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<東京怪談・PCゲームノベル>


VOICE





 宮本署の刑事課に足を踏み入れた途端、刑事たちの無言の視線が突き刺さった。まさか望子が身に着けている警察官の制服が珍しいわけでもあるまい。あるいは本庁の人間だと見抜いたのかも知れないが、それとて何ら特異な要素ではなかろう。望子は小さく息を吸い、やや冷めた目で刑事たちを見つめ返した。二係には以前二度にわたって応援に出向いているが、二係が創設された経緯や宮本署においての二係のポジションなどについては詳しくない。が、どうやら刑事課には歓迎されていないらしいことだけは理解できた。
 「お待ちしておりました」
 刑事課のいちばん奥の粗末なアルミドアを開くと、これで三度目の対面となる沢木氷吾警部補がいつもの笑顔で出迎えた。
 「度々のご足労、恐縮です」
 「いえ。これが対超一課の仕事ですから」
 「相変わらずですね」
 ビジネスライクな望子の口調に沢木は小さく苦笑を漏らす。「まずはお茶でもお出ししましょう。召し上がりながらで結構ですので、今回の事件の資料をご覧になってくださいますか?」
 「ええ、そのために応援に来ています。それにしても――」
 望子は肩で小さく息をつき、二係のオフィスである八畳ほどの室内を見回した。几帳面な沢木の手によって整理や掃除は行き届いているが、かつては物置部屋だったというせいもあり、みすぼらしい印象を受けるのは否めない。この狭い部屋を取り仕切るのは沢木と、その助手の耀という少女の二人だけ。だからこそ度々外部に応援を求めているのであろうが……。
 「何か?」
 室内をぐるりと見回して息をついた望子の様子に気付いたのであろう、沢木が怪訝そうに問う。望子は「いえ」と応じて小さく肩をすくめ、その後で続けた。
 「前も思ったんですけど、人数増やしたほうがいいですよ。ここ」
 沢木は細い目を二、三度瞬かせた。
 次の瞬間、先に笑ったのは耀であった。部屋の角でパソコンにかじりついていた耀がキャスター付の椅子を回転させて望子に体を向ける。
 「あのねおねーさん、それはムリムリ、絶対ムリ」
 耀は椅子に馬乗りになってくすくすと笑い続ける。「ここはね、窓際だから。暇だもん。人を増やす意味もお金もないしねー」
 「それはそうかも知れませんが……少なくとも暇ではないでしょう? 事実、こうやって何度も助っ人を頼んでいるじゃありませんか」
 「これが僕のやり方です。外部委託ゆえの機動力と柔軟性は貴重ですよ」
 沢木はにこりと微笑んで応じた。「問題ありません。二係は立派に機能しているのですから。事実、不動さんのような頼りになるかたがこうして応援に来てくださるではありませんか」
 「はあ」
 毒気のない笑顔にあてられたのであろうか、望子は曖昧な相槌とともに苦笑いを返すことしかできなかった。



