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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


睦月日記のススメ

○月×日 (くもり)
・・・・・・。

その日の日記にはなにも書かれていない。いや、よく見てみると一度書いたものを消しゴムで消し去った痕が残っている。書かれていた文章は果たしてなんだったのだろうか。

 その日、門屋将紀は夕方まで一人で留守番だった。やることも特にないのでテレビをつけたら、プロ野球のデイゲームが放送されていた。昔、家族で見に行ったことを思い出しふと懐かしくなってテレビの前にしゃがみこむ。
 東京に出てはきたものの、今でも野球は東京より関西びいきである。こういうところは多分、どれだけ遠い場所に行ったって同じなのだろう。きっと、日本を離れたって変わらない。
「ひゃっ」
八回の途中で、将紀は突然悲鳴を上げた。
逆転ホームランではない、背中のほう、玄関の扉を誰かが拳で叩いているのだ。どんどんどん、と容赦がない。咄嗟に将紀は振り返って玄関のドアチェーンがかかっているのを確認し、それからさらに視線を左右に走らせて手近な武器を探した。
 強盗だろうか、押し売りだろうか。図体の大きな人間を相手にすることは慣れていたが、自分が腕力ではとても敵わないことは充分に承知していた。やはり一番頼りになるのは電話だろうか。しかし、時代遅れの固定電話は玄関のすぐそばに置いてある。そこまで近づく勇気が、将紀にはない。
 扉の向こうは拳だけでは足りないらしく、鍵のかかっているノブをがちゃがちゃと回しはじめた。それでも開かないとわかると、苛立ったように今度は重そうな靴で扉を蹴りつける。扉がへこんだような音が聞こえた。
 このままではいつか、扉は破壊されて悪漢が侵入を果たすのではないか。不安がさらに将紀を玄関から遠ざける。さっさと警察に通報してしまえばいいものの、電話をかけるために玄関へ近寄ったら、その瞬間扉が破られてしまう気がするのだ。
「・・・・・・」
将紀は自分の体をぎゅっと抱きしめた。目には涙がいっぱいに浮かび、喉のすぐ傍まで悲鳴がせり上がっている。そしてついに、扉が再び拳で叩かれた瞬間叫んだ。
「お母ちゃん!」
助けて、は声にならなかったのだ。
 その呪文は、てきめんな効果をもたらした。なぜなら将紀の声を聞いた途端に扉への暴行は止まり、代わりに向こうから返事があったのだ。
「・・・ひょっとして将紀、中にいるの?」
「お・・・母ちゃん?」
扉の向こうに立っていたのは海外取材の埃も落とさず飛行場から直接訪ねてきたのだ、と言わんばかりの格好をした門屋京華であった。ちなみに、扉を思い切り蹴ったのは軍隊御用達の鉄板入りブーツである。

「ごめんねえ、将紀。驚いた?」
「当たり前や。チャイムも鳴らさんといきなり扉叩かれて、びっくりせえへんほうがどうかしとる」
「全員留守だと思ったもんだから」
普段、将紀一人でないときは玄関の扉は開けっ放しになっている。鍵が開いている、という次元ではなく文字通り開いているのだ。京華もそのことを知っていたから、だからここまできて扉が閉まっていたものだから、家には誰もいないのだと勘違いしてしまった。
「空港から重いリュック背負ってきて、やっとお茶が飲めるお風呂に入れるって喜んだところにあれだもの。少しくらい腹も立つし文句も出るわ」
少し腹が立つだけで、扉を壊されそうになった家のほうが文句を言いたいところだろう。冷蔵庫に牛乳を片付けながら、将紀は我が母の奔放さに目を眇める。
「はい、お母ちゃん」
出てきたのは大きなマグカップのミルクコーヒー。お茶ではなかったけれども、湯気のたった飲み物に京華の顔がほころぶ。その笑顔を見るだけで、将紀の胸の中にもじわりと湯気が立つ。
「・・・なあ、お母ちゃん」
将紀はさりげなくソファに座っている京華の後ろに回り
「お帰りなさい」
真正面から胸に飛び込んでいくことは照れくさかった。背中越しに腕を回し、肩の辺りへぎゅっと顔を押しつける。
「怪我とか、せんかった?」
「将紀」
京華は将紀の小さな手の平を自分の手で包み込み、ぎゅっと握りしめ頬にあてた。それから大丈夫という証拠に首を捻って将紀のほうに顔を向け、にこりと微笑み右手で自分の膝をぽんと叩く。ここにおいで、という意味である。
「・・・・・・」
少しだけ逡巡した将紀であったが、誰も見ていないのだからと頷いて母に甘えた。髪の毛を撫でてくれる母のその手を、一体どれだけ夢に見ただろう。

