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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


ティータイムは丑三つ時



 その人物はとても紳士的だったという。
「終始落ち着いていて、我々にお茶まで出してくれました」
 零が出した紅茶をすすりながら、高橋と名乗る人物はそう述べた。ふぅ、と息をつき、カップをソーサーに戻しながら続ける。
「彼の身体は薄ぼんやりと透けているのに、そのお茶はちゃんと飲めたんですよ。おかしな話でしょう?」
「で、だからどうしろってんだ。俺にそいつとお茶して来いとでも言うのか?」
 高橋の正面に座りいつものように煙草をふかしていた草間が、眉間にシワを刻みイライラとした調子で言う。だがそんな草間にも動じることなく、高橋は疲れきった様子で大きく溜め息をついた。
「まさか。そんなこと高いお金払ってまで頼みに来ませんよ。アホらしい」
 草間の左こめかみのあたりに青筋が浮く。その後ろで静かに控えていた零は気が気じゃなかったが、自分がここで口を挟んでもよけい収集がつかなくなる気がしたので黙っている。
「あの幽霊をなんとかしてほしいんです。洋館を取り壊せるように」
「お払いでもなんでもして、さっさと壊せばいいだろう」
 やる気のない草間の返事に高橋は首を振る。
「それが駄目なんですよ。何度も除霊をしてもらってるのにきかないし。それに、工事をしようとして門をくぐると、いつの間にか敷地の外へと追い出されてしまうんです」
 そして高橋は最後にこう付け加えた。
「お茶目的で行けば、すんなり入れるんですけどね」



「お茶会好きの幽霊、ねぇ……」
 資料として提供された館の見取り図を眺めていたシュライン・エマが、ため息交じりに呟いた。
 件の洋館は図面を見る限りではかなり広い建物らしく、明治以降に建てられたものだと依頼人・高橋は言った。
「やっぱり、幽霊さんに直接会ってお話したほうがよさそうですね」
 海原・みなも(うなばら--)が両手に持ってきたティーカップをシュラインに勧める。ふわりと漂う香りを楽しみながら、シュラインは礼を言ってそれを受け取った。
「私もそう思うわ。クライアントが持ってきた資料だけじゃ情報が少なすぎるっていうのもね。館自体に関してならそこそこ知れるけど、肝心の霊紳士については全くと言っていいほど様子がわからないんだもの」
 ばさりと音を立てて、シュラインが書類束をみなもに手渡す。みなもは持っていたカップを傍の棚の上に避難させてから、一枚一枚、丁寧にそれを眺めていった。
 依頼に来た高橋という人物は館の所有者ではない。権利を持つ人間は別にいて、高橋は工事を請け負っただけなのだという。老朽化が進んだ建物を取り壊し、跡地にはマンションを建てる予定だそうだ。
「現在の所有者の方は、その幽霊さんには心当たりがないって仰ってるんですよね?」
「みたいね。その人も洋館を買ったのがつい最近のことで、それより前の持ち主についてはわからないらしいわ」
「困りましたね……」
 シュラインの言葉を受け、みなもが眉根を寄せて書面を睨む。そんな彼女をシュラインは苦笑しつつ見つめ、書類束をひょいと取り上げて柔らかな声音で言った。
「ま、とりあえず一度、その紳士のところへ行きましょ。……紅茶、冷めちゃうわよ?」
 視線で促された先のカップを見て、みなもは慌ててそれを手に取った。両手でカップを包み、静かに味わう。
「と、いうわけだから、私達は館に行って霊紳士に会ってくるわ。いいわよね? 武彦さん」
 本やら新聞やら煙草やらが山と積まれた事務机の向こうで、動いた影が小さく「……ああ」と言った。



