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バカの拳
――いる。
浩介を襲ったのは、刃でも凶弾でもなければ、怪奇の類でもない。確信だった。
肌を切り裂くような冷たい風が、不気味な夜の公園を薙いでいく。なのになぜか、草木一本、虫一匹、動く気配がない。並木も、雑草も、空気や土の一欠片すらも、みんな闇の中にじっと身を潜め、『それ』が自分に気付かず通り過ぎてくれることを祈っているかのよう。
チカッ……
スイッチの入るような音と共に、街灯が青白い閃光を放ち、
――いる。
浩介の確信は敵意に変わる。
『それ』に一瞬の隙すら見せないようにと、浩介は指先の感触だけで、腕の中の女性の鼓動を確かめた。ぬるりとした血の感触が指先に絡まる。夜の公園で、朱に染まった姿で倒れていた、この女性……傷は深いが、幸いまだ息はある。すぐに手当をすれば、きっと助かるはず……
だがそれも、浩介がこの苦難を乗り切ればの話。
自分に対して明らかな敵意を……いや、殺意を向けて、闇の中に潜んでいる『それ』から逃げられたら、の話だ。
「出てこいよ」
腕の中の女性を、そっと遊歩道のすみに寝かせながら、浩介は鋭い声を放つ。
「いるんだろ? 分かるぜ、そのくらい……」
その声に応えてか。
浩介の睨む先にあった闇が、じわり、と蠢いたかと思うと、それはそのまま人の形へと収束した。浮かび上がるように見えはじめる、角張った男の顔面。夜空にかかる三日月のように、光り輝く細身の刀。だがそれ以外の全て……コートも、スーツも、短い髪も、深い夜の中に同化している。
「氷室」
『それ』が言う。岩の擦れるような声で。
「氷室、浩介」
紙に書かれた知らない名前を、慎重に読んでいるような口調だった。あるいは、頭の中に納められた記憶を紐解いているのか。
「知ってんのか、俺のこと。有名人だなァ」
「IO2の情報(ゴートゥ)にあった。能力は確か……高い身体能力と、肉体の高速治癒……」
ふいに、『それ』の左手が動いた。反射的に身構える浩介の足下に、何かボールのような物が転がり落ちる。一瞥してそれが何なのか悟ると、浩介は奥歯を噛みしめて、『それ』に怒りと恐れがない交ぜになった視線を送った。
「ここ一週間、通り魔事件が相次いだ。犯人は能力者だった」
「その犯人がこれかっ!?」
「元、犯人」
『それ』は肩をすくめて、
「今はただの物体だ」
――くそっ! こいつはヤベぇ!
浩介の全身から冷や汗が吹き出す。足下に転がる、通り魔……だったもの。無惨に切り落とされた人の生首。聞いたことはあった。特殊能力を持つ者達の統制を計るIO2という組織……そのエージェントに、能力者殺しを楽しむ狂人がいると。
名前は確か……鬼鮫!
「氷室」
もう一度、鬼鮫が浩介の名を呼ぶ。
「氷室浩介」
それを最後に――
凍り付いた夜が二人を包む。
真っ黒に塗りつぶされたような世界の中に、舞い落ちる木の葉の風切る音だけが、シュウッ、シュウッ、と鋭く響き――
ごうっ!!
風が渦巻き、鬼鮫が駆ける!
一瞬で間合いを詰め、すくい上げるように放つ斬撃。煌めく銀の切っ先が、のけぞる浩介のアゴをかすめる。初太刀は避けた! だが返す刀が浩介の頭に迫り来る。どう避ける? 退くか、横か、
――いや!
「前だっ!!」
叫んで浩介は地を蹴った。弾丸のように懐に突っ込み、鬼鮫のみぞおちに肩をめり込ませる。頭上から聞こえる呻き声。そのままの勢いで鬼鮫ともつれ合いながら倒れ込み、どさくさでマウントポジションを取る。
――もらったっ!
