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EXTRA TRACK -K.KIRISHIMA-
そう言った後で、桐嶋は思い直したように「いや」と自らの言葉を打ち消した。大粒の瞳をきらきらさせながらこちらを見つめる桐生暁の視線から逃げるように窓枠に肘を乗せ、顔を背ける。
「やはりやめておこう。どこか適当な所まで送ってやる」
などと言ったところで引き下がるはずがない。案の定、暁は不満たらたらの口調と表情で「なーんでー?」と聞き返した。
「こないだ約束したじゃん、一緒に甘味屋巡りするって。あの事件が解決したのは誰のおかげだと思ってんの?」
「今日だと言った覚えはない」
「今日じゃないとも言われてないけど?」
「それはそうだが、若い連中には色々予定があるのだろう。無理強いするつもりはない」
「なんでそーゆー言い方すんのかな。桐嶋さん、もしかして俺のこと嫌い? あーあ、散々思わせぶりなこと言われといてフラれちゃったよ。すっげ傷付いたんだけどー」
暁は大袈裟に嘆いてみせ、頭の後ろで両手を組んで脚をシートの前に投げ出す。桐嶋は頬杖とともにふうっと大きく溜息をついた。その後で、言った。
「おまえに声をかけた俺が愚かだった」
「ひっでえ、何それ」
「仕方ないから好きな所へ連れて行ってやると言っている」
桐嶋は暁の抗議を遮るように顔の前で幾度か両手を振ってみせた。「行きたい所を言え」
「やった」
暁はぴょこんと体を起こして桐嶋の腕に飛びついた。桐嶋は顔をしかめて腕をほどこうとするが、暁はお構いなしだ。
「じゃ、桐嶋さんのお気に入りんとこ連れてって!」
「俺の行きつけではおまえの財布がもつまい」
「やだなあ、苦学生に金があるわけないじゃん。ゴチになります! ありがとーっ」
屈託なく笑う暁に桐嶋は本日何度目かの溜息をつき、ややげんなりした表情で窓の外に目を投げた。
桐嶋の指示でリムジンは郊外へと向かう。立ち並ぶビルや住宅が徐々に農地や山林へと変わり、間断なく流れていた対向車も姿を消した。暁は窓を開けて首を出し、風に流される髪の毛を押さえながら前方を覗き込む。片側一車線の道路が緩やかな傾斜とともにうねりながらどこまでも伸びているだけで、人や建物の気配は感じられない。
「閉めろ。寒いだろうが」
「ごめんごめん。それよかどこ行くの? どんどん人里離れた所に行ってるみたいだけど」
暁はウインドウを閉めて尋ねた。「もしかして、ひとけのない所に連れてって何かする気?」
「気色の悪い冗談を言うな、馬鹿者。放り出すぞ」
桐嶋は心底不快そうに舌打ちした。「じきに着く。黙って座っていろ」
暁は「へいへい」と返事をしてシートにもたれかかった。本当に尊大な物言いだ。実際に警察の中では地位のある男なのだろうが、こんな態度しか取れないのだろうか。
「桐嶋さんってほんっと偉そうだよねー。官僚の典型って感じ。それが桐嶋さんのキャラだって言えばそれまでだけどさ」
「ほざけガキ。好きで偉くなりたいわけではない」
暁は「へえっ」と声を上げ、整えられた眉をひょいと持ち上げた。
「氷吾に……矢代に、誓ったんだ。同じことは繰り返すまいと」
呟くような桐嶋の台詞。窓の外に投げた目は景色よりもずっと遠くを見つめているように見え、暁は赤い瞳を幾度か瞬かせる。
「矢代って誰?」
「矢代耕太(やしろこうた)。氷吾の元部下だ」
「元ってことは、今は違うんだ」
「ああ。死んだ」
「へ?」
あまりにもさらりとした桐嶋の物言いに暁は眉を寄せて顔を上げる。桐嶋は暁を見下ろし、もう一度、ゆっくりと言った。
「死んだんだ」
タイヤがかすかに軋み、車が停止した。車体の揺れに応じるように窓の外を見やった暁は軽く目を見開く。いつの間にか、木立に隠れるようにして小さな小さなカフェが顔を覗かせているではないか。桐嶋は裏の駐車場で待っているようにと運転手に指示し、暁を促して車から降りた。
「こんな所にこんなお店があるんだね」
「場所が場所だからそれほど客は来ないがな。だからこそ気に入っている」
