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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


マヨヒガ-陰の章-

件は、「凶事」を「予言」する。
……だが、その大体が数日で死んでしまう。一生涯に、一災害。
そして百年に一度しか現れない。

これは、まことに惜しいこと。

■■
■■■■
■■■■■■

からころ、と軽い音が鳴った。
だから、きっとどこぞで骨が泣声をあげているのだろう、と思った。
誰かが新しい屍を捨てに来たのかもしれない。この間も、たくさん遊びに来てくれたから。
自分の考えたことが少し恐ろしいような気がしたけれども、もうそれもあまり気にならなくなっていた。それよりも、聞きなれない音が聞こえたことの方が気になって。
――だって、音がするのは珍しい。ここには何もいないから。
だから、いつも退屈で目を閉じている。色々なことを考えるのは、あまりいいことではない。
ただ、あるがままに。目を閉じつづけて、口を閉じつづけて。どうせ、自分できることなど他にないのだから。
生きてさえいれば、いつか、出られるのだろうか。
そんな望みは持たないと決めたのに。いつまでも、心の中ではくすぶりつづける。ずっと、ずっと。外の匂いをさせる、何かがここに訪れる間は。





 蝶々売りには、何度となく言い聞かされていた。
 ただ、ひたすらに罪を思うこと。
 ヤギョウは、なかなかに気の荒い頭領故、含むところあっては、駆けつけてその頭、蹴り殺されかねやせん――――

 
 サクの夜。
 罪を持って引っ立てられる行列たちの通り道を知ることができたのは僥倖だった。
 ハナから、憚る類の行列なのだ。市中引き回しなどとはわけが違う。その列を見出すことすらできなければ、そもそももぐりこむことさえも不可能で、重ねて言うなら、マヨヒガになど行き着こうはずもない。
 重い足取りで土くれの道を踏みつける行列に混ざることに成功すると、潜入者たちはあらかじめ釘を刺された通りに、ただひたすらに罪について考えを巡らせた。
 あたりでは、ザリザリと土を擦る音だけが大きく響いていた。
 みな、一様にズタ袋を頭の先からスッポリとかぶせられている為、どのような顔ぶれが引っ立てられているのかはまったく窺い知れない。
 それでなくとも、暗闇なのだ。
 手元に明かり一つない。
 月が消えているだけでなく、もっと他の、さまざまなものが失われているように思える夜だった。
 こうして、ぞろぞろと列に加わりながら、認められるかどうかもわからない自分の罪について考えていると、どことなく、心の翳りの濃度が濃くなっていく。
 時折、先の方で甲高い馬の鳴き声が空を裂いた。

 ふと、一人が考える。

 首のない馬だというのに、鳴くことができるというのも、おかしなものだ。
 童の姿で招かれた時には、随分容易く入り込めたものだが、それに比べてこの厳重さは何なのか。
 厳選しているのは、むしろ罪人ということなのか。
 一つのふとした考えから、二つ目の考えへと転じ掛け、列の動きがふと鈍くなった気がして、潜入者の一人はぎくり、とした。
 首なしの馬が止まっている。ヤギョウが、振り返るのが見え、慌てて余計なことを振り払う。
 ギョロリ、とした一つ目で黒い行列を一瞥した後、問題なしと断じたか、ヤギョウはまた馬を進めた。
 罪のことだけを、考える。いまさらながらに、刺された釘の味がじわじわと広がった。
 あの首なしの馬が踵を返したとしたら、そのとき蹴り殺されるのは間違いなく自分たちの仲間の誰かなのだ、と思った。
 いわばそう、この罪を認める心こそが、あの罪状を書き付けた板に等しいのだ。
 だから、ただ考えていた。心が翳るのもかまわず、粛々と、自らの罪について。
 やがて、行列たちが黒く巨大な門をくぐり、鶏や、牛や馬の、獣たちの不釣合いな鳴き声が耳をくすぐるまで。




