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EXTRA TRACK -H.SAWAKI-
「お帰りなさいませ、ご主人様」
という可愛らしい声とともに二人を出迎えたのは、フリルつきの黒いワンピースに身を包んだ童顔のメイドであった。
「はあ」
と、沢木は心底怪訝そうに、緩慢に首を傾げる。「ご主人様も何も、こちらにお邪魔するのは初めてですがねえ」
「沢木係長」
望子はひそひそと言って沢木の脇腹を肘でつついた。「こういうお店ではこれが“いらっしゃいませ”の代わりなんです」
「なるほど。それは興味深い」
まんざら冗談でもなさそうに言い、沢木は腕を組んで深く肯く。対応に困っているらしいメイド店員の様子を見て取り、望子は「とにかく」とやや強引に話を締めにかかった。
「あまりつっこまないであげてください。メイドさんがかわいそうじゃありませんか」
「そうでした。これは失礼」
沢木は軽く咳払いした。可憐なメイド店員はようやく営業スマイルを浮かべて二人を店の奥へと案内した。
「話は聞いていましたが、訪れるのは初めてですよ」
パステルピンクを基調とし、随所にフリル付のカーテンやぬいぐるみがあしらわれた店内を眺め回しながら沢木はのんびりと感想を漏らす。漂うのは甘いイチゴのフレグランス。白いレースのクロスがかけられたテーブル席に着いている客は男性のみ。これほどファンシーさに満ちた内装であるのに、女性客の姿が見当たらないというのも面白い。
「しかし、なぜメイド喫茶なのです?」
店員に聞かれぬよう声を落とし、沢木は望子に問う。望子は事務的に答えた。
「ちょうど近くにありましたし、こういう店のほうが周囲の目を気にせずに済むんです。他の客はメイドさんしか見ていませんからね」
誰も私たちのことなど見ていません、と結んだ望子に沢木は「なるほど」と苦笑を返した。
――沢木から食事の誘いを受けたのは綾瀬ハルキの事件が解決してから少し経ってからであった。綾瀬ハルキの事件の応援に来てくれた礼だという。冬のイベントも一段落したところだったので望子はそれを了承し、沢木と二人で食事に出かけた。そしてレストランを出た後で沢木と話を続けることになり、望子が「じゃあ立ち話も何ですし、喫茶店にでも入りましょうか」と提案したのであるが……。
「不動さんはメイド喫茶にはよく足を運ぶのですか?」
メイドに案内された席に着いた後も沢木は珍しそうに店内を見回している。「男性客が多いようですが」
「そんなにしょっちゅうではありませんが、来ますよ。女人禁制というわけでもありませんし」
望子はけろりとした顔でメニューを取り、開いた。「何を頼みましょうか。お勧めはオムライスなんですが……今日はもう食事を済ませましたものね」
「そんなにおいしいのですか? オムライス」
「オムライスを頼むと、メイドさんがケチャップで好きな模様を描いてくれるんです」
「はあ」
沢木は細い目を二、三度ぱちくりさせた。「そういうサービスがあるのですか」
「ええ。機会があったら一度召し上がってみるといいと思いますよ。とりあえず飲み物だけ頼んでおきましょうか、コーラをふたつでよろしいですね?」
一瞬不意を突かれたように軽く目を見開いた沢木であったが、すぐに微笑んで「ええ」と肯いた。
「クリスマスの時、コーラが思い出の品だとおっしゃっていましたね」
「ええ。僕の部下の好物だったんです」
“だった”という過去形が気にならぬでもなかったが、望子はあえて聞き返さずに最低限の相槌のみを打った。
「僕はね」
と沢木は微笑を絶やさぬまま目を細めた。「こう見えても刑事課のれっきとした刑事だったのですよ。刑事課にいた頃、初めて僕の下についたのが矢代耕太(やしろこうた)くんで」
「そのかたの好物がコーラだったと?」
「ええ」
