コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


あちこちどーちゅーき −天神さん−


 ふっと細く息を吐き出せば、敦己の表情が白く濁る――電車の窓ガラスが曇っただけのことだが。
 ガタン、ガタタンと不規則なリズムに揺れる視界。
 整備の行き届いた新幹線では味わう事のできない、独特の振動。言い換えれば、まさにこれこそがゆったり旅の醍醐味。
 全国津々浦々。
 祖父の遺言を実行すべく、当て所なく旅を続ける旅人――桐苑・敦己にとって、それは既に自分の布団で眠っているに等しい感覚――なはず、だったのだが。
「……しまったなぁ」
 窓枠に頬杖をつき、霞の薄れてきた自分の顔とにらめっこ。
 眉根に刻まれた浅い皺は、ほんのちょっぴりの後悔の色を滲ませている。
 旅慣れるという事は、様々な事態に機転を利かせて応じる能力に磨きをかけられる事とイコールに近い。
 また、その土地ならではのものに鼻も利くようになる――が、しかし。
 世間一般との微妙な感覚のズレが生じるのもまた事実。例えば、巷の流行に疎くなるとか、自分に特に係わり合いのない年中行事の日付をうっかり失念してしまったり、とか。
 車窓に流れるのは、絵に描いたような田園風景。
 人家の占める面積よりも、整理される日をじっと待つ田んぼの方が断然広い。時折過ぎ去る街並みも、本当に『街並み』と称して良いか不安になるほど小さく寂れたもので。
 二階建て以上の建築物がなかなか見当らない、文明の発展から切り捨てられてしまったような地方。
 だが、そんな場所にもこの時期になれば必ず訪れるものがある。
「……今日ってセンター試験だったっけ」
 小さく呟いた敦己は、ベンチシートに座し振り返るように頬杖をつくという姿勢を正した。
 途端、飛び込んでくるのは人の山。
 しかもその9割以上が学生服に身を包んでいる。
 休日だから通勤ラッシュもないだろう――果たしてそれがあるかも怪しいほどの田舎風情だが――と箍をくくっていたのが悪かった。
 さらに、いつもより早めに目が覚めたのでそのまま出発したのも禍した。
 偶然が偶然を呼び、思わぬ結果を生む。それもまた旅の醍醐味ではあるけれど。
 2両編成の車内は、東京都心のラッシュアワー――しかも恐ろしく混む路線の――を彷彿させる状況に陥っていた。
 何も考えずに飛び乗った早朝の電車。
 最初はガラリとしていたのに。次の駅だったか、それともその次の駅だったか。電車がホームに滑り込む時には既に、落ち着き無くざわめく心が車内の此方側に伝わってくるほどの人の山がそこにはあった。
 最初は何事か? とさすがの敦己も目を見張ったが、限界まで押し込むように乗ってくる制服姿の少年少女たちに合点がいく。
 不安な面持ち。中には単語帳や参考書から視線を外さぬままの学生もいる。
 新たな年が幕を明けて半月ちかく――そう、受験生にとっての真の戦いの火蓋が切って落とされる日。
 よりによって。
 受験生の大群と遭遇することになるなんて。
 10年ほど前に己も経験した出来事を少し甘酸っぱい思いで胸に描きながら、敦己は溜息をつこうとして――それをググっと堪えた。
 物のためしで足を浮かせようものなら、おそらくそのまま着地地点を失いかねないほどの鮨詰め状態。自分の目の前に立っているブレザー姿の少女には、おそらくどんな小さな独り言だって聞き取られてしまうに違いない。
 ならば、油断は禁物。
 別に義理とかそんなものがあるわけではないけれど。
 まさに緊張の極地にある受験生に『落胆』とも取れるような行動を、見せるわけにはいかない。
 生まれてくるのは不可思議な連帯感。
 自分でも自分の思考が可笑しいかも、と感じるけれど。それでも、胸に湧き上がるエールは止められない。
 と、その時。
 軽い感触が敦己の膝を擽った。
 何だ? と見ると葉書サイズのカード。びっしりと書き込まれているので、内容までは確認できないが、直前対策の確認メモといったところか。
 視線だけを軽く動かすと、困ったような表情の少女と視線がぶつかった。
 彼女が手にしているのは薄手の参考書。おそらくそれに挟んでいた物が、滑り落ちてしまったのだろう。
 拾おうにも相手は見知らぬ大人の男性。どうしたものか、と戸惑う気持ちが、小さく揺れる瞳からハッキリ見てとれた。
 自分も当時はこんな風、だったのだろうか?