「とりあえずダージリンとアールグレイ。店員さんに勧められるがままにアッサムまで買ってしまったけど、少し多かったでしょうか」
 洋館の幽霊へ差し入れる紅茶の買出しに、名乗り出たのはみなも自身だった。学校の近くに最近できた紅茶の専門店。登下校のたびに気にはなっていたけれど、実際に足を運んだのはこれが初めてだった。
「それにしても、試飲させてもらった紅茶、本当に美味しくてびっくり。洋館の幽霊さんも気に入ってくれるといいんですけど」
 店からの帰り道、これからする仕事のことを思うと自然と足取りも速くなる。今頃、興信所ではシュラインが差し入れのクッキーを作っているはずだ。戻っても作り終わっていないようなら手伝わせてもらおうと思っていた。
「時間があったらスコーンとかも作りたかったですね」
 洋館へは紅茶とお菓子の準備が出来次第、向かうことになっている。依頼人は今にすぐでも洋館を取り壊したいらしいし、行動するなら早いほうがいいということだった。
「壊してしまうなんて……幽霊さん、悲しみますよね」
 跡地にはマンションが建つのだというその場所に、死してなお捕らわれ続けたその魂。並大抵の想いではないのだと容易に想像がつく。霊体になってまで護りたかったものとは一体なんなのだろう。
「地脈に縛られているか、そうでなければ呪いとか……」
 考えられる理由はいくつかあるが、情報が少ない今のままではどれも憶測でしかない。なんにせよ、件の幽霊紳士と対面する必要があった。
「紅茶が好きな幽霊さん……。……って、あれ?」
 みなもはふと立ち止まって辺りを見回す。興信所の方向へ歩いてきたはずだったが、考え事をしながら歩いていたせいか全く別の通りに出てしまったようだった。
「いけない、早く戻らないと」
 とりあえずここがどこなのかを把握するために、みなもはなにかわかりやすい目印のようなものを探した。けれど、特に目立った店や建物などを見つけることはできなかった。認めたくないが、これは軽い迷子なのではなかろうか。
「そ、そんな。見知らずの土地ならまだしも、ただ興信所に帰ろうとしていただけなのに………………」
 そうとわかった途端に心細くなる。歩きながら考え事などするのではなかった。
 後悔先に立たずとはこのことだが、視界の端に入った電柱に、どこかで見たような番地が書いてあることに気がついた。
 どこで見たのだろう。そんなに昔ではないはずだ。
「……あ!」
 思い当たって苦笑する。なんのことはない。どこで目にしたのかといえば、ついさっきまで眺めていた、洋館の資料として提出されたあの書類だ。
 みなもは電柱に近寄り、番地の書いてある緑色のプレートをまじまじと眺めた。
「そっか。ここ、幽霊さんの住む洋館の近くだったんですね」
 現在位置はわかったが、ここからどうやって興信所に帰ればいいのかがわからない。このあたりは閑静な住宅地で、道を尋ねるためだけにインターホンを押すのは躊躇われた。
「ついで、というわけじゃありませんけど。これもなにかの縁ですよね」
 そう自分宛てに呟いて、みなもは住宅街の奥へと足を向けた。



 思ったより簡単に見つけてしまって、買った紅茶を片手に拍子抜けしてしまったみなもである。
 もっとわかりづらい場所にあることを想像していたのだが、洋館は現代日本の住居としては珍しいし、遠くからでも一目でわかった。
「ここが、幽霊さんの住む洋館……」
 さすがに中までは入ろうと思わなかったが、場所だけでも知っておいたほうがいいと思ったのだ。
 みなもは精緻なつくりの門前に立ち、現在は空き家になっている館を見上げた。
「あとでシュラインさんと一緒にまた来ますから、そのときはよろしくお願いしますね」
 姿の見えない幽霊紳士に自分の声が届いているわけはないのだが、みなもは静かに館へと呟いた。
「おや、そこは空き家だよ」
 声のしたほうへと振り返ると、杖をついた老婆がひとり、人の良さそうな顔をこちらへ向けていた。声に一瞬驚いたみなもだったが、老婆の笑顔につられて口元を緩めた。
「ええ、そうみたいですね。おばあさんはお散歩ですか?」
「ああ、そうだよ。今日はいい天気だからねぇ」
 シワシワの顔をさらにしわくちゃにして老婆が笑う。みなもは老婆に小走りに駆け寄り人懐っこく話しかけた。
「ほんと、いいお天気ですね。こんな日は、日向ぼっこでもしながらお茶でも飲みたいぐらいです」
 空を仰ぐと白い雲がゆったりと流れていくのが見えた。日差しもあたたかいし、日向ぼっこには最適だろう。
「そうだねぇ。お茶といえばここのご子息が大のお茶好きでね。子供の頃はあたしもよくここん家の庭で遊ばせてもらったものさ」
「……おばあさん、このお屋敷のこと知ってるんですか?」
「知ってるも何も、従姉妹の姉さんがここの長男の許婚だったのさ。もっとも、長男が病で死んじまったから姉さんは別のとこへ嫁に行ったんだけどね」
「!」
 みなもは心底驚いて目を見張った。迷子から始まった寄り道ではあったが思わぬ収穫である。
 みなもは老婆の昔話につきあうフリをしながら、なるべく自然に洋館とそこに住んでいた人物に関する情報を聞き出した。依頼人から渡された書類はそういった突っ込んだ内容には一切触れていなかったから、これは本当にありがたい情報提供だ。
 ひとしきり話を聞いたあと、みなもは老婆に礼を言って別れた。興信所への帰り道も忘れずに聞いてから。