そこへシルバートレイに二人分のグラスを乗せたメイドが現れ、会話は一時中断した。やや小ぶりのグラスに満たされた焦げた砂糖の色をした液体、その上に涼しげに浮かぶ氷。細微な気泡は暖色系の照明の光を受け、小さくも贅沢な光を控えめに放っている。ストローを差して一口飲むとほどよい甘味と刺激が舌の上にじんわりと広がった。
「考えてみれば、外でコーラを飲んだことはなかったなあ」
コーラで唇を湿らせた後で沢木はふと苦笑する。「矢代くんはいつも自販機のコーラでした。昼休みに、コーラ片手に署の屋上でお喋りです」
「男性二人で、ですか」
「ええ、まあ。正確には克己さんも入れて三人ですが――」
沢木のグラスの中で氷がからんと涼しげな音を立てた。
「とにかく威勢のいい若者でした。警察は市民を守るためにあるとか、弱者が安心して暮らせるような社会を作るのが警察の役目だとか・・・・・・コーラを飲みながら、そんなことばかり熱弁していました。まるで酒にでも酔ったみたいにね。おかしいでしょう? コーラで酔うはずがないのに」
「警察官として大事な志ではありませんか」
「そうですね。ですが、矢代くんの理想は潔癖すぎました」
彼の理想が実現するはずがない、と呟いて沢木は小さく息を漏らす。望子も無言の首肯を返した。どれだけ正しい理想であろうと、矢代のような熱い若者が煙たがられるのが現実社会という場所だ。
「それでも、矢代くんの説く理想は警察官の根本になる初心。実現可能性は別として、そういう気持ちを持ち続けるのは大事なことです」
「沢木係長も矢代さんに感化されたというわけですか」
「ええ。若さゆえでしょうね。矢代くんにはそれほどパワーがあった。胸を張って断言できます、彼はきっといい刑事になったはずです。彼のエネルギーの使いどころを誤らせてしまったのはぼくの責任・・・・・・」
いったん言葉を切り、沢木は望子のやや斜め後方に視線を投げた。遠い何かを手繰り寄せるように細められた目。グラスを持った沢木の手がかすかに震えたことに望子は気付いていた。
「・・・・・・長くなります」
ややあってから沢木は口を開いた。しかしすぐに言葉を切って視線を遠くに投げる。「お時間、大丈夫ですか」
「ええ」
望子はにこりと笑って肯いた。もとよりそのつもりで来たのだから。
「ありがとうございます」
沢木は小さく微笑み、言葉を探すように細い目をさらに細くした。
「二年前ですから、おととしですね。おととしの冬でした」
やがて沢木はぽつりぽつりと語り始めた。「代議士の的場龍之介(まとばりゅうのすけ)の孫が誘拐されるという事件が起こりました。身代金は十億円。あれを扱ったのが宮本署で……メディアでもだいぶ大きく取り上げたし、警察官である不動さんなら当然ご存じかと思いますが」
ええ、と望子は肯いた。的場代議士といえば総理大臣と同じくらい有名である。
「誘拐されたというお孫さんは当時五歳か六歳でしたね。確か、本庁との合同捜査になったはずですが」
「その通りです。指揮官として派遣されてきたのが克己さんでした」
「克己さんというのは、例の桐嶋管理官のことですか?」
「ええ。克己さんのことは昔から知っていましたが、実際に組んで動いたのはあの事件が初めてでした。克己さんも矢代くんを気に入ったようです。あのかたもああ見えて正義感の強いところがありましてね。矢代くんに触発されて余計にそうなったようです」
こくり、と喉を鳴らして沢木はコーラを飲んだ。
「事件の真相をかぎつけたのは矢代くんでした。犯人の潜伏場所の目星もついたのです。すると的場代議士のほうから『この件は告訴しない、これ以上捜査はしないでほしい、身代金を払えば孫は返ってくるのだから』と警視総監に直接申し入れがあったのです。どうしてだと思いますか」
沢木はテーブルに腕を預け、望子をじっと見つめた。糸のような細い眼に強い怒りの火が灯っている。
「・・・・・・ありがちなパターンで考えるのであれば」
