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<東京怪談ノベル(シングル)>


『Roses In Wine』

 ピンヒールの音にあわせて、闇が揺れる。
 黒いマーメイド・ドレスの肩は優雅な曲線を描き、白い。
 透んだ、頭上の月の燐紛をおびたような白。
 ガンベルトに施された装飾が妖しい調和をかもして光る。
 彼女、アナベル・クレムは眠りにつこうとする街の呼気を愉しげにすいこむ。
 この闇こそが自分にふさわしい、慣れ親しんだ帳だとでもいうように。
 そしてまだ眠っていない一軒の扉を選ぶ。 
「いらっしゃいませ」
 遠慮がちなライトアップが広さのわりにくつろいだ空間を演出している。カウンターはひとつも埋まっていない。
 それなりの時刻だったが、バーテンダーの佐東は嫌な顔ひとつせずコースターを置いた。
「お客はわたくしだけですのね」
 中央に腰をおろす。
 ショールを外そうと習慣で手を差し出しかけたが――うやうやしくそれを預かるものがここにはいないのでやめた。
「来ない時は誰もこないもんです。ウチは初めてで?」
「そうですわ。あまりこういう場所にはこないのですけれど。でもわたくしが以前英国の市井でみたのはもっと……雑然としているというのかしら、あまり品がなくて」
「本場のアイリッシュパブですか。悪くないところですよ。あちらにお住まいで」
「随分と長く。それに随分と昔の話ですわ。レディの過去をつつきたてるのは無粋じゃなくて?」
「これは、失礼」
 アナベルは差し出された名刺を不思議そうに見つめたあと、興味なさげにカウンターの脇におく。
「なにをお出しましょう」
「そうね、なにかカクテルを頂けますかしら? わたくしの」
 微笑み。細く尖った白い犬歯、牙が剥き出しになる。冷たい輝き。
「口にあうものを」
「……」
 佐東は、つややかな赤い唇から突然あらわれた耽美なその対照をちょっとみつめていた。
 驚きはしたがそれをそのまま表情に出すほど未熟ではない。相変わらず奇妙な街だ、と氷を取り出しながら思う。店で大騒ぎがあろうと、大抵その後には出所のわからぬ大金が下りてくるのが常で、帳尻があうどころか大幅に釣りが出た。IO2とかなんとかいったっけ、わざわざ事を大げさにする必要もない。奇妙な街だ、それだけだ。
「かしこまりました――名ばかりですがちなんだものを」
 ほどなくして、ブランデーをふんだんに使った液体がシェイカーから注がれる。
「クイーン・エリザベス」
 花を愛でるように持ち上げ、喉をつたいおちていく冷たい感触を楽しむ。
 ぼやけながら冴えていく、酔い心地。
「……悪くありませんわね」
「ありがとうございます」
 しかし、と彼女は思う。あの味にはかなわない。
 あの色、あの味。皮膚を噛みとおす感触、なだれ込んでくる生命感、なによりも豊潤でなによりも濃厚な紅色。ゆったりとしたジャズに身をもたせながら、アナベルは鮮血の夢想に遊んだ。アルコールが体内でたゆたう。
 空になったグラスが上品な音を立てて置かれるのと、ドアが吹き飛ぶように倒れるのと同時だった。
 店内に殺到したのは一様に同じ装備を身に付けた一団、それぞれサブマシンガンやライフルを手にし、銀製のスロウナイフを手にしたものもいた。訓練された退魔士の連中らしいことが装備と挙動に見て取れる。
 アナベルの眉が片方あがった。
「いらっしゃいませ。って感じじゃないですね」
 やれやれ、と佐東は肩をすくませた。
「無粋ですわ――本当に騒々しい方々ですこと」
「警告は必要ない」とリーダー格らしい男。