それほど大きな店ではない。低い高床式のログハウス調の作りには心地よい年季が感じられる。どっしりとした丸太は黒く静かに光り、桐嶋がノブを回すと小さなドアベルが柔らかな音を立てて揺れた。控えめにアロマが漂う店内には小さなボックス席が三つ、カウンターが五席。カウンターの中でグラスを拭いていた店主の男性が桐嶋の来訪に気付き、親しみのこもった笑顔とともに「いらっしゃいませ」と挨拶する。桐嶋は軽く手を上げて応じ、角のボックス席に腰を落ち着けた。
「ね、何でも好きな物頼んでいいんだよね? 迷うな、全部頼んじゃおっかな」
暖色系の照明の下で暁は喜々としてメニューをめくる。そこへ店主が氷水のグラスを持って現れた。
「あ、すみません。注文いいですか?」
「おい」
店主に声をかけた暁を桐嶋が制する。「俺はまだ決めていない」
「だって喉渇いたんだもん。とりあえず飲み物だけ。コーラふたつください」
暁のオーダーに桐嶋は軽く目を細めた。
「これでいいんだよね」
暁は店主が奥に引っ込んだ後で桐嶋に向き直り、にこりと笑ってみせた。桐嶋は小さく笑って頬杖をつく。カウンターの中からカラカラと涼しい音が聞こえてくる。グラスに氷を入れているのであろう。
「考えてみれば、矢代や氷吾と一度くらいこういう所に入ってみるのもよかったな」
「一緒にお茶飲んだりしなかったんだ」
「ああ。あいつはこういう場所が苦手でな。いつも自販機のコーラだった。昼休みの屋上で安いコーラ片手にお喋りさ」
お待たせいたしました、という穏やかな声とともにグラスが二人の前に置かれた。焦げた砂糖の色をした透き通った液体の上に涼しげに浮かぶ氷。細微な気泡は暖色系の照明の光を受け、小さくも贅沢な光を控えめに放っている。暁はストローを差してこくりと一口飲んだ。ほどよい甘味と刺激が舌の上にじんわりと広がる。桐嶋は店主を呼び止め、自分が食べるのであろうストロベリーパフェと暁の分のレアチーズケーキをオーダーした。
「お喋りって、桐嶋さんと沢木さんと矢代さんとで? 野郎三人で何を喋るの?」
「喋っていたのは専ら矢代だ。俺と氷吾は聞くだけ」
桐嶋はタイトなスーツの下の肩を軽く揺すってみせる。「刑事になりたてで、とにかく元気のいい奴だったよ。熱血漢とでもいうかな。警察は市民を守るためにあるとか、弱者が安心して暮らせるような社会を作るのが警察の役目だとか・・・・・・コーラを飲みながらそんなことばかり熱弁していた。まるで酒にでも酔ったみたいに、な。コーラで酔うはずがないのに」
そこでいったん言葉を切り、桐嶋はストローを使わずに直接グラスに口をつけた。
「でも、そういうのって上の人には煙たがられそうじゃん?」
桐嶋にはガキと言われるが、暁とて子供ではない。社会という所がどういう場所なのか知らないわけではないのだ。いくつもの縦社会が複雑に絡み合う警察という組織において矢代の説く理想が実現する可能性はゼロに近い。もし実現したとしても決してすんなりとはいかないであろう。そして、矢代のような潔癖な理想を持つ人間が疎ましがられるのもまた社会という場所だ。
「ああ。あいつの主張は現実社会にはそぐわない。しかし奴の志は警察官にとって大事な初心。忘れていたことを思い出したとでもいうかな。俺や氷吾が奴に感化されるまでそう時間はかからなかったよ。特に氷吾にとっては矢代が始めての部下だったからな」
暁は「ふーん」と鼻を鳴らし、グラスの中の氷をストローでつつきながら頬杖をついた。その後でそっと目を上げて桐嶋の顔を盗み見る。テーブルに肘を置き、暁のやや斜め後方に視線を投げて、過去を懐かしむように目を細めた桐嶋の表情は今までに見たことのないものであった。普段は言葉も態度も尊大な桐嶋がそんな顔をするのは少し意外で、新鮮で、そしてなぜかほんのちょっぴり、妬ける。
「昔・・・・・・というほど昔の話ではないな」
やや間を置いた後で桐嶋はゆっくりと口を開いた。「二年前。おととしの冬だ。氷吾が刑事課の警部補だった頃で、矢代という部下を得た少し後のことだ。的場龍之介(まとばりゅうのすけ)という代議士を知っているか?」