と思った刹那。
ごっ!
横手から迫った鉄の塊が、浩介の頭にめり込んだ。天地が反転しそうなほどの衝撃に、浩介はよろめきながら横倒しになる。
鬼鮫が、不安定な体勢からとっさに放った斬撃である。峰打ちで威力も通常の比ではないが、完全に無防備だった側頭部に鉄の棒が命中すれば、その破壊力たるや推して知るべし。
「くそっ」
と悪態を吐くヒマもない。朦朧とした意識で血に跪く浩介に、体勢を立て直した鬼鮫の、全速の一撃が振り下ろされる。なんとか地面を転がった浩介のそばを、刃がかすめて過ぎていく。
カッ!
地面の石に食い込んだ刃が、真っ白な火花を飛び散らせた。その熱が、浩介のおぼろげな意識を確かにしていく。一撃だ。まともに食らえば、一撃で終わっちまう!
と。
その時、浩介の耳に飛び込んでくる微かな音。
背後から聞こえる、消えてしまいそうな弱々しい吐息。
はっとして浩介は振り返った。遊歩道の隅に寝かせておいた、さっきの女性。彼女の姿は、手を伸ばせば指が届くほどの距離にあった。刃を避けて転がり回っているうちに、いつのまにか――
そして、圧倒的な殺意が浩介の目の前で膨れあがる。
大上段に刃を構え、地に跪いた浩介を見下ろす、鬼鮫。
――ヤベェ……!
避けねばやられる……だが、避ければ刃は女性を両断する。
「氷室、浩介」
鬼鮫が、荒い息を落ち着かせながら、三度名を呼んだ。
「楽しかった」
刃が――
凍り付いた夜。
その氷が融け、白くもうもうと立ちこめる蒸気へと変わっていく。
銀の刃を赤い滴が伝っていく。やがてそれは鍔まで辿り着くと、名残を惜しむようにゆっくりと、刀を握る鬼鮫の手の中へ吸い込まれていく。
「馬鹿か?」
醒めた口調で鬼鮫は呟いた。
「お前は?」
にやっ、と笑って、浩介は青ざめた顔色を吹き飛ばした。全身がビリビリと震える程の痛みが、左手の先から伝わってくる。
手のひらの中程までを切り裂かれながらも、しっかりと鬼鮫の刃を握りしめた、血まみれの左手の先から。
「女など見捨てて避ければよかったものを。終わったな」
しかし、無造作に刃を引き戻そうとして、次の瞬間鬼鮫は愕然とする。
浩介の並はずれた握力によって握られた刃は、まるで溶接でもされたかのように彼の手に吸い付き、びくともしない。
――馬鹿な!?
「確かに……そうかもな……俺ァ、バカだ……」
ぽつり、と浩介は痛みを堪えて呟いた。
「だがな!」
浩介の眼光が、ひるんだ鬼鮫を真っ正面から貫いた。
「バカも悪いもんじゃねえ!」
バキイッ!
浩介が全力で叩き込んだ右の拳が、鬼鮫の刃を真っ二つにへし折った。突然支えを失って、鬼鮫は数歩後ろにたたらを踏む。体の隙。心の隙。半ば本能的でそれを察知した浩介は、地を蹴り豹のように飛び上がる。
「バカの拳、喰らいやがれっ!!」
ごっ!!
鉄塊よりも固い浩介の額が、鬼鮫の鼻っ面にめり込んだ。
――そ……
遊歩道の上に、仰向けに倒れていきながら、鬼鮫は消えかけた意識の底で叫ぶ。
――それは頭突きだ……!
どうっ……
目の前で砂埃を上げて倒れ、動かなくなった鬼鮫を見て取ると、浩介はへたり、とその場に座り込んだ。
「い、い、い、いてぇー! ちっくしょー、冗談じゃねー!」
目尻に涙を浮かべつつ、浩介はフウフウと手のひらに息を吹きかけたのだった。
(終)
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