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消えぬもの
藤波の花は盛りに成りにけり 平城の京をおもほすや君
息が跳ね上がる。
呼気はとうに枯れて水気を失い、喉の奥に張り付くそれが胸を痛めつける。
腰には竹で施した水筒が提げてある。水はまだなみなみと揺れているはずだが、それを口に運ぶための時間が、今はとてつもなく惜しい。
足場の悪い峠道は幅も狭く、およそこうして走り回るために誂えてあるものとは思いがたいものだ。走れば爪先が石を蹴り上げ、時に指先に悪さをする。その痛みにも耐えて、ただ一心に走り続ける。
背に負っているのは華と見紛う程の美姫だ。
滑らかな白い肌が時折頬や首に触れる。
――――ああ、
何と言う罪過。
――――何と言う、幸福。
部屋を完全に暗くして眠るのが怖い。
障子を透いて射しいる、月光の淡雪にも似た光が怖ろしいわけではない。それを受けて踊る草木の揺らぎが怖ろしいのだ。
庭に伸びる松の枝葉が夜風を受けてさざめくのが怖ろしく、それを耳にしながら夢の内へと落ちてゆくのが怖ろしかった。
障子の向こう、夜の景色の中。月を受けて舞い踊る夜の息吹達は、隙あらば自分を捕らえ、引き立てようとしているのだ。
何所へ、何故、何者によって引き立てられようとしているのか。それは自分でも確りとまとめあげる事の出来ない理由によるものだ。
漠然とした不安。それは胸を突いて迫り上げて来る恐怖に向けたものであり、形の無い、茫洋とした、酷く頼りの無いもの。
ただ、夜が恐ろしい。
燎は夜を恐れ、春の終わりを怖れた。風に散る花の美しさに胸を焦がし、その美しさを怖れた。
全身を汗で濡らし、纏わりつく寝間着の不快さに――あるいは擦り寄る闇の気配に、燎は幾度となくベッドを跳ね起きて、特別に用意してもらった小さな光源に明かりを灯す。
枕元だけを仄かに照らす小さな明かりは、しかしそれだけで充分に心に安堵をもたらしてくれるのだ。
深々とした安堵の息を吐き、下段のベッドで寝息を立てている弟の眠りを確める。
弟の弧呂丸は安穏とした寝息を立てて、深い眠りのただなかにあるようだ。
何事か寝言を口にして寝返りを打った弧呂丸を検めて、燎は改めて小さく息を吐く。
夜の闇が恐ろしい。否、夜毎寄せ来る夜の夢こそが恐ろしい。
夜の夢こそまことなどと言ったのは誰であっただろうか。
天井を睨めつけて、燎は喉の奥で燻っていた荒れた呼気をゆっくりと整える。
現と夢との区切りが判らない。判然としない。例の夢を見た後は決まってこうだ。自分が何者であるのかさえも判然とし難い。ゆえに弟の所在を確める。
安穏と眠る弟の弧呂丸こそが、己を――燎という人格を留め置くための砦なのかもしれない。
枕元だけをぼうやりと照らす灯に勇気を授けられ、燎は再び静かに瞼を伏せた。
京が平城京に遷都された後の世を、後世においては奈良時代を称するようになった。
薬師寺が建立され二十年余り。東大寺の建立があったのはそれから七十年近い時間を経た後の事であったが、何れにせよ、仏教が世を染め、華美たる色相が世に広まっていった時世であった。
が、その反面、華洛の暗暗とした面には立ち消えぬ闇の存在が確として存在し、華やかな世に住まう高貴な者達は元より、多くの人間達に根深い脅威をもたらしてもいた。
その闇に対抗すべくして現れたのが陰陽に携わる者達を初めとする存在であったとされる。『呪禁』と称される力を行使する男が何時頃からして世に名を知らしめたのかは、実の処定かではない。が、少なくとも、高峯が所有する史書を紐解くに、この奈良時代に行き当たるというのは確かな事なのだ。
むろん、高峯に伝わる『祖』に関する語りが真実歪まず口伝されてきたものであるかどうかも、実の処信憑性には事欠く。口伝など、時を経る内に幾らでも都合よく改竄されていくものなのだから。
――だが、燎は、現世を生きる己とは異なる、しかし紛れもなく己自身に纏わるであろう記憶を夢の内にかいま見続けている。
夜の帳と共に訪れる、尽きぬ夢。己の身を千切り散らさんばかりの罪科、それに因る心の暗澹。
そうして、それに拮抗する程の感情。
えもいわれぬ、唯一無二の、
視界を一面に埋め尽くしているのは薄紫を浮かべた花の房だった。
