|
瓦礫に眠るもの
●オープニング
「仕事もってきてやったぜ貧乏探偵」
実に偉そうな態度で持ち込まれた依頼は、どう考えても草間のことを怪奇現象専門に扱う探偵だと信じて疑っていないような内容だった。
開発が進む駅前に、まるでそこだけが別世界かのような5階建ての、今にも倒壊しそうな古ぼけたビルがある。
有刺鉄線が張りめぐらされ、立ち入り禁止の看板が並ぶそこに自ら立ち入ろうとするモノは多くはない。ましてやこの場所で、ここ数年ずっと子供が侵入しては行方をくらましているとなれば尚更だ。
「入り込める筈ねーのよ。実際あたしも見てきたしな。けどここで子供は消えた──一応消えた子供の家族やら警察やらで中調べてみたらしいんだが、何が見つかったと思う?」
時折こうやって、草間興信所に依頼を持ち込む兎沙見・華煉(うさみ・かれん)は何が面白いのか、にやにやと笑いながらオレンジ色のサングラスの奥の目を僅かに細めて見せる。
「はっきり言え。どうせ血の手形だののありきたりな怪奇現象だろう」
「微妙に当たり。微妙に外れ。最上階の一番奥の部屋の壁にな、赤い血みたいなモンでびっしりとかかれてたんだよ『正』って字が。最後のは書きかけ──なあこれ書いたヤツは何を数えてんだと思う?」
デスクの上に華煉が放り出した写真には、成る程彼女の言う通り字そのものは乱暴に、けれどきっちりと並んだ『正』の字が並ぶ。だがそれは床から一メートルほどの高さに限られていた。そこから上は天井まで灰色の薄汚れたただの壁。そこに血文字はない。
「子供、か──」
草間の呟きに、デスクによりかかった華煉が頷いた。
「そーゆーこった。なんでもこのビルから呼び声がするんだとさ。もっともこの噂ってのが子供限定でな。ガキどもに聞いてみると結構その声を聴いたって証言多いんだが、大人連中からは全くそんな話は出てこない」
「依頼人はそれ以上の情報を知っているのか?」
「いーや。そもそも依頼人ってこの土地を仲介して売り飛ばしたい不動産業者だしな」
「つまり子供の安全云々よりも売れる土地にしろってことか。世知辛いもんだ」
「大人は大人で食ってくんで大変なんだろ。知ったこっちゃねーけどな」
●血文字の示すもの
ソファにだらりと体を沈めていた華煉は事件に対するあらかたの説明を終えると、手にしていた黒いファイルをばさりと目の前のテーブルに放り出した。途端、それに飛びついたのは海原・みあお(うなばら・みあお)だ。
「みあおも見たーい!」
ファイルを無事に手に入れたみあおはご満悦、といった様子でにこにこと笑いながら華煉のちょうど正面のソファにちょこんと腰かけてページを開く。
草間にコーヒーを、そしてみあおと華煉に紅茶を配り終えたシュライン・エマ(しゅらいん・えま)もそのファイルの内容には興味があるらしく、みあおの座ったソファの背もたれに片手をついて、背後からそれを覗き込み──そして思わず眉を潜めた。
そのファイルにはビル内部を撮影したものと思われる写真が何枚もファイリングされている。
黒い壁に狂気を孕んだ精緻さで並べられた真っ赤な『正』の文字。
半分崩れかけた階段と床材を突き抜けて生えた雑草。割れた蛍光灯はそれらの上に散らばり中にはコードごと半分引きちぎられているものすらある。
「見るからに不吉ね」
「だろ? 面白いよな」
眉を潜めるシュラインと実に楽しげに片方の目だけを細めて見せる華煉。
みあおはファイルを一通り見終えるとぱたんと閉じてテーブルの上へと戻す。
「不謹慎よ」
「メシの種にいちいち感情移入してたら身がもたないっての」
軽い調子でそう言う華煉に、何故か腹は立たなかった。華煉のように自らの感覚を遮断してしまうという方法も確かにあるだろう。それは幾多の事件に関わってきた彼女にとっての自衛の手段であるかもしれないのだから。