 濃紺の空にはまばらに小さく星が光っている。住宅地の奥まで入ったこの場所では、大通りを行きかう車の排気音は聞こえない。
 草木も眠る……とまではいかないが、出歩くのには少々難のある時間帯。
 シュラインは腕時計をちらりとみやり、傍らに佇むみなもの顔を覗きこんだ。
「本当に大丈夫? 親御さんに連絡は?」
「はい、大丈夫です。きちんとお仕事のことは話してありますから。それに、シュラインさんと一緒ですから平気ですよ」
「そう。帰りは送ってあげるから心配しなくていいわ」
「ありがとうございます」
 正直ここまで遅い時間に来る羽目になるとは二人とも思っていなかったが、過ぎたことを責めても仕方がない。クッキーを包んだり段取りを考えている間になんだかんだ言って時間が経ってしまったのだ。
 シュラインはラッピングしたクッキーを、みなもは買ってきた紅茶の缶を3つ、それぞれ持って、静まりかえる館へと足を踏み入れるべく鉄製の錆びた門に手をかけた。
 力を入れて押してみると、ギギギという思いがけず高い音が立ってしまって驚く。なんせここは住宅街、それもいい時間帯だ。眠りについている人がほとんどだろう。
「静かにね、静かに」
「はい。あ、シュラインさん、鍵は?」
「持ってるわよ。ホラ」
 シュラインがポケットから古ぼけた細長い鍵を取り出してみなもに見せる。月明かりを反射して鈍く光る金色の鍵だ。
 門をくぐり玄関に向かって歩きながらみなもが言う。
「幽霊さん、出てきてくれるでしょうか」
「どうかしらね。それはそうと確認しておくわよ。霊紳士の正体は、病気で亡くなったっていうこの館のご子息なのよね?」
「はい、近所の方の話ではそうでした。その方が子供のころの話ですから、もう何十年も前のことみたいですけど」
「それだけでもわかれば上出来よ」
 興信所に帰り着いたのはもう夕暮れ時だった。帰りの遅い自分のことを興信所の面々は大層心配していたようで、みなもはそれを嬉しく思いながらも申し訳ないという気持ちのほうが勝って何度も謝った。
 謝りつつも老婆から仕入れた情報はきちんと伝え、それを元に話し合いをしていた結果、こんな夜も遅い時間に訪ねることになってしまったというわけだ。
「助かったわ。情報は少しでも多いほうがいいから。でもわざわざ遠回りしてくることもなかったのに。心配したのよ」
「あ、す、すみません……」
 なんとなく迷子になったことは言い出しづらくて、語尾をごにょごにょと濁して俯いた。
 立ち止まり、二人は一度顔を見合わせて深呼吸をした。そしてシュラインが鍵を差し込もうと扉に手をかけた瞬間―――――――――。
「きゃあ!?」
 ショートしたような激しい音が鳴り響き、シュラインは思わず出していた手を引っ込めた。
「なに!?」
「大丈夫ですか、シュラインさん」
 みなもが不安げにシュラインを見上げる。
「ええ、大丈夫。びっくりしたけど痛くはないわ」
「よかった。でもどうしましょう。あたしたち、拒まれてるんでしょうか」
「そうでもないみたいよ」
「え?」
 シュラインに顎で促されてみなもが見た先には、鍵を挿してもいないのに僅かに開いている館の扉があった。