「的場サンっていったら、政界の大物でしょ。子供でも知ってるくらいだし」
と答えた後で暁はふと眉を寄せる。「おととし・・・・・・ね。確か的場サンの孫が誘拐されたのもその頃じゃなかったっけ」
誘拐された孫は五歳か六歳だったはずだ。大物代議士の孫、そして十億円という身代金の額もあいまって新聞やテレビが大騒ぎしていたからよく覚えている。しかし、あれほどセンセーショナルに事件発生が報じられた割には事件解決の報道を聞いた記憶はない。
「ああ。そのヤマの捜査を担当したのが宮本署、氷吾や矢代だ。しかし大物代議士だからな。宮本署と本庁で合同捜査を行うことになり、指揮官として派遣されたのがこの俺。氷吾の名は昔から知っていたが、一緒に組んで動いたのはあれが初めてだった」
「矢代さんともそこで知り合ったんだ?」
「その通り。氷吾も矢代も張り切っていた。若さゆえだろうな。矢代にはとにかくパワーがあった。氷吾は元々エネルギッシュなほうではないが、矢代に触発されてずいぶん頑張っていたよ」
「ふーん。あの沢木さんがねえ」
あののんびりした口調と穏やかな物腰、にこにこと笑みを絶やさぬ顔を頭に思い描き、暁はまんざら大袈裟でもなさろうに首を傾げて見せる。桐嶋はそんな暁のしぐさに軽く声を上げて笑った。
そこへパフェとケーキが運ばれて来て話はいったん中断する。イチゴがふんだんに飾られ、ストロベリーソースが惜しげなく使われた大きなパフェが桐嶋の前に置かれた。本当にこれを食べる気なのだろうかと暁がやや訝った視線を向けていると、桐嶋は迷いも見せずに生クリームにスプーンを差した。どうやら筋金入りの甘党らしい。まあ俺も人のこと言えないけど、と暁は小さく笑みを漏らし、装飾のない白い皿の上にラズベリーソースとともに供されたレアチーズケーキをフォークで切り取った。
「――少し長くなるが」
しばし無言でパフェをつついた後で桐嶋は顔を上げた。「構わんな?」
「もちろん」
手を止めて、暁はにこりと微笑んでみせた。
「真相をかぎつけたのは矢代だった」
桐嶋はコーラで唇を濡らし、やや間を置いてからぽつりぽつりと語り始めた。
「矢代が手に入れた情報を聞いた時、俺は愕然とした。内容に驚いたのではない。その事実が・・・・・・その事実をかぎつけたことがもたらすであろう事態に愕然としたのだ。案の定、予感は見事に的中した――」
何を言いたいのか察しかねて暁はぎゅっと眉を寄せる。桐嶋はちらりと目を上げて暁を見た。
「的場が警視総監に捜査の中止を申し出たのだ。この件は告訴しない、身代金を払えば孫は返ってくるのだからと。なぜだか分かるか?」
ああ、と暁は鼻から抜けるように息を漏らした。権力者。捜査の中止。このふたつの線上にあるものは想像に難くない。暁はちょっとためらった後で、言った。
「捜査されては困ることが・・・・・・事件の裏に知られたくないことがあったから?」
桐嶋はアイスクリームを口に運びながらゆっくりと肯いた。
「話は少々複雑でな。的場は公共工事を発注するという約束で業者から巨額の賄賂を受け取っていたのだ。しかし実際は違う業者に発注した。贈賄した業者が必死になって借金を重ねて準備した金は無駄になったわけだ。その業者夫婦は絶望と借金苦で自殺した。そして、その夫婦の息子がチンピラを雇って的場氏の孫を誘拐させたのだ。的場氏が受け取った賄賂と同じ額を身代金として指定して」
「・・・・・・両親の復讐、か」
暁は呻くように呟いた。的場本人が警視総監に捜査の中止を求めたのも肯ける。
「警視総監の命令で捜査は中止された。警視総監ばかりはこの俺にもどうしようがない。結局、誘拐された孫が救出されないまま捜査が打ち切られたわけだ。――しかし、矢代がそれで納得すると思うか。氷吾やこの俺がすんなり引き下がると思うか?」
桐嶋の声はかすかに震え、唇を噛み締める音が暁もはっきりと聞こえた。
矢代の理想。それは弱き者を助け、市民のための警察であること。