 黒い床板が軋む音がして、潜入者たちは、足を止める。
あの首なし馬を駆るモノノケも、汚らしいぼろ布に包まれて陰鬱に歩く行列も忽然と消え、辺りにはただ、三人のみが残されていることを知った。
 互いに、被っていた布を取り去る。顔を見合わせて、小さく息をついた。
「どうやら、別れてしまったようね。でも、……そう。無事に入れた、というべきなのかしら」
 額にかかる黒髪を払い、言葉をわずかに迷いながら、呟いた女。シュライン・エマ。
「……そもそも、罪人を一つところに押し込めたりはしないだろう、とは思ってたんだけどね。三人いるだけでも、まだましな方かも」
 深緑の目を眇めて答えたのも、また女。法条・風槻。
「最悪、一人ずつになってしまう覚悟はしていましたからね」
 しかし、何故この三人で振り分けられたのでしょうかね、とやんわり首をかしげたのは、このような状況でもさして緊張した様子も見せない男。セレスティ・カーニンガムだった。少々乱れてしまった白銀の髪をまとめなおし、背へと流す。
「やはり以前来た時と、印象が違うものですね。背丈なども違うからでしょうか」
 その言葉に改めて薄暗い屋敷の中を見回した三人は、なるほどそうだろう、と頷きあった。
 人の姿のない、暗がりが沈み込んだ黒板敷の廊下。本当に暗かった。この廊下を、真っ当な人間が歩くのはどうにも不釣合いだ。
 一歩足を踏み出せば、板敷はキィ、と小さく軋みをあげる。だがそれだけで、それ以上沈み込んだりもせず、どっしりとその体重を受け止めている。
 続く廊下の両側には幾つもの襖が閉じられたままふんぞり返っているが、そいつらもチラとも動く気配を見せない。襖に一つ一つに大小の線で描き付けられた目つきの鋭い獣たちに、一挙一動を見据えられているような心持だ。睨むような眼光。よくよく見れば、その獣たちが一定のルールに基いて描かれていることが分かった。――皆、十二支に名を連ねる連中だ。
 時折、どこからか牛や馬の重厚な鳴き声がしていた。恐らく、この屋敷を囲う家畜小屋から聞こえてくるのだろう。その他に聞こえてくる音と言えば、遠く、奥の方から漏れ聞こえてくる湯の沸くような音のみ。だが、血の通った人間が沸かしているものではあるまい。マヨヒガとは、そういうものだと聞いている。
 だが、伝承どおりにこの場所がそれだけのものなら、自分たちがこうして戻ってきている事実もない。
「罪人として送られてきたからには、あの件のように牢にでも入れられるのかと思っていたんだけど。それともこれから捕えにでもくるのかしら」
「ありえることですね」
 セレスティがあっさりと断じる。
「ただの罪人として入り込んだのではない、と判断されたのかもしれませんし」
「思惑がばれてる、ってこと?」
「考えられないことじゃ、ないけどね」
 からかいを含んだ口調で言った風槻に、苦笑気味にシュラインは首をすくめて言った。
 改めて長い長い廊下の黒い先を見据えたが、やはり何もいないのだった。
 人の気配も、今はない。
「お互い、時間がなかったから、予備情報の交換もせずにここに入り込んじゃったね。ちょっと間抜けだけど早く話し合った方がいいと思うんだ」
「同感です」
 セレスティが風槻の言葉に同意を示し、シュラインも頷いた。
 互いに襖をよけてざらついた土壁に背を預け、この話し合いには不釣合いな場所で、目線を交し合う。
「あたし、ここに来る前にちょっと調べた。例えば、最初の子供がいなくなった時、もしくは、類似の子供の行方不明の事件で、何か必ず起こっていることがないか。前触れ、とかそんなものね。これについては、まったくひっかかるものが『ない』の」