「うそ……」
 みなもは思わずそう漏らした。それもそのはず。
 誰も住んでいない空き家の洋館。当然、水道・ガスなどは止められている。もちろん電気も。
「どうなってるの?」
 シュラインが信じられないといった風に辺りを見回す。
 真っ暗なはずの内部は煌々とした光に照らされていた。天井高く吊るされているシャンデリアにも、壁に付けられているランプにも明かりが入っている。そればかりか、手入れをされていないはずの室内にはホコリひとつなく、壁紙も絨毯も新品同様の綺麗さを保っていた。
「どういうことでしょうか」
「………………」
「あっ、シュラインさん!?」
 玄関ホールを勢いよく飛び出したシュラインの背にみなもが叫ぶ。
 シュラインは玄関扉をくぐると睨むように館を振り返った。外からは、内部に明かりが灯されているようには到底見えない。館の外観も、ぴかぴかだった室内の絨毯などとは違い、外壁には蔦が這い、ところどころにシミやヒビ割れている箇所があった。闇夜に佇む館の様子は不気味さをいっそう引き立てる。
「これも霊紳士のせいなの……?」
 シュラインは誰にともなく呟く。……と。
「いらっしゃい、お嬢さん方」
 玄関ホールの右奥からいきなり声をかけられて、二人はぎくりと身体を強張らせた。シュラインは静かにみなもの傍へ寄り、不安げなその両肩を優しく包む。
「貴方が、霊紳士?」
 シュラインが声のした方へと返事をする。そうしてホール中央にある階段の影から現れたのは、燕尾服を着て柔らかい笑みを浮かべた男性だった。髪はきっちりと整えられ、首元にはタイ、手には白い手袋をしている。雰囲気も表情も、一般的にいう幽霊っぽさは微塵も感じられない。ただひとつ、その体が薄く透けていること以外は。
「私は今、外ではそんな風に呼ばれているのですか?」
 幽霊紳士がゆっくりと二人に歩み寄る。声音からすると苦笑しているようだ。足音はするが影はなかった。
「あの、あたしたち貴方に会いに来たんです」
 みなもが幽霊紳士に笑顔を向ける。その言葉を受けるようにシュラインが続けた。
「これ、私達が作ったのよ。クッキーはお好きかしら」
「あと、紅茶も。ダージリンとアールグレイ、それにアッサム」
 二人がそれぞれ手に持っていたものを差し出すと、幽霊紳士は嬉しそうに笑って言った。
「お気遣いありがとう。それではこちらに。楽しいお茶会になりそうですね」