その理想は打ち砕かれたのだ。権力という、あらゆる物を握り潰すことのできる化け物によって。
「案の定、矢代は孫だけでも助けるといって聞かなかった。身代金を払うことが人質の救出につながるとは限らない、小さな子供が大人の犠牲になるなど許せないと。子供を助けて、犯人を締め上げて事件の全容を明るみに出すのだと」
「当然じゃん」
暁は憤りを隠さずに相槌を打つ。「そのための警察でしょ?」
「その通りだ。しかしそれが捜査本部に聞き入れられるはずがない。挙句の果てに、矢代の奴は一人で犯人のアジトに乗り込むと言い出した」
「そんな」
暁は思わず声を荒げた。桐嶋も深い深い吐息を漏らす。
「氷吾も同行すると言って聞かなかった。俺は奴らを止められなかったよ。いや・・・・・・俺自身、的場が許せなかった。権力にしっぽを巻いて逃げ出す警察が許せなかった」
店主が皿でも洗っているのだろう。水道の蛇口をひねる音が聞こえた。ザーッと流れる水の音、かちゃかちゃと食器が触れ合う冷たい音がぼんやりと暁の鼓膜を揺らす。
「俺は無理矢理携帯許可をとって奴らに銃を持たせた。俺も行こうとしたが、現場に不慣れなキャリア組なんか足手まといになるだけだと矢代に笑われてな。確かに、俺が行ったところで結果は同じだったかも知れん」
桐嶋は自嘲の笑みを浮かべた。そしてそれっきり口を閉ざしてしまう。相槌を打つこともせず、続きを促すこともせず、暁は目を伏せ、ケーキを口に運んだ。ただ桐嶋の言葉を、桐嶋の感情の整理がつくのを待っていた。上等なスーツに包まれた屈強な肩がかすかに震えていることに気付いたからだった。
「――詳しい状況は分からん」
やがて桐嶋は目を伏せたまま、かすれた声で言った。「通報を受けて俺が駆け付けたとき、犯人グループのアジトは大火事になっていた。そして沢木がぼんやりとそのそばに座り込んでいた」
「・・・・・・矢代さんはいなかったの?」
暁は恐る恐る尋ねた。桐嶋は暁に顔を向け、「いたさ」と投げやりに言った。その後で、続けた。
「犯人グループと、人質と一緒に焼け跡から焼死体になって出て来た」
暁の喉仏が一瞬だけごくりと上下した。
「DNA鑑定の結果、間違いなく矢代本人だと確認された。沢木が言うには、犯人ともみ合ううちに拳銃を落とし、その銃で人質ごと矢代が撃ち抜かれたらしい。そして格闘するうちに漏れた灯油がストーブに引火して火が出たと・・・・・・」
「矢代さんも犯人も人質も死なせちゃったんだ」
最悪の結末に暁は目を伏せる。桐嶋は小さく肩をすくめて冷笑を浮かべた。
「ああ。おかげで事件はうやむやのまま。警察の連中は喜んでいたよ。矢代の死を手を叩いて喜ぶ連中さえいた。吐き気がしたぜ。こんな連中と同じ組織で働いているとはな」
「それで、沢木さんはどうしたの。懲戒免職になってもおかしくなくない?」
「氷吾はさっさと辞表を書いたよ。しかしこの俺が許さなかった。すったもんだの末に裁決は本庁にまで持ち込まれた。もちろん決は懲戒免職。おまけに主席監察官は過失致死で立件するとまで言いやがった」
桐嶋はきつく閉じた瞼を震わせて押し出すように言葉を継いだ。
本庁の大会議室。重厚な欅の机の前に正装で並べられたのは桐嶋克己と沢木氷吾。二人の向かいに立って冷たい笑みを浮かべているのは三人の監察官。彼らの中央に立った主席監察官は一片の感情も交えずに裁決文を読み上げ、あまつさえ冷たい嘲笑さえ浮かべて沢木を見下ろしたのだった。
「ふざけるな!」
激昂して主席監察官に掴みかかったのは桐嶋であった。食いしばった歯が唇の皮を突き破り、一筋の血が顎へと滴る。
「桐嶋、口を慎め! 上司に向かって――」
「貴様にそんなことを言われる覚えはない! 貴様らが何をしてくれた! 貴様らが・・・・・・刑事課が、本庁が、事件解決に少しでも協力したのか! 氷吾は及び腰の貴様らの代わりに子供を救おうとしたのだ、それのどこがいけない! 貴様らは権力に怯えて震えていただけだろうが! 貴様らに氷吾を断罪する資格などあるものか!」
「克己さん」
