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今宵、グラスを満たすもの
久しぶりに吸い込む東京の夕暮れは、何かの予兆を孕んでアデール・バラティエの胸を満たした。
早春の花さえまだ咲かない季節、ともすればコートに包まれた線の細い肩をすくめてしまう寒さの中で。
見知らぬ恋人達の他愛ない睦言、行きかうタクシーのエンジン音、コンビニエンス・ストアの明かり。
些細な事象からも万物の流れを読み取る彼女は魔女だった。
もっとも、ヨーロッパで行われた魔女狩りの悲劇を知るアデールが、公に素性を明かす事は無かったのだが。
アデールの肩書きは今、古書店の女主人となっている。
経営はもっぱらフランス本国に残した夫に任せ、アデールは書籍の買い付けにまわる日々だ。
目まぐるしく入れ替わる新旧の建物の間を、アデールはとあるホールまで歩いている。
旧知の女性、リタ・アンヘルの営むミュージック・ホール『アレクトアル』は、魔法薬のその名の通り、一時の安寧を運んでくれる店だ。
アレクトアルを口にふくめば、喉の渇きを押さえるという。
供されるアルコールと気の利いた食事、小粋なジャズの調べが癒すものは喉の渇きばかりではないだろう。
と、アデールはある雑居ビルの前で立ち止まった。
ありふれた小路の一角、ざらりとした石壁にアデールは指を滑らせる。
すると、窓ガラスに散った雪花結晶が熱に解けて向こう側の景色を見せるように、石壁の様子は一変する。
一瞬の後、その場に重厚な扉が現れた。
神秘学・隠秘学に通じる者達だけがアレクトアルの扉を開けられるのだ。
アブラカダブラ、オープンセサミ。
アデールはこの扉の前に立つと、ついこの呪文を心で唱えてしまう。
そんな自分にくすりと笑い、アデールは地下へと続く階段を降りていった。
予感が親しい者との再会に繋がればいいのに、と思いながら。
ホールに流れるジャズ・ピアノを楽しみながら、アレクトアルの女主人、リタ・アンヘルは壁の一点にかかる鮮やかなポショワール刷りを見つめていた。
1928年頃に製作されたこの版画は、紙の上から筆で絵の具を塗るステンシル技法で描かれている。
マスクをつけた男性に抱きしめられ、恍惚とした表情の女性の姿。
裾に咲きこぼれる青い花々。
青い夜の静けさと密やかな息遣い。
抗う姿こそ言い換えれば誘惑。
リタの視線に重なる曲は、『WHAT IS THIS THING CALLED LOVE』だった。
この曲を痛みを感じずに聞けるまで、どれ程の時間が必要だったろう。
不思議な事に、今は優しい思い出だけが蘇る。
時が解決する事もあるのだと、かつて恋の悲劇に沈んだ自分に話した友人がいた。
リタはその意味がようやくわかるようになっていた。
再び恋をするのも良いかもしれない。
けれど今は、アレクトアルの心地よい空間を楽しんでいたいと思う。
経営者としてやるべき課題がまだまだ残っていたし、リタは経営に楽しみを見出し始めていたからだ。
深紅の天鵞絨を施した重厚な空間と、時が加えた深みを持つ色合いの調度品、それを引き立てる本格的なジャズ・バンドのステージ。
リタの好む上品さ、しっとりとした艶やかさが満ちている店だ。
数時間前、ホールに飾る新しい絵画が届いた。
ブルネレスキの『甘い抵抗』と題されたこの版画は、『ファッションプレート』と呼ばれるもので、18世紀後半から20世紀初頭にかけてファッション雑誌に収められた服飾版画を指す。
偶然立ち寄った古書店でこの版画を見かけたリタは、衝動的にその場で店主に掛け合い手に入れた。
リタもまた何らかの予兆を感じ取っていたのかもしれない。
何に惹かれたかと言えば、はっきりと言葉に出来なかったのだが。
それでもリタは自身の審美眼を信じている。
気に入った物を手に入れるのに、理由など要るだろうか。
「久しぶりですわ」
「エディ、いつ日本へ?」
奥まったソファに腰掛けたリタへ、階段を降り店内へと足を踏み入れたアデールが声を掛けた。
アデールは暖かな店内に早速コートを脱いで、ソファに腰掛ける。
纏められたプラチナブロンドとスマートなパンツスーツが、彼女の華奢でいて凛とした雰囲気に似合っていた。
一方、リタが身に着けるている物は、ホールの女主人にしては露出の少ないロングドレスで、襟元も首筋まで高く覆われている。
しかしそれがリタの毅然とした態度を、見る者へ更に印象付ける。
それを承知の上での服装だった。
「ついさっきですの。
ここはいつ来ても、変わりませんわね」
フルーツとスパイスの効いたホットワインのグラスで手を温め、一息ついたアデールが言った。
アデールがアレクトアルを訪れる機会はそう頻繁ではなかったが、いつもリタと雑談を交わしながらアルコールを嗜むのが常だった。
「私が任されてるうちはね。
エディ、何か軽くつまむだろう?
