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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


水魚の交/氷竜の交



 冷たい冬の海の底に沈む夢を見た。
 
 それもそのはず。目を覚ませば、氷室浩介の体は布団から転がり出た所で冷え切っていた。起き抜けの大きなくしゃみが、隙間風の這い入る安アパートの一室に響く。
「……畜生。夢見悪ィ……」
 鼻をすすり、氷室は毛布をかき寄せてくるまる。
 こういう侘しい目覚めの日は、旨いものを食べて元気を出すに限る。が、生憎な事に侘しいのは目覚め方だけではなく、懐も同じだった。
「こりゃやっぱ、あそこ行くしかねえよな……」
 呟いて、氷室は寝癖のついた髪を撫でつけた。



「草間さーん! 腹減った!」
 挨拶も抜きに、草間興信所のドアを開けながらそう言い放つ氷室を、草間武彦は渋面で出迎えた。
「おやつならママに頼め、坊主」
 ほとんど睨みつけるような鋭い視線と冷たい口調に、氷室は一瞬怯んでから首をひねる。
「何だよ。機嫌でも悪いのか?」
 鷹揚な草間が、一飯をたかられたくらいで腹を立てるとは思えない。それとも自分は何か草間を怒らせるような事でもしでかしたのだろうか。氷室が小首を傾げるのに、草間は溜息を吐き捨てて立ち上がる。
「……ちょうどいい所に来た。ちょっと付き合え」
「やりィ! オゴってくれるのか?」
「依頼が入ってる。それを片付けてからだ」
 半ば押し込まれるように車の助手席に乗せられる。仔細を問う暇もなかった。
 どこへ行って何をするつもりなのかと問いかけても、草間はだんまりを決め込んでいるらしく答えない。
 質問するのを諦めて、氷室がシートに背中を預けた頃、車は白い建物の前で停まった。
 何やら見覚えがあると思ったのも当然。それは、三年前、氷室が運び込まれた救急病院だった。
「……ここに、依頼の関係者でも入院してるのか?」
 奇妙な懐かしさを感じながら問うのに、草間が軽く頷く。
「正確に言うなら、入院していた、だな」
 俺もここに入院してた事があるんだ、という言葉を氷室は飲み込んだ。危険な遊びに手を出した挙句、命を落としかけた話など、草間には到底聞かせられない。呆れられるか怒られるのが目に見えている。
 てっきり病院の中に入るのだとばかり思っていたのに、草間はそのまま車を発進させた。
「何だよ。関係者に聞き込みとかしないのか?」
「必要ない」
 なら、どうしてわざわざここまで来たのかという問いは、いっかな氷室の顔すら見ようとしない、愛想の欠片もない草間の横顔に抑え込まれるかたちになった。
 草間の不興顔の理由を探ろうにも、これではとりつく島もない。車内に満ちた重い空気に息苦しさを感じ始めた氷室を乗せて、車は一路、海を目指して走る。
 低く立ち込めた雲の下、広がる灰色の海。船の一艘も見当たらない、寂しい埠頭。それでもこの場所が、夜になると、バイクにまたがった少年達で賑わう事があるのを氷室は知っていた。
「降りろ」
 有無を言わさぬ口調で命じられ、氷室は海風に頬を叩かれながら、かつての死線に降り立つ。
 そう。この海こそ、氷室が三年前に命を落としかけた場所だ。
 向こう見ずで怖いもの知らずの少年達が、無謀にも挑んだ愚かな勝負。海に向かって一直線に車を走らせ、死への恐怖から、先にブレーキをかけた方が負ける。──いわゆるチキンレースと呼ばれるものだ。
 氷室は死を恐れなかった。それは、真の争いを知らない時代に生まれた少年達にとっては、遠い死よりも、臆病者だとそしられる恐怖のほうが身に迫っていたせいだったのかもしれない。
 今にして思えば、何て馬鹿な事をしでかしたのだろうと思う。こうして九死に一生を得たからいいようなものの。
 そんな事を考え、内心で自嘲しながらしばらく海を眺め、ふと視線を感じて草間を見ると、彼は意味ありげな表情を浮かべてこちらを見ていた。
「……懐かしい場所だろう? 氷室浩介君」
 唐突にいつもとは違う呼び方をされて、氷室はぽかんとした。皮肉っぽい笑みを浮かべながら、草間は煙草に火をつける。
「君が命を落としかけた──いや、落とした場所だ。さぞ感慨深いだろう」
 声にいつもの親しげな調子はなく、瞳には他人を眺めるような距離感。草間が吐いた紫煙が、まるで壁のように二人を隔てる。
「草間さん? 一体何言って……」
 思わず氷室は半歩下がっていた。兄のように、師のように慕っていたはずの草間が、何故か遠い。
 狼狽する氷室に、草間は唇だけで笑う。
「依頼の内容を話そう。……とある人物から、実は君が死者である事を悟らせてやってほしいと言われた」
「は?」
 氷室は目をむき、両手でぱたぱたと自分の体を探り、見回す。ちゃんと実体を持った自分。影だってある。どうしたって生きている普通の人間にしか見えない。
 何の冗談だよ、と笑い飛ばそうとした時、草間がひどく冷たい目をしていることに氷室は気づいた。
「馬鹿な遊びをしでかしたもんだな。その上、自分が死んだ事にも気がつかずに、生きていた頃の姿のまま、この世界を徘徊する図々しさには呆れる。さすがの俺も、こんな非常識な幽霊がいるとは思わずに、まんまと騙された」
 声音は心底忌々しそうで、冗談めいた雰囲気の片鱗すらなかった。氷室はごくりと喉を鳴らし、上着の上から胸を掴む。掌に、確かな心音。
「幽霊? ちょ、ちょっと待ってくれよ。冗談だろ? 俺はこうしてちゃんと……」
「生きてる、と思い込んでいるだけだ」
 切り捨てる口調で言われ、氷室は二の句が継げなくなる。急に足元のコンクリートが柔らかくなって、沈み込むような錯覚に襲われた。
「それを証明してやるから、さっさと成仏するんだな。君の遺体を引き上げた張本人──依頼人に会わせてやろう」
 草間は顎で車を示した。心臓は先ほどから早鐘のように脈打ち、これ以上ないほど生命の証を誇っているのに、何故か氷室には、草間の言葉を頭から否定するだけの気力が湧かなかった。
 縋るように左胸を掴む指。そこに伝わる鼓動が偽物でない事を証明する術すら自分が持っていない事実に愕然としながら、氷室は俯いて車に乗る。
 隣の草間の顔をうかがい見ることは、とうとう一度もできなかった。