望子は慎重に言葉を選びつつ、目を上げた。「権力者である的場氏にとって都合のよくない何かが事件の裏に関係していた、だから事件自体を揉み消そうとした・・・・・・といったところですか?」
「ご名答。さすがです」
沢木は大きく肯いた。
二人の斜め前の席で男性の笑い声が起こった。メイド店員をテーブルに呼んで一緒にトランプゲームに興じているようだ。
「ことは少々複雑でしてね。的場氏は、公共工事を発注するという約束で業者から巨額の賄賂を受け取っていたのです。しかし実際は違う業者に発注した。贈賄した業者が必死になって借金を重ねた金は無駄になったわけです。その業者夫婦は絶望と借金苦で自殺しました。そして、その夫婦の息子がチンピラを雇って的場氏の孫を誘拐させたのです。的場氏が受け取った賄賂と同じ額を身代金として指定して」
「・・・・・・両親の復讐、ですか」
望子はそっと息をついて呟いた。的場本人が警視総監に捜査の中止を求めたのも肯ける。しかし、それでは何の解決にもならないこともまた事実だ。
「警視総監の命令で捜査は中止されました。誘拐された孫が救出されないままに。警察は権力には逆らえませんからね。――しかし、矢代くんがそれで納得すると思いますか。ぼくや克己さんがすんなり引き下がると思いますか?」
沢木はぎゅっと音を立てて唇を噛んだ。それは怒りと悔恨、そして自分自身の非力を憎む表情だった。見たことのない沢木の顔であった。
「案の定、矢代くんは孫だけでも助けるといって聞きませんでした。身代金を払うことが人質の救出につながるとは限らない、小さな子供が大人の犠牲になるなんて許せないと。子供を助けて、犯人を締め上げて事件の全容を明るみに出すのだと」
「当然ですね。正義感の強い矢代さんであれば尚更」
「ええ。しかしそれが捜査本部に聞き入れられるはずがありませんでした。挙句の果てに、矢代くんは一人で犯人のアジトに乗り込むと・・・・・・」
「無茶な」
望子は思わず声を上げていた。隣の席の三人連れの男性客が会話を止め、怪訝そうに二人を見る。望子は声のトーンを落として沢木に尋ねた。
「止めなかったのですか。無謀すぎます」
「もちろん止めました。しかし矢代くんは聞かなかった。一人で行かせるよりはと思い、ぼくも矢代くんに同行することに・・・・・・。いえ・・・・・・ぼく自身、的場氏が許せなかった。権力にひれ伏す警察が許せなかった」
沢木の声はかすかに震えていた。望子は相槌を打つこともせず、続きを促すこともせず、目を伏せた沢木の顔をただ見守った。
「こちらがつかんだ情報では犯人は四人。危険だからといって、桐嶋さんが拳銃の携帯の許可を強引にもぎ取ってくれました。ぼくと矢代くんは拳銃を持って犯人グループのアジトに乗り込んだんです。もちろん懲戒免職も覚悟でした・・・・・・」
沢木は低く呻くようにして言葉をつないだ。
容赦なく全身を叩く氷雨と水を吸った衣服が体温を奪い、気力を萎えさせる。しかしそんなことには構っていられない。煙る雨の中に無言で佇む二階建てのプレハブ小屋が犯人の潜伏場所。矢代がつかんだ情報によれば、誘拐された的場の孫・清太(せいた)もあそこにいるはずだ。
「いいのか、矢代くん」
もう一度だけ沢木は念を押した。「無事に帰れてもただじゃ済まないぞ。警察にいられなくなるかも知れない」
「あんな警察ならいたくもねえ」
矢代は日焼けした顔に充血した目を光らせて吐き捨てるように言った。短く刈り込んだ髪の毛に無数の水滴がついている。
「あんな汚え連中ばかりが揃ってるとは思わなかったっすよ。確かに誘拐は犯罪です。でも収賄だって犯罪だ。あんなちっちゃな男の子に何の罪があるんすか? 的場のジジイがあんなことさえしなきゃ、清太くんは・・・・・・」
「分かった。分かったから」
沢木は微笑んで矢代の肩を抱いた。止めるためではなく、矢代の意志のほどを確認するために質問したまでのことである。
「それじゃあ行こう。――覚悟はいいね」
「もちろん」