良いチーズと葡萄がある」
カットしたチーズの盛り合わせに瑞々しい葡萄の一房を添えたもの、独特の歯ごたえが楽しめるパルミットのサラダ、香ばしいクラッカーなどをリタはテーブルに運ばせた。
「それ、良い物だと思わないか」
アデールの視線が壁に掛けられた版画に留まるのを、心持ち誇らしく感じながらリタが続ける。
「あたしはこの方面に明るくないけど、これが魅惑的だっていうのはわかる。
結構気に入ってるんだよ」
「……ええ、とても良い雰囲気の絵ですわ。
もしかしたら、予感はこれに繋がっていたのかもしれませんわね」
アデールの言葉にリタは眉を寄せる。
「予感?」
アデールは控えめに微笑み、答えた。
「今回の来日は、これと同じようなファッションプレートを探してですわ。
日本の古書街、神田神保町には古書部門の他に、古版画部門を商う店もありますの」
アデールは古書収集の傍ら、魔女狩りの際に各地に散った、魔女と呼ばれ糾弾された者達に関わる書籍やジュエリーを収集している。
偶然の出来事にリタが一瞬声を詰まらせていると、
「コンバンハ。良い宵でスね」
少しイントネーションに違和感を覚える日本語が、リタとアデールの視線をホールの向こうへと引いた。
落とされた照明の中、黒いコートをまとった青年が微笑んでいる。
整った顔立ちを構成する、ダークブロンドの髪や深い群青色の瞳は一見温和な雰囲気を湛えている。
饒舌な雰囲気と相まって、見る者の心を奪う青年――デリク・オーロフだった。
「良い宵だな、デリク」
コートを脱いでアデールの隣に腰掛けるデリクに笑みを返しながらも、完全にリタが心許している訳ではない。
それはデリクも同じ事で、お互いの能力と、その野心を認め合っているからこそだった。
「ああ、やはり予感に従って正解だったわ。
こうしてデリクにも会えるなんて」
アデールはデリクの膝の上に手を載せ、身を乗り出して嬉しそうにしている。
アデールにとってデリクは親友の忘れ形見であり、自分の息子のように心砕く存在だった。
「もっと良く私に顔を見せて、デリク」
「私ももう大人と呼ばれる年齢デスよ、エディ」
苦笑しながらデリクはそっとアデールの手を頬から外した。
「日本へはまた古書の買い付けデスか?」
「今、その話をしていたところよ」
今回アデールが探している物は、20世紀初頭のファッションプレートである。
その中でも、ジョルジュ・バルビエが描いた物を第一の目的としている。
1882年フランスのナントに生まれ、1908年、版画の大コレクターであるロッソ・ブリソノーに才能を見出されてパリに上京した。
当時、東西の文化が結集していた パリにおいて異教徒の芸術品の数々や、象徴派の文学、ロシアバレー等に影響をうけ、生涯のテーマともなるギリシャ趣味、ジャポニズム、シノワリズム、オリ エンタリズムの要素を培った。
モード画、挿絵画等のグラッフィックアートから舞台衣装、舞台装置に至るまでの様々な芸術活動を行ったが、中でも20世紀初頭に制作したポショワール 画によるデザインアルバム「ニジンスキー」や『モード・エ・マニエール・ドージュルデュイ』等に発表された一連のファッションプレートはアールデコ・グラ フィックアートの最高峰の一つとして現代でも評価は高い。
「フランス本国の方が集めやすいのではないデスか?」
デリクの疑問にリタも最もだ、と思った。
「一枚一枚はそれ程の額ではないけれど、まとまった枚数を手に入れるとなると難しいものよ。
それに、日本には海を越えて来る価値のある、状態の良い物が揃っているわ」
それでもデリクの疑問は氷解しなく、歯切れ悪く言葉を返す。
「しかしエディ、あなたの専門とは少し違うのでハ?