 通されたのは、立派な革張りのソファのある一室だった。この部屋も玄関ホールと同じく手入れが行き届いているように思えた。
 幽霊紳士は「少々お待ちを」と言ってどこかに消えてしまった。言葉のとおり、すぅっと煙が掻き消えるように見えなくなってしまったのだ。
 二人はとりあえずそのずっしりとしたソファに腰を下ろし、特にすることもないので部屋の様子をじろじろと眺めていた。
「不思議ですね。どうなっているんでしょう」
 みなもが天井に貼ってある壁紙を見上げながら言う。なんだかよくわからない模様が描かれているが、そういうものほど高そうで凝視してしまう。
「ほんとね。今でも人が住んでいるかのような様子だわ。このテーブルにもチリひとつ落ちてないし」
 言ってシュラインはテーブルの淵をするりと指先で拭った。
「お待たせしました。どうぞこちらを」
 いつの間にそこにいたのか、幽霊紳士がティーカップやポットが乗ったトレーを静かにテーブルへ置いた。カップの横の皿には、先ほど渡したクッキーもきちんと並べてある。
「いただいたダージリンを淹れてみました。とてもいい香りですね」
 そう言いながら幽霊紳士は慣れた手つきでポットからお茶を注いでくれた。ふわりと爽やかな香りが立ち上る。
「ありがとう。ところでお名前を教えていただけるかしら。私はシュライン。シュライン・エマよ」
「いいお名前ですね。私は高遠・龍一郎(たかとお・りゅういちろう)と申します」
「たかとおさん?」
 みなもの問いに幽霊紳士はにっこりと笑み、対岸のソファへ腰を下ろした。
「あたしは海原・みなもです。よろしくお願いしますね、幽霊さん」
「こちらこそ。よければ龍一郎と呼んでくれませんか。『幽霊』と呼ばれるのはいささか悲しいものがありますから」
「あっ、ごめんなさい」
 幽霊紳士こと高遠・龍一郎は終始穏やかな笑みを浮かべている。敵意はなさそうだ。この世を恨んでここにとどまっているわけではないように思える。
 かといって油断は禁物だ。なんせ相手は、錆びれた洋館を人が住める空間に変えてしまえるような力を持った幽霊だ。そう、目の前にいる相手はまぎれもない、この世のものではない存在なのだ。
「単刀直入にお伺いします。貴方は何の未練があってここに留まっているの?」
「し、シュラインさん!?」
 カップに口をつけようとしていたみなもが驚きの声を上げる。こんなにいきなり本題に入るとは思ってもいなかったようだ。
 シュラインは続ける。
「ここは既に人手に渡っているの。貴方がそれに納得がいかないのはわかるけれど、貴方は死んでしまっているという事実は変えられないのだから、それはもうどうしようもないことなのよ」
「シュラインさん……」
 みなもが両手で包んだカップを握り締める。
 シュラインの言葉を正面から受けて聞いた龍一郎は、しばらくしてすっと視線を外して目を伏せてしまった。その様子を痛々しげに見つめてみなもが静かに口を開く。
「ここを残すことはできないみたいなんです。でもその代わり、あたし達にできることならお手伝いします。だから、どうしてあなたがこうなってしまったのか、その理由を教えてください」
「私がここにこうして居る、理由……ですか」
 みなもの言葉に龍一郎が吐息のような呟きを漏らす。実体はないのだから呼吸もしていないはずなのに、なぜかその息遣いが見えるような呟きだった。
 しばらく無言で龍一郎は空を見つめていたが、やがて顔を挙げ小さく笑みをこぼした。
「聞いて、いただけますか。お茶の席でこのような話題は場違いかもしれませんが」

***

「とてもお恥ずかしく、不甲斐ない話なのです」
 彼はそう前置きをしてから話し始めた。
 今から半世紀以上前、高遠・龍一郎は資産家の長男として生まれた。
 いずれは家督を継ぐものとして周囲の期待を一身に受け、龍一郎もその期待に応えるように勉学や武道に励んだ。
 両親は息子を誇りに思い、早いうちから良縁をと許婚を決めていたのだが、龍一郎は「まだまだ学ぶことがあるから」と言って相手と会おうともしなかった。
 そうしていくつかの季節が廻り、ある日のこと。
 高遠邸の庭、桜の木の下で、龍一郎は一人の少女と出会う。名前を八重(やえ)といった。
 この少女こそ龍一郎の婚約者その人だった。
 お互いその事実も知らぬまま、二人は一目で恋に落ちた。
 龍一郎21歳、八重16歳の初夏のことである。

***

「素敵! 一目惚れだったんですね」
 みなもがクッキーを片手に歓声を上げる。
「八重は、許婚であるのに一度も顔を見せなかった私のことを責めもせず、『会えて嬉しい』と言ってくれました。それからは幾度となく言葉を交わし、絆を深めていったのです」
 そう語る龍一郎の顔は本当に幸せそうだ。
 シュラインはその横顔を見つめながら、温かい紅茶にそっと口をつけた。

***

 顔を合わせるだけで特に何をするというわけでもない。
 龍一郎は忙しさの合間を縫って八重に会いに行き、八重も疲れた龍一郎を優しい微笑みで迎えて癒した。また、暇さえあれば八重を自邸に招き、世界中から買い集めた紅茶を振舞ったりもした。
 だがその幸せな日々も長くは続かなかった。
 結婚式を間近に控えた頃、龍一郎が病に倒れたのだ。
 当時「死の病」として恐れられていたその病に特効薬などあるはずもなく、龍一郎の病状は日に日に悪化していくばかりだった。
 龍一郎は八重を遠ざけようとした。だが八重はそれを振り切り、ひたすらに献身的な看病を続けた。自らに感染してしまうかもという危険を冒してまで。
 そしてある日、八重は龍一郎にひとつの約束を持ちかけた。