「動きをみせたら発砲しろ」
「わたくしの食事を邪魔した上に。しつこく追いかけてきて銃を振り回すだなんて」
 彼女の言葉に答えたのは、一斉に安全装置を外す音。
 ふう、と吐息にもため息にもつかないものを吐き出して、アナベルが立ち上がる。
 瞬間。
 向き直りざまに、空気が二度火を噴いた。
 ホルダーから銃を抜いて発砲するまで一挙動。
 すでに銃身の長いコルトシングルアクションアーミーがその華奢な右腕に握られている。コンマ二桁以下のファストドロウ。
 正面にいた二人が倒れ、一瞬遅れて血が床にしみだす。
「高くつきますわよ」
 火の宿った赤い瞳に移ったのは、自らに向かって放たれた銀製弾の白い群れだった。
 吸血鬼の動体視力は、空中の無数のそれを静止しているかのように見る。
 悠長に待つわけもなく、霞のように彼女の姿が掻き消える。
 見失う。
「まったく殿方はせっかちですわね」
 ジャズのレコードだけが緊迫した空気をそ知らぬ顔であざ笑っていた。
 一斉射撃後の、全員が思考停止に陥ったような沈黙を愉しげに破ったのは、どこからか響くアナベルの声。
「戯れを急いては、レディの機嫌をそこねるもの――」
 背後だ、首筋に冷たい吐息を感じた一人が振り向き見たのは、銃口と微笑。
 轟音。
 銃をかまえかけたさらに左の男に振り向きもせず一撃をくれる。
 喉を撃ち抜かれた男がくず折れる前に、アナベルはその血を吹く首を足蹴にして跳んだ。
 バントラインスペシャルが宙で吼える。
 泣き叫んで死を告げる妖精の声を聞いたごとく、その数だけ声もあげずに人が倒れる。
 着地より先に空の金属薬莢が床に散った。
 手品のように指の間にあらわれた鈍く光る銃弾を数瞬で収める。リロード。
「当てろ! 一発当てれば……」
「お黙りなさい」
 恐怖に逆らいながら叫びかけた男の視界が、投げつけられたショールでふいに黒く染まった。
 振り払おうともがく間もなく眉間に穴があく。
 肌につきまとうレーザー照準の点を、ドレスの裾をひるがえしながら振り払う。表情は、すでに興を失っていた。
 恐慌に陥った無礼な襲撃者の群れを見やる。
「あなた方に――わたくしと踊る権利などあるとでも?」
 両手をあげ震えながら口を開きかける男が一人。
 悦楽に理屈は不要だ。
 余興にあたわぬ彼らに向けて、アナベルは爆発的な速さで残る全弾をたたきこむ。
 そして、全てが終わった。

「ああ、また掃除が大変だ」
 身を低くしていた佐東が起き上がり、レコードを入れ替えた。煙草に火をつける。
「よかったですわ……一番美味しそうなあなたが死んでいなくて」
 髪をなおしながら、アナベルはゆっくりと歩を進めた。
 死体の中で、痛みと恐怖に震え座り込んでいる若い退魔士の少女。右手の甲を撃ち抜かれ、声にならない息を詰まらせそうにしている。
 アナベルの指先でまわるバントラインスペシャルが、空にいくつもの円と幾何的模様を描く、少女はただ呆然とその軌道を見上げていた。
「さて、カクテルをお願いしますわ。新しい仲間の誕生を祝って二人で乾杯しますの」
「おまかせで?」
「ええ」
 最後のスピンを見せながら、銃がホルダーへ収まる。
 小気味良く鳴きだすシェイカー。
 いとおしげに少女の肩を抱き、アナベルは残酷なほど純真な微笑をたたえて小さな首に牙をつきたてた。
「お口に合えばと思いますが、先ほどと同じブランデーベースで」
 カクテルグラスがカウンターにおかれる小さな音。
「ラスト・キッスです」
 とんでもない、とアナベルは口元を拭い、艶然と微笑む。
「夜は、これからですわ」