 最初に口を開いたのは風槻だった。セレスティもシュラインも、詳しくはなくとも彼女の情報収集能力は心得ている。だから、彼女の言葉は信頼していいのだ。
「さっきここに入ってくる時に、列の中で少しだけ、そのことを考えたの。もしかして、集められている子供については、まったく無作為に選ばれているんじゃないか、って。だってほら。あたし達が子供の姿で入り込んだ時には、本当にすんなりと入り込めたじゃない? 何も、障りがなかった。だけど、罪人の扱い。これは、何? 厳重すぎる。あの首なしの馬の上に乗ってた一つ目の化け物。あれって、夜行の頭領なんでしょ。罪を持たない奴はお呼びじゃない、って言いたそうだった。だったら、選ばれているのはむしろ罪」
 もう一つ、と風槻は続けた。
「今回の事件、神隠しにあった人が見つかって、後にもう一度行方不明になる、っていう、過去の事例を調べたんだけど。これが、意外と少ないよ。神隠しにあって見つかる例はある。だけど、もう一度いなくなる、ってのがね。過去に、実際にあった事件ではあまり見つからなかった。皆無ってわけでもないんだけど、どれもそう大きく取り上げられていない。少なくとも、公的な記録ではね。ただ、伝承として伝わってるものなら、・・・・・・神隠しとしては有名なあの話があてはまるかな、とは思ったけど」
「どの話?」
「寒戸のババ、って話。知ってるかな。神隠しの話では結構有名でしょ。山間の村のある娘がいなくなって、三十年後、変わり果てた姿――――老婆になって村に帰ってきた。懐かしい姿が見たかったから、と言葉を残した後、まもなくまた、いなくなってしまった」
「帰ってくるまでの期間は長いけど、共通する点はありますね。今回の場合、姿は変わらず、中身が違った、ということですが」
「うん。そうだね」
 頷いた風槻に、セレスティも、私も事前に調べられることがあれば、と思ったのですがと切り出す。
「残念ながら、私はここ最近以外で、今回と関連すると確信をもてるケースを見つけられませんでした。行方不明としては希少なケースと言えると思います」
「そうね。言われてみれば、そうだわ。だって、あまり聞かないもの、そんな事件は。でも、その割には世間はあまり騒いでいないわね」
「大々的に取り上げられている訳ではありませんからね。まだ。恐らく、これが続けばそういう騒ぎにもなるのでしょうが、そうはならないと思います」
 セレスティの予測的なものの言い方に、シュラインは眉を顰める。
「何か確信がありそうね。どうしてそう思うか、聞いてもいいかしら」
 問われ、セレスティは手に持った杖を右に、左にと動かしながら、答えた。
「推量なので、大きなことは言えませんが――――あえて言うならば、今回のこのこと自体が、秘密裏に行われているのだと思うからです。何かの意思を持って、罪人と呼ばれる者たちが集められ、子供が招かれている。先の時に、私たちの身に何かが起こればその検討もつけられたのでしょうが、残念にも、というか、それはなかった。意識的に、ということはないのでしょうか」
「つまり、先の時にも、あたしたちが何かを探りに来た、と知って、相手も手を出さなかったということ?」
「ええ。人間側にか、その他側にかは知りませんが、ここで行われていることをまだ露見させたくないのではないか、と。そういった意思を感じるのです」
 なるほど、とシュラインは頷いた。セレスティの言うことは頷ける話だ。
「ねぇ。率直に考えて。今回のことを、どう思う。子供が行方不明になり、数日の内に戻され、もう一度いなくなることの、意味」