「病気が治ったら、また一緒にお庭でお茶をしましょう。あの桜の木の下で」

 その約束が果たされることは、ついになかった。

***

「こんな身体になってもまだ、八重のことが忘れられないのです。どうしても、もう一度八重と言葉を交わしたい。それだけなのです。……叶うはずもないと、わかってはいるのですが」
 みなもがしゃくりあげながらこぼれた涙を拭う。シュラインは押し黙って手の中のカップを見つめていた。
 若くして絶たれた二人の絆。龍一郎は魂だけの存在になってもなお、八重を愛し続けている。
「わかったわ。私達が八重さんを探してくる」
「え……?」
 驚いたのは龍一郎だ。まさかとでも言いたげな表情でシュラインを見る。
「シュラインさん、でも」
 みなもが涙に濡れた瞳をシュラインに向ける。だがシュラインはにっこりと笑って、
「そうね、難しいかもしれない。でもやる前から諦めるなんて嫌よ。協力してくれる?」
 と答えた。
 みなもは目を真っ赤にしながら、こくこくと精一杯頷いた。



「それじゃあ、八重さんの今について何かわかったらまた来るわ」
 時刻はもう明け方近くになっていた。
 玄関ホールまで見送りにきた龍一郎に、シュラインは晴れやかにそう言った。
 泣き止んだみなもも、龍一郎へにこりと微笑みかける。その瞼は若干腫れぼったく、鼻もまだ赤い。
「でも無理はしないでください。もしかしたら、八重はもう……」
「ダメです」
 みなもが強い口調で龍一郎を制する。
 龍一郎が生きた時代はざっと一世紀近く前のことだ。人間は不死ではない。もしかしたら、という考えはどうしても拭えない。
 みなもは少し震えた声音で、頑なな意思の現れであるかのような視線で訴えた。
「さっきシュラインさんも言いましたけど、やる前から諦めてたら、上手くいくものもダメになってしまいます。なにより龍一郎さん自身が信じなかったら、一体誰のために頑張っているのか、あたしたちわからなくなっちゃいますよ」
「そうよ。わかったらあんたはせいぜい、紅茶の淹れ方でも勉強しなおしておきなさい」
 二人に押されて面食らった顔をしていた龍一郎だが、やがてふわりと、とても優しい微笑みを浮かべた。

***

 八重はいつも笑顔を絶やさなかった。
 私が疲れて八つ当たりをしてしまっても決して責めることなく、常に私のことを見守ってくれていた。
 そんな彼女に私は一体なにをしてやれただろう。
 交わした言葉はそう多くはないけれど、気持ちはきちんと伝えられていたのだろうか。
 誰よりも誰よりも。
 愛していると。
「龍一郎さん」
 八重。
 今でもそこここに八重の幻を見る。
 私の横で、ころころと笑い声を上げていた彼女の……。
「龍一郎さん」
「……八、……重…………?」
「狡いわ、龍一郎さん。私はもうこんなに年老いてしまったのに、貴方はあの頃とちっとも変わらないのね」