 被害者は須川辰治(七十五歳)、その妻ミヨシ(七十歳)。死因は農薬によるもので、死亡推定時刻は八日(木曜日)の午後九時ごろ。夫妻の首にはひっかいたような血痕が幾条にもでき、爪の間からも自身の皮膚と血液が検出された。苦しんで喉をかきむしったものと思われる。
 容疑者・綾瀬ハルキ(二十一歳)が手製の里芋の煮物を持って二人のもとを訪れたのは翌九日の朝八時前。前日の夜に、里芋が食べたいから持ってきてほしいと連絡を受けての訪問だったという。ハルキが二人を発見した時は暖房と照明は入っておらず、配達されていた朝刊も受け取られていなかった。窓もドアも鍵がかかっており、完全な密室状態だった。
 農薬は普通の園芸店で入手できる普通の物で、アパートのベランダに花壇を作っていた須川夫妻が購入したものと判明。使用した農薬の残りが二人の部屋から発見されている。農薬は二人が用いた湯呑み茶碗のみから検出された。食器棚から出ていた湯呑みは床に転がっていた物とテーブルに倒れていた物のふたつだけ。湯呑みにはハルキと祖父母の指紋がついていたが、ハルキのものが最も新しかった。ヤカンと急須、茶筒に残っていた指紋は祖父母のもののみ。そして、遺書はまだ見つかっていない。
 「死亡前日にわざわざハルキさんと約束していたということは、自殺とは考えにくいですね。密室殺人ということでしょうか」
 望子は軽く首をかしげ、半ばひとりごちるように呟く。「合鍵を持っていたのはハルキさんだけなんでしょうか? 大家や不動産屋ならマスターキーや合鍵も持っているのでは。親しい人間なら、被害者が外出時に合鍵を隠しておく場所を知っていたとしてもおかしくありません」
 「それはないと思うな」
 と口を挟むのは耀だ。「おじいちゃんとおばあちゃん、どこかに合鍵を隠すことはしなかったんだって。万が一誰かに見つかったら怖いからって」
 「そうですか。それなら他に合鍵を持っている人間がいるかどうか、ですね」
 そう自分で言った後で望子はふと眉を寄せる。「とはいえ、大家や不動産屋も見知らぬ人間にそう簡単にマスターキーや合鍵を貸したりはしないでしょう。だとしたら・・・・・・」
 「その通りです」
 沢木が大きく肯いて後を引き継いだ。「合鍵を持っているのは親しい人間や近しい者だけでしょう。大家さんや不動産屋さんから鍵を借りたにしても同じこと。ある程度親しい人間の犯行と考えるのが妥当でしょうねえ」
 親しい人間。合鍵を持っている者。どちらもハルキに符合する。
 「容疑者のアリバイは?」
 「アルバイト先のペットショップが定休日だったので、一日中部屋の中で一人で過ごしていたと言っています。それを証明する者はいないと」
 友達が少なかったようです、と沢木は付け加える。望子は「そうですか」と短く相槌を打って息をついた。これではアリバイとは言えない。
 「ならば被害者と不仲だったり、被害者が死んで得をする人間は」
 望子の問いに耀がふるふると首を横に振る。
 「いい人だったみたい、あのおじいちゃんとおばあちゃん。孫を可愛がって、孫のほうもなついてて。だから怨恨っていう線はどうかなあ」
 「ですが、金品には手がつけられていなかったのでしょう? それなら怨恨の可能性も捨てきれないのでは・・・・・・表面上は仲が良くても、心の底では憎んでいるということもあるでしょうし。沢木係長、被害者の知人で合鍵を持っていそうな人はいないのですか?」
 「今のところ、綾瀬さん以外で合鍵を持っていた人間が一人――」
 沢木はゆっくりと人差し指を立てた。「ガイシャの近所に住み、ガイシャ宅に出入りしていた平田浩之。身寄りのない三十五歳の男性です。ガイシャの遠戚で、脚の不自由な須川ミヨシさんと腰痛持ちの辰治さんの代わりに家の中のことやヘルパーのようなことをやっていたそうで。合鍵を持っていることも確認済みです。彼が実際に出入りしていることも近所の人から証言が取れました。さらに、被害者が発見された時、野次馬の中に彼がいたという目撃証言もあります。何かぶつぶつ言っていたそうです。何を言っているかまでは聞き取れなかったそうですが」
 「そういえば、容疑者の頭の中で声がしたのも被害者が発見された直後の現場だったということですね。現場で“おまえがやったんだ”という声が聞こえたのだと……」
 沢木が出してくれた紅茶で唇を湿らせた後で望子は尋ねた。「嘘か本当か知りませんが、もし本当だとしたら、少々普通の状態ではないような」
 「綾瀬ハルキさんには軽度の統合失調症の疑いがありまして。頭の中で声がしたり、悪口を言われているような被害妄想に陥るのは統合失調症の典型的な症状ではありますが」
 沢木は複雑な表情を返した。「しかし、ボーダーラインといったところでしょう。彼の言動には“電波”や“心を読まれている”、“監視されている”という台詞が出て来ません。統合失調症では、例えば・・・・・・壁や天井に見えない電波線が張り巡らされて自分の考えがそこから外に漏れているような錯覚や、四六時中誰かに監視されているような妄想にとりつかれることも多いそうです。綾瀬さんの態度からはそんな様子は窺えませんのでねえ」
 「なるほど」
 望子は手の甲に顎を乗せて思案顔を作る。――可能性はふたつだけ。綾瀬ハルキが嘘を言っているか、本当のことを述べているか、だ。
 仮に嘘を言っているのだとしたら、その理由は一体どこにあるのだろう。綾瀬ハルキが犯人だとするなら、わざわざ疑われるような言葉を口にすることに何のメリットがあるというのか。一方、ハルキが犯人でないのなら、そんな嘘をつく理由など見当たらない。誰かをかばっているという可能性もなくはないが、それにしては容疑を否認するのは不自然だ。勘であるが、ハルキが嘘をついている可能性は低い。望子はそう確信していた。
 「容疑者が嘘を言ってるのでなければ、催眠術でも掛けられているか、精神が混乱しているか、もしくは心霊的な要因があるか……」
 望子は資料が綴られたバインダーを閉じ、沢木を見上げた。「つまり、また容疑者の似顔絵で心を読んでみれば宜しいのですね」
 「助かります。それでは、早速綾瀬さんと対面していただけますか」
 沢木はにこりと微笑み、望子を促して立ち上がった。



