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天女の舞−雪月花−
―よき蚕ゆへ正しき繭を作りたる―
高浜虚子
天女の羽衣と呼ばれる絹がある。
“小石丸”と愛らしくも凛乎たる御名を冠した蚕は、艶やかで張りのある糸を吐き、其の繊細さは種々(くさぐさ)の蚕の中でも随一と謳われる。
見目の麗しさも然る事ながら、毛羽立ち、糸の練り減りが少なく、張力が強いなど数々の優れた特性を合わせ持つ、正に一級品である。
日本古来の在来種であるが、小粒で繭糸量の少なさから量産性に欠け、何時しか姿を消した幻の絹――。
伝説と化していた小石丸が、脈々と受け継がれていた事は一般には余り知られていない。
皇居の紅葉山御養蚕所で代々の皇后が飼育しておられるのが小石丸であり、また、原種保存の為、山梨県にある農林水産省蚕糸試験場蚕育種部蚕品種保存研究室でも永く飼育されていたのである。
其れ程までに貴重な品種である事は、養蚕や糸織に携わる人間でなくとも解って頂けるであろう。
多くの人々の情熱と尽力により、筆舌に尽くし難い苦難を乗り越えて甦った小石丸は、現世に舞い降りた天女であった。
*
小石丸を求めて、烏丸・織(からすま・しき)が宮崎を訪れたのは夏の盛りの頃。
一年で最も命の漲る季節――織り成す四季それぞれに玉の放つ輝きは違えども、垣間見えるのはいつも溢れる“生”である。
祖父の部屋で何気なく手にした染織雑誌の記事を見るや、各所に問い合わせ、連絡が取れたとなれば其の侭鞄一つを抱えて飛び出した彼を“鉄砲玉”などと称するのは極々近しい者のみである。
常の織は物腰柔らかく、大変思慮深くもある為、奥底に燃やす情熱を感じ取る事は難しい。けれど、そんな織の真っ直ぐな頑なさは、彼の纏う柔和な優しさと相まって、紡ぎ出される作品に染み込んでもいた。
余り多弁ではない織の人柄をよく理解しているのは、他ならぬ彼の作品を愛する人々であろう。
『子は親を映す鏡』
などと言うが、作品もまた然り。
高浜虚子の残した句に――よき蚕ゆへ正しき繭を作りたる――というものがある。
聞く者によっては情緒も面白みもない作だと思うかもしれない。しかし、織は想う――在るが侭で在ることは容易なことではない。
理を冒し、普天率土の循環を乱すのは、何時も如何なる時も“ヒト”であるからだ。
悟りの言に深い理を見出し、織は心に刻む。
“驕る事無く惑う事無く、其の香名、誇り高くあれ”
常にそう己を律する織の号は『戒香』――戒めの響きは巡る時の流れに任せ、彼と共に在り続ける。
*
幻の絹との邂逅を果たし、織は其の美しさに息を呑んだ。柔らかで優美な身を手でそっと掬えば軽やかな糸はさながら天女の羽衣の如し。
柔く潔く照り光る絹糸は果敢無さに反し、とても強かでもあり――
「きっと天女の羽衣もこの糸で織られたに違いありませんね」
思わず口をついたのはこんな言葉であった。
宮崎市内から車で四十分程、宮崎平野と九州中央山地の境は『宮崎の奥座敷』と呼ばれる自然豊かな土地である。
清流に挟まれた扇状地の北西には照葉樹の自然林――繁る緑と澄んだ清流が心を癒してくれる。この町が染織に適した土地と言われるのは、眼前に広がる自然景観あればこそであるが、もう一つ確固たる理由がある。
藍染の藍を建てるには灰汁が必要であり、また染の仕上げにも灰汁が使用される。この灰汁を作るのに必要なのが照葉樹の皮なのである。
樹皮と言えば、織は“アットゥシ(日本語での正しい発音表記は不可能)”を思い出す。
アイヌ民族の代表的な衣装であるが、楡科のオヒョウの木の内皮を剥ぎ、温泉や沼などに十日程浸けて柔らかくし、天日に干してよく乾燥させてから繊維を割いて糸を作り織ったものである。