二人のやりとりとは裏腹に、みあおはうーん、と首を傾げている。
「どうしたの?」
問いかければ、ぐるんと振り返った銀色の無邪気な光を浮かべた瞳が真っ直ぐにシュラインを射抜く。
「うーん。普通駅前の、それも再開発地区でこんな危ないことが起こったら真っ先に取り壊さない? それこそ『正』の字が壁を埋め尽くすほどなのに、危険だからって理由で取り壊さないのが不思議かも。そこにビルが在り続ければ、まだまだ事件は続くとかって考えなかったのかな?」
ふむ、とシュラインは細く整った指先を顎にあてて、なにやら考える素振りを見せると再びみあおに問いかける。
「みあおちゃんはあの『正』の字が、失踪者の人数だと思ってる?」
「だって他に数えられるものってあったっけ?」
「ああ、成る程ね……あれが何を数えているのかって方向で考えるより、数えられるものって何かっていうほうが多少限定されるのも確かね。一応失踪者の人数を確認してみましょうか。人数だけならそう手間取ることもないでしょうし。それにじっとしてるとおかしなことばっかり考えちゃって気が滅入るわ」
「おかしなこと? 友達100人計画進行中なのかなーとかはみあおも思ったけど」
咥えた煙草に火をつけようとしていた華煉の動きがぴたりと止まる。
「いやフツーにそれは友達なりたくねーだろフツーに」
「失踪後どうなったか分からないもの困るわよねぇ」
「分かったなら別にいいみたいな言い方だな」
「危険じゃなければ構わないわよ。友達は多いほどいいでしょ」
なんというか、やはりこの草間興信所の実質的な支配者だという噂はきっと本当なのだろうと悟った華煉は無言で肩を竦めて降参の意を示す。
そんな華煉の腕をぐいぐいと引っ張り、みあおははいはいと手を挙げた。
「みあおも行くー!」
「なあなあコレってさ、あたしにもついて来いってことだよな絶対」
腕を引かれるままに華煉が立ち上がり溜息まじりに言うと、シュラインはにっこりと満面の笑みで至極痛いツッコミを入れつつ頷いた。
「どうせ暇なんでしょ?」
壁にびっしりと書かれた『正』の字は何を意味するのだろう。
さわさわと、生い茂った雑草が冷たい風に揺れる音がする中で、みあおは夕焼けに赤く染まった元は灰色の、半分倒壊しかかったそのビルを見上げた。
灰色──夕日を背にして影となった壁面はむしろ黒に近い。それはまるで近づけば吸い込まれてしまいそうな恐怖を感じさせると同時に、引き寄せられる。
行方不明になった人々のリストは実質的に草間興信所を切り盛りしているといっても過言ではないシュラインの持つ人脈によって、拍子抜けするほど簡単に入手することができた。その人数は壁に書かれた『正』の字とは比べるまでもなく少ない。
「よく考えたら──例えばこれが失踪者の人数だったとしても、これだけの人数になるならば流石にマスコミも黙ってはいないものね。隠蔽されたなら不自然さは残るものでしょうし」
敷地の周囲にはぐるりと有刺鉄線が張られていた。それも、何重にも何重にも──何かを封じ込めようとする意思が働いているかのように幾重にも。
ところどころに打ち付けられた『立ち入り禁止』の看板。みあおはそれを両手で掴むと力を込めて引っ張った。四隅の釘は既に錆び付いているにも関わらず、看板はびくともしない。
救いを求めるような目で振り返ったみあおに、シュラインが隣で煙草をふかして見物を決め込んでいる華煉を肘で軽く小突く。
「出番みたいよ?」
「あー。やっぱこのメンツだとあたしかよ──ちょっとどいてな」
ぽん、とみあおの肩に手を置くと華奢な体を少しだけ横に移動させる。
華煉は煙草を咥えたまま、木製の看板の右側へと無造作な──乱暴ともいえる仕草で手を伸ばし、そのままぺりっとひっぺがした。