「蝶々売りの話だと、いなくなった子供全部に起こっている訳ではないような印象を受けましたが」
 しばし、互いの間に沈黙が下りた。
 屋敷は相変わらず人でないものの声や僅かな物音に満ちている。だが、気配は感じられない。意思を持ったものがまだこちらを見過ごしているのか、それともこの場にいる誰にもいまだ、闇を思う心が満ちていないからなのか。
「――――あたしはね。罪人と子供の数が同じなら、帰ってきたはずの子供は、罪人が化けたもの、もしくは、何らかの術や能力で作られたカリソメの存在じゃあ、ないかと考えてる。二人は、どう思う?」
「戻される子供と、帰ってこない罪人。……私は、なんだか実験をしているように見えた。罪人の方をこそ選んでいる、っていうのは、的を得ているんじゃないかしら。罪を、罪のないものに押し付けているか、もしくは、それに化けて本来囚われるはずの場所から逃れる方法を探るためのサンプルにしている、とか? 一度、子供が戻されているのが、どうにも何かの経過を調べている期間のように思えてならないからかしら……試しているような感が否めないのよね」
 女二人の目が、続いてセレスティへと向けられる。二人の意見をかみ締めるように吟味していた風な彼は、ゆるやかに頷いた。
「お二人の考えと、私も同じような意見です。罪人がマヨヒガに入って、童も新月に入る。出てくるのは童だけ。では、童に罪人の意識、もしくはすべてが入り込み、新たな体を得たものとして、外で活動しているのではないでしょうか。蝶々売りは、戻ってきた子供にしるしのようなものがあったと言っていましたね。これが、自分の物ではない体を罪人が操る為にでた違和感ではないか、と思うのですが。通常、人間の体は自分以外のものが馴染みにくいものでしょう? 移植などをした時の拒否反応のようなものではないかと」
 大体、三人の見解は一致していることを知り、更に考えた。一体誰が、何のためにこれを行っているのかだ。
「思いつくのは……やはり件ね。例えば、件をここから逃がしたい誰かが、彼を逃がすために方法を模索して、実験を繰り返している、とかいうことはないのかしら。検討違いかもだけど、本来の理から外れようとする動きが、なんともね。通常では成しえないことをしようとしている気がするわ」
 誰もが件の存在がひっかかっていた。何故彼はこのマヨヒガに囚われるのか?
 自ら出て行くことを怯えるような様を見せる。では、必ずここか出て行けない理由というものがあるはずだ。
「どんな形であれ、彼が今回のことになんらかの関与をしているのは確かでしょうね。ただ、その理由となると、どうでしょうか。件は言葉を発しませんし……人見知りをされていましたから、大人の姿である私たちには、見つけられないかもしれませんね」
「でも、考えることはできるよね。件について」
「……私、思うのだけれど」
 形のいい眉を寄せ、シュラインが言った。
「あれは、本当に『件』かしら」
「―――――――――――」
 彼女の言葉に、風槻も、そしてセレスティも一瞬言葉を失う。
 それについてはまったく考えていなかった、という風だった。言い出したシュライン自身も、言い出した内容を注意深く考えながら言葉を続けて繋いだ。
「前に、子供の姿でここに来た時、件についての話をしたでしょう。ここにいる彼じゃなくて、伝承の方よ。覚えているかしら」
 二人、頷く。
「伝承に記されている件の姿は、牛面人身ではないわ。その逆。人の言葉を喋る、人面の牛。『総合日本民族語彙』という本では、件は霊という記号で分けられて、こう記されている」
 シュラインは手帳をひらいて、二人に示した。