……確かに古書収集の一ジャンルには、版画もありますガ」
一呼吸置いて、アデールはどこまで話して良いのか思案するそぶりを見せた。
情報を知ると言う事は、時に危険を伴い場合もある。
「ピエール・ラ・メザンジュールという人物に、聞き覚えはあるかしら」
教養深いリタだったが、あいにく未知の人物だった。
デリクも同様らしく、首を振って答えとした。
「革命を境に、修道院長からファッション・マガジンの編集へ携わる事になった人よ。
18世紀、彼が関わった雑誌『ジュルナル・デ・ダーム・エ・デ・モード』は時を隔てて、同じタイトルで20世紀に蘇るの。
その版画家の一人がバルビエという訳」
ワインの温もりを掌で楽しみながらアデールは言葉を繋げる。
「メザンジュールは間接的だけど、フリーメーソンに関わっていたのよ。
そして、その流れを密かに受け継いだ新生ジュルナル・デ・ダーム・エ・デ・モードのイラストに、数々のシンボルが組み込まれた……『真理を見る瞳』を持つ者へのメッセージとしてね」
そこまで話して、アデールはしばし沈黙を挟んだ。
デリクは途方も無い戯言だと一蹴できない可能性に言葉を失っていた。
あまりに発想が奇抜すぎる、しかし……。
リタの方は驚きよりもロマンを多く感じ、胸を躍らせていた。
魔術に深く関わっている訳ではないが、未知の世界と接する快さは得がたいものがある。
「妄想かしら?
でもコレクションを完成させた時、何かが見えてくるような気がするのよ」
そう言って、アデールはデリクの瞳を隣から覗き込んだ。
「抜け駆けはナシよ? デリク。
あなたにはまだ早いわ」
心に芽生えた野心をやんわりと摘み取るアデールに、デリクはため息をついた。
「一体幾つになったら、私は一人前になるんデス?」
「永遠の子供よ、私の可愛い坊や」
ふう、とデリクは笑いともあきらめとも思えるような声を漏らし、肩の力を抜いた。
「しばらく日本に留まるのデスか?」
「さあ、どうかしら」
はぐらかすアデールに、デリクは少し挑むような表情を作って言った。
フリーメーソンの暗号は、魔術師として更に教団の中で力を得るには格好の手土産だろう。
「私が先にコレクションの解を手に入れられたなら、私を一人前に見てくれマスか?」
デリクの真剣さにアデールが笑って答える。
「すぐにそうムキになるのが、子供なのよデリク」
そうからかいながらも、胸に灯した野心はなかなか消せないデリクだとアデールも知っていた。
つ、とグラスを掲げ、アデールが微笑む。
「乾杯しましょう、良い宵に。
私たちを引き合わせた、何かに」
リタも手にしたグラスを掲げる。
「良い酔いに。
アルコールとは、かくあるべき物」
「最高の宵と、酔いへ乾杯」
デリクが最後に言葉を引き取り、グラスを打ち合わす軽やかな音がホールに響いた。
こうして、ある幸福な夕べはアレクトアルにもたらされたのだった。
(終)
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