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<東京怪談ノベル(シングル)>


崩れる空


 彼の住むマンションの屋上に、あたしは立っていた。びゅう、と吹く風は冷たい。冷たいけれど、彼がビルの中に住んでいると思えばそこまで冷たく感じない。
 綺麗だね、という常套句はあたしの中には染み込まない。可愛い、も同じ。あたしを満足させる言葉は、たった一つだけだった。
――食べちゃいたいくらい、愛してる。
 一瞬グロテスクで低俗な想像をしがちな、曖昧な言葉。本当に食べられちゃったりする事はない、危うい暗喩。全てを自分のものにしたいと言っているようで、あたしの心をとろりと溶かすのだ。
 あたしはそれを言われるたび、けらけらと笑い、彼の首にまとわりつく。食べちゃ駄目、駄目なんだから、なんて甘えながら。
 だけどそれも、昨日までの話。
 彼はあたしに声をかけてくれない。お決まりの常套句だって言ってくれない。
 あたしに言われたのは、別れよう、だ。
 妻と子がいて、どちらを取るかと言われて、彼は妻子を選んだのだ。妻子がいるなんて、聞いてなかった。そんな事を口にせず、代わりに世界で一番あたしを愛していると言っていた。
 そうして、あたしの中に残されたのは「食べちゃいたいくらい、愛してる」という、染み付いて離れない言葉だけだ。
 あの言葉は、嘘じゃなかったと思うから。いや、きっとそうであるに決まっている。
 彼は、あたしの事を、食べちゃいたいくらい愛していたのだ。
「……あなたは、どうなのですか?」
 はっとして振り向くと、青年が立っていた。闇の中で、漆黒のマントを揺らして立っている。いつの間にか、あたしの背後にいたのだ。
「いつから、そこにいたの?」
「先程から」
「そう……あたし、声に出していたかなぁ?」
 悪戯っぽく笑いながら言うが、青年は何も答えなかった。その代わりに、青年はあたしの手を取る。
「私は、レイリー・クロウと言います。どうぞ、レイリーと」
「レイリー?」
 問いかけると、レイリーは小さく微笑みながら頷いた。綺麗な顔立ちをしたレイリーに、思わず顔が緩む。ふっと、力が抜けるように。
「恥ずかしいな、聞かれてたなんて」
「恥ずかしい?」
「だって、そうでしょう。あたし、まだ彼に依存してる」
 あたしが言うと、レイリーは「いいえ」と言って微笑む。夜だからだろうか、レイリーの顔が妙に冷たく見える。
 微笑んでいるのに、そのように見えない。
 闇の中で、レイリーの目が光る。あたしの心を見透かすような、美しい金色の目が。
「……あたし、愛されてたの」
「ええ」
 自然と出た言葉。
 レイリーの射抜くような目が、あたしの心を簡単に暴く。
「食べちゃいたいくらい、愛されてたの」
 逃れられない呪縛に、あたしはついに口にする。体の中で、染み付いてはなれなくなってしまった言葉を。
 ああ、こぼしてしまった……!
 レイリーは、あたしの言葉に微笑んだ。冷たいだけだった目が、途端に光を増す。
 舌なめずりをする、獣の目に酷似している。
「あなたは、どうなんですか?」
「あたし?」
「そう。彼は、あなたを食べちゃいたいくらい愛していた。ならば、あなたはどうだったのです?」
「あたし、あたしは」
 考えてもみなかった。
 あたしはいつも、愛されているという気持ちで満たされていたから。染み付いてしまった言葉は、当然あたしに与えられるものだと思っていた。
 だけど、確かにそうなのだ。逆に、あたしから与える事だってできるのだから。
「あたしも、そう」
 するり、と言葉が出てくる。
「そう、あたしもそうなの。あたしもね、彼の事を愛しているの」
 過去形ではなく、現在形。
 一度口にした言葉は、止まることを知らない。まるで、水が張られていた風呂の栓を抜いてしまったかのように。
 すぽん、と。栓はあっという間に抜かれてしまったのだ。
 ならば、水は流れていくだけ。ぐるぐると渦を巻いて、排水溝へと流れていく。ぐるぐる、ぐるぐると。
「あたしも愛してる。彼を、食べちゃいたいくらい、愛してる」
 レイリーがあたしの手をぎゅっと握り締める。
 不思議な感覚だった。何故か、気持ちが強まっていくのだ。あんなに弱気だったあたしが、レイリーに勇気を貰っているようだ。
 とろ、と景色が崩れた気がした。レイリーに手を握られていることによって、落ちてしまった自らの気持ちが、ふわりと上がっていったみたいだ。景色がやわらかくなり、気持ちまで明るくする。