 外見の割に大人びているとよく言われる将紀が珍しくも見せた年相応の横顔。母に抱かれている間はそれだけで胸がいっぱいだったけれど、我に返ってみると気恥ずかしかった。首をすくめ、泣きそうになっている目をごしごしと擦っていると、
「ねえ将紀、お風呂貸してもらえるかしら」
旅の汚れを洗い落としたいのだと京華がはいているジーンズの膝を叩いた、ほんの軽くだったのにそれでも土埃が部屋に舞う。
「ええよ。お母ちゃん、座っといて。僕、入れたるから」
たまには午前中に風呂掃除を終わらせておくのもよいものだ、と将紀は思った。お茶を飲んだり、風呂に入ったりすることで母が心地よくなれるのならば、将紀はいくらだってやかんを火にかけるし風呂だって磨く。
「すぐに沸くから、待ってて」
京華を洗面所まで案内し、洗ったばかりのタオルを用意したり足拭きマットをひっぱりだしたりとくるくる働く将紀、ぜんまい仕掛けのおもちゃのような動きが愛らしく京華はついつい、からかわずにはいられない。
「一緒に入る?」
途端に将紀はぜんまいが切れて硬直してしまった。さっきまで母の膝で抱かれていたことなど忘れてしまったとばかりに棒読みの口調で、
「ぼ、僕、もうそない子供やないで。それに、えっと、あの、宿題もやらなあかんし」
「あらそう」
本当に残念なのかどうかはわからないが、残念と肩をすくめる京華。
「じゃあお風呂から上がったら、お母さんが宿題見てあげよう」
「僕、間違ったりせえへんもん」
それは優秀、と将紀の額にキスをする京華。ふざけんといてと言いながら将紀の顔は真っ赤であった。

 二十分ほど経って、麦茶のコップを手に湯上りの京華が将紀の部屋に入ってきた。宣言した通り机に向かっている将紀の背中越しに、プリントを覗き込む。縦書き、国語の宿題であった。
「どれどれ・・・一月から十二月までを旧暦、漢字で書きなさいか・・・なかなか難しいことやってるのね」
「お母ちゃん、知らへんの」
「ジャーナリストを馬鹿にしないの」
京華は細く長い人差し指で空中に十二ヶ月を一気に描いて見せた。
「早すぎてわからん」
「じゃあ、一月から」
書いてごらんと京華は将紀にシャープペンを持たせる。睦月、とたどたどしい字がプリントに浮かぶ。だがよく見ると目が日になっている、横棒が足りない。
「ここ、違うわよ」
頷き、筆を加える将紀。
「ねえお母ちゃん、睦月ってどない意味?」
「この睦っていう字はね、仲がいいってこと。寒いから仲良くして、あったかくするのかしらね」
「ふうん」
だったらずっと睦月がいい、と将紀は心の中で呟く。一年中睦月だったなら、ずっと母と一緒にいられるのに。けれど睦月が好きだと母に言ったら、
「毎日お年玉もらえるものね」
と茶化された。そして毎日お年玉は無理だけど、と言って
「二月の如月は服を重ねるって意味だから、あったかいセーターを買ってあげる」
久しぶりの、指きりだった。
 それから将紀と京華は十二月の師走までを意味まで含めて一緒になぞっていった。将紀にとってその時間とは正しく、駆け抜けていくようであった。