と静かに桐嶋の肩を掴んだのは沢木だった。
「およしなさい。出世に響きますよ」
沢木は静かに言ってハンカチを差し出した。そう言われて初めて、桐嶋は自分が泣いていることに気付いた。
「克己さん。あなたはキャリア・・・・・・幹部候補です。これから必ず偉くなる。警察になくてはならない存在になる。あなたは警察を辞めてはいけないし、辞める必要もありません。辞めるべきはぼくです」
淡々とした沢木の言葉が終わるか終わらないかのうちに鈍い打撃音が会議室に響き渡った。沢木の細い体が吹っ飛ぶ。衝撃で外れたタイピンが冷たい音を立てて床に落下した。三人の監察官は一様に目を丸くした。
「引責辞任や懲戒解雇など子供の理屈だ!」
桐嶋は沢木に振り下ろした拳をぶるぶると震わせて叫んだ。とめどなく溢れる涙を拭おうともせずに。沢木は口元の血を拭おうともせず、眉ひとつ動かさずに静かに桐嶋を見つめていた。
「責任を取って辞めるだと? それこそ無責任の極致だろう! 責任を感じているのなら真相解明のために走り回れ! 矢代の理想の実現のために身を削れ! それが責任を果たすということではないのか!」
「ぼくだって・・・・・・できることならそうしたい」
沢木の声は震え、糸のように細い目にはうっすらと涙がにじんでいた。「でも、どうしようもないんです。ぼくに何ができるとおっしゃるんですか? 警視庁の監察が下した裁決をどうやってひっくり返せるんですか? 仕方ないのです。上の命令には従うしかないのです。それが組織というものです」
「駄目だ!」
駄目だ、駄目だ、と子供のように繰り返しながら桐嶋は沢木にすがりついた。「身動きが取れないのなら現状を変えてみせろ! 現状ではどうしようもないと嘆くのならば子供と変わらん!」
「ぼくに何の力があるんですか?」
沢木は細い目をきっと吊り上げ、泣き喚くように言った。「ノンキャリアのぼくに何ができる! 権力を持たない人間は無力だ! それは今回の事件でよく分かっているでしょう!」
「ならば俺が変えてやる!」
覚えず、その台詞が桐嶋の口から飛び出していた。
「俺はキャリアだ。幹部候補だ。必ず偉くなる・・・・・・」
沢木の肩を掴む桐嶋の手に強い力がこもる。「警察でいちばん偉くなってやる。誰も逆らえないような権力を身につけてやる。俺のやることに誰も文句を言えなくなる日が来る。そうすれば矢代が思い描いたような警察にすることだってできる。だから・・・・・・」
その後は続かなかった。桐嶋は沢木の前で泣き崩れた。沢木の肩に手を置いたまま、こうべを垂れて、誰の目もはばかることもなく声を上げて慟哭した。
結露に濡れたグラスの中で、からん、と何かが音を立てた。つられるように目を落とすと、小さくなった氷がコーラの中で身をよじらせたところだった。ずいぶん溶けたんだ、とぼんやりと考えた後で、それだけの時間が経っていたのだと暁は初めて気付いた。
「あのときの俺に権力があれば、的場の圧力に屈することもなかった」
桐嶋はコーラを喉に流し込んで息をついた。「日本の警察は優秀だ。しかし警察も官僚組織。官僚組織を動かすのは権力・・・・・・警察も権力にはかなわない。ならば俺が偉くなればいい。誰にも負けないくらい偉くなれば政界や財界の圧力に屈することもない」
桐嶋の口調は淡々としていたが、その底に静かに燃える青い炎のようなものを暁は感じた。炎は赤くめらめらと燃えるものよりも青いもののほうがはるかに熱い。
「俺はキャリアの立場と人脈をフルに活用してどうにか氷吾を警察にとどめた。しかし刑事課の刑事として籍を置くわけにもいかず、刑事課二係という物置部屋に回された。しかしそのほうがあいつにとっては動きやすかったようだな。あいつは権力に関係のない民間組織に目をつけた。民間組織であれば権力を気にせずに動けると」
「そうかな」
肯きつつも暁は首を傾げる。「民間のほうが権力に影響されると思うけど。民間組織をひねり潰すくらい、権力者にとっては簡単っしょ」