「……乱暴ね」
シュラインが思わず正直な感想を告げるとにやりと笑みが返される。
「あたしにやらせたらこーなるの分かってんだろ?」
看板を外し、有刺鉄線をハイヒールで踏みつけて人が通り抜けられるだけの空間を作ると、華煉は二人に向けて片手を招くように動かし、先に敷地内に入るようにと促す。
「すごーい……」
感嘆の声を漏らし、みあおは周囲を見回す。
確かにみあおが小柄だとはいえ、その腰程度の高さまで伸びた雑草が敷地内にびっしりと茂っている。その葉先は鋭く、気をつけなければ手足には細かな切り傷が出来てしまいそうだ。
がさがさとみあおは雑草を掻き分けて先に進む。
「みあおちゃん、危ないわよ」
慌ててシュラインと華煉が後に続いた。
予感があった。
そしてみあおの予感が正しければ、そこには何かがある筈だった。
敷地に入ってすぐの場所から、中央にあるビルに向けて真っ直ぐに歩く。注意深く足を進めていたみあおの目に飛び込んできたのは──。
唐突に、みあおが立ち止まる。じっと足元に注がれた視線。
追いついたシュラインと華煉が背後からその眼差しの先にあるものを見つけて息を呑んだ。
赤──否、もはやそれは茶色く変色していた。
雑草の根をべっとりと汚したそれが土や泥でないことは明白すぎる。それは、明らかに血だ。
「これは……」
よく調べてみれば、その血はビルを取り囲むようにしてぐるぐると円と何らかの幾何学的な模様を描いているようだった。
みあおは自分の直感が正しかったことを知る。これは間違いなく何らかの儀式の名残だ。この血で描かれた模様は魔方陣の類なのだろう。
風が吹いた。みあおは銀色の髪を耳の後ろへとかきあげると目の前に立ちふさがる古びたビルを見上げる。
一人ならばこの建物の中に足を踏み入れる勇気はなかったかもしれない。
「行きましょう」
シュラインの声がみあおの背を押した。
こくりと頷くと、みあおはぽっかりと口を空けたドアのないそこへとゆっくり足を踏み出した。
一人ではない。
だから、怖くはない。
●成就の日
『呼んでいる声は大人の声なんだよ』
ぽっかりと空いたビルへの入り口に足を踏み入れたシュラインの脳裏に過った言葉は、ここに来る前に話を聞いた子供のものだった。
呼び声は大人には聞こえないのだという。
ビルの内部は、予想していた通りかなり老朽化しているようだった。崩れ落ちた壁は珍しくなく、その残骸が床に散乱していた。中には天井が落ちてしまったフロアすらある。「子供の遊び場にしては危険ね」
「ガキなんて危ないところ好きだろ基本的に」
みあおは好奇心に目を輝かせていた。
「秘密基地みたいだよねっ」
「そそ、それそれ。なつかしー」
かつんかつんと足音を響かせて、三人はビルの上へ上へと上がっていく。どのフロアの惨状も似たり寄ったりでことさらに新たな発見はなかった。だが問題の最上階のフロアまで上り終えた三人はその光景に息を呑む。
「壊れて、ない──?」
シュラインがぐるりと周囲を見回した。壁の下から一メートルほどの高さまでにびっしりと書かれた『正』の字はまるで定規で線を引いたかのような几帳面さで綺麗に並んでいる。だがその整然さは同時に狂気を孕んでいるように思えてならない。
「なんでここだけ壊れてないんだろ」
みあおが首を傾げた。
最上階のフロアは壁も崩れてはいない。床はまるで定期的に掃除されているかのように掃き清められていた。
「人為的に老朽化を食い止めることなんて不可能よね。何らかの力が働いているとみていいのかしら? この周辺で聞き込みしたとき、一つだけ気になる内容があったのよね──」
シュラインは子供の言葉を再度脳裏に蘇らせた。