 彼は、あたしの事を愛しているのだ。まだ愛しているけれど、妻子があるから仕方なくそちらを選んだのだ。
 本来ならば、彼が愛してやまないのは、あたし。
 彼はあたしを食べちゃいたいくらい、愛しているんだもの。まだその食欲は、衰えていないに違いない。
 だって、あたしが彼を食べちゃいたいくらい愛しているんだから。
 あたしは、自然と笑みがこぼれるのを止められなかった。
 クリアになった頭は、なんとも心地よい。どうして今まで考えなかったのだろうかと、不思議でたまらない。別れ話を真に受けていた自分が、ひどく馬鹿に思える。
 彼は、あたしの事を愛している。妻子のせいで、真実を口にできなかっただけ。
 ああ、どうして気付かなかったんだろう。彼は、あたしだけを愛していたというのに。
「ありがとう、レイリー」
 あたしは、レイリーにお礼を言う。レイリーが手を握ってくれたから、あたしは冷静になれた。悲観的な考えばかりが浮かんでいたけど、こうして落ち着いてみればなんて事はない。
 あたしを気付かせるきっかけをくれたのは、他ならぬレイリーだ。
 レイリーは、あたしに何も言わなかった。なぜ礼を言われたのだとか、何のことだなんていわなかった。
 ただ、頷いてくれた。
「あなたに、プレゼントをしましょう」
 レイリーはそう言い、ポケットからきらりと光るものをくれた。月の光に反射するそれは、美しい刀身の出刃包丁だ。
――食べちゃいたいくらい、愛してる。
 その言葉にふさわしい、綺麗なプレゼントだ。
「いいの?」
 あたしの欲しいものをくれるというレイリーに、あたしは尋ねる。レイリーは頷き、小さく笑む。
 ああ、綺麗。
 包丁で反射された月光が、レイリーの笑みに重なって、とても綺麗。妖艶さが際立って、まるで芸術品のよう。
 あたしはレイリーに礼をいい、出刃包丁を握り締めてドアへと向かう。
 このマンションには、彼がいる。仕方なく妻子といる、彼がいる。ああ、素敵。あたし、この出刃包丁で愛を表現するだけじゃない。煩わしい要らないものを、排除する事だってできるのだ。
 気付けば、あたしは走り出していた。エレベーターなんて使っていられない。一分一秒でも早く、彼の元に行きたかった。
――愛してる、愛してる、愛してる……食べちゃいたいほど、愛してる……!
 呪文のように口にしながら、彼の部屋の前に立った。どくんどくんと、心臓が激しい鼓動が響いているかのよう。
 あたしは、チャイムを押した。実は合鍵を持っているんだけど、それはあえて使わないことにする。だって、ほら。そんなのムードがないでしょう?
 チャイムを押して、中から誰が出てくるかを当てるゲームをしてもいい。
「はい、どなた様ですか?」
 インタフォンから、声が聞こえる。あたしは自分だと名乗ろうとし、ちょっとだけ出てきた悪戯心で「郵便です」と告げた。彼をびっくりさせてやるのだ。
 さあ、始まるわ。再び、始まるの。前みたいな……ううん、前よりももっと深く愛し合う関係が。
 ドアが開く。彼が出てきて、あたしを見て驚いた顔をする。あたしはにっこりと微笑み、レイリーから貰ったすばらしいプレゼントを彼に突きつける。
「愛しているわ。あなたを……食べちゃいたいほど」
 彼は叫ぶ。あはは、愛の咆哮ね!
 部屋の中から、彼を案じる声が聞こえた。女の声と、幼い声。彼とあたしを邪魔する、要らないものたち。
 あたしは彼に「もう大丈夫よ」と告げ、人工の光に反射する出刃包丁を握り締めた。


 マンションの一室から、叫び声が聞こえてきた。あはははは、と甲高い女の笑い声と共に。
「すばらしい」
 屋上から、レイリーは呟く。あっという間に、女の心がどす黒くなっていくのを感じる。どろりとしていて、まとわりつくような甘い心。
 レイリーは女の心の闇に、うっとりしたように微笑んだ。なんとすばらしい、大きな闇だろう。
「これだから、人間は面白いんですよ」
 くつくつと彼は笑い、ばさり、とマントをなびかせる。途端、レイリーの姿は鴉となる。
「いただきましょう」
 レイリーはそう言い、マンションの一室へと向かった。存分に増幅された心の闇は、レイリーに強大な魔力を与えるだろう。恐らく……いや、絶対に!
 しばらくすると、叫び声であふれていたマンションの一室から、叫び声も、笑い声も、何も聞こえなくなった。
 そうしていつしか、屋上に残された漆黒の羽も風に吹かれてなくなるのだった。


<溢れた闇に空は崩れ・了>