 いやそれとも、もっとどっしり構えていたかもしれない――そんな事を思い出しながら、敦己は己の膝に手を伸ばす。
「あ……」
「はい、拾う神あり、かな?」
 少女の驚きの声と、敦己の朗らかな声が被る。
 同時に手から手へと、受け渡される『拾い物』。
 言葉遊びのようなものだけれども、思わぬハプニングで心乱しただろう少女への、敦己なりのささやかではあるけれど、粋な心遣い。
 受験生の間では禁句とも言える『落ちる』を使うのではなく、逆の意味の『拾う』に置き換え、この後の少女の運命に幸運が訪れるようにとの願いを込めて。
「あ、ありがとうございます!」
 パっと輝いた少女の表情に、敦己も春風のような笑みで会釈を返す。
 そこでこの交流は終わるはずだった――のだが。敦己は自分を見つめる少女の視線に、何故だが次を促され言葉を紡いだ。
「受験生?」
 ありきたりの質問だ。
 否、問わずとも答は得られていたのだが。
 だがしかし、敦己の新たな問いかけに、少女はやや興奮気味であるかのように頬を赤らめ、大きく頷いた。
「はい! そうなんです。今日はこれからセンター試験で」
「どうりで。普段は電車は使わないんですか?」
 おそらく寸暇を惜しんで残りの時間を知識の詰め込みに費やしたいだろうに。それなのに少女は敦己との会話を望む様子を、さらに色濃くする。
 気が付けば、周囲の学生たちも二人を中心にざわめき始めていた。
 悪い空気ではない。
 ぴりぴりとした空気が和んでいくような、そしてさらなる期待に胸躍らせるような――人の感情の切れ端とはいえ、これだけの密度になれば読み取り易くなる事を敦己は驚きとともに実感する。
「そうなんです。うちの学校からだとセンター試験の会場までは、電車移動するしかなくって」
「学校はバスとか用意してくれないんだ?」
「全校生徒が受験するならそれもしてくれるかもしれないですけど。なんだかこの電車を使うのが当たり前みたいになってて」
 だからこんなぎゅうぎゅうになっちゃうんです。
 そう照れたように笑う少女に、敦己は「それは大変だ」と心底思った。
 日頃から満員電車に乗り慣れているならいざ知らず、世紀の一戦をこれから交えようとする少年少女らに待ち受けるのがこんな試練だなんて。
「大変じゃない?」
「そうですね。私も車で送ってもらえないかなって思ってたんですけど。でも……天神さんに会えたからこの電車を使って、正解だったんです」
「へー……ぇ?」
 まさに会心の笑み。
 そう形容するに相応しい少女の表情につられて思わず頷いてしまってから、敦己の思考はハタと止まった。
 ん? と視線を自分の額の辺りに寄せて、少女の言葉をじっくりと反芻してみる。
 ――天神さん?
「あー……てん」
「今日はありがとうございました!」
 てんじんさん、って何?
 続けようとした言葉は、勢いよく下げられた少女の頭によって遮られた。
 目の前すれすれを、受験勉強に3年間を費やしきったのだろう漆黒の髪がばさりと踊る。
 ふと見れば、窓の外の風景はさきほどまでと一変。どうやらこの辺りの中心地なのだろう、高い建物が立ち並ぶ界隈へと姿を変えていた。
 うねりのように大きくなる学生たちのざわめき。独特の声のアナウンスがかかり、電車が駅に間もなく到着する事が告げられる。
「私、絶対合格しますよ」
 緩やかに速度を緩めながらホームに滑り込んだ電車は、やがてしずしずと停車した。そして開いたドアに向けて学生たちが流れ出す。
 目の前の名も知らぬ少女もまた、その波に飲まれていった――かと思ったら。
「すいません! 握手して下さい」
「私も!」
「俺もお願いしますっ」
 へ?
 何?
 何が起きているんだ?