『でも僕見たんだ。あの立ち入り禁止の看板つけたり、ビルの周りをぐるぐる針金で囲んでいる時にいた人がさ、夕方一人でここに入ってくところ見たことあるんだよ。次の日には大人が大騒ぎしてた』
その内容を華煉とみあおに告げると、みあおが窓から外を見渡した。
既に夕方を通り越したこの時間帯──時折遠くに電車の走る音が小さく響く。視界に映るのはビルや建物の窓の明かり。
「その大人の人って多分、不動産屋さんじゃないかな」
窓の外に向けられていたみあおの視線がシュラインに移動した。
シュラインと華煉が顔を見合わせる。
このビルを訪れる前に、みあおとシュラインは二手に別れてそれぞれ調査していたのだ。
シュラインは子供達の話を聞くために。
そしてみあおはこのビルを取り扱う不動産屋に話を聞くために。
「あの不動産屋さん言ってたよ。このビルで一番最初に起こったのは自殺なんだって。この最上階で大学生の人が自殺して、それから日に日にこの字は増えてるんだって──だけどそれを知ってるってことは、不動産屋さんは頻繁にここに来てるってことだもんね」
その男はみあおにこう告げたのだという。
数えているんですよ、彼は願いが成就する日を。そのために、子供を呼び寄せているような気がしてならないんです。彼は死という枠すら超えてこちら側に戻ってこようとしているんではないでしょうか──?
「胡散臭ぇなーそいつ」
「自分の管理するビルで自殺なんてされたら、厄介だと思うことはあれど普通はそんな感想は抱かないわよね」
そして、子供達の目撃証言。
呼び寄せる声が子供にしか届かないという点が気になりはするが、もしかしたらそれは選別なのかもしれない。大人には聞こえないのではなく、子供だけを呼び寄せたいから、子供しかいないのを見計らって呼びかけたというだけの──。
「んで、どーするよ?」
短くなった煙草の火を壁に押し付けてもみ消した華煉が問う。
シュラインはしばし逡巡した末にみあおに言った。
「その男に会ってみましょう。聞きたいこともあるし」
「じゃみあお案内してあげるね」
「だから走るなっての、あぶねーぞ」
小走りに階段を駆け下りていくみあおを華煉が慌てて追いかける。
シュラインは彼女以外誰もいなくなったそのフロアを、もう一度見渡した。
この空間で、一体何が行われていたのかが見えた気がした。
こんな真夜中にその不動産屋が営業している筈はない──だが、そこには煌々と灯りが点っていた。
駅から20分程歩いた公園沿いの薄暗い道沿い。二階と三階がアパートになっており、一階部分のテナントには、その不動産屋しか入ってはいないようだ。駅からこれだけ離れた上に周囲にも人気がないこの場所は商売には向かないと言わざるを得ない。
暗闇からぼうっと、まるで浮かび上がるように少しずつその形を明確にしていく店先。古い窓ガラスには色褪せたコピーの物件情報が所狭しと張られている。それらの僅かな隙間にみあおが顔を近づけて店舗内を覗き込むと、どうやらまだ店内には人がいるようだった。
「すみませーん」
声をかけながら横開きのガラス戸に手をかければ、それはカラカラと空々しい音を立てて何の抵抗もなく開いた。
開いたドアの前に立つみあおの姿に、古びた店内の一番奥でパソコンのモニターに眼差しを向けていた男が顔を上げた。
全体的に古ぼけた雰囲気。使い込まれた黒い革張りのソファも、その前のテーブルも、きちんと手入れされているし埃一つない。だが少しだけそれらは色褪せていて、そんな中で唯一真新しいパソコンだけが店内の光景の中でひどく浮いているように見える。
「ああ、この間の──こんな時間にどうかなさいましたか?」
男はビルについて話を聞きに来たみあおのことを覚えていたらしい。みあおとその後ろに見えるシュライン、そして華煉の三人にソファを勧めた。
「確かあのビルについて調べていらっしゃったんでしたね。何か分かりましたか?」