 二十一歳、某有名音大三年生。耳のよさを買われて音楽の道を勧められ、たった一人で上京して都内の音大に入ったものの、内向的な性格と人見知りが災いして大学にはなじめず、登校拒否状態。それが沢木から聞いた綾瀬ハルキのプロフィールだった。
 沢木に連れられて小会議室に入って来たハルキの肌は真っ白だった。肩に触れる茶色い髪は染毛ではなく生来のものだろう。瞳の色も薄い。それなりに整ってはいるが脆弱な顔立ち。セーターの下の肩はずいぶん華奢で、平たい。室内で待っていた制服姿の望子を見て蝋細工のような唇がかすかに震えた。
 「綾瀬ハルキ君、ですね」
 望子はできるだけゆっくりと言った。繊細かつ感受性が強い青年であることを見抜いたからだ。初対面で態度を頑なにさせてしまえば話を聞くことは難しい。取調室ではなくこの明るい小会議室を選んだのもそれを見越してのことである。
 ハルキはおどおどとした目を上げて望子を見た。紙のように真っ白な顔は恐怖と警戒で硬くこわばり、容易にほぐせそうにない。年下の耀のほうが警戒心を抱かせずに済んだだろうか。そう考えて望子は小さく息をつく。その後で単刀直入に用件を切り出すよりも少し世間話でもしたほうがいいかも知れないと思い直し、口を開いた。
 「ペットショップでアルバイトをしているそうですね」
 ハルキがゆっくりと顔を上げる。色の薄い瞳に満ちた警戒と緊張がわずかに緩んでいた。
 「動物が好きなんですか?」
 「・・・・・・はい。それに、ぼくはいっぱい働かなきゃいけないから。大学に行ってる暇なんかないんです」
 ハルキはかすれた声で答えるが、その頬には赤みが差している。望子はかすかに笑んでみせた。
 「私も動物は嫌いじゃありません。可愛いですもの。ハルキ君が好きな動物は何ですか?」
 「みんな好きです。特にハムスターとか小型犬」
 「ペットは何か飼っていらっしゃるのですか?」
 「ハムスターが二匹。アパート暮らしだからそれくらいしか・・・・・・」
 ハルキはきゅっと唇を噛んでうつむく。「ほんとはもっと動物と暮らしたい。動物は優しいし、悪口を言わないから」
 「悪口を言わない?」
 眉を寄せたいのをこらえて望子は穏やかに聞き返した。
 「みんなぼくの悪口を言うんです。大学の人たちも、お店の先輩も」
 ハルキはすがるような目を望子に向ける。触れればぱりんと割れてしまいそうなほど薄い瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
 「ぼくのこと、とろい、うざいって。さっさと死ねって」
 「ひどいですね」
 望子は本心から不快感を覚えて相槌を打った。「面と向かってそんなことを言うなんて」
 「・・・・・・はっきりそうは言ってはないかも知れないけれど。ぼくを指差してくすくす笑いながらひそひそ言ってるだけだから」
 ハルキはそっと目を伏せる。「何となく、頭の中で聞こえるんです。特に悪口は小さな声でも聞こえるんです。ぼくは耳がいいから・・・・・・」
 聞こえてしまうんです、とハルキは消え入りそうな声で言う。くすん、くすんと鼻をすすり上げる音が続いた。
 「詳しく話していただけますか」
 望子はハルキの嗚咽が少しおさまるまで待ってから口を開いた。「ゆっくりで構いません。おじいさんとおばあさんのためにも。でしょう?」
 ハルキは小さく肯き、ハンカチで涙を拭った。ぐすっと鼻をすすり上げてから顔を上げる。
 「頭の中で声がするとおっしゃっていましたね。いつごろ、どこで、どういう状況で聞こえたのですか?」
 「おじいちゃんたちのアパートで・・・・・・警察の人たちが来て、柳さんっていう刑事さんに事情を聞かれたときに」
 ハルキは記憶を辿りながらたどたどしく話す。「周りにいっぱい野次馬がいて。誰か分からないけど、視線を感じて。そしたら頭の中で声がして・・・・・・」
 「野次馬の中の誰かに見られていたということですか?」
 望子の問いにハルキは「多分」と浅く肯いた。
 「どういう声が聞こえたのです? できるだけ詳しく教えてください」
 「“おまえが殺したんだ”“絶対に許さない”“おまえがほうじ茶に農薬を入れて・・・・・・”」
 そこまで言うと、ハルキは「う」と顔を歪めて両手で頭を抱えた。食いしばった歯からうめき声が漏れる。鼻の頭に細かい汗が浮かぶのが見てとれた。頭の中であの声が響いているのだろうか。
 「やめろ・・・・・・ぼくじゃない・・・・・・ぼくじゃない!」
 成人男子とは思えぬ甲高い叫び声だった。ぼくじゃない、ぼくじゃないと繰り返しながらハルキはふらふらと立ち上がり、壁に頭をぶつける。一度、二度。打撃の痛みで声から逃れようとしているのだと分かった。三度、四度。がん、がんと反響する鈍い音に望子はやや顔をこわばらせる。五度、そして六度目の打撃を加えようとした時、沢木が止めに入った。ハルキは初めて我に返ったようにはっと顔を上げる。額がすりむけ、血が滲み出していた。
 「そんなことをしても意味はありません」
 ハルキの肩をつかむ手に力がこもる。「あなたの記憶が大きな手がかりかも知れないのです。一刻も早く犯人を捕まえたければ協力していただけませんかねえ」
 相変わらず穏やかな口調だが、声の裏には静かに燃える強いものが感じられる。ハルキの全身からふっと力が抜ける。彼はそのまま沢木の足元にへたり込んだ。肩と唇ががたがたと震えていた。
 「ハルキ君。実は、あなたにもうひとつお願いがあるんです」
 望子はリノリウムの床に膝をつき、ハルキの肩に手を置いた。ハルキがのろのろと目を持ち上げる。真っ赤に泣き腫らした瞳が望子の目を捉えた。望子は小さく息を飲み込み、その後で口を開いた。
 「大丈夫。つらいことではありません。あなたの似顔絵を描かせてください」
 「にがお……え?」
 ハルキの顔が音を立ててこわばり、蝋細工のような唇が小刻みに震えた。それから咳込むように尋ねた。
 「どうしてですか? ぼくを疑っているから?」
 かすれるような声と、瞳の縁にせり上がる透明な涙。容疑者の似顔絵を描いて一般市民に情報提供を呼びかけるという警察の捜査方法を連想したに違いない。常識的に考えれば容疑者が捕まった後に似顔絵を描いて公開する必要などないのだが、今のハルキはそんな判断すらもできないほどに憔悴しきっているのであろう。
 「逆です。あなたの疑いを晴らすためにお願いしています」
 その台詞は、あるいはハルキを落ち着かせるための方便だったのかも知れない。しかし望子の低い声と真剣な表情、そしてハルキの肩をつかんだ手に込められた力はそれが本心であると感じさせるに充分であったし、少なくとも、ハルキの目にはそう映っていたことは確かであった。
 「お時間は取らせません。あなたはここに座っていてくださるだけでいい。似顔絵は心を映す鏡……ご協力願えますか」
 やや間を置いて、ハルキは目を震わせて肯いた。