鼻を撫ぜる芳香に眦を緩め、男は眼前に広がる幻想的な藤の花々に見入る。
白雲を交えた晴天。瑞々しい大河の風景を彷彿とさせる天空を背景に、藤は唄うように吹く風に寄せて散ってゆく。
花々の下には点在する茅葺が顔を覗かせており、真白な煙が其処此処から空を目掛けて立ち昇っていった。
安穏とした空気。時の流れをまるで感じさせぬ不可思議な里を見遣りながら、男はただただ小さな感嘆を零す。
男が眼前の珍妙珍奇、無二の美しさを持った小さな隠れ里を見出したのは、一口に言えば単なる偶然のなせる結果であった。
京の天上人より怪異の鎮火を言い渡され、それがために山深い瀬川に足を寄せた。瀬川に害悪をなし、その下流に住まう者達、ひいては京に携わる者達を救って欲しいとの達しだったのだ。
害悪は存外に勢力を持った者であったが、しかし、男は連れて来た武士達を引き換えにこれを制した。武士達を失うという結末は紛れもなく失態であった。故に男は酷く消沈し、また、それと同じ位に疲弊してもいた。
訪れた夜を終始歩き通し、そうする内に、男は夜明けと共に見知らぬ里の入り口に立っていたのだった。
即ち、藤の花の咲く美しい――凡そ現し世の事とも思えぬ程に幻惑的な場所に。
藤の甘い芳香は男の疲弊をたちまち取り除き、気付けば男は我知らず里の中に足を踏み入れていた。
人の住まう暖かな気配は感じるものの、肝心の人影がひとつでさえも見当たらない。其処此処に見える家屋の戸口を覗き見てはみても、やはり其処に人の姿のあるのは確認出来ないのだ。
畦道とも思える細道をそぞろ歩く内、男はやがて緩やかな坂道に足をさしかけた。
仰ぎ見る。坂道の上に豪奢な屋敷が建っているのが見える。厳つい門戸に囲われた、それはまるで天上人の住まうそれのような――否、それをも凌ぐ品格すら持っていた。
門番は見当たらない。男が門戸に手をやってもそれを咎める者もない。それどころか、門戸は男が手をかけるのと同時にすらりと押し開き、その奥に咲く藤の枝が緩やかに男を手招くのだった。
誘われるように足を踏み入れた男は、しかし僅かな躊躇をもって白洲の上を密やかに歩む。
茶の湯の香りが風に紛れて男の鼻先を掠め、男を誘うように空に立ち昇ってゆく。
そうして、やがて、男は遂にその場所へと踏み寄せたのだ。男の運命を根底から揺るがす――男の血脈を永く揺るがす女との出会いの場所に。
女は白洲を間近に見る、茶室と思しき一室の窓際にあった。
男は藤の散る白洲の上、夢の如くに美しい女に視線を奪われた。
たおやかな姿。透き通るように白い、滑らかな肌。それを淡く隠す衣。呆然とした頭の下、女の纏うそれは天衣であろうかと考え、首を傾げた男に寄せられた女の眼。
穏やかな春の陽。或いはその下に流れる暖かな春の報せであろうか。
いずれにせよ、寄せられた眼差しを受けて、男の心は刹那の内に射抜かれた。
女の、ふっくらとした花の蕾にも似た唇が静かに開かれたのを見て、男の心は跳ね上がった。
「御前様は、」
紡がれた女の声を合図に、男は白洲の上に跪き、乞うような視線で女を見遣った。
「無二の罪科を犯す、この身の愚行をお赦し願う」
それは誰にともなく告げた断りだった。或いは己への断りであったのかもしれない。
吃驚した女の眦が瞬くのと同時に男は白洲を跳ねて茶室の床板を踏み、女の細い腕を引き寄せて、藤の芳香を放つその身をかき抱いた。
女はその身からも花の馨を漂わせ、腕に抱くと殊更強く藤を感じた。
油を塗った艶やかな緑の黒髪が風に舞って泳ぎ、それをなぞるように藤が宙を泳ぐ。
――――気付けば、男は、女をかき抱いたままで屋敷を後にしていた。
女は騒ぎ立てる事もせず、また、泣き喚く事もしなかった。ただ静かに男の襟を掴み、まるでそれを事前より把握し、望み待ち望んでいたかのように、ただただ静かに瞼を伏せているばかりだった。
そうして里を後にし、瀬川を下に臨む峠道を早足で進み、どうして辿り着けたものか、ほうぼうの体で、男は女と共に京へと立ち戻ったのだ。
京の一郭に建つ自身の住処へと戻り、男は改めて女に求婚の意を述べた。
女は決して枯れぬ藤に覆われた隠れ里、其処に住まう精霊達の中核を担う姫であると告げた。それが故に、女を失った後、彼の土地は力を失いたちどころに衰え消えてゆくであろうと。
