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<東京怪談ノベル(シングル)>


追懐の景



 秋朝の、いまだ陽の昇らぬ明時(あかとき)のことである。
 槻島綾はふと眠りから醒めて瞳を開いた。
 旅行雑誌へ掲載されるエッセイの執筆を漸く終え、ベッドへもぐりこんだのはいつだっただろう。原稿を書き上げた直後の高揚からか、それ程深い眠りにつくことは出来なかった。
 綾は束の間薄暗い天井を眺めていたが、やがて瞳を閉じると、ゆっくりと両手で顔を覆った。

 浅い眠りは夢を見る。
 例えようもなく、美しい夢だった。
 見渡す限りの薄野原。雨上がりなのか、雲間からは光芒が幾重にも伸びて、野原を黄金色に輝かせていた。風に薄の穂が揺らぎ、まるで海原の中にでも居るような感覚に捕らわれる。その中を、幼い自分が歩いているのだ。
 夢の中の場景を、綾はかつて見た事があった。
 まだ年端もゆかぬ子供の頃。両親に連れられて小旅行に出かけた、その時に巡りあった秋野だ。
 神々しいまでの野辺の風景に、我を忘れて見入ったあの時の記憶は、年を経て青年となった今でも、綾の脳裏に鮮明に焼きついていた。
「……このまま眠ってしまうのは、少し惜しいかな」
 小さく呟くと、綾はベッドから抜け出して窓辺へと向かった。
 窓の向こうには、依然薄闇に包まれた街が広がっている。
 そっと窓を開けると、ひんやりとした風が室内に入り込み、綾の体温を冷まして行った。
 朝ほど季節の移ろいを感じさせてくれる時間帯はない。
 つい先日、初秋の気配を、色づき始めた沿道の木々に見たばかりだったが、今綾を包み込んでいる空気からは、蕭条たる晩秋の気配さえ感じられる。
 頬を過ぎる風に、綾は先ほど見た夢の光景を思い出すと、その瞳に凪いだ色を浮かべた。
「秋野か……」
 振り返り、自室に置かれた時計を見ると、折り良く始発電車が動き始める時刻に差し掛かろうとしている。まるで時間にまで、「出かけてしまいなさいな」と背中を押されているようで、綾は静かに微笑むと、身支度を整えて自宅を後にしたのだった。


*


 始発列車に乗り込んでから、どれ程の時間が経っただろう。
 都心の景は既になく、窓の向こうには冬支度に入った田畑が広がっている。ふと視線を遠方へ向けると、うっすらと見える山の端が、白々と明るみ始めていた。
 朝起きたと同時に秋野を見たいと思い、こうして衝動的に列車へ乗り込んでしまった自分の行動を反芻すると、綾は「我ながら思い切りが良いな」と思わず苦笑を零した。
 だが、その衝動を抑えることが出来ないほど、日本の秋が美しいのもまた事実だ。
 どんなにこの一瞬を留めおきたいと思っても、そんな綾の心持ちを笑うかのように、列車は線路の上を走り続ける。数分数秒毎に違う様相を見せる窓の外から、綾は目を離すことが出来ないでいた。