『クダン (霊) 牛の子で、人語を解するもの。その言うこと一言は正しい。よって件の如しという俗説を生じている。いまも九州・中国地方では時折聞く。生まれて四、五日しか生きていない。多くは流行病や、戦争の予言をする』

「確かに、神羅さんが言っていたように、大戦以降、人の姿で牛の頭、という存在があり、それが件だと言う説もあるにはあるわ。牛女、と当時は呼ばれていたようだけれど。彼女が件とされたのは、恐らく小松左京の『くだんのはは』という小説の効力によるもので、厳密に言ってしまえば、私は、その神戸で現れた牛の頭を持つ女性は件ではないと思うの」
「どうしてですか?」
「人語を解さないからよ。件の最大の特徴。彼は確かに喋るのよ。そして人語を解するわ。彼の言うことには間違いがないから、確かな事実の最後によって件の如し、という文章を付け加えるというのは民間語彙だという話だけど……予言をするには知性がなければならないわ。おまけに、古い瓦版などを見れば、件は『自分の姿を絵姿にうつして、持っておけば災厄を逃れられる』と言った。これはもう、神に等しいといってもいい。実際、件の剥製などを見世物にしていた船や人には神罰が下った、という話が残っているくらいよ。その神聖性は伺えるでしょう? だけど、牛女は人の言葉を理解できない。それどころか、当時の噂では、人の死肉を貪っている所を目撃されたりしている。これは、まったく違うものだわ」
「……じゃあ、今回の件は。でも、あの子はあたし達の言葉を理解してたよね」
「そうね。喋らないけれど、確かに理解してたわ。件じゃない、というのは言い過ぎだったかもね。伝え聞いている件とは違う、ということかもしれない。姿かたちを除けば、彼は件の特徴を満たしていると思うわ」
「喋らないのは、件が一生涯で一度しか言葉を発しないものだからでしょうか。確か、発すれば死んでしまうのでしたね。生まれて四、五日で死ぬ、ということは、過去にあった伝承の件は、生まれてすぐに『予言』を言い残していると見ていいでしょう。あの件が言葉を発しないのは、まだ予言すべき事柄がないから、なのでしょうか」
「そうかもしれない。でも、ならどうして今生まれたの? 件は災厄の直前に生まれるものとされているのに。こうしてこんな場所に囚われて、自らは出て行こうともしない。考えてみれば不思議な話よね」
「……出て行かない、というよりは、出て行けない、といった印象を受けましたが。何かに、怯えているような、そんな印象を。そもそも、彼はここで生まれたと言っていた。ならば、見たこともない世界に足を踏み出すのを怖がる理由もわからないでもありませんが――」
 セレスティの言葉に、ふと風槻が首をかしげた。
「……ねぇ。それ、おかしくない? だって、覚えてるでしょう、お絵かきの時よ。確か、件は絵を描いたわ。ここではない場所の絵を。その情報を、彼はどこで知ったの? 絵で描けるくらいに」
 三度、沈黙が降りた。綿帽子のような、柔らかな雪が降り積もるように――しかしそんな優雅なものではなく、どす黒いそれが少しずつ心の内に重なり始めるのを感じる。
 なんと、嫌な考えが湧き出すのか。
 廊下の奥の先。とぐろを巻く闇の中に、じわりと人か、何かの影が滲み出たような気がして、何度かそちらに素早く視線を送った。――だが、誰もいなかった。
 