矢代はニッと笑い、突き出された沢木の拳にかじかんだ自分の拳を合わせた。
プレハブの中は外に比べれば暖かい。一本の廊下が通っており、その左右にいくつか部屋があった。描く部屋にはガラスの引き戸がついている。人の気配と話し声が漏れてくるのは廊下を折れた突き当たりの部屋らしい。この部屋にも同様にガラス戸がついていて、容易に中の様子を伺うことができた。部屋の入り口はふたつ。沢木は奥の戸に回るように矢代に手で指示した。
部屋の中はそれなりに広かった。学校の普通教室ひとつぶんくらいはあるだろうか。壁際に寄せて灯油のポリタンクが数個積んである。薄汚い床には飲食物のごみや食べ残しが乱雑に散らかっている。石油ストーブの周りに車座になり、缶ビール片手に談笑しているのは二十代後半程度の男性四人だった。それぞれ茶髪、長髪、坊主頭、金髪となんとも分かりやすいヘアスタイルをしている。金髪がリーダー格らしい。そして、部屋の隅に無造作に放り出されてぐったりしている男児が的場の孫の清太だった。
「警察は捜査を中止したんだってな」
ほろ酔い加減の坊主頭が気持ちよさそうに言う。「あの人の言ったとおりだ。ちょろいぜ」
「ああ。あの代議士サマも自分の悪事がばれるから俺たちには手出しできないってわけだ」
「うまく考えたもんだな」
四人は下卑た声を合わせて笑う。矢代がぎりっと歯を鳴らす音が聞こえた。抑えるようにと沢木が懸命に目配せする。
「ガキもやっちまうか?」
金髪の男が据わった目で三人を見回した。「どうせバレやしねえんだ。あのジジイは俺たちに文句なんか言えねえんだから。やってもわかんねえって」
「そうだな。捕まらねえならいっぺんくらい殺人もやってみてえもんな」
四人は立ち上がってゆっくりと清太に歩み寄った。長髪の男が清太の頭を軽く蹴っ飛ばす。清太は軽く呻いたが、頭をぴくりと動かしただけですぐに動かなくなった。
「おいおい、まだ死ぬなよ」
「早くやっちまおうぜ。死なれたんじゃつまらねえ」
「同感」
酔いが回っているのだろう、四人の笑い声は必要以上に甲高い。沢木は神経を逆撫でされるような不快感を覚えた。しかしまだ突入には早い。もう少し機をうかがってから、と思ったそのとき、派手な音とともにガラス戸が砕け散った。
「警察だ、武器を捨てろ!」
という矢代の声で沢木ははっと顔を上げる。激昂した矢代が拳銃を抜いて飛び込んだのだ。沢木は軽く舌打ちして後に続いた。犯人グループは不敵な笑いを浮かべる。しかし表情は幾分か引きつっている。こちらがたった二人であることに余裕を感じたらしいが、拳銃に怯えているらしい。
「警察はよっぽどやばい時じゃなきゃ撃てねえんだろ?」
リーダー格の金髪が皮肉っぽい冷笑とともにナイフを抜く。残りの男たちもそれぞれに武器を手にした。沢木は右腕を素早く垂直に構え、天井に向けて発砲した。威嚇射撃だったのだが、敵に動転が生じる。その隙に乗じて矢代が飛び込んだ。
矢代は遅い来る坊主頭の腕を取り、一本背負いの要領で豪快に投げ飛ばした。ポリタンクの山に敵の体が突っ込む。タンクががらがらと音を立てて崩れた。その拍子にタンクに備蓄してあった灯油が流出し、石油のにおいが室内を満たす。沢木にも敵が襲い掛かってくる。こちらは長髪だ。沢木はふっと身を沈めて第一撃をかわし、伸び上がる反動を利用して顎に掌底を打ち込んだ。敵の体がぐらつく。その隙を逃さずに腕をひねり、固い床に思い切り叩きつける。湿った埃がもうもうと舞い上がる。
沢木は素早く体勢を立て直して床を蹴った。金髪と取っ組み合う矢代の横っ腹に迫っていた茶髪にタックルを食らわせる。不意を衝かれた攻撃に敵はもんどり打つ。沢木は起き上がる暇を与えない。倒れた拍子に敵の手から跳んだ鉄材に足を飛ばして蹴り飛ばす。耳障りな金属音が床の上を転がる。その間に矢代もどうにか相手を片付けた。