テーブルを挟んで向かい側に座った男がにこやかに問いかける。あからさまに嫌そうな顔をして目を逸らす華煉が積極的に会話に参加する気がないのを見てとったシュラインが単刀直入に切り出した。
「あの現場を何の儀式に使っていたのか、聞かせてもらいに来たわ」
「何のことでしょう?」
変わらない笑みで、変わらない表情で、男は静かに三人に対峙していた。
みあおは膝の上でぎゅっと拳を握り締める。
「あのビルに何回も入ってるところ見たって人がいるの。ねぇ、大学生の人が自殺した時そこで、何かを見つけたんだよね──?」
男はみあおが初めてこの店を訪れたその時に、みあおに向けて言ったのだ。
死んだ大学生は死という枠を超えて、こちら側に戻ってこようとしているのではないか、と。
男がそう考えるには、何らかのきっかけがあった筈だった。自殺した学生の第一発見者であるというだけではなく、もう一つの何か──みあおやシュラインたちの前にまだ見えてこない何かが。
三人が並んで座ったソファからテーブルを挟んで向かいに腰かけた男は、悠然と足を組み、その上に片手を置いた。
「もしもそれが事実だとして、何を見つけたと思いますか?」
ぴくりと、華煉の柳眉が跳ね上がる。
この男は、楽しんでいるのだろうか?
自分が少しずつ追い詰められているこの状況を。あるいは、この時が訪れるのを待ち続けていたのだろうか?
気に入らない。
思わず目の前のテーブルを蹴り付けてやろうと挙げかけた右膝の上に置かれたみあおの手──その手の持ち主を見返せば、ふるふると首を横にふる少女の顔。無言ながらその眼差しは、乱暴したらダメだよと語っているようだった。
華煉が溜息をついてソファにだらりともたれかかる姿に苦笑を向けたシュラインの表情は、すぐに真剣なそれへと変化する。そして真っ直ぐに、どんな動作もどんな反応も見逃すまいと目の前の男へ注がれる。
「これは推測だけれど、大学生が自殺したというその現場で、貴方は彼が残したものを発見したのではないかしら。それは──例えば彼の死をきっかけとして、その後を継承するものがあって初めて完成する類の呪術のような、そんなものね。どんな形で残されたのかまでは分からないけれど」
「証拠は何もありませんね。今のところ」
笑みを刻んだ男の優位は揺らがないに見えた。
けれど彼とて分かっているだろう。
真実が見えてきた以上、終わりを呼び寄せるのはあまりに簡単なのだ。残された悪意に彩られた術を終わらせる術を、みあおは既に察し始めている。
虚勢なのか自然なのか分からない男の態度。けれどシュラインは焦ることはない。
淡々と、淡々と退路を塞ぐ。その言葉で。
「子供の死を引き換えに、死の縁から蘇る。現実世界から死という手段でもってその存在を消した彼がもしもこの世界に帰還したならば、彼は現実の法といったものから解放され自由となる。そこから先に続くものが彼の欲したものなのかもしれないわね──そして彼は賭けた。彼の死体と彼の残したものを発見した人物が、果たしてそれをただの戯言と笑い飛ばすか、あるいは魅入られ後を継承する類の人間か否かに。そして彼は勝った──貴方は継いだんでしょう? 彼の悪意を」
沈黙が、場を支配したのは僅か数秒のことだったのかもしれない。
けれどみあおには、男が再び口を開くまでの時間がとても長いもののように感じられた。
「事実だとして、どう止めますか? 止める手段がありますか? 証拠など何もない」
「──止める方法ならあるよ」
「どうやって?」
男がみあおに穏やかな眼差しを向ける。穏やかではあるが、それは優しくはなかった。優しいというほどにこの男は他者に興味を向けてはいない。
「あのビルがなくなっちゃえばいいんだよね。だってあのビルが、術にとって大事な場所なのは確かだし」