 似顔絵を描き終えた後で礼を言い、望子は沢木とともに小会議室を出た。
 「相当参っているようですね」
 無理もありませんが、と呟いて望子は背後を振り返る。警察職員に付き添われて留置場に戻ったハルキの背中はすでに見えなくなっている。
 「たとえ無実でも勾留されて動揺しない人間はいませんからねえ」
 隣を歩く沢木がのんびりと応じる。「それに、綾瀬さんは元々打たれ強いタイプではなさそうですし。こういうことを言うのはよくありませんが……正直、僕は彼が犯人であって欲しくないと思っていますよ」
 警察官が特定の関係者に肩入れするのは好ましいとはいえない。先入観や思い込みは捜査の目を曇らせるからだ。しかし望子は沢木の言葉を否定せず、たしなめることもせずに、ただ短く「ええ」と相槌を打った。
 「私は似顔絵から容疑者の考えを読み取ってみます。怨恨の線……大学でのハルキ君の交友関係や、被害者夫婦の人間関係などは沢木係長と耀さんに捜査をお願いできますか」
 「了解しました。他に何かやることは?」
 「そうですね。鑑識に連絡を取っていただきたいのですが」
 「鑑識、ですか」
 沢木はやや意表を突かれたようにひょいと眉を持ち上げた。「鑑識からの報告なら先程お見せした資料に一通り記載してありますが」
 「いえ。写真霊視を試みたいのです。ハルキ君の頭の中で最初に声が聞こえたのが現場であって取調室でないのが気になるので、現場の写真を霊視して何か分からないものかと」
 「ほう」
 沢木は感嘆したように目を細めた。「では、鑑識に言って現場の写真を回してもらえばよろしいのですね」
 「ええ、お願いいたします」
 そう言っていったん言葉を切った後で、望子はふと「ところで」と言って顔を上げた。
 「ハルキ君が九日の朝に被害者の所に行ったのは、八日の夜に被害者から電話が来たから……とのことでしたよね?」
 捜査資料の情報を反芻しながら沢木に問う。須川夫妻宅の電話の通話記録にもハルキの携帯電話の着信履歴にも互いの番号が残っていたことが確認されたのでこれは間違いない。沢木は「ええ」と肯いた。
 「被害者宅の通話記録とハルキ君の携帯の着信履歴からすると、被害者がハルキ君に電話をしたのは死亡推定時刻とほぼ同じ。もしかしたら死亡直前じゃないかと思うのですが……」
 「それが、ですねえ」
 沢木は殊更にゆっくりと言って足を止める。曖昧な口調に気付いた望子も足を止めて沢木を振り返った。
 「綾瀬さんに電話をしたのは須川さんご夫婦ではないのですよ」
 「とおっしゃいますと」
 「平田さんらしいのです。ご夫妻が里芋を食べたがってるから九日に持って来てほしいと。バイトが終わった後だと遅くなるからバイトに行く前に寄ってくれ、と」
 望子の眉がぎゅっと音を立てて中央に寄った。



 「綾瀬ハルキぃ? ああ、そういえばいたね、そんな奴。田舎から一人で出て来たんだって」
 「しょっちゅう見かけたのなんて一年の前期だけだよね。二年になってからはほとんど来てないんじゃないの。でも耳はすごくよかったな。それで音楽の道を目指したとか聞いた気がする」
 「暗い子だったみたいよ。いつも一人で学食でごはん食べてたし」
 「綾瀬を嫌ってる奴ねえ。別にいないんじゃないかな。その代わり好いてる奴もいないだろうけど。友達いなかったから、あいつ」
 ハルキの通う音大での聞き込みの結果を集約するとこんなふうになった。
 「あんまり評判よくないんだね、ハルキさん」
 大学のキャンパスを出た後で耀は溜息をついた。「悪い人じゃなさそうなんだけどな。ただちょっと人付き合いが苦手だってだけでさ」
 「僕もそう思う。でも、人の輪にうまく溶け込めない人間は疎外されがちなこともまた事実」
 若い人の間では尚更ね、と沢木が呟くように応じる。沢木の数歩先を歩いていた耀は足を止め、背中で両手を組んで沢木を振り返った。
 「だから大学にあんまり来なくなっちゃったのかな?」
 「かも知れないね。その代わりにアルバイトの回数が増えたのかも知れない」
 次はペットショップに聞き込みに行こう、と沢木は耀を促して車に乗った。
 ハルキがアルバイトをしているのはそこそこ大きなペットショップであった。中に入ると清潔な白い床に白い内装、明るい照明が目についた。犬に猫、ハムスターやフェレット、小鳥に熱帯魚に金魚、カメ。しかしペットショップ特有の獣臭さはほとんどない。
 「定休日以外は毎日来てるよ。開店前の準備から閉店後の掃除までずーっと」
 フロアのチーフだという男性店員は耀と沢木を交互に見比べながらそう言った。 刑事と少女という組み合わせが珍しいようだ。
 「バイトばっかで大学はどうしてんだろうって思ったけど、じいちゃんとばあちゃんの生活費を援助してるんだって言ってた。だからずーっとシフト入れてたし。動物が大好きっていうのもあったみたい。でも使い物になんないね、あいつは」
 男性は溜息混じりに吐き捨てた。「とろいし、物覚えも愛想も悪いし。そのくせ地獄耳でさ。俺らがひそひそあいつの悪口言ってるとすっげえ怖い目で睨むんだよ」
 「ふうん。聞こえてるのかな」
 「じゃないの? 音大だから耳がいいんだろ、多分」
 「祖父母に生活費を援助していたというのは本当ですか?」
 のんびりと口を挟むのは沢木である。「祖父母に生活費を援助してたというのは本当でしょうか。祖父母のことで何か言っているのを聞いたことはありませんか? 祖父母を恨んでいる人のことなどは」
 「さてね。あいつ友達いなかったし、俺を含めてここのスタッフとはあんまり会話がなかったからな。でもじいちゃんばあちゃんはすごくいい人だって言ってたぜ。それがほんとだとしたら、恨んでる奴ってのはあんまりいないんじゃないの」
 ペットショップで得られた情報はこんなところだった。
 「うーん。イマイチ、かな」
 沢木の運転する車に乗り込み、小さな手足を助手席で目いっぱい伸ばしながら耀は息を吐いた。「特に決定的っぽい情報はなかったって感じ」
 「そうだねえ。これといって事件解決に直結するようなものは……」
 手帳に書き付けた関係者の名前とこれまで得た情報を見比べながら沢木はハンドルに腕を預ける。ハルキのことを聞き込む前に須川夫婦が暮らしていたアパートに赴いて近所の人間に話を聞いたが、特筆すべき結果は得られなかった。ただ、夫妻は周囲がうらやむほどのおしどり夫婦で、孫のハルキをたいそう可愛がっており、ハルキも祖父母によくなついていたという事実が判明したのみであった。
 「後は――」
 手帳の上を滑らかに追っていた沢木の指がある所でぴたりと止まり、その場所をとんとんと叩いた。耀が身を乗り出して沢木の手元を覗き込む。
 「この人、かな」
 その場所には、沢木の几帳面な字で“平田浩之 死亡推定時刻に近所の人が現場アパートで目撃”と記されていた。