漏れた灯油に足を取られながら二人は清太に駆け寄った。矢代が清太を抱き起こす。清太の血色は悪く、頬もこけていたが、呼吸はしている。衰弱しているのだろう。すぐに病院に連れて行けば何とかなるかも知れない。矢代が清太を抱いて立ち上がろうとした、そのときだった。
土砂降りと化した雨音のせいで、銃声はややくぐもって聞こえた。
矢代が目を見開いた。その体がびくりと大きくのけぞる。続いて口から鮮血があふれ出し、矢代は清太を抱えたままゆっくりとその場に崩れ落ちた。巻き添えを食って倒れた石油ストーブの音だけがいやに大きく響いた。
沢木は弾かれたように弾道を振り返った。そこには息を吹き返した金髪の男が床に横たわったまま拳銃を構えていた。もみ合ううちに二人が落とした拳銃を拾って発射したらしい。沢木の頭に一瞬にして血が昇った。沢木は猛然と床を蹴り、みぞおちに容赦のない右ストレートを食らわせた。金髪がうっと呻いて体を折る。しかし沢木は倒れることを許さない。アッパーを顎に打ち込んで体を起こさせ、さらにワンツーを顔面にぶち込む。金髪は白目をむいて昏倒した。
「矢代くん!」
「すいません、沢木さん」
矢代は体を起こすこともできずにぼろぼろと涙をこぼしていた。「この子が・・・・・・」
矢代の胸を貫通した弾丸が清太の頭に命中していた。即死だった。
そして、床にぶちまけられた灯油は、倒れた石油ストーブの火に向かって確実に触手を伸ばしていた。
瞬く間に火の手が上がる。炎は灯油の上を忠実にたどり、みるみるうちに部屋を包み込んだ。
「矢代くん、立てるか? 早く逃げ――」
「無理です・・・・・・沢木さんだけでも逃げてください」
「馬鹿! 上司の命令だ、一緒に逃げろ!」
甲高い声で叫びつつも、沢木は矢代がもう手の施しようがない状態であることを悟っていた。だからこそ諦められなかった。諦めたくなかった。とにかく矢代をここから連れ出して病院に運ぶのだ。獰猛な炎がごうごうと音を立てて二人の背後に迫っている。熱気で顔が焼けそうだ。もはや一刻の猶予もならない。矢代の腕をつかんで立たせようとすると、矢代は沢木の胸にその腕を突っ張って拒んだ。
「俺・・・・・・刑事失格っすね」
矢代は弱々しく微笑んだ。「何が“弱い者を守るための警察”だ。こんなちっちゃい子供一人守れないで・・・・・・」
「喋るな、ともかく早く病院に行くぞ!」
「沢木さんこそ・・・・・・早く・・・・・・」
何と言ったかは聞き取れなかった。矢代は渾身の力を腕に込めて沢木を突き飛ばした。矢代の体のどこにこんな余力があったのかと思わせるほどだった。しりもちをついた衝撃に思わず顔を歪める。はっとして顔を上げたときには、沢木と矢代の間は炎の壁で隔てられていた。
炎の向こうで、矢代が微笑んだのがぼんやりと見えた。
沢木はすぐに立ち上がって炎に飛び込もうとした。その瞬間、天井の材質が崩れ落ちて来て炎と火の粉を激しくまきあげた。ばちばちと凶暴な音を立てて暴れ狂う炎の前ではなすすべがない。沢木は矢代の名前を叫んだ。ひたすら矢代の名を叫び続けた。視界がかすんでいるのは視力のせいか涙のせいか、それは沢木にも分からなかった。
望子の手元のグラスの中で、からん、と冷たい音が鳴った。小さくなった氷が軽く身をよじらせた音であった。だいぶ溶けたんだな、とぼんやり考えた後で、それほどの時間が経っていたのだということに初めて気付いた。
「――焼け跡からは焼死体が六体出て来ました。犯人グループ四人と、子供のものが一体と、もう一体は・・・・・・」
沢木はテーブルの上に両腕を置いて力なくうなだれた。
「被疑者も被害者も死なせ、結局事件の真相は分からないままになってしまいました。的場代議士の収賄の件もうやむやのままで・・・・・・。しかし警察は喜んでいました。これで的場氏の悪事を・・・・・・いえ、的場氏の圧力を受けて捜査を中止したことを公表せずに済んだと。的場氏の収賄の事実を掴んだ矢代くんの死を手を叩いて喜ぶ人間すらいたのです」
「そんな」