オヒョウの木の内皮を剥ぐのも、丁度春から夏にかけての時期である。
その時も織はふと思い立ち、居ても立っても居られず気付けば北海道は阿寒へと足を向けていた。
“カムイありて我あり、我ありてカムイあり”
阿寒を訪れた際にアイヌの人々の思想として学んだ言葉は今も織の心に在る。
自然を“カムイ(神々)”と呼び、謙虚に祈り、静かなる大地を改造、破壊、汚染する事無く、人もまた大いなる自然の一部であると彼等は日々生活していたと言う。
そんな彼等の衣装、アットゥシも実に質朴なものであった。
そんな記憶が脳裏を掠めたのも、ここ宮崎県綾町も人と自然が秩序を持って共存し、命が温かくも厳しく循環しているからであろう。自然から生まれたものは自然へと還ってゆくのが道理である。
また、この辺りは織物の他にも竹工芸、木工芸、陶芸、碁盤、家具、ガラス、種々の工房が並び、織にとって非常に刺激的な場所であった。
一つ一つの工房を廻り作品を手に取り、話を訊いて、丹念にメモを走らせる。時には厚意により織自ら作品を生す事もあった。
額に浮かんだ玉の汗を拭い、訪れた時の三倍には膨らんだであろう荷物を抱えて、織は天高く御座す天照を見上げた。
「さながら宮崎キャンプだったな」
そう言えば某球団の春季キャンプで有名な土地だったか――と一人呟いて笑み曲ぐ。
“日々是鍛錬”
彼にとっても実り多い滞在であったようだ。
□■
季節は巡り、織が胸に抱くのは紅染月に手にしたかぐやの絹。懇意にしている老刀自に是非にと乞われ、丹念に染め上げたストールである。
普段ならあれやこれやと染めに悩む織であったが、今回ばかりは迷う事無く貝染と決めていた。
世界で最も高貴な色――日本のみならずヨーロッパの各地でも最高の色とされ、かのクレオパトラも愛したと言われる優雅な紫は小石丸の綾成す羽衣にぴたりと馴染むと思ったからである。
ストールを広げた時の老刀自の歓喜に満ちる貌を想い描き、織は微かに目見を緩めた。
どんなにか喜んでくれるだろうと思えば、仕上がった品を一刻も早く届けたい一心で暮れも押し迫った雪月、容赦なく吹き付ける寒風に黙々と足を繰る。
コートの襟を立て、ちりちりと痛み出した耳が赤く染まっているのだろうと取り留めの無い事を考えていた織は、つと徒歩を止めた。
足元をはらりと揺れる色にハッと息を呑む。
「……花弁? 雪かと思った」
独り呟いて視線を上げれば、初めて冬の町並みが視界を色取る。木枯らしの闊歩する辻は一面が薄朦朧と烟り、静寂の町はモノクロームに沈んでいた。
ついつい景色を楽しむ余裕も失っていた事に気付き苦笑を落とす。
僅か先を舞う花弁は誘う如く揺れている。素直に誘われる事にして、織の双眸は緋色と純白の欠片を追った。
「……?」
其処に在った“花”に染織師は目を丸めた。
庭先の山茶花の横に、紅い着物姿の童子が佇んでいる。髪を禿(かぶろ)に切り揃えた幼女は空を仰ぎ見ていた。
「お嬢さん一人なのかな?」
膝を折り、訊ねると幼女はこくりと頷く。
「ここのお家の子かな? お母さんは居ないの?」
「うち、カカしゃんば待っちょると。迎えん来なはるって言ったったい」
「……そう、でも外は寒いからお家の中で待とうか」
織が言うが幼女はふるふると頭を振った。
「寒ないけん、うちは平気たい」
「それじゃお兄さんもお母さんが来るまで一緒に居てもいいかな? ほら、このお花、とても綺麗だからゆっくり見たいと思ってたんだよ」
「うん、良かよ。お兄しゃん、こん花ば好きと?」
「山茶花だね。好きだよ、一枚一枚はらはらと散っていく花弁が綺麗だよね」