「それが可能だと思いますか?」
あのビルも敷地も管理しているのはこの不動産会社だ。
破壊するにしてもそれなりの手続きというものが必要になる。そして男がそれを承諾する筈はない。
だが、みあおは笑う。
そしてみあおの能力を知るシュラインもまた、瞳を伏せて薄い唇に笑みを刻む。それは二人が培ってきた信頼の証なのだろう、と華煉は思う。
みあおには迷いも不安もない。
自分には天使がついている。幸運の天使が。
「今みあおたちは何も出来ないししない。でも、あのビルは壊れちゃうしもう悪いことは続かない。みあおには分かるもん」
小柄な影が立ち上がると、シュラインと華煉もそれに続く。
からりと、入ってきた時と同じ音を立ててガラス戸を開き出て行く三人。
ソファに座ったままで、男は立ち去る背を見送る。視線のみで。
「終わりがないんですよ──」
笑みは微塵も崩れることはなく、けれどその言葉には明らかに、疲れたような響き。
「ずっと、もう永劫に終わらないと、思っていたんですよ──」
終焉を望んだのは、果たして誰だったのか。
彼の声は、みあお達には届かない。
●エピローグ
いつもの見慣れた草間興信所。
見慣れた事務所の見慣れたテーブルの上には、みあおが持ち込んだおやつとシュラインが淹れた紅茶。それまでテーブルの上の大半を覆っていた整理途中のファイルは今、隅へと追いやられている。
「んで、ほい。これが現状」
一枚の写真を華煉がぽいとテーブルの上に投げ出すと、シュラインとみあおがそれを覗き込む。
二人の記憶の中にある、倒壊しかかったビルはそこには写されていない。
腰近くまで伸びていた雑草も、敷地をぐるりと取り囲んでいた有刺鉄線も。
ただ、そこにあったのはかつてビルの形を成していたであろう瓦礫の山。
「終わった、のかしらね」
写真の淵を指でなぞりながら小さく呟くシュラインの脳裏には、あの日不動産会社で男と別れてから再び戻ったビルの屋上での光景。
暗い空を見上げたみあおと、そこにまるで雪のように仄かに、そして薄い光を纏いながら舞い降りる白い羽。それをゆるりと銀色の眼差しが追いかける──あの、幻想的ともいえる光景。
「自然倒壊だってよ。中には誰もいなかったし、怪我人もゼロ。あれ以来呼び声を聞いたって話もねーし、子供も行方不明になってるって話も聞かない」
あの羽が呼び込んだ幸福。
それはビルを倒壊させ忌まわしき悪意が継承されていくことを防いだのだろう。
「もうこれで、怖いこともなくなるよねっ」
にこにこと、みあおは無邪気に笑う。
そう、みあおの言葉どおりに。
悲劇は終わりを迎え、そしてきっと。
望むものに、望む終焉が与えられたのだろう──。
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 / シュライン・シュライン / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1415 / 海原・みあお / 女 / 13 / 小学生】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
こんにちわ、そしてお久しぶりです。久我忍です。
ここのところライター活動から離れていたのですが、ぽつりぽつりと復活致しました。
見たことないものを見るとか、知らなかったことを知るという作業は基本的に楽しいものだなぁと最近とみに実感しております。とはいえ作中みたいなことを知るのはちょっと嫌っぽいですが。
どこかしらに小さな救いでも感じて頂けたならば幸いです。
ではでは、ご参加ありがとうございました。
またご縁がありましたらどうぞよろしくお願い致します。
|
|
|