 車が停まるのと同時に、己の生への疑念から引き戻される。
 一体どんなおどろおどろしい場所で依頼人に引き合わされるのだろうと思っていたら、目の前には庶民派を絵に描いたような定食屋があった。事態が飲み込めずに呆然としているところを、乱暴に背を押されて暖簾をくぐる。
 やはりこれはひょっとしたら、うんとタチの悪い、手の込んだ悪戯なのではないかと思ったが、草間がそんな趣味の悪い嫌がらせをする理由には考え至らなかった。それに何よりも、氷室自身が語ったことのない三年前の顛末を、草間が知っている辺りが、彼の言うことに幾許かの真実が含まれている証左だろうという気がする。
 店内は昼をとっくに過ぎたこともあり、客より空席のほうが目立つ。奥まった席に着物姿の男が座っており、草間に向かって手を上げた。おそらくはあれが依頼人──なのだろう。
 男の目が氷室に向けられ、ふ、と細められる。青い瞳に既視感を覚えた。記憶を探るまでもなく、脳裏にあの凍えるような真冬の海が浮かんで、氷室は思わず息を飲んだ。
 あの暗い海の色と、男の瞳の色はちっとも似ていない。なのに何がしかの共通点を感じて、額に汗が浮かんだ。間違いなく、自分はあの海でこの男に会っている。──どうして今まで忘れていたのか。
 自分が『死んだ』記憶を封印したせいなのかと思うと、掌にも冷たい汗が滲む。なのに、ぬるついたその感触がリアルすぎて、やはり自分がとうに死んでいるのだとは到底思えなかった。
「連れて来たぞ、辰海」
 ごち、と草間の拳で頭をつつかれて我に返る。ほとんど顔面蒼白の氷室に向かい、辰海と呼ばれた男がニヤリと笑った。
「おぬしがいつまで経ってもわしの存在に気がつかぬからこういう目に遭うのだぞ。莫迦め」
 男の言う意味が分からず目を白黒させる氷室に、草間がようやくいつもの笑みを浮かべて言った。
「かれこれ三年来の付き合いで、今更『はじめまして』もないかもしれんが、よく挨拶をしておけよ、氷室。彼が今回の依頼人で、一度死んだお前を蘇らせた竜神・辰海蒼磨だ」
「……へ?」
 全く事態を把握できずに、ただひたすら呆然とするしかない氷室に対し、辰海は呆れたと言わんばかりに溜息をついた。
「助け甲斐のない男よ。己の無茶が引き鉄とはいえ、その若さで死ぬは悔しかろうと思うて再び命を与えてやったに、助けられた事に全く気づかず三年も過ごすとはのう」
「最初に会った時から、どこか尋常じゃない気配がすると思ってたら、まさか竜神憑きだったとはな」
 言って、草間はどっかと椅子に腰を下ろした。おもむろに辰海がメニューを手に取る。
「こうして浩介の体を離れて行動するのは初めてだが、こやつと同化している間にわしも色々と学んだのだ。この『めにう』から食べたい物を選んで、給仕に伝えれば良いのであろう?」
「なかなか向学心のある竜神殿だな。氷室、お前も少しは見習え」
 そこでようやく氷室は、草間の呼び方が、よそよそしい「君」から、いつもの「お前」に戻っている事に気付いた。やはり先ほどまでの草間の言動は芝居だったのだ、と安堵する。だが、それも束の間、草間は怖い顔で氷室をねめつけて言う。
「二度と家族や周囲の人間を悲しませるような馬鹿な真似はするんじゃないぞ。辰海がいなければ、今頃お前は本当に墓の下にいるはずだったんだからな」
 厳しい草間の口調に重ねて、たたみかけるように辰海が口を開く。
「そうそう。ようやく対面叶ったのだから忠告しておかねばな。おぬし、もう少し感覚を研ぎ澄ませて注意深く生きねば、稼業で命を落としかねんぞ。こうして武彦に頼んで対面の機会を設けてもらうまで、わしの存在に気づかぬなど、鈍すぎるにも程があろう」
 やっと思考の整理が追いついた氷室は、二人の言葉を鋭い目線で押し返した。何故こんな形でこの場所に呼ばれたのか、その理由は理解できた。けど。