改めて庭を見晴るかせば一面に山茶花が咲き誇っている。
「赤いのも山茶花かいた?」
「そうだよ。ええと、これは……“紅牡丹”かな。そっちの白いのが“銀月”桃色のが“磯千鳥”――山茶花の名前はどれも素敵だよね」
目を丸めた幼女の横で、にっこり笑んだ織は知る限りの名前を並べて聞かせる。
明星(あけのほし)、揚羽の蝶(あげはのちょう)、朝霞(あさがすみ)、東紅(あづまこう)、色も香も(いろもかも)、風花錦(かざはなにしき)
君の万歳(きみのばんざい)、桜月夜(さくらづくよ)、酒中花(しゅちゅうか)、雪月花(せつげっか)、露の玉(つゆのたま)、若紫(わかむらさき)
華子姫(はなこひめ)、残り香(のこりか)、初鏡(はつかがみ)、一人静(ひとりしずか)、緋の衣(ひのころも)、窓の月(まどのつき)、想の侭(おもいのまま)
「山茶花はね、二百五十種類以上あるんだって」
「どうし! うち名前ばなーんも識らんかったばい。お兄しゃんすごか!」
ひらりと袖をひらめかせて回った幼女の白い顔が咲うのに釣られ織も仄笑んだ。
「なぁなぁ、こん花何ば言うと?」
「……それは“肥後入日の海”かな、沈むお日様みたいな色が鮮やかだね」
「ひごいりひのうみ……お天道様の色がな」
ほろほろと貌を崩す童子に手にしていたストールを掛けてやって織は再び山茶花に視線を流した。
(「それにしてもこれだけの種類が揃っているなんて……あ、あれは……」)
「天女の舞」
「てんにょ? むぞらしか〜」
織の視線を追って、幼女は薄桃の花弁を見詰めた。
「“羽衣”という名前の花もあるんだよ。……ここには無いみたいだけど」
(「そう言えば、ここにある品種は全部肥後原産のものじゃなかったかな……」)
何かが引っ掛かると眉間を詰めたがそれが何なのかは織にも分からなかった。
「お兄しゃん、こん肩掛けそーにゃ温か」
「それもね、“天女の羽衣”なんだよ」
言って、織はハッと息を継いだ。童子の身体が少しづつ宙に浮いてゆく。
「カカしゃんが迎えに来なはった。うち、もう行くけん、お兄しゃんこれありがとう」
ふわりと舞い上がった童子を見上げ織は翠玉の瞳をしば叩いた。
「……君は……」
「うちん名ばお兄しゃんが教えてくれたったい。じぇったい忘れんばい」
そして、びゅぅと強い風が織の視界を吹きぬけた。
独り残された庭にははらはらと薄桃の、緋色の、純白の花弁が散る。
『山茶花の 花や葉の上に 散り映えり』
「本当に天女の羽衣だったなんて……」
紅紫のストールを再び胸に抱き、織は天を仰ぐ。冬天は相変わらず薄朦朧と烟り、冬枯れの町並みを見下ろしていた。
モノクロームの視界に点々と散る残滓は童子の艶やかな着物の欠片であったか、天女の残り香であったか。
それとも逝く冬の置き土産であったのだろうか――
=了=
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ライターより
烏丸・織(からすま・しき)様、はじめまして、幸護です。
この度はご指名頂きまして有難う御座います。
素敵なテーマを頂き、精一杯書かせて頂きましたが、如何でしたでしょうか?
少しでもお気に召して頂ければ嬉しく思います。
童子が相手でしたので、口調を少し砕けさせて頂きました。
もし織さんのイメージと違いましたら申し訳ありません。
その他にも、イメージが違う等御座いましたら、ご連絡下さいませ。
以後、気をつけさせて頂くと共に、今後の参考にさせて頂きます。
またお逢いできる事を祈りまして……この度は有難う御座いました。
幸護。
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