「・・・これで宿題も終わりね。あら、もうこんな時間」
時計を見上げると夕方、空は今にも青から黒へ沈みそうである。
「夕飯、ありあわせでなにか作ろうか」
たまには腕を振るおうと京華は台所へ向かい、図体ばかり大きく、化物のように電気代を貪る冷蔵庫の扉を開いた。だが、その中に入っていたのはビールばかりで見事なまでに食べられるものがなかった。野菜室の中までビールが詰まっているのだ、これでは入れようがない。
「・・・将紀、出かけるからあったかい上着を着なさい」
京華はどこかで食事をしよう、と考えていた。しかし将紀の足は近所のスーパーへと向かった。
「あの店の揚げもんおいしいんやで。お母ちゃんにもいっぺん食べさせたかったんや」
コーンコロッケが好物の母を、将紀は忘れていなかった。また、メンチカツの好きな将紀を母もちゃんと覚えていた。さらに緑のカゴへレタスやプチトマトを選び放り込んでいく将紀の、その手慣れた様子に京華は驚きを隠せない。
「あんた、そんなこともできるようになったの」
「任せといて」
「本当に大丈夫?」
これは、ちょっと意地の悪い口調だった。一瞬将紀は唇を尖らせそうになったが、考えてみればそれは滅多に料理を作らない母が珍しく台所へ立ったときに、父から投げられていたのと同じ台詞だったので途中から笑ってしまった。笑いながらまあ見といてや、と力こぶを作ってみせるのは、これは母の真似である。

 そしてその日の夕食は惣菜コーナーで買った揚物を中心に手作りのサラダとスープ、それにご飯だった。スープはお湯を注いで作る簡単なものだった、京華の作る世界で一番おいしいコーンスープに比べたら、とても恥かしかったが他になかったのだ。つまり、厳密に言えば将紀の作った夕飯というのはサラダだけということになる。
「いただきます」
しかし京華は箸を持つとなにより先にそのサラダを口に運び、将紀がちぎったレタスをゆっくりと噛んで、そして
「おいしい」
本当に、心から頷いてくれた。実際京華にとっては、世界中のどこでも食べられないご馳走であった。
「ねえ、将紀」
食事が半分ほど進んだところで、京華は息子を真正面から見つめた。離れているうちに少し大きくなったようだ、髪の毛も伸びていた。
「今日はいろいろしてくれて本当にありがとね。それから、お母さんなにもできなくてごめんね」
今日一日だけを謝ったようにも聞こえ、今までの分を謝ったようにも聞こえ、そしてこれからの分まで謝っているようにも聞こえた。将紀の中からわがままが溢れそうになる、謝らんでええからもっと一緒におって、と、その一言が言えればどんなにいいだろう。けれどどれだけ母は悩むことだろう。
 数分かけて、将紀は代わる言葉を見つけ出した。
「お母ちゃん、今度コーンスープの作りかた教えてな」
それからお母ちゃんの行った外国のことも教えてな、勉強でわからんことあっても教えてな、いっぱいいっぱい教えてな。
「お母ちゃんが僕の知らんこと知っとる限り、お母ちゃんは永遠に僕のお母ちゃんや」
「・・・将紀」
なんてことを、この子は言うのだろう。これでは意地でも仕事を止められない。京華は、こみ上げてきた涙をコーンコロッケとご飯でかきこんだ。

 夕食が終わり、お風呂から上がった将紀は自分の部屋で日記を開き日付を書き込んだ。そこまではちゃんと自分の意思でシャープペンを握っていたのだが、次の瞬間ノートを見てみるとそこには
「お母ちゃん。お母ちゃん。お母ちゃん。お母ちゃん。お母ちゃん。お母ちゃん」
殴り書きと言ってもいいような下手な文字で、とにかく手が母を呼んでいた。なんやこれは、と自分でやっておきながら唖然としてしまった。そこへタイミング悪く
「将紀。お風呂上りにデザート食べない?」
京華がノックもせずに扉を開けるものだから将紀は慌てて消しゴムをつかみ、ノートに書いてあった文字をすべて消してしまったのだ。
 今となっては、将紀の本音はノートと消しゴムのカスだけしか知らない。