望子は唇をかすかに震わせた。
「ぼくはすぐに辞表を書きました。引責辞任ということもありますが、それよりも警察に失望したのです。しかし克己さんに殴られました、ここで辞めたら矢代くんの気持ちが無駄になると。とはいえ今まで通り刑事を続けるわけにもいかず、あの部屋を与えられたというわけです。それも克己さんのお力添えでした」
沢木は結露に濡れたグラスを掴み、薄くなったコーラを一気にあおった。望子は黙っていた。言葉を探すこともできなかった。――やがて沢木はのろのろと顔を上げて望子を見た。
「日本の警察は優秀です。捜査方法も技術も人員も組織も。でもね不動さん、警察にもひとつだけ弱点があるんです。お分かりですか?」
「・・・・・・権力、ですか?」
沢木はゆっくりと肯いた。
「不動さんには申し上げるまでもないことですが、警察は縦社会です。官僚制の国家組織です。官僚制も国家も権力で動くもの。権力に弱いのは仕方ありません」
矢代の理想。それは弱き者を守ること。市民のための警察であること。
それがすべて裏切られたのだ。権力という、恐らくこの世で最も強い、あらゆるものを握り潰すことのできる力によって。
「だから僕は民間や外部の力に目をつけたのです。公の権力や組織のしがらみ気にせずに動けて小回りの利く組織を活用すればスムーズな事件解決が図れるのではないかと・・・・・・もちろん民間のほうが権力に大きく影響されることもありますが、それは権力と接する機会のある大きな組織の話」
沢木はそこでふっと微笑んだ。「例えば草間先輩を見てください。大物に盾突いて事務所をつぶされたところで屁でもないでしょう? 元々つぶれているような興信所ですからね」
確かに、と望子はようやく苦笑を漏らした。
「――ああ、失礼。僕が喋ってばかりでしたね。デザートでもいかがです?」
沢木は小さく首を傾けてメイド店員に声をかけ、メニューを持ってくるようにと頼んだ。その表情にいつもの穏やかさが戻っていることに気付いて望子は小さく安堵する。沢木はガトーショコラを、望子はベイクドチーズケーキをオーダーした。
「少しおしゃべりがすぎました」
メイドが去った後で沢木は小声で言った。「これが警察官の不動さんだからよかったようなものの、民間のかただったら捜査情報を漏らしてしまったことになりますねえ。どうかご内密に」
「ええ。ここだけの話にしておきましょう」
ただ食事をし、デザートを食べ、長い話に付き合わされただけ。それでも、たまにはこんな時間も悪くはない。望子はそんなことを考えてくすりと笑い、口許に手をやった。 (了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
3452/不動・望子(ふどう・のぞみこ)/女性/24歳/警視庁超常現象対策本部オペレーター 巡査
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■ ライター通信 ■
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不動望子さま
お世話になっております、宮本ぽちです。
続けてのご注文、嬉しいサプライズでした。ありがとうございます。
沢木の長い話にお付き合いくださり、ありがたいやら申し訳ないやらです。
そしてナイスな場所のセレクトをありがとうございました。
沢木にとって貴重な経験になったことでしょう。(笑)
二係で扱うような事件とはまた違ったテイストになりましたが、沢木ってこんな奴なんだ、過去にこんなことがあったんだ、というふうにとらえていただけたら幸いです。
もし機会がありましたら、また二係をのぞきに来てくださいませ。
今回のご注文、重ねてありがとうございました。
宮本ぽち 拝
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