 平田浩之は被害者宅から徒歩で十分と離れていない賃貸マンションに一人で住んでおり、そこから電車で二十分ほどの所にある会社に勤めているという。沢木と耀は平田の勤め先に出向いた。
 平田はごく普通の男であった。黒い髪に中肉中背の体つき。容貌にも目立つ点はない。ただ、細い銀縁の奥の目はひどく憔悴していた。
 「ええ、行きましたよ」
 最初は口を開こうとしなかったが、沢木が警察手帳を見せると平田は渋々話し始めた。「いつもお邪魔してましたからね。八日は会社が定時で終わって、六時頃に須川さんの所へ行って食事の支度を手伝いました。おいとましたのは夜九時前です。もちろん、その時はお二人とも生きてましたけど。そんなことを聞くためにわざわざ会社まで?」
 平田は不愉快さを隠さずに吐き捨てた後で、
 「あの二人はぼくにとって唯一の縁者なんです。ぼくの心の支えでした。今回のことでショックを受けているのはぼくですよ」
 と呟いて視線を落とした。わずかに震える声の裏に涙を読み取って耀は口をつぐみ、沢木はかすかに眉を動かす。この人は犯人ではない。そう直感した。
 「犯人はハルキですよ」
 それから、平田はそう言って目を上げた。「あいつが死なせたんだ。絶対に許さない」
 くまが貼りつき、真っ赤に充血した目には激しい怒りと敵意が燃えていた。



