頭へ手を乗せて、レイリーはなんでもないことのように答えを口にした。
「それは、底無しなのですよ……この先、一緒にいたいと思う人々を、すべて入れてしまうのがよろしい」
「うん。そうする」
「楽しみです」
「ぼくも楽しみだよ。嬉しいな、れいりー……みんな、ぼくのものだ」
 手のなかの銀細工に咲き誇る薔薇が、炎の色を見たせいか、ひどく艶かしい赤の色だ。
 星月は煙の向こう。
 かわりに空に巻き上がる火花がいっそう燿きをましていく。

 斯様の夜半に、似合いの花だ。


 <了>