「な、何だよ、さっきから変な事ばっかり。草間さん、こいつの言う事が本当だって信じるのか?」
 草間は辰海の話を頭から信じているようだが、彼が本当に竜神で、氷室を蘇生させてくれたのだという証拠がどこにあると言うのか。それを証明されない限り、氷室は自分が一度死んだ身だなどと認めるわけにはいかなかった。
 辰海は腕組みし、目をすがめて氷室を見る。
「恩人を嘘つき呼ばわりとは良い度胸だ。だが、わしはこの三年、確かにずっとおぬしと共存しておったぞ」
「だから! それが本当だっていう証拠を見せろよ!」
 氷室が拳でテーブルを殴りつけるのに、やんわりと笑いかけて辰海は言う。
「おぬしは証拠がないと納得せんのだな? では証明してやろう。入院したおぬしの心配をして、イインチョウという名の娘が見舞いに来た。色白でおさげ髪の清楚な娘だ」
 氷室は目を丸くする。──当たっている。
「なのにおぬしときたら、照れと緊張のあまり『自分は見世物ではないから帰れ』などという暴言を吐いて娘を泣かせた」
 あの時の後悔と、密かに想いを寄せていた委員長の泣き顔をまざまざと思い出してしまい、氷室は耳が赤くなるのを感じた。
「そう言えば、おぬし先日、若く美しい人妻に懸想して玉砕したな」
 慌てて口をつぐませようとする氷室の手を、ひょいとよけて辰海は続ける。
「他に証明と言えば……そうだな。浩介の部屋の屋根裏には」
「わあ! 分かった! 分かったって! 信じる! 信じるからもうこれ以上何も喋るな!!」
 真っ赤になったり蒼ざめたりする氷室を眺め、草間は肩をゆらしてくつくつと笑う。
「疑う余地はもうないな? じゃあ改めて、恩人に礼を言っておけ」
 促され、氷室は半ば不承不承、頭を下げるしかなかった。辰海は満足気に頷き、愉快そうに笑う。
「おぬしの命はわしの存在によって保たれておる。これからは一生を共に過ごす身だ。仲良くやろうぞ」
「……へ?」
「さて。おぬしらの到着を待っておったら腹が減ったぞ。わしはこの『えーらんち』と『びーらんち』を注文するとしよう。飯は特盛で頼む。武彦はいかがする?」
「俺は鯖の味噌煮定食。当然、お前のおごりだよな? 氷室」
「えっ!? な、何でそうなるんだよ!」
 泡を食う氷室に、草間は涼しい顔で辰海を示す。
「こいつからの依頼料を貰ってない。馴染みのよしみで一飯にまけてやる」
「生憎、わしは一銭も持っておらぬのでな。宿主のおぬしが払うのが筋であろう。……鯖の味噌煮定食も旨そうだな。それも頼もう」
「この店は、鶏の唐揚げ定食もなかなかいけるぞ」
「ではそれも」
 氷室は思わず、両手でバシバシと机を叩いて抗議した。
「ちょっと待て! あからさまに食いすぎだってんだよ! ちったあ遠慮ってモンを……!」
「これは心外な。おぬしの寒い懐事情を熟知しているからこそ、精一杯遠慮しておるのに。仕方があるまい。このモツ煮込み定食とやらを食すのは次の機会にしよう」
 辰海の言葉に、氷室は気が遠くなるのを感じた。そうでなくてもつましい生活を強いられているのに、こんな胃袋魔人を抱えて、これから先やっていけるのだろうか。
 そんな氷室の心中を見透かしたように、草間は含み笑いを浮かべて言う。
「ところで氷室。今、うちでかなり厄介な依頼を抱えてるんだが、手伝う気はないか? ……手当ては弾むぞ」
「……手伝わせて下さい」
 がっくりとその場に膝をつく氷室をよそに、竜神は実に旨そうに、かつ人間業とは思えぬ勢いで丼飯を掻き込んでいた。



■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【6725/氷室・浩介(ひむろ・こうすけ)/男性/20歳/何でも屋】
【6897/辰海・蒼磨(たつみ・そうま) /男性/256歳/何でも屋手伝い&竜神】