「それは権力と接する機会の多い大きな組織の場合だ。弱小組織なら権力と接触する機会はほとんどない。草間興信所を見てみろ。あんなボロ事務所、権力に盾突いて潰されたところで大して変わりはあるまい。最初から潰れているようなものだからな」
「うわ、きっついなー。ほんとのことだけど」
「そっちのほうがきつい言い方だろうが」
桐嶋の至極もっともな指摘に、二人は顔を見合わせて何となく笑った。
「――さてと。おしゃべりがすぎたな。そろそろ出るか」
空の器にスプーンを置いて桐嶋は窓の外に目を投げる。応じて目を上げた暁も「そだね」と相槌を打った。入った時はまだ日が高かったのに、すでに黄昏が迫り始めている。
「ねえ」
店主に見送られて店を出た後で、桐嶋に追いつきながら暁は尋ねた。「よく考えてみたら、今のってちょっとまずいんじゃない?」
「なぜだ?」
桐嶋は怪訝そうに暁を見下ろして尋ねる。暁は桐嶋を斜め下から見上げるように目を上げ、「ふふ」といたずらっぽく笑ってみせた。
「だってさー、今のって捜査情報でしょ。しかも民間人にはあんまり聞かせられないようなやつ。よかったの?」
「問題ない」
桐嶋はにやりと笑って暁の頭を軽くぽんぽんと叩いた。「俺は偉いからな」
「そっか。忘れてた」
桐嶋に頭を撫でられるままになりながら、いつもの人なつっこい笑みを浮かべた。
「そういえば、沢木さんとの約束はいいの?」
「何?」
「だって、元々沢木さんに用があって宮本署に来たんでしょ。んで、沢木さんが取り込み中だからってことで俺を引っ張り込んだわけじゃん? 今頃待ってるんじゃないの、沢木さん」
「ああ」
と桐嶋は思い出したように相槌を打って車に乗り込んだ。「忘れていた」
「はあ?」
「問題ない。俺を呼び出したのはあいつだ。人を呼び出しておいて待たせるような人間に義理を立てる必要はなかろう」
それに、と言った後で桐嶋はリアシートに深々と腰を沈めてコートを脱ぐ。それから暁にちらりと目を落とした。
「氷吾といるより有意義な時間を過ごせた。感謝はしている」
意味が分からずに、暁は一瞬きょとんとして桐嶋を見上げた。桐嶋は唇を真一文字に結んで顔を背けてしまう。その次の瞬間には、暁は嬉しそうな笑みを顔いっぱいに広げて桐嶋の顔を覗き込んでいた。
「ほんっとに素直じゃないなー。正直に“楽しかった”って言えばいいのに」
「氷吾といるよりマシだと言ったまでのことだ」
「それでも嬉しいよ? 桐嶋さんと沢木さんて仲良しじゃん。その沢木さんといるより有意義だって言われたんだからさ」
「分かった、分かった。勝手にしろ」
桐嶋は強引に暁とのやり取りを切り上げ、運転手に帰りの行き先を指示した。
低いエンジン音とともに車が滑り出す。脚を組み、わざと暁から目を逸らすようにして窓の外に目を投げる桐嶋の横顔を盗み見ながら、暁はまた小さく笑みを漏らした。 (了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
4782/桐生・暁(きりゅう・あき)/男性/17歳/学生アルバイト・トランスメンバー・劇団員
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■ ライター通信 ■
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桐生暁さま
こんにちは、宮本ぽちです。
たびたびの宮本署へのお越し、まことにありがとうございます。
「お気に入りのとこ連れてって」とのことで、共通の嗜好である甘味をつつきつつのお喋りとなりましたが、いかがでしたでしょうか…。
二係が扱うような事件とは関係がありませんが、ああ桐嶋ってこんな人なんだ、こういう過去があったんだと、そんなふうに思っていただければ幸いです。
もし機会がありましたらまた桐嶋の相手をしてやってくださいませ。
今回のご注文、重ねてありがとうございました。
宮本ぽち 拝
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