 ハルキの携帯電話の着信履歴に残されていたのは須川夫妻宅の番号で、夫妻の電話の通話記録に残っていたのは間違いなくハルキの番号だった。つまり、被害者の死亡直前に平田浩之が夫妻の部屋にいて、彼がハルキに電話をかけたということになる。
 (ハルキ君。あなたの頭の中の声の正体は何なのですか?)
 二係の粗末なソファに深く腰を沈め、望子は膝の上に乗せたスケッチブックを見つめる。白い紙の上には繊細な鉛筆描きで忠実に再現されたハルキの顔があった。ハルキが聞いた声はハルキ自身のものなのだろうか、それとも他の人の声? さらにスケッチブックをめくり、捜査資料に付されていた顔写真から作成した須川夫妻の似顔絵に目を落とす。深い皺の刻まれた顔に日焼けした肌。すっかり細くなった目は温厚で、孫を可愛がる優しい祖父母という印象ばかりが先に立つ。
 こんな優しい祖父母に愛されて、ハルキはさぞかし幸せだったであろう。祖父母もまた、ハルキに愛されて幸せだっただろう。なのになぜ、二人は死ななければいけなかったのだろうか。
 (私には、ハルキ君があなたたちを手にかけたとは思えないのです。どうか手がかりをください)
 望子は内心でそう呟いた後でそっと目を閉じ、夫妻の似顔絵に意識を集中した。
 静かに、しかしはっきりと、老夫婦の意識が流れ込んでくる。と、閉じた望子の瞼が痙攣するようにかすかに震えた。感じたのは老夫婦の無念であった。大好きなハルキに対して申し訳ない、こんな思いをさせてすまないと、悲痛なばかりの嘆きが望子の意識に入り込んで来たのだ。胸苦しさに耐えかねて望子は思わず目を開く。白い紙の上では、老いた夫婦がくたびれたように笑っているだけであった。
 (どうして、こんな――)
 性急な手つきでページをめくってハルキの似顔絵へと戻る。モノクロで描かれた伏し目がちのハルキの顔が現れた。
 唇を軽く結んでハルキの目と対峙した望子の眉が、かすかに震えた。
 ――あれは僕の声なんかじゃない。僕は殺してなんかいない。
 ――でも、ごめんなさい。
 ――ごめんなさい。
 ――おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんなさい。
 ――僕は嘘をついているんです。
 ――僕は、本当は……
 似顔絵越しに伝わるハルキの泣き声。その続きを聞いた望子は半ば目を揺らすようにして顔を上げる。ハルキの悲痛な訴えが直接耳朶を打ったような気がして狭い室内を見回すが、もちろんそこにハルキの姿があるはずがない。
 望子が次に取り出したのは度の入っていない眼鏡であった。伊達眼鏡をかけた上で鑑識から借り受けた現場の写真を注視する。写真とて機械で撮られたものであるから、もし霊的存在があれば感知できる。横たわる二人の遺体、二人の傍らに転がる湯飲み、遺体をどけた後に生々しく残る吐寫物の痕跡等々。現場の様子を収めた写真に順番に目を通すが、霊的存在のかけらも感じられない。
 (やはり――)
 ある可能性が頭をもたげ、眼鏡を外すことも忘れて壁の一点を注視する。(今回の事件は……ハルキさんの頭の中の声の正体は、心霊現象なんかじゃないのかも知れない)
 その時、後ろでがちゃりとアルミのドアが開いた。しかし思案にふける望子は気付かない。入ってきた人物はそんな様子を見抜いたのであろう、足音を立てぬようにしてそっと近付き、そして――望子の肩へと音もなく手を伸ばした。
 「――わっ!」
 次の瞬間。脅かすような声と共にどんと肩を押され、望子は思わず喉の奥で小さく悲鳴を上げる。ずれた慌てて眼鏡を直しながら振り返ると、聞き込みから帰って来た耀が腹を抱えてきゃらきゃらと笑い転げていた。
 「な、何ですかいきなり! 脅かすのはよしてください!」
 「あははは、びっくりした?」
 耀の笑いは止まらない。「真剣に考え事してたみたいだからさー。相当慌てたでしょ? 今のびっくりした顔、お姉さんっぽくなーい」
 「およしなさい、耀ちゃん。大人をからかってはいけないよ」
 とたしなめる沢木の目にも笑いが浮かんでいる。望子はやや不快を込めた眼差しで沢木を見上げるが、沢木は柳に風とその視線を受け流してコートを脱いだ。
 「ところで、不動さん。似顔絵から何か手がかりは得られましたか?」
 「ええ、まあ」
 望子は小さく咳払いをして姿勢を正した。「須川さん夫妻は、悩みを抱えていたとでもいいましょうか……ハルキ君に対してひどく申し訳ないと感じていたようです」
 「ほう。それはまたなぜ?」
 望子は「私が読み取った限りでは、ですが」と前置きしてから慎重に口を開いた。
 「学生のハルキ君に生活を助けてもらうのは申し訳ない、と。ハルキ君がアルバイト漬けで大学にも行かなくなったことをたいそう負い目に感じていたようです。それとハルキ君のほうですが、彼の頭の中の声は彼自身の声ではない可能性が高い。それと……ハルキ君は祖父母に嘘をついているみたいですね」
 「嘘、って?」
 耀が大粒の瞳をきょろりとさせてぴょんとソファに飛び乗った。「どして? どういう意味?」
 「それが……」
 望子は逡巡とともに口を開きかけたが、「いえ」と言ってすぐに口をつぐんだ。「何? どしたの?」と耀が急かすが、望子は答えない。事件に直接関係あるかどうかは分からないことなのだから、あえてここで言う必要はあるまい。何より望子自身、この事実はできれば口にしたくなかったのだ。
 「それより、沢木係長。そちらの聞き込みの成果は?」
 「これといった収穫は。綾瀬さんが登校拒否になっていたということ、友達があまりいなかったということ、それに須川夫妻は近所でも評判の仲の良い夫婦だったということ……それから、平田浩之さんの所に出向きました。須川さんのご近所のかたの話によれば、夫妻の死亡推定時刻にあのアパートを訪れていたのが目撃されています」
 「平田さん、ですか」
 望子は一拍置いてから相槌を打った。「確か、被害者の家からハルキ君に電話をかけた人ですね。遺体が発見された現場でも目撃されたという」
 「でも、平田さんはシロだと思うよ。状況やアリバイは怪しいけどさ」
 耀が先回りして望子を牽制した。「平田さん、言ってた。“あいつが死なせたんだ”って。“絶対に許さない”って・・・・・・。すごい敵意を感じた。身寄りのない平田さんにとっては須川さんたちが数少ない親戚だったっていうし。まさかそんな大事な人を殺したりしないっしょ」
 「それはそうかも知れませんが」
 肯きつつ望子も反論する。「ハルキ君が犯人だとはどうしても思えません。あれだけ祖父母を慕っていたんですから」
 「それは平田さんだっておんなじじゃん。身の回りのお世話したりしてさ。無償でそこまでやれるってことは相当好きだったんだと思うよ」
 「……しかし」
 不意に沢木が口を開いた。呻くような低い声であった。何気なく沢木に顔を向けた望子は二度ほど目を瞬かせる。静かに開かれた沢木の糸目に、今までに見たことがないほど険しい光が灯っていたからだった。
 「いずれにしろ、平田さんが事件に大きく関わっているのは間違いありませんねえ」
 しかし、次の瞬間には沢木はいつものようにすっと目を細めていた。「耀ちゃん、柳さんに連絡して。綾瀬さんと、それから平田さんを連れてくるようにと」
 唐突な沢木の指示に望子と耀は互いに顔を見合わせるしかない。望子は首をかしげて問うた。
 「沢木係長。犯人が分かったのですか?」
 沢木は無言の微笑を返しただけだった。いつもの柔和な笑みの裏にかすかに悲しみの色がたゆとうていることに誰が気付いただろうか。



