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Yellow Water Flag
「鍵が欲しい?」
文月紳一郎は怪訝そうにする。
紳一郎は菊坂静の家をそろそろ出る準備をしていた。静の様子を見るために一時的にこちらに移り住むことは今までもよくあったのだ。だが静の精神は安定しているし、一人にしても大丈夫だと判断して紳一郎は自分のマンションに帰ることにしたのだ。
リビングで二人でお茶を飲んでいる最中、紳一郎は静に尋ねた。
何か欲しいものはないかと。
クリスマスから年始年末と、仕事のせいで静にろくに構ってやれなかったのだ。だから、今さらだが静の欲しいものを買ってやろうと思ったのだった。
ハーブティーを飲みながら静は少しだけ悩んだように視線を彷徨させ、うーんと小さく唸る。こんなに素直に自分の感情を表に出す静を見るのは紳一郎にとって少々驚くものだった。
『彼』と出会う前の静なら、紳一郎相手とはいえ感情を完全に表に出すのは控えていたというのに。
「あの、それじゃあ……僕の家の鍵……一つだけ、欲しいです」
その言葉に紳一郎は不思議そうにした。
「鍵が欲しい?」
呟いた後、紳一郎はさらに尋ねる。
「無くしたのか?」
「いえ、そうじゃないんです」
か細い声で言う静はぼんやりしていた。心ここにあらず、という感じだ。
無くしたわけではないということは……。
「合鍵が欲しいということか?」
「はい」
「誰かに贈るのか?」
そう問い掛けた声に静の表情が変わる。頬が微かに赤く染まり、目が泳ぐ。
それだけですぐにわかった。
紳一郎は呆れたような小さな溜息を吐き出す。
「欠月君か……」
「えっ、ど、どうして!?」
わかったの? という目で見てくる静に、紳一郎は言った。
「……見たらわかる」
誰が見てもすぐにわかるだろう。
(欠月君か)
あの淡い灰色の髪の少年の姿を思い浮かべ、紳一郎はもう一度静を見遣る。
独特の雰囲気を持つ欠月に対し、紳一郎は好意的だ。彼のことを紳一郎はほとんど知らない。どういう経緯で静と出会ったのかさえ。
(……不思議な子だが信用には値する子だ。静を見ていればわかる)
静が信用しているという時点で好感は持てる。静を利用しようとか、そんな打算的な目で彼は見ていない。
17歳だということは聞いているし、現在は病気で入院中だという。
17歳にしてはどこか達観した感じもする。それに強烈な印象を相手に与える少年だ。見た目の話ではない。彼は他人を惹きつけるものがある。
「欠月君の病気はどうなんだ?」
その話題が出た瞬間、静の表情が曇った。
静は思い出す。つい先日、彼に言われたことを。
『このままかもしれない』
(このままかも……。欠月さん、このままあんな不自由な生活が続くのかな……)
欠月自身は不自由な生活とは思っていないだろう。だが静にはそうは思えない。
欠月は普通の人間とは違う。生身、ということでは間違いなくヒトであろう。だが彼は誕生が特殊だった。母親から生まれず、人の手によって生み出されたモノ。だからだろう。彼は考え方もかなり極端だ。
必要なものと不必要なものを、曖昧な意識で見ていない。彼はその二つをはっきり分けている。
静がケガをした時にそれがはっきりとわかった。欠月は死ぬのも生きるのも簡単に決めてしまう。いや、簡単ではないのかも。けれども即断するのに変わりはない。
「欠月さんは……元気でしたけど、病気は……よくわからないんです」
「? 薬が効かないのか?」
「いえ、『薬』は効いているようですけど……効果時間が限られていて……」
静が家族愛を彼に向けても、それでも魂と肉体の連結は一時的なものだ。永久、とはいかない。
いつか方法が見つかればいい。欠月が転倒することも気にせずに外を歩き回れるようにする、方法が。だが静には見当もつかない。欠月のは『病気』ではないのだから。
(でも、いざとなったら自分でなんとでもしそうだけど、欠月さんは)
それほど静にとっては欠月は頼りになる人だ。
「でもすごく元気ですよ。普通に生活するのには問題はないですから」
「……そうか」
紳一郎も特に欠月の病気について聞かない。静が悲しそうな顔をするし、いまだ治療法の見つからない奇病など幾らでもある。欠月はきっと、その病の一つになっているのだと見当をつけていた。
カップからコーヒーを飲み、紳一郎は頷く。
「多少時間はかかるが、それでもいいか?」
「え?」
「鍵のことだ。シリアルナンバーからもう一度作ったほうがいいだろう」
紳一郎の言葉に静が顔をパッと明るくした。……わかりやすい子だ、と紳一郎は思った。
(いや、わかりやすくなった……のか)
微笑む静に向けて、紳一郎も笑みを浮かべる。だが静がすぐに口元を引きつらせ、強張った笑みを返した。
「あ、あの、コーヒーもう一杯どうですか?」
腰を少し浮かせる静を眺め、紳一郎はちょっと押し黙る。
「……気を遣わなくてもいいんだが」
「いえ、ワガママをきいてもらってますから」
ここに住んで、自分の様子を見守ってくれた紳一郎に静は感謝しているのだ。それに……今回は合鍵のこともある。
「本当に気にするな。クリスマスも年始年末も、おまえに何もしてやれなかったからな」
「いいですって」
立ち上がった静は、空になった紳一郎のカップを持つ。自分のも一緒に持ち上げた。
紳一郎は台所へと歩いていく静の後ろ姿を無言で眺める。
(……このままだと、肩を揉みますと言い出しそうな雰囲気だな……)
そして穏やかに時間が過ぎていく。
外は太陽が傾きかけていた。……ゆるやかに、ただ静かにその日は終わりを迎えていく。
*
歯磨きをしながら静は目の前の鏡を見つめる。
緩みそうな頬を軽く摘んだ。
それでも、顔が緩む。
(やった……!)