そう返して漫ろ泣き、しかし、女は、男の手を確と握って頷いたのだ。
それでも、と。
例え同胞達を裏切り、彼の者達の生命を脅かし、尽きぬ呪いを受ける事と成り果てようとも、
――もはや己の恋情は、何者にも塞き止める事は適わぬのだと。
それより数年の内は、まさに世の幸福を絵巻物にでも認めたかのような時間で満たされた。
男は女を得、より一層の力をも身につけた。
女は男を支え、これを見事に支え続けた。
しかし、暗雲は確実に京の上へと流れこむ。
姫の言の通り、藤の里はたちどころに枯れ、弱き者から順に命を落としていたのだ。
初めの内こそ、姫は人間の男にかどわかされただけなのだと信じて待っていた彼らであったが、その声は次第に怨嗟を伴う呟きへと変貌し、終には呪詛を叫ぶものへと変じたのだ。
里を裏切った姫への怨嗟。
そうして、それを攫っていった人間の男へと呪詛。
――――それが住まう京へ向けられたのだ。
京は変事で包囲された。否、死という闇によって包囲されたのだ。
人の身の丈をゆうに超えた身丈をもった闇の獣が影より顕れ、仏を拝む者達の上に襲い掛かる。獣は人間共の脳漿をちらし、或いは喰らい、死臭の漂う口から暗い闇を吐き出した。吐き出された闇はまた異なる妖異を成し、誰をともなく端から人間共を喰らい始めたのだ。
人の器を食い破って現れる妖異。これらの変事に紛れて同胞である人間を殺める狂気の徒。餓えと渇き。食いつなぐ物は何者かによって荒らされ、気付けば京は阿鼻叫喚に満たされた。
むろん、男は連日連夜妖異に対抗するべくして狩り出される。
男を送り出しながら、女は深い罪科を胸に、広がる闇を仰ぎ見た。
妖異共は徐々にひとつところへ寄り集まり、そしてひとつの大いなる災厄を型作り出していたのだ。
男もまたそれは感じ取れていたらしい。
帝を、ひいては京を護るのが男の務め。それが故、男は今ほど帝の住まう場所へと出向いて行ったのだ。――恐らくは長い戦いとなるであろう、そう言い残して。
だが、女は知っていた。
今、京を覆い呑みこまんとしている災禍が、元を辿れば何であったのかを。
帝の隠れあそばす部屋の前、白洲の上に陣取って、男は息も絶え絶えに、眼前の妖異と対峙していた。
妖異は、今や寺社の屋根を遥かに上回るばかりの身丈を持っている。が、それは形の定まらぬ、汚臭を放つ沼の泥の塊の如くとなっていた。
男の、或いは女の。年若い、或いは年老いた。――疎らな声音が呪詛を紡ぐ。その爪が風を切れば、その都度人間共が身を裂かれる。
血と臓物とに覆われた白洲の上、男はそれでも頑として妖異をねめつける。
抜いた小太刀が、紡いだ言と共に闇を一閃した。が、闇はその微塵も勢力を削ぐ事なく、それどころか下卑た嘲笑を零し、男を捻り殺そうと、形の定まらぬ泥の一部を男の首に目掛けて投げつけて来たのだ。
風を切る音が耳を劈き、男は思わず目を瞑る。
が、次の時、眼を開けた男の視界にあったのは、男を庇うように両腕を広げる女の背中であった。
幾筋もの闇が女の細い身体を射抜き、白洲の上に縫いとめている。
男は絶望を叫び、倒れこむ事すら赦されぬ女の身体を抱きとめた。
女は男の顔を見遣って笑みを綻ばせ、白々とした腕を持ち上げて男の顔をなぞる。藤の芳香が漂い、男の鼻先をくすぐった。
「御前様、――愛しい御方。わたくしは何処へも消えませぬ。永劫、御前様と共におりまする。――わたくしの、弧呂丸様」
柔らかな声音であった。
女の唇が笑みを浮かべたのと同時に、女の姿は男の腕より消え失せ、代わりに一粒の珠が遺された。
藤の花を思わせる紫色の宝珠。
懐かしい、藤の芳香が漂った。
瞼の上、光源がチカチカと点滅して消えたのを知り、燎は咄嗟に跳ね起きた。
枕元に灯していたはずの光源が消され、ベッドの下段に小さな軋みを鳴らしながら布団に潜りこむ弟の気配を感じる。
燎は額を流れる汗をパジャマの袖で拭い取り、次いで、眦を濡らすものを拭い取った。
――また夢に落ちていたのだと知り、安堵のものとも悲痛のものとも言えない息を心の奥底で零す。
そう、あれは夢なのだ。そう己に言い聞かせ、ふと、視線をベッドの横へと移す。
「……燎? だいじょうぶか?」
気付けばそこには弟の弧呂丸の顔があった。不安そうに眉を潜め、確めるように燎の顔を見つめている。
