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<東京怪談ノベル(シングル)>


見えざる魔術書

   汝、それを求めるべからず。
   自ら門扉を叩くべからず。
   ただ、内なる主人の導きに耳を澄ませ、時を待つべし。

 意識を取り戻して最初に感じたものは、床に触れている右頬の冷たさだった。
 ――……僕は……。
 身体を起こしかけると後頭部に強い痛みを感じ、恐る恐る手を触れると瘤ができていた。
 呻き声を漏らしながら立ち上がると足元には無造作に散らばった本、そして本棚の前に踏み台が転がっている。
 ――……ああ、バランスを崩して……それで……。
 天井まである書架の上段は背の高い彼でも手が届かなく、踏み台を使う事にしたのだった。
 床に積もった埃は倒れた身体の分だけ拭かれ、代わりにシャツを汚していた。
 そこで伏見夜刀は、ようやく今自分がいる場所を再認識した。
 見慣れない洋館の一室――ここには魔術に関した資料が収められている。
 生活の場としている家よりも広いせいで、なかなか掃除の手が行き届かないのを夜刀は密かに気に掛けていた。
 ――……そうだ、せっかくだから大掃除をしようとして……。
 夜刀が連れ立って出かける両親を見送ったのは昨日の早朝の事。
 数日家を空ける母は一人残す夜刀を心配しながらも、父と二人きりの旅行に弾むような笑顔を見せていた。
 ――……僕だって、もう子供じゃないのにね。
 母の笑顔がまた心配げに曇る前に、夜刀はにっこり笑って父の待つ自動車に母を押し込んだ。
 広い洋館の一部屋一部屋をくまなく掃除していくのは大変だったが、並べられた魔術アイテムや研究資料の束を見ながらの作業は楽しかった。
 ある一冊の本が消えている事に気付くまでは。
 床に落ちた本を拾いながら、夜刀は考えを整理する。
 魔術書は『アブラメリンの書』。
 正しくは『魔術師アブラ-メリンの聖なる魔術の書1458年にユダヤ人アブラハムが息子ラメクに与えしもの』――マグレガー・メイザースがパリのラルセナル図書館にて発見し、英訳した本と伝えられている。
 夜刀はまだ学ぶ段階ではない、と言われていた為に中身を確認した事は無かったが、気にかかる魔術書の一つではあった。
 いつもこの書庫に入る度に背表紙を見ていたので、棚の位置も覚えていた。
 それが、無くなっていたのだった。
 ――……誰も、ここには無断で入れないはずなのに……。
 屋敷の敷地内には、そうとわからない形で『見張り番』が置かれている。
 『見張り番』は悪意のある者の進入を主人に告げる魔術の一つだ。
 以前、最後に夜刀が書庫に入った後から、誰もこの場所に立ち入った形跡はない。
 ――……それじゃ、どこへ消えてしまったのかな……。
 一冊一冊丁寧に本を棚に戻しながら、夜刀は考えを巡らせた。
 探索の魔術は夜刀の得意とする分野だった。
 静かに息を吐き、吸い、意識を深く身の内に沈めていく。
 記憶に残るアブラメリンの書の形、表紙の手触りを思い出す。
 翻訳とはいえ、確かな魔術の手がかりがそこにはあった。
 書庫に残された気配を逆にたどると、洋館の長い廊下を通って一つ一つ小部屋をまわり、一旦洋館の外に出たかと思うと再び廊下・小部屋を通って書庫に戻ってきていた。
 つまり、円を描くように気配はこの場所に戻ってきているのだった。
 夜刀は書庫の中を見回した。
 ――……見間違えるはず、ないのに……。
 拡散した気配だが、アブラメリンの書はここにあると夜刀は感じていた。
 なのに、その姿は見えない。
「……ここにあって、ここに無いもの……か」
 床に映る自分の姿を見ながら、夜刀は途方に暮れてしまった。
 が、気を取り直し、目録を見ながらその順番どおりに本を整理し始める。
