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<東京怪談ノベル(シングル)>


きずあと

「神サマがいるとしたら、存外に残酷な性格をしていらっしゃる」

 いつかの誰かの台詞を思い出す。

 例えば、腹を痛めて産んだ子供が己と違うモノであったとしたら。
 例えば、己の全てを否定する存在が目の前に顕在したとしたら。

 そうしたら、壊れてしまうよね、と。
 そんなことを言っていた。

 誰も悪くないのなら、誰にも責任がない。
 そうしてただ歪んでいって、壊れていく世界。

 ――俺の世界は、そんな世界だった。



 正直、何度聞いてもその言葉にはぎょっとしてしまう。
「渡辺ってさ、やっぱり実は女なんじゃないのか?」
 授業が全て終わってからの安堵を含んだ喧騒の中、前の席の友人の突然の台詞に、渡辺綱は思わず手にしていた鞄を落としそうになる。見た目のことを言っているのかとも思ったが、友人の言っていることはそのような意味を孕んだものではないらしい。ふいに浮かんだ疑問を、何となしにぶつけてみたという感が強い。確かに女装は得意だけどと漏らしそうになって、綱は必死でその口を噤んだ。
「なんだよ、それ。……それに、何度目だ、その質問?」
 鞄の中に宿題になっている教科のテキストとノートを突っ込んで、他を机の中にしまう。そこでようやくすることもなくなった綱は、真剣な目で友人を見やる。その威圧に、わずかに友人が怯んだ。
「あのさ、前々から言いたいと思ってたんだけど」
「悪ぃ。冗談だって、本気にするなって、渡辺――」
「俺のこの男らしさが目に入らないのか?」
「あー、うん。入らない。ちっとも。微塵も」
 ほぼ即答だった。
 確かに、綱は見た目は頑張らなくても女性に近い。しかし、女だという訳では決してない。とは言うものの、男だと分かるような体が見えるような行為を全くと言って良い程にしておらず、体育の着替えも誰もいない場所で季節問わず長袖ジャージであった。加えて水泳は決まって見学という有様であれば、そのような揶揄を受けることも少なくはない。
 誰にも肌を見せていない。
 そのことが、いらぬ噂の種を撒いている。
 だからと言って安易に疑いは晴らす訳にはいかず――それが例え傍目からしてみれば、疑いを晴らす行為の方が何倍も楽であると思われていても――冗談を口で返して何とかやりすごすしか術はない。暴力云々で無理矢理確かめる等といった暴挙に出ると言う友人も、幸いにして綱の傍にはいない。
 一瞬だけ意地悪そうに笑った綱は、その直後にはむっとしながら、自身のベルトに手を掛けた。
「なんだったら、見るか?」
「見ねぇよ!」
 平らな胸に裏拳とも呼べるキツイツッコミを受け、綱は思わずしゃがみ込んでむせる。けほけほと咳き込んでいると、友人が少しだけすまなさそうに謝った。
 これでいい。
 これでいいのだと、自分に言い聞かせる。
 変わらない日常を望んで、無理に笑って偽って。
 そうすることで、せめて今いるこの世界が平和であるのならば。



 ――真実はとても辛いものだから、せめて今だけは仮初の優しさを望もう。



「ただいま」
 返事はなくてもついつい口にしてしまう言葉に、住人の気配がわずかに動いた。住人とは、両親のことだった。それだけで、少しだけ安心する。冷蔵庫に入っていた昨日の夕食の残り物を摘んで、口の中に放り投げる。美味しいという満足感も、不味いという不満感もない。お腹が減っているという訳でもなく、綱はもう一つを自身の口の中に入れた。冷たい歯触りに、わずかに眉をしかめた。
 綱の自室は二階にある。なるべく足音をさせないように階段を上って移動をし、静かにドアを閉めた。鞄を床に置き、学ランを脱ぐ。ワイシャツを脱ぐと、友人には決して見せることのない体が露わになる。部屋の片隅に置かれていた鏡に視線をやると、否応にもその現実を突きつけられる。
 鏡に手をやる。
 腹部にある、拳大の痣に触れる。触れただけでも、まだわずかに痛む。力の限り殴りつけられたそこは、ドス黒い青い色になっている。これでは傷を受けていなくても、感受性の強い者なら苦痛に顔をしかめてしまいそうだ。いらぬ心配という前に、他人のそういう顔を見るのは、あまり好きではない。
 消えていない傷は、まだ他にもある。
 痛まない疵は、ココロの奥底で膿んでしまい、もう治りようがなくなってしまっている。それはもう、腹部の痣のように、時間が解決するものではなくなってしまっているのだろう。
 眉を寄せ、目を閉じる。
 耐えるように唇を噛むと、わずかに鉄の味を感じた。
 変わってしまったのは、いつからだったのだろう。
 或いは、初めから壊れてしまっていたのか。
 生まれることで生じた変化が故に、綱には当然ながらその差異は分からない。それでも存在するのならば、戻ってほしい日々がある。
 傷を隠し続ける。
 それで護り続けられるのならば、喜んで貫き通そうと思っている。
 悪いのは誰でもない。
「悪いのはきっと、……この、俺自身、だ」
 生まれてきたことに、母に感謝する。
 それでも、生まれてこなければ、幸せであった人たちがいることも事実だった。
 声を押し殺して、嗚咽を漏らす。いつの間にか、泣いていた。それでも、声は止まらない。

 誰も怨んでいない。
 誰も怨んではいけない。

 それでも誰かを怨むとしたら、自分自身を呪うことしか出来ない。
 ココロは痛むし、きずあとは醜く残る。
 それでも、誰にもこのココロを知られてはいけない。

 強く体を抱きしめて、床に蹲る。
 弱々しく吐かれた息は、わずかに震えていた。





【END】