 「どうしてぼくが呼ばれなきゃいけないんです? 会社を早退までして……」
 宮本署の小会議室に呼ばれた平田は舌打ちしてハルキを見やった。「犯人はそいつでしょ。自供したらしいじゃないですか」
 敵意を露わにした平田の口調にハルキは怯えたようにびくっと体を震わせる。
 「犯人はハルキ君ではありません」
 望子が穏やかに口を開いた。しかしその目には厳しい光が宿っている。平田は口元をかすかに痙攣させた。
 「じゃあぼくがやったとでも? 冗談じゃない! 辰治さんとミヨシさんを殺したのはハルキだ! そいつが二人を――」
 「“死なせた”って」
 耀がきっと顔を上げる。「そう言いたいんでしょ?」
 「ああそうだよ! 二人が死んだのはハルキのせいだ、全部こいつが――」
 「殺したのはハルキ君ではありません。あなたでもない。須川さんご夫妻は――」
 一言一言噛み締めるように、できるだけゆっくりと、望子は言葉を継いだ。「――自殺したのです」
 ハルキが弾かれたように顔を上げる。平田の顔が決定的にこわばった。それを肯定とみなして沢木がゆっくりと語り出した。
 「あなたは須川さんのお宅に頻繁に出入りしていた。ハルキさんも同様です。しょっちゅう顔を合わせていたからにはあなたはハルキさんとも知り合いだったのでしょう?」
 「そうですよ。それが何か?」
 「最近、須川ご夫妻は悩んでいたそうです。お心当たりは?」
 沢木の言葉に平田の口元が歪む。眼鏡の奥に燃え上がる激しい憎悪と敵意を望子は読み取った。
 「推測でしかありませんが、例えばこういうことは考えられませんかねえ」
 沢木の口調は柔らかかったが、糸のような目は正面から平田を見据えている。「ご夫妻はハルキさんに迷惑をかけていると思い悩んでいました。自分たちに生活費を援助するためにハルキさんが働き詰めになって大学にも行けなくなったのだと」
 ハルキが沢木の背後で息を呑む。
 「ハルキさんの性格だから、援助はいらないって言っても聞かなかったんだろうね」
 耀はやや顔を歪め、一言ひとこと押し出すように低い声で言う。「そして、自分の存在がハルキさんの重荷になっていると思ったおじいちゃんたちは・・・・・・」
 耀の言葉を遮ったのは平田の甲高い叫び声だった。激しく頭を振って叫ぶ。まるで何かから逃れようとしているかのように。リノリウムの床に眼鏡が落下し、無機質な金属音を立てた。
 「――平田さん」
 望子は膝をついた平田の前にしゃがみ込んでゆっくりと口を開いた。「須川さんご夫婦はあなたの目の前で服毒死したのでしょう」
 平田はゆっくりと顔を上げ、虚ろに肯いた。