***

 陽だまりの中で、一組の男女が楽しげにお茶を交わしている。
 その様子を眺めながら、シュラインとみなもは満足そうな笑顔を浮かべた。
 旧高遠邸、お茶会好きの幽霊が出るといわれた洋館の中庭。そこで幸せそうに寄り添うのは、幽霊紳士こと高遠・龍一郎と、その婚約者であった女性、八重。
 龍一郎が八重を招いた庭は、空き家だとは思えないほどに美しい様相だった。草花は狂い咲き、鮮やかな模様の蝶が飛び回り鳥は歌を歌う。まるでここだけ春になったかのようだ。
「本当に、よかったわ。八重さんがご存命で、しかもすぐに見つかって」
「ほんとですね」
 八重を探し出せたのはみなもの偶然とも思える手柄だった。迷いながらここへ下見に来た際に知り合った老婆。彼女は八重の従姉妹だった。
 みなもは龍一郎のことをどう説明したものか悩んだが、嘘をついても仕方がないと思い、自分が見たこと聞いたこと、現在の状況を正直に話した。初めは訝しく思っていた老婆だったが、みなもの熱意に押されて、現在は近所に住んでいるという八重を紹介してくれた。
 信じてもらえないかもしれませんが、と前置きをしたみなもに、八重はみなもの手をしっかりと握り、全てを理解したかのような笑顔で頷いたのだった。
「素敵ね。こんなにも一途に人を好きになれるっていうの」
 シュラインが憧れの眼差しで二人を見つめる。
「ええ、そう……って、え!?」
 口を開いたみなもが驚きの声をあげる。
 中庭の奥のほう、龍一郎と八重が背にしていた木に、一斉に花が咲き乱れた。それまでは分からなかったが、これは桜の木だったのだ。ピンクの花びらを付けた、八重桜。
「きれい……」
 みなもがうっとりとした様子で呟く。
 ふと、龍一郎がこちらを見つめていることに気がついた。
 視線が合うと龍一郎は、ゆっくりと目を細めて微笑んだ。その唇が小さく動く。
「あれ、龍一郎さん、何か言って……」
「なに? 『あ』……」

 ありがとう。

 それが合図だったかのように、中庭を一陣の風が通り過ぎた。
 桜の花弁が大きく舞う。反射的に目を覆った。
 静かに瞼を上げたときには、もうそこは既に荒れ果てた庭へと変貌を遂げていた。
 蝶も鳥もどこにもいない。二人が居た場所には、空を見つめる八重と、朽ち錆びてボロボロになったテーブルがだけが残されていた。
「八重さん!」
 二人は慌てて八重に駆け寄った。
 みなもは素早く八重の前に回りこみ、彼女の顔色を確認する。シュラインも車椅子の背に手をかけて表情を伺った。
「大丈夫ですか?」
 シュラインの問いに八重は大きく頷き、
「ありがとう。こうしてまたあの人に会えるなんて、本当に夢のようよ」
 と震える涙声でそう言った。



「ありがとうございましたー」
 店員の声を背中に聞きながら、みなもはその店を後にした。手に持っているのは龍一郎にも差し入れた紅茶、ダージリン。
「龍一郎さん、いまごろ天国でお茶でもしてるんでしょうか」
 桜吹雪とともに消え去った龍一郎。あとに残ったのは廃屋同然の館だった。あの夜みなもたちを招きいれてくれた、煌びやかな内装はあとかたもない。あれはやはり龍一郎が見せてくれた特別な幻影だったのだろう。そして住人のいなくなった洋館は、工事関係者が拍子抜けするほどあっけなく取り壊されてしまった。
「洋館がなくなってしまったのは残念ですけど」
 現在、洋館があった場所には立派なマンションが建設されている。工事関係者は作業が滞りなく進められるのか不安がっていた者もいたようだが、今のところ何の問題もなく順調に事は運んでいるようだった。
 龍一郎の一件があって依頼、みなもは時々こうしてあの時と同じ紅茶を買い、八重の元へと遊びに行くようになっていた。お茶を飲みながら世間話をしたり、龍一郎との思い出を聞かせてもらったりもしている。幸せだった二人の時間に触れていると、なんだか自分まで幸せで心が温かくなるようだった。
「羨ましいですね。お互いがお互いを、本当に心から……」
 時を越えて再びめぐり合った二人。姿かたちは違えども、強い想いは変わらずにそこに在り続けた。
 みなもは風に髪を流されながら、すべるように行き過ぎていくわたあめのような雲を見上げた。龍一郎も天国から、この空を眺めているだろうか。
 頬を撫でる風は気持ちがいい。もうすぐ春になろうとしていた。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
1252/海原・みなも/女性/13歳/中学生

NPC/草間・武彦/男性/30歳/草間興信所所長、探偵
NPC/草間・零/女性/??/草間興信所の探偵見習い

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■         ライター通信          ■
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初めまして。この度はご参加いただき、誠にありがとうございます。
プロフィールを見直すたびに、可愛いなぁ、可愛いなぁと呟きながら書いていました。
ふわふわとしたみなもさんの雰囲気を、少しでも多く出せていたらなと思います。
それでは、またお会いできますことを祈って。

槻耶