 そう確認する間もなく、それまで二人の周囲にいた学生たちが、男女問わず敦己の手を取りたがる。
 ついその迫力に負けて手を差し伸べてしまったが最後、次から次へと軽い握手を繰り返され、その度に謎の「ありがとうございます!」が頭上から降ってきた。
 ホームからは天神さんのご利益だ、という歓声も聞こえる。
 呆気にとられたまま、事の成り行きに身を任せる敦己。軽くパニックを起こした頭では、正確な時間を測ることは出来なかったが、けれどそれほど長い間の出来事ではなかったはずだ。
 なぜなら、我に返った時には、電車は次の駅を目指して走り始めたばかりだったから。
 まさに怒涛。
 謎の嵐が過ぎ去ったのは、敦己が最初乗り込んだときと同じくらい、ガランとしてしまった車内が教えてくれる。
「はっはっは。今年は天神さんが出たな」
 足が地に着いていないような不安定な世界から、ぐっと現実に引き戻す言葉が敦己の耳に飛び込んできたのは、車窓の風景が未だ近代都市の匂いを残しているうちだった。
 魂を抜かれたような表情でシートに座っていた敦己の顔を、隣接したボックスシートの座席から覗き込んでいるのは初老の男性。
「天神さんって、何ですか?」
 彼の頭上の物置棚に釣り道具を見止め、敦己はその男性の素性を釣り人か何かかと推察する。つまりは、地元の人なのだろうと。
「天神さんは天神さんだよ。学問の神様の」
「そんな伝承でもあるんですか?」
 快活に笑う男性は、敦己の言葉にニヤリと笑む。そのイタズラっ子のような顔に、敦己は自分が狐か何かに化かされているんじゃないだろうかと、自分の頬を抓る。
 生まれたの、チクリとした確かな痛み。
 つまりは、これは間違いなく現実で。
 でもそれでは、自分が学生たちに『天神さん』と例えられたのは真実。だがしかし、自分にはそんな事を言われる筋合いは皆無――のはず。
「別にあんたをたばかってるとかそんなんじゃないから安心しなさい。地域伝承ってほどでもないけどね、あの子らの通う学校に伝わるジンクスみたいなもんだよ。受験の日、この電車で声をかけてくれる人がいたら、その人は天神さんだっていうね」
 けっこう条件は厳しいんだよ。
 私みたいな土地の者と分かる人間じゃいけない。しかも自分から話し掛けても意味がない。あくまで見知らぬ旅人から、声をかけてもらわないといけないんだから。
 くつくつと吹き出すのを必死に我慢するように喉を鳴らしながら喋る男性の言葉に、敦己は徐々に事の次第を理解し始める。
 つまりは。
 偶然にも自分のとった行動が、学生たちの通う学校の『受験期ならではのジンクス』に合致してしまったということらしい。
「いつ頃はじまったかは知らないけどね。窮屈な電車に辟易した誰かが思いつきで言い始めたことかもしれない。でも、あの子たちは一縷の望みをかけて毎年この電車に乗るんだよ」
 男性の言葉が、慈しむような声音で締めくくられた時、敦己は無言の頷きを返した。
 学生たちが乗り込んできた時には疑問にも思わなかったが、確かこの路線には並走する新幹線もあったはずだ。
 快適さも、乗車時間の短さも比べ物にならない手段があるのに、それでもあれだけの人数がこの電車を利用する、そのワケは。
「やっぱり最後は神頼み――ってわけですね」
「そういうことだろ。だからあんたは彼らにとって勇気をもたらした天神さんでいいんだよ」
 ほれ、っと蜜柑を差し出され、敦己はありがたくそれを頂戴する。
 思わぬ出来事の勃発に気付き損ねていたが、人の熱気が満ちていた車内は額に薄く汗をかくほど温度が上がっていたようだ。
 皮を剥いて口の中に放り込んだオレンジ色の果肉が、喉の奥を潤いと安らぎで満たして行く。
「なんていうか……驚きました」
「そりゃー、驚くなってのが無理な話だろう。だけど、ちょっといい事したって思っておけばいいんだよ。少なくとも、あんたに接した学生たちは、今頃リラックスできてるはずだからさ」
「だといいんですけどね」
 男性に肩をたたかれ、敦己ははにかむように笑った。
 自分が天神さまだなんて、ちょっとおこがましい気もするけれど。けれど、それが受験生たちの力になったのであれば――例えそれが思い込みの産物であろうと――喜ばしいことに違いない。
「ところであんた、どこまで行くんだい?」
「いえ、どこ、というのは決めてないんです。っていうか、さっきの駅で降りようかなって思ってたんですけど、うっかり降りそびれてしまいましたし」
「こりゃー、どんくさい天神さんだ」
 かかかと笑う男性に促され、敦己は座席をベンチシートからボックスシートへ移動する。
 どうせ宛てなどない旅だ。
 この気の良さ気な男性に、もう暫く付き合うのも悪くない。
「天神さま天神さま。俺に力を貸して下さい」
「あんた、それじゃ本末転倒だろ」
「え? そうですかね?」
 長身をぐーっと引っ張りあげて伸びをする。
 いつの間にか、窓の外には朝日に煌く海が広がっていた。

 祖父の遺産を使い尽くすための諸国漫遊旅行。
 出会いはまさに様々で、色んな不思議に遭遇する事も少なくはないけれど。
 たまにはこんな人の思惑が作り出した、ちょっとした偶然に出くわしてみるのも悪くないかもしれない。
 願わくば。
 桜の咲く頃、自分の手を握って行った少年少女達に明るい報が届きますように――そう本物の天神さまに祈りを捧げつつ。