 陽はすっかり落ちて、夕焼けの残滓は徐々に闇に侵蝕されつつあった。
 「おかしいと思ったんです。ぼくに“絶対にやかんや急須、湯呑みに触らないで”なんて言って。いつもはぼくがお茶を淹れてあげるのに。今思えば、ぼくの指紋をつけさせないようにするためだったんですね。ぼくに疑いが向かないように」
 やがて平田はぽつりぽつりと話し始めた。
 「二人はぼくの目の前で農薬を飲んだんです。自殺の目撃者になってくれと言って、ぼくの目の前で死んでいったんです」
 平田は悲鳴のような声さえ上げて両手で顔を覆った。スーツの肩ががたがたと震えている。
 「二人の寝室から遺書が見つかりました。ハルキに迷惑をかけたと・・・・・・自分たちのせいでハルキは大学にも行けなくなった、だから自分たちは死ぬのだと書いてありました」
 「ハルキさんのせいで二人が死んだって思ったんだね」
 耀の言葉に平田はこうべを垂れたまま肯いた。
 「それでハルキ君に電話をかけたのですね。第一発見者に仕立て上げて疑いを向けさせようとして。遺書は恐らく持ち帰ったのでしょう。自殺に見せかけた他殺だと思わせるために。野次馬の中にあなたを見たという証言もあります。あなた、何かぶつぶつおっしゃっていたそうですね。もしかして“おまえが須川さんを殺した、おまえのせいだ”とでもおっしゃっていたのではないのですか?」
 「あなたはハルキさんの耳のよさも、統合失調症の疑いがあることも知っていた。それでハルキさんに自分の言葉が聞こえればよいと・・・・・・あわよくば殺人犯にしてしまおうと思ったのではありませんか。だから“おまえが農薬を入れた”などと言ったんでしょう?」
 望子が、次に沢木が順に口を開くが、平田は答えない。すすり泣く声が聞こえただけだ。
 「どうして救急車を呼ばなかったのですか」
 望子は平田を責めるように、ややきつい口調で言って平田の肩を掴んだ。「農薬自殺は苦しいもの。即死するわけではありません。すぐに救急車を呼んでいれば、あるいは――」
 「・・・・・・許せなかった」
 平田はぽつりと呟いた。濡れた顔をゆっくりと上げる。真っ赤に泣き腫らした目には敵意と憎悪が燃え滾っていた。それは明らかにハルキに向けられたものだった。
 「ぼくは辰治さんとミヨシさんを本当の親のように思っていました。ぼくには身寄りがありませんから。・・・・・・ぼくは、そんな二人の自殺の場面を目の前で見せられたんです」
 ハルキの華奢な体がぎゅっと収縮する。
 「だから・・・・・・ハルキなんか苦しめばいい! ぼくの大事なあの二人を自殺に追い込むまで苦しめたハルキなんか――」
 鈍い打撃音が小会議室に反響した。望子ははっとして目を上げる。耀は喉の奥で小さく悲鳴を上げ、口を両手で覆った。
 「いい加減になさい」
 平田の頬を平手で打ち、平田を低く睨みつけたのは沢木であった。
 「大事な人なのでしょう。親みたいに慕っていた人なのでしょう。だったら助けなさい。なぜ黙って死なせたのです。他の誰かを苦しめるために大事な人を死なせたあなたに……お二人を見殺しにしたあなたに、“僕の大事なあの二人”などとおっしゃる資格はありませんよ」
 頬を打たれた衝撃で斜めにずれた銀縁の眼鏡。そのレンズの奥で平田の目が激しく揺れる。平田はそのままその場に手をついた。冷たいリノリウムの上に力なく投げ出された腕ががたがたと震えていた。
 ポケットに入れておいた携帯が震え出し、沢木は一言断ってから応対した。分かりました、ありがとうございますとだけ言って電話を切る。
 「平田さん。あなたのお部屋から須川さんの遺書が発見されました。筆跡も須川さんのものと一致したそうです」
 沢木は静かに言った。
 平田の目から新たな涙が溢れ出す。そして平田は慟哭した。胎児のように体を丸めて、床に拳を叩きつけながら激しく泣きじゃくった。誰の目も憚らぬ嗚咽が白い壁に乱反射し、長い尾を引いていつまでもいつまでもその場にとどまった。
 
 
  
 「ありがとうございました」
 小会議室から出ると、ハルキは望子と耀に小さく頭を下げた。沢木は事後処理のために一足早く二係に戻っている。
 「疑いが晴れてよかったね」
 耀は心からの笑みを浮かべる。ハルキも小さく笑った。もっとも、それは多分に無理をした作り笑いであったのだが。
 「ハルキ君――」
 このまま終わればハッピーエンドということになったのかも知れない。それは口にしなくてもよかったのかも知れない。しかし望子は激しい逡巡の末に口を開いていた。ハルキの似顔絵から読み取ったあの事実を、どうしてもハルキに確認しておきたかった。
 「あなたは、バイトで忙しいから大学に行かなくなったのですか?」
 心のどこかで、そうであってほしくないと望子は願っていた。だがそう尋ねた瞬間、望子は見てしまった。ハルキの目がかすかに、しかし決定的に震えたのを。
 「違いますよね?」
 望子の黒い瞳が色の薄いハルキの瞳をじっと見つめる。「大学に行かなくなったのが先で、バイトはその後ですよね。大学に行かなくなったからバイトに打ち込んだのではありませんか。おじいさんとおばあさんのために、という理由をつけて」
 それがハルキが祖父母についていた“嘘”。それが、望子が似顔絵から読み取ったことだったのだ。
 ――大きく見開かれたハルキの瞳の縁に涙の玉が盛り上がり、すーっと頬を伝っていった。
 「・・・・・・おじいちゃんとおばあちゃんは、ぼくが大学に行かなくなった理由を知らなかったんです」
 ハルキは片手で顔を覆って声を震わせた。「登校拒否になったのは単に人付き合いが苦手で、大学になじめなかったからなのに・・・・・・おじいちゃんとおばあちゃんは生活費援助のためだって思い込んで。“毎月ありがとう、ごめんね”なんて言われたらほんとは登校拒否だなんて言えなくて・・・・・・おじいちゃんたちに感謝されてると思うと嬉しかったし・・・・・・おじいちゃんたちに仕送りするためだって思えば登校拒否も正当化できたから・・・・・・」
 ハルキの言葉はそこで途切れた。
 「ね、ハルキさん」
 見かねた耀がハルキを促す。「あっちであったかい物でも飲もうよ、ね? 少し……休もうよ」
 ハルキは素直に肯き、年下の耀に背中を押されながら歩き出した。一歩ずつ、ゆっくりと。
 ハルキが本当のことを打ち明けてさえいればこんな事件は起こらなかったのだろうか?
 二人の後姿が小さくなる。やがてその背中が雑踏の中に消えても、望子はいつまでもその場を動けずにいた。 (了) 





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 3452/不動・望子(ふどう・のぞみこ)/女性/24歳/警視庁超常現象対策本部オペレーター 巡査


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■         ライター通信          ■
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不動望子さま


こんにちは、宮本ぽちです。
クリスマスに続いてのご注文、まことにありがとうございます。

不動さまのお力で非常にスムーズに捜査を進めることができ、大変助けられました。
従来は耀に語らせていた「祖父母がハルキに負い目を感じていた」という手がかりをどこかでうまく提示できないものか…と多少悩んでいたところだったので。

また機会がありましたら沢木を助けてくだされば嬉しいです。
今回のご注文、重ねてありがとうございました。


宮本ぽち 拝