「……起きてたのか」
「ううん、さっき起きたんだ。なんか喉かわいちゃって。そしたら燎、電気つけっぱなしで寝ちゃってるし、それに」
「……それに、なんだよ」
言いよどむ弟の顔を小さく睨みつけながら、燎は声音を低くする。
弧呂丸は言い辛そうに視線を泳がせて、やがて思い切ったように口を開けた。
「……泣いてたから」
「泣いてなんかねえよ、寝ぼけてんなよ、コロ助のくせに……!」
弾かれたようにそう返し、燎は頭から布団をかぶり、潜る。
弟はそれからしばしの間その場で淀んでいたようだが、ほどなくして下段へと戻り、夜は再び静寂を取り戻した。
静寂が、つい先程まで落ちていた夢の世界を思い起こさせる。
障子の向こうで、闇はぼうやりとした朝の気配を得ているようだ。もはや夜は朝の到来の元、その色を薄いものへと染め変えようとしているのだ。
庭に揺らぐ枝葉の姿が影となって障子に浮かぶ。
――闇が恐ろしい。
夢を見るのが怖ろしい。
幾度となく繰り返し見続けてきた夢であるがために、燎はその夢の示唆している結論が何であるのかを悟っていた。
ベッドの下段に気遣いながら、燎はひそりと身を起こす。と、右肩の裏に電流の迸るのにも似た激痛を覚え、燎は悲鳴を喉の入り口まで叫びかけ、飲み込んだ。
夜の訪れは怖ろしい。
あの夢は、紛れもなく、燎の、その魂の根底に刻み込まれた追憶だ。有り体に言うならば、あれは燎の前世の記憶なのだ。
高峯の開祖はその名を弧呂丸と云い、生まれ持った異能を以って妖異を悉くに散らしていたのだという。その代より実に千数百年を経た現代にあって尚、高峯の血脈は絶える事なく続いている。
高峯を継ぐ者は開祖の名をも継ぎ、故に必定高峯弧呂丸という名を得るものとなる。これもまた脈々と続いてきた高峯の仕来りだ。
開祖の再来だと信じられたのは生まれ出た双子の内の弟であった。その風貌、纏う空気、それら総てが”そう”であると示していたのだという。――或いは、双子として生まれ出た者達の長子は夜叉であるという謂われを得たためであるのかもしれない。
――否、そのような流れなどに意味は無い。その名を継ぐ継がないに関わらず、開祖の魂は確実に高峯の末代にまで及んでいるのだ。
ベッドの下段を覗き見る。
弟は再び眠りに落ちたようだ。
整った寝息を確めて、燎は静かに部屋を後にした。
あの後。
女が宝珠へと姿を転じた後、男はそれに力を得、迫り来た災禍の闇を見事に退けた。
帝は男を讃え、冠位を与え、名誉を与えた。これにより男の血脈は永きに渡りその名を知らしめてゆく事となる。
宝珠は、開祖の名を得た者にこそ与えられる、高峯の至宝。それは持つ者に多大なる力を与え、呪禁の異能をより強靭たるものへとしていくのだ。
燎は明け方の紫染みた空を仰ぎ、闇を斬る一閃に似た銀色の眦をゆらりと細ませる。
開祖が――己の深い部分が全身を以って愛した女。それは皮肉にもヒトならざる者だった。
女と過ごした時は決して長いものではなく、しかし、それがため、とても色濃い、濃密な歴史でもあった。
女を愛していた。例えようの無い程に。前後をも忘れる程の幸福であった。……それは今でも変わらずに、鮮やかに思い出される追憶。
そうして、その幸福の裏で牙を剥いた災厄。
女の守護していた藤の里の精霊達、その転じた妖魅。
――否、開祖はそれを退けたのではない。
ぼうやりと紫を広げていく東の空を見遣りながら、燎は右肩の裏、激痛の走る箇所へと手をやった。
開祖は、彼らの呪詛を甘んじて受けたのだ。消えぬ罪科の証として、決して忘れ得ぬようにと。
それは謂わば縛めなのだ。
幸福な追憶が決して色褪せぬのと同じに、罪科もまた決して色褪せぬものなのだから。
朝を告げる風が夜の闇を祓う。
闇は失せる刹那、燎の耳元で密やかに嗤った。
未だ咲くはずのない藤の芳香が鼻先をくすぐる。
燎は静かに目を伏せる。
ああ、
何と言う罪科。
何と言う――――
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2007 February 14
MR
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