「まさか、作り出されているのは……?」



何か、たくさんの気配がして、その騒がしさに耐え切れずに目を開けて、辺りを見回した。都合のいいように、外界のすべてを遮断してくれる布袋の裂け目から、何が起こっているのかを覗き見ようとしたが、うまく行かない。
いつも骨を蹴りだしているあいつらの層は、とても静かだった。じゃあ、そこではない。
緩慢に、またすぐに深みへ沈んでいこうとする意識に鞭を打ち、探した。どこだろう。何が、騒がしいのだろう。
そうして、気づいた。騒がしいのは、中身を入れる檻の方だと。
また、運ばれてきてしまったんだ、と一層暗澹たる気持ちでその気配を感じていて、ふと目を見開いた。
そんな馬鹿な、と思った。
だって、この気配は。
知らぬ間に、立ち上がる。鍵のかからない牢を開け、駆け出した。



 がつん、がつん、と何か硬質なものを蹴りつけるような、そんな暴力的な音で、威伏・神羅は目を覚ますことになった。
 いまだ開きにくい目をそれでもなんとか引き剥がすと、同時に少しずつ意識が現に立ち返っていく。一番最初に感じたのは、頬につく畳の感触。そして、目に入ったのは、いかにも元気そうに、格子戸を蹴りつけている背の高い少年の姿。
「……何をしておるんじゃ、おぬし」
 冷め切らない頭で、ぼんやりとその背中に問い掛けると、「あぁ?」という少々エキサイトした声音と共に彼が振り返った。
 確か、守崎・北斗と言ったか。先の調査でも見た顔だ。
 呼ばわれた北斗の方は、しばしきょとん、と神羅を見た後、「あ〜、起きたんだ。良かった。良かった!」と、爽やかな笑顔でコメントした。
 今しがたまでの攻撃的な面影はあっさりとナリをひそめている。
「この牢があかねぇもんだから、ついイラっとしてね。あんた、大丈夫? 怪我とかないの?」
 ぱっと見外傷ないみたいだから、特に触ったりもしてないんだけど、と北斗は述べた。見かけによらずというか、細やかな気配りができる性質なのかもしれない。
 神羅は問題ない、と答えてから、牢、と北斗が形容したその場を検分した。
 天井は、高い。ざっとみて八畳ほどであろうか、と思われるその空間は、左右、後面を軽く塗りたくって固めただけの土壁で、前面を頑強な造りの格子戸によって仕切られていた。
 例の、件が入れられていた牢よりはよっぽど厳めしい類のものであることが、簡単に見て取れる。
「……少々、記憶が曖昧じゃが。捕えられた、ということかのう。そもそも、護送される罪人に混じったのじゃから、収容された、というべきか」
「多分、そんなとこじゃねぇの。件の牢みたいには、開かねぇし、これ。ったく、厄介だぜー」
 どかっと、その場に腰を下ろし、北斗はごちた。兄貴もいねぇし、と付け加えた口調があまりに不服そうだったので、神羅は苦笑した。
「そもそも、罪人をそうそう一所には固めまいよ。……北斗といったな。ぬしと私が同じ牢に入れられているのも不思議なくらいじゃ」
「んまぁ、確かにそーだよな。でもこの分け方ってさぁ、ただ単に場所が近かかった奴同士をぶちこんだ、って感じじゃないよなぁ。それだったら、兄貴と一緒になってるはずだし」
 青の目をくるくると忙しく動かしながら、北斗が神羅を見た。
「……なんじゃ。何か聞きたいことがありそうじゃのぅ」
「ある。率直に聞くけど、あんたの罪って何なの? もしかして、殺し?」
 ――率直すぎる。神羅は、また苦笑した。
「いきなり、何を聞くかと思えば。まぁ、大きく言ってしまえばそういうことになろう」
 隠しても仕方があるまい。肯定すると、北斗がなるほど、と頷く。
「じゃあ、これはきっとその罪で分けてんだ。俺も殺しかな、って思ったからな。中身に違いはあれど。あ、待てよ、すると兄貴は違うことを罪だと思ってんだなぁ」
 どうやら、思考が二転、三転するらしい。話題が関係のないことに移ってしまう前に、神羅が押さえる。
「兄貴とやらは、ここにはおらんのか? 近くの牢にも」
「さんざ、叫んだって。近くにはいねぇみたい。いれば、気配でわかるからな」
 むしろ、近くにいなくても分かるはずなんだけどなぁ、とよく分からないことを呟きながら、北斗はなにやら深いため息をついた。
「変な場所だって、まったく。物理的な空間だけじゃなく、それ以外の何かも遮断されてるような感じだ。前回感じた風の匂いも、今回はしねーし、一体なんだってんだろうな」
「……さてな」
 まだ少し頭の動きが戻ってこない神楽は、胡座を組みながら、首をこきこきと鳴らした。
 北斗は一人でも喋っている。
「……牛で始まって、午で終わる依頼かぁ。角が引っ込んで、どこに消えるんだかね〜」
「……面白いことを言うのぅ、北斗は。牢も今のところ開かぬようだし、どうじゃ。一つ私と問答でもせぬか」
「は? 問答?」
 突然の神羅の申し出に、北斗は目を丸くしばたかせたが、やがて頷いた。
「あぁ、まぁいいけど。事件のことか」
「左様。北斗は此度のことをどう思う」
「なんかやばそうだと思ってる。細かいことはあんまり考えてねぇな」
 そういうのは、兄貴の役目だから、と軽く肩を竦める。あんたは、どう思ってるんだ、と逆に神羅に聞き返した。
「私か? さてはて。ひとたびマヨヒガの内に入った童どもが、現に戻った時には気性が変わっていた、ということが一つの鍵ではないか、と思っておる。このようにして、つれてこられた罪人たちと、よもや魂を入れ替えられたのではないか、とな」
「ああ、それは同感だな。畜生の血、ってのがちょっとひっかかったんだ、俺は。それがしるしってことは、『こいつは畜生にも劣る行いをしました』ってことなんかな、と思って。それってつまり、そいