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Priceless?
今日はめでたい日だ。
「…わたくし、ちょっと所用で行ってまいります」
薄雪の積もる曹洞宗荘厳寺の玄関で、妙円寺 しえん(みょうえんじ・しえん)は若い僧侶達に向かって形の良い唇を両端に上げ、仮住まいである五合庵を後にした。
基本的にしえんは、何事もなければ優雅で品の良い比丘尼に見える。
剃髪していない長くつややかな黒髪は腰まであり、墨染めの衣はどこまでも深く彼女の美しさを際だたせる。何もせず、何も語らず、ただ黙って手を合わせてさえいれば、荘厳寺の住職として文句を言う者はいないだろう。
何もせず。
何も語らず。
しかし、それをしえんに問うのは無茶と言うものだろう。彼女は己の信じる道と、己の望む生き方を、ただひたすら障害も踏み越え真っ直ぐ進んでいるだけで、自分が世間から『破戒僧』だと思われているなぞつゆ知らずなのだから。
「い、行ってらっしゃいませ…」
妙に機嫌良さそうなしえんに、僧侶達は緊張感を隠せない。
しえんが動けば何かが起きる。
その破壊や騒動、小さなエピソードから新聞に載るまでの大事件までを語れば語り尽くせないぐらいだが、自分がそのど真ん中にいない為には、触らぬ神に何とやらである。機嫌が良いに越したことはない。
「…今日はお天道様も、わたくしの前途を祝福してくれてますわ」
ちなみに今日は小雨模様で、庭に咲いた寒椿の花弁にも雫が落ちているのだが、しえんがお天道様と言えばそこに天気は関係ない。それを皆よく知っているので、いちいち誰も突っ込まない。
ふふ。
ふふふふふ…。
堪え切れぬ笑いを漏らしながら、しえんは傘を差す。
今日はめでたい日だ。
この外出が終わったら、五合庵で檀家の持ってきた日本酒を飲んで祝杯をあげよう。何だったら帰りにちょっとデパートに寄って、カツオの酒盗や旬の肴など買ってきてもいいかも知れない。たまには贅沢しても良いだろう。
何たって今日は、蓮を笑い者に出来る、めでたい日なのだから。
「来たよ来た来た…」
アンティークショップ・レンの店先から見えた日本傘を見て、碧摩 蓮(へきま・れん)は心底うんざりしたような表情で、溜息をついたかのように見えた。
ような…と言うのには理由がある。
今日の蓮はいつもの自信溢れる美貌ではなく、大きなサングラスに大きなマスク姿だからだ。青いチャイナドレスにそれが酷く合っていない。その為か、店の中にある物達も何だか妙にバランスを崩したように見え、辺りも少々ざわめいている。
そこにしえんは鼻歌を歌いながら現れた。
「ご機嫌よう。あら蓮さん、お風邪でも召されまして?」
病人を気遣っているような言葉遣いだが、そこには明らかに『ある種の悪意』をもった笑いが潜んでいる。その、何かを堪えるように張り付いたしえんの笑みを見て、蓮は大きなマスクがずれないように、両手でしっかりと押さえながら軽く睨み付けてみた。
「その、気味の悪い丁寧言葉をやめて欲しいもんだね」
蓮の視線は、サングラスに隠れて全くしえんに届かない。
「あら…わたくし、蓮さんが心配でやって来ましたのに。あっ、お土産を持って参りました…これを食べて元気になって。さあ、マスクを取って」
しえんの手に提げられていたのは、近所のコンビニで買ってきたと思わしき熱々のおでんだった。ほかほかと立ちこめる湯気が、サングラスの視界を遮る。
「マスクを取らないと…こ、この熱々のはんぺんが…。早くマスク…蓮…さ…」
ふるふると小刻みに震えるしえんの肩。
その手前では蓮がマスクを押さえたまま、わなわなと震えている。
もうダメだ、限界だ。しえんはおでんをカウンターに置き、バンバンとあちこちを叩きながら爆笑し始めた。
めでたい日。
それは檀家衆から聞いた、蓮に関する噂だった。
『蓮さんは最近顎の先が二つに割れ、モミアゲが長くなるという奇病にかかったらしい』
それを聞いた時にも、腹筋が痙り顎が筋肉痛になるほど爆笑したのだが、実際目の前でマスクをされているとその想像も一塩だ。
思えば蓮にはいつもいつも酷い目に遭わされて(いや、その酷い目の大半はしえん自身が招いているのであるが)いるので、とにかく一目見て笑ってやりたい。一目見るまでは絶対に笑わないでおこう。そう思っていたのだが無理だ。酷い…と言われそうではあるが、だったら想像してみるといい。目の前にいる誰かを見て『この人の顎が二つに割れて、もみあげが長かったら』と。
「あっはっは…ひー、お腹痛い。蓮さんもとうとう『艶男』の仲間入り…あははは…」
「…『あでおす』はやめてくれないかい。あと、少しはあたしの話も聞いて…って笑うな!」
「あはははは…」
こんなに大笑いするしえんと、それに振り回される蓮も珍しい。それでも蓮はマスクもサングラスも取らず、イライラしたようにカウンターを指先で叩きながらしえんの笑いが収まるのを待った。
耐えろ。
今は辛いがここを越えないと、話が先に進まない。マスクの下で唇を噛みながら、蓮は心を落ち着かせるように深呼吸する。
「…そろそろいいかい?」
「ふーっ…よ、よろしいですわ…」
「笑いたかったら、もう少しだけ笑ってもいいんだけど」
本当であれば、あと小一時間は爆笑できるほどの自信があるのだが、想像だけでお腹一杯になってしまっては勿体ない。メインはそのマスクの下なのだから。
しえんは頭の中で一生懸命『おん まいとれいや そわか』と、弥勒菩薩の真言を唱えながら、何とか落ち着きを取り戻す。
「57億6千万年…はい、お話をお聞きいたしましょう。病気の方の悩みを聞くのも、わたくしの大事なお仕事…」
ぱしーん!
堪えきれなくなった蓮が、何故か近くにあった赤いビニールスリッパでしえんの頭を思い切りすっ叩いた。その高らかな音が冬の乾いた空に響き渡る。
「こんな病気があってたまるか!」
キレた者勝ち…。
大抵いつも先にしえんがキレるのだが、今日はいつもと調子が違う。しえんも普段こんな物言いをされれば、礼儀の一つも説くためそれ以上にキレてみせるのだが、今日の蓮はまるで何かに憑かれたようだ。このままおちょくり続ければ、本気で斬られるかも知れない。
「あ痛たた…病気ではないのですか?」
「当たり前だろ。店に持ち込まれた古書を見てたら、油断して取り憑かれちまったんだよ」
ああ、なるほど。
しえんはポンと手を叩き、何かに納得したようにうんうんと頷いた。
今まで全く考えてもいなかったが、もし伝染性の病気だったら大変だった。これが病気でないと分かったのなら、それはそれで安心して蓮の具合を見ることが出来る。
「では安心して具合を…」
ぺしっ!
マスクに伸ばそうとしたしえんの手が、紙束のようなもので叩かれた。あらかじめ用意してあったのか、蓮はひらひらと何かを見せつけるように持っている。
「あ、諭吉様」
蓮が持っていたのは札束だった。ひーふーみー…結構な額を扇子のように右手に広げ、しえんを見てふふりと笑う。その微笑みはマスクで全く見えてはいないが。
「除霊、してくれるよね?」
「……断ってもよろしいですか?」
「何でだい?」
サングラス越しの蓮の視線に合わせないように、しえんはすーっと目を逸らす。
「今のままの方が面白いから」
「ふーん…」
心底請けたくない。
この見事な(見てないけど)ケツ顎と、立派な(見てないけど)もみあげを、除霊で祓ってしまうなど、勿体ないにも程がある。
それでもしえんには、これを請けねばならぬ理由があった。
お金がない。
それも壊滅的にお金がない。
ここ最近の荘厳寺は、本堂が燃えたり五合庵が燃えたり、はたまた細かい仕事でしえんの袈裟や着物が破けたりで、入ってくる収入より出て行く方が圧倒的に多い。しかもこれから確定申告という大イベントを控えているので、入ってくるものなら小銭でも欲しい。
「お金がないのは首がないのと一緒ですわ…」
神をも恐れぬしえんにも、生活していく上でルールはある。
それは『菊と桜には逆らわない』
菊も桜も日本のやんごとなき身分の隠語だ。幼い頃からそれを繰り返し聞かされていたので、脱税などという発想がそもそもない。もっとも、脱税以上に法に触れることをしていることの方が多いのだが…。
「蓮さんにはこの店を畳んでいただいて、『笑いで世の中を助ける仕事』に就いていただきたかったのに」
「本当は?」
「……そのままの方が、絶対面白いから」
しぱーん!
「お金さんを粗末にすると、罰当たりますよ」
「あんたにだけは言われたくない…」
札束で叩かれ少し赤くなった鼻の頭を撫でながら、しえんは蓮を五合庵に連れて来て護摩壇を焚いていた…と言うと本格的な除霊のようだが、荘厳寺の宗派は『曹洞宗』である。
釈迦を本尊として仰ぎ、ひたすら座禅をすることでの修行を主とするもので、まかり間違っても護摩は焚かない。そもそも護摩を焚くのは『不動明王』への祈りのためであるので、宗派が違う。
「………」
蓮はその様子をマスクを押さえたまま見ていた。
本当は店から一歩も出たくなかったのだが、店で護摩壇を焚くならマスクを取らないと絶対やらない…と、しえんがだだをこねたので、仕方なくここまで歩いてやってきたのだ。蓮の持ち物で自分達の姿を見られないようにしていたにもかかわらず、しえんと一緒の道のりは永遠を思わせるかのように遠かった。
蓮は知っている。
護摩壇の前にある曼荼羅の後ろに、しえんが任侠映画のポスターを隠して貼ってあることを。
でも。それでもしえんの除霊能力は確かなのだ。宗派は滅茶苦茶だし、時々「やはうえ様…」とか「エイメン」などと口走ったりの宗教ちゃんこ鍋状態なのに、霊は確実に去っていく。そのとばっちりで寺が燃えたりするのは、もしかしたらちゃんこ鍋にされた神や仏の無言の抗議なのかも知れないが。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん…」
唱えているのは光明真言。
いくら大日如来だって、こんな出鱈目にお願いされたら困惑する。そもそも、しえんの後ろでそっと手を合わせている蓮が困惑している。
「…そういえば、あたし自身が除霊されるのは初めてだっけ」
手を合わせながら蓮は、今まで自分がしえんに頼んだ依頼の結果を思い出していた。
……ものすごく不安だ。
ちょっと思い出すだけでも屏風と店の備品が壊れて、橋が落ちて、寺が燃えて…と、想像すればするほど、不安になるのは何故だろう。どう考えても無事にここを出られないような気がする。出られたら色んな意味で奇跡だ。
護摩に供物が入れられる事に火の手が強くなり、しえんを赤々と照らす。その勢いは天井にまで届くほどで、離れている蓮にもその熱気が伝わってきた。その前でしえんは数珠を持ち手を合わせながら、真剣に祈りを捧げている。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」
もう圧倒的に間違ってる。
だが、その修正しようのない間違いだらけの呪文大会の中、しえんの前…護摩壇の奥にうっすらと直垂(ひたたれ)姿の霊が現れた。それは侍のようだが、何処か懐かしさを感じさせる。
その侍が声高らかに一言叫ぶ。
「そもさん!」
「説破!」
このちょっと懐かしい感じは何だろう。しえんは侍の言葉に反射的に答えながら、そんな事を思っていた。
答えがあってなきがごとしの禅問答。侍は一体何の謎を自分に説こうとしてくるのか、それとも何か捻った頓知を投げかけてくるのか…凛とした緊張感が走る。
「トラックがカーブで落とすのは『スピード』、警察と仲の悪い鳥は『鷺』…」
それはなぞなぞであって、決して頓知ではない。そんな事をぶつぶつと呟いているしえんに、侍が顔を上げる。
「蝙蝠の羽に蛇の尻尾、くすぐり大好きなのっぺらぼうは?」
はい?
しえんは怪訝な表情で侍を見る。
心当たりがないわけではなかった。掴んで、飛んで、くすぐることだけをする、H・P・ラヴクラフトの小説に出てくる、大いなる深淵の大帝に仕える奉仕種族。
ちょっと待て。それで本当にいいのかしら?
いや間違ったとしても、困るのは自分じゃないからまあいいか。
「な、ないとごーんと?」
「はっはっはっは…」
その瞬間、侍は爽やかながらも豪快な笑い声と共にしえんの前から消えていく。
……頓知でも、なぞなぞでも、意地悪クイズでも、無論禅問答でもなく…これは単なる質問じゃないか。というか、今日日小学生だってもっと小粋な質問をするのに、これだけ言いにわざわざ室町時代から来たとは、全くもってご苦労様だ。
「ちっとは捻れや…そのまんまやんけ!」
「やめっ…それ以上勢いが強くなったら本当に家ごと燃えるよ」
護摩壇の中に米や香を掴んで思いっきり投げつけるしえんを、蓮は半ばほっとしながら一生懸命押さえつけていた。
何はともあれ、終わりよければすべてよし。
物も壊れなかったし、袈裟も破れなかった…今日の儲けは丸々自分の取り分だ。我に返ったしえんは、蓮から受け取っていた札の入った封筒に思わず頬ずりした。久々の諭吉さんの少しずっしりとした感触が嬉しい。
だが、何か忘れているような気がする。
そう思っていると、蓮はサングラスとマスクを取った。今まで暑苦しかったのか、蓮は清々しい表情で一つ深呼吸。
「あっ…ああーっ!元に戻ってる…」
「ああ、あんたの除霊でスッキリしたよ。これでやっとキセルも吸える…」
話に聞いていた立派なケツ顎も、もみあげも、除霊ですっかり治ってしまったらしい。
「蓮さんのケツ顎、わたくしまだ見てない…もう一度、もう一度あのお侍様を呼ばないと、私が浮かばれません…新右衛門様ー!」
護摩壇に向かおうとするしえんの手から、蓮は封筒をスッと奪い取った。そしてその中のお金で自分を扇ぎながら、不敵に笑う。
「ケツ顎って言わないでおくれ…あと、本当に呼んだら倍返しどころか、この土地地上げするよ」
本当は写真に撮って永久保存版にしようと思って、袂や衿にデジカメや携帯電話を忍ばせていたのに。というか、今日はめでたい日だったのに予定が狂った。蓮が帰ったら一人でこっそり日本酒を飲みながら反省会をしよう。
しょんぼりした表情で一つ溜息をついたしえんは、蓮に聞こえないように小さな声で呟いた。
…艶男姿、プライスレス。
fin
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