 やがて列車が長いトンネルに差し掛かり、視界が遮断されると、綾は目の前に座る老人と、その隣で眠そうに瞳を擦っている小さな女の子へ視線を向けた。
 老人が女の子に己のジャケットをかける様子を見て、綾はその優しさに心を和ませる。
 この二人も、秋景を見にどこかへ出かけるのだろうか。
 そんな事を考えていると、老人が綾の視線に気付いたのか、穏やかに微笑みながら声をかけて来た。
「どちらへ行かれるのですか?」
「秋野の景観を眺めに……日帰りですので、さほど遠くまでは行けませんが」
「そうですか。今時分は色彩が豊かですからね」
 告げる老人に、綾も笑顔を見せながら頷く。
「……お孫さんですか?」
「ええ。一人で紅葉狩りにと思っていたのですが、孫がどうしても一緒に行きたいというもので……この子に紅葉狩りは、まだ少し早いかもしれませんね」
 うとうととしている女の子へ優しい眼差しを向けながら老人は話す。綾はそれを聞くと、首を横へ振った。
「そんな事はありませんよ。幼い頃に見た美しい光景は、どんなに年を経ても覚えているものですから」
「そういったご経験があるのですね」
「……はい」
 そう、老人へ相槌を打った時だった。
 列車がトンネルを抜けたと同時に視界が開けると、綾は思わず息をのんだ。
 高木も民家も全てが遠く霞み、遮るものの一切が排除された世界。無限に続くかのように思える薄野がそこにはあった。
 幼い頃に見た秋野の姿そのままに――否。それ以上に、大地は黄金で満ち溢れている。
 綾は半ば無意識に窓を押し上げると、思わず身を乗り出した。
 強風が車内に入り込み、綾の黒い髪を煽って行くが、それさえも気にならない。
 そんな綾の様子を見た老人は、驚いて綾を制す。
「あぶないですよ!」
 その声で我に返ると、綾は慌てて窓を閉めてその場に座りなおした。
 突然の風に驚いたのか、それとも老人の声で目が覚めたのか。今まで眠っていた女の子が、何事が起こったのか解らずにきょとんとした表情で綾を見つめていた。
「申し訳ありません。あまりに綺麗な光景でしたので、つい」
 老人は「ああ」とうなずくと、視線を窓の外へ向けた。
「先ほどのトンネルを抜けると、風景が一転しますから」
「そのようですね……ごめんね、驚かせてしまったかな」
 綾はじっとこちらを見つめている女の子へ謝罪をしながら、柔らかな笑顔を浮かべた。女の子は、唐突に話題を振られた事に戸惑って一度老人を見上げたが、老人に頭を撫でられると、はにかみながら首を左右に振って綾へと微笑み返した。
「次の駅が丁度薄野の中間に位置します。改札口が陸橋の上にありますから、この景色を真上から一望出来ますよ」
 下車なさるのでしたら、次の駅が良いのではありませんか? 老人が楽しそうに綾へと告げる。
 その笑顔に、放っておいたらあのまま窓から飛び出してしまいかねなかった自分の様子を思い出して、
「余り物事には動じない方なのですが」
 と、綾は苦笑しながら頷き、再び窓の外へと視線を向けた。


*


「よければお持ち下さい」
 列車を下りる際、老人と女の子から飴を手渡されると、綾は丁寧に礼を告げて一人ホームへと降り立った。
 列車が行き過ぎ、やがて周囲を静寂が支配して行く。
 その静けさに幾許かの寂寥感を抱いて、綾は軽い溜息を零した。
 名前も住まいも知らない相手と、こうして他愛の無い会話を楽しむ事が出来るのも旅の醍醐味なのだと思う。二度と出会う事の無い相手だからこそ、偶然巡りあえた事に感謝したくなる。
 綾は貰った飴を胸ポケットへ仕舞うと、階段を上った。

 閑散とした改札を抜けると、左方に陸橋が姿を現した。
 早朝の所為か、己の靴音と、頬を掠める風の音が耳に届くだけで、その場所に人の気配は無い。綾はそれを確認すると、逸る気持ちを抑えながらゆっくりと歩き出した。
 風に自身の髪が靡く、その心地よさに口元が綻ぶ。
 高く澄みわたった薄水色の空の下には、夢に見た秋野が果てしなく広がっている。
 この大地を独り占めしているような不思議な感覚。空も、地も、全てが自分を包み込み、語りかけてくるような錯覚すら覚えて、胸の内が熱くなる。
「どれだけの人が、この場所を知っているんだろう」
 時折、何気なく訪れた地で、思いがけず美しいものに出会う事がある。その一つ一つが、色鮮やかな思い出となって綾の心に今も残り続けている。
「あの女の子も、今日見る紅葉の艶やかさを、いつまでも覚えていてくれると良いな」
 そう呟き、綾が視線を胸ポケットへと向けた時だった。
 遠方に聳える山の端から、朝日が荘厳な光を放ちながらゆっくりと昇り始めた。
 陽光が一斉に眼下の薄野へ降り注ぎ、その場に在る全てのものが黄金色に輝き出す。
 風に薄が揺れ、穂先に置かれた朝露が真珠の如く煌きながら散って行く。
 その光景を、綾はただの一言も発せずに見守っていた。言葉を紡ぐ事が出来なかった。
 時間を越え歴史を越え、旅に出たいと人の心を駆り立てるのは、自然の生み出す景観が、時に人智を逸する程の姿を我々に見せてくれるからかもしれない。

 無限に広がる青空と黄金の大地。その中を吹き抜けてゆく優しい風――
 綾は、眼前に広がる光景を、飽きる事なくいつまでも見つめ続けていた。



<了>