合鍵が手に入る……!
どうやって欠月に渡そう。いつ渡そう!?
喜んでもらえるだろうか。迷惑そうな顔をしない? 別にいらないや、って言われたらどうしようか。
(うぅん……きっと欠月さんは、そんなこと言わない……。喜んで受け取ってくれる……)
静のマンションの鍵はディンブルキーだ。鍵を作るのに時間がかかるという。どれくらいかかるだろう? 鍵ができるまで見舞いは控えようか? できてから、それを持っていって驚かせようかな。
手を止め、口の中をすすぐ為にコップを掴み、口元へ運んだ。
口の中で水をあちこちへ移動させて、吐き出す。口の中がすっきりした。
歯磨きを終えて洗面所から出てくる。
パジャマ姿の静はゆっくりと歩き、自分の『家』を見て回る。
今は紳一郎がいるから寂しくない。病院に行けば必ず欠月が居る。
平穏そのもので――。
「…………」
振り向いて玄関のほうを眺めた。
一人ぼっちで暮らすことには慣れている。誰かを傷つけるのが怖くて。
ふ、と笑って、ぺちぺちと自分の頬を叩く。
(だめだ……顔がニヤけちゃうよ)
何かを心待ちにしてこんなにわくわく、どきどきすることって久しぶりだ。クリスマスを待つ子供のような気分である。
自室のドアを開け、中に入る。殺風景な部屋は、電気をつけるともっと殺風景に見えた。
我慢していたものが溢れた。静は深呼吸してベッドにダイブする。
静を受け止めたベッドは揺れ、静はふふっと小さく笑った。
紳一郎が居なければ声をあげて笑っていただろう。声をあげて、お腹が痛くなるほど笑いたい。
興奮してしまい、ベッドの上をごろごろと転げまわった。しばらく左右に転がってから、天井を見上げる。
白い天井。それを見つめ、静は大きく息を吐き出す。
(今日……眠れないかも)
心臓がどきどきしているのがよくわかる。
(心臓の音が……なんか、うるさいけど……心地いい……)
瞼を閉じて体ごと横を向く。
まだ手に入れてはいないが……こんなに嬉しく、待ち遠しいプレゼントはない。
(早くできないかなぁ……。いや、まだ無理だよね。今日言ったばかりだし、まだ文月さんは作りにも行ってないし……)
そわそわして落ち着かない。だがそれがむず痒く、嬉しいのだ。
(早く……早く……。早くできないかな。早く欠月さんに渡したいな……)
にやける頬を抓った。痛い。だがその痛みさえも、幸せだった。
*
静が自室でニヤニヤしている時間、紳一郎とはいうと――。
(まさか静があんなことを言い出すとはな)
紳一郎は部屋の中でしみじみと今日のことを思い出す。
欲しいものはと訊いたとしても「特には」という言葉が戻ってくると思っていた。静は、本当に欲しいと思っているものが手に入らないのを知っているからだ。それは失った家族だったり、心を許せる友人だったり……。
静はそれを、たった一人だが手に入れたのだ。
欠月は静を裏切ったりしないだろう。そう確信できるほどに欠月は静からの絶対的な信頼を得ている。
(本当に不思議な子だな……)
ぼんやりとそう思う。
紳一郎は床の上にあるダンボール箱を眺めた。そこには仕事で使う書籍が入っている。他にも色々。
静の家で過ごす時はだいたいこのダンボールに入っているもので事足りる。
部屋の中はさっぱりとしており、片付けられていた。いつ出て行ってもいいようになっているのだ。
またここに来ることがあれば、その時はどういう状況になっているのだろうか? たまに様子を見に来るだけならいいのだが。
(いや……別に静と居るのが嫌だというわけではないんだがな……)
ベッドの上に腰掛けている紳一郎はうーんと首を傾げていく。そのままだと、ベッドに倒れ込んでしまうだろうに……。
欠月さん欠月さん、とここ半年の静はそればかりだ。頭の中の大部分を占めているのは欠月のことだろうことは、見ていれば誰でもわかる。
挙句……合鍵も渡すつもりとは。
それが悪いとは言わないし、思わないが…………なんだか、その。
体勢を直し、頬杖をつく紳一郎は呟く。
「……なんというか……娘を取られた気分になるのだが……」
なぜ『息子』ではなく、『娘』なのだろうか……。
はぁ、と小さく溜息をつく紳一郎だった。
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