 これだけ膨大な数の本があるのだから、どこかに紛れているのかもしれない。
 単調な作業の中で、夜刀はアブラメリンの書の内容をぼんやりと考えていた。
 この魔術書は三部構成で、第一部はアブラハムがこの奥義に出会うまでの来歴、第二部ではアブラハムが息子ラメクへの秘伝伝授の書簡の形で、魔術の手順、注意事項を説明している。
 そして、第三部で、名前を記した方形を用いて様々な奇跡を起こす方法を記しているのだ。
 一見天使召喚が目的と捉えられてしまう内容だが、近年は自己の中に眠る神性に触れ、それを呼び覚ます儀式として解釈する魔術師も多い。
 自己の中に幾つか重なった人格を有する夜刀には興味深い内容だ。
 手の届かない場所には再び踏み台を使って本を戻す。
「……あれ? この本表紙が……」
 背表紙が半分ずれ、本文と分離しかかっている。
 ――……確か、少し前にも同じように……。
 ずれた背表紙に手を掛けた為に、バランスを崩して……。
 それで、夜刀は床に倒れてしまったのだった。
 ――……確か、あの時手を掛けたのは……。
 探していたアブラメリンの書だった。
 魔術書は、一度見つかっていたのだ。
 みぞおちに冷たいものがこみ上げてくる。
 それなら今、僕がいるこの場所は一体……?
「アブラメリンの書には、隠された第四部があるんですよ」
 書物の形で残していませんけどね、と背後の人物が告げた。
 夜刀は驚いてまたバランスを崩しそうになったが、踏みとどまって、振り返った。
 今まで夜刀しかいなかったはずの書庫の中央に、背の低い壮年の男が立っていた。
 身なりはやや古い型のスーツだが、すっと伸ばされた背筋と見上げる灰色の瞳が強く光っている。
「あなたは……?」
「君が今後も魔術を学ぶのなら、『いずれまみえるもの』ですよ」
 男の手にはアブラメリンの書があった。
「君は特異な能力を持っていますね。
本来なら、私と出会うのはもっと修練を積んだ者だけなのに。
 まあ、たまにそんな人間に出会うのも楽しいのですけれどね」
 くすりと笑って、男は手にした魔術書を夜刀に渡した。
 表紙がずれた、一見ありふれた翻訳本だ。
「君はこの本の痕跡を追う内に、第四部の世界に迷い込んでしまった。
 この世界は君の世界と表裏一体、『ここにあってここにない』世界。
 第三部に書かれている段階までに至った者がいつか開く扉を、君はすり抜けてきてしまったのです」
 全く同じに見える世界でも、ここには夜刀とこの人物以外に人間はいないのだろう。
 そもそも、この人物が実体のある人間とはどうしても思えなかったが。
「……僕は、もう戻れないんですか?」
「まさか。
 それじゃあ意味がないでしょう?
 魔術を学ぶのは、自分以外の誰かの力になりたいと願ったからじゃないのですか?」
 少なくとも私はそんな人間の手引きになるようにと思って魔術書を残しましたよ、と男は笑った。
「君の求める世界は、常に君の胸の内にある。
それを忘れずにいて下さい」

 意識を取り戻して最初に感じたものは、指に触れている革表紙の冷たさだった。
 ――……僕は……。
 掴んだものは探していた魔術書、アブラメリンの書だった。
 ゆっくり立ち上がると後頭部に鋭い痛みが走る。
「……どこから夢だったんだろう……」
 夢と呼んでしまうには不思議な内容だった。
 ――……僕は、無くなったアブラメリンの書を探して……。
 開きかけた魔術書の内容が気にかかったが、夜刀は丁寧に表紙を本文に付け、書棚に戻した。
 ――……僕がこの本を開くのは、まだ当分先だな……。
 必然があるなら、いつかあの人物にもまた会えるだろう。
 それに。
「……まずは先に、ここを掃除してしまわないと、ね」
 夜刀は残りの部屋を片付ける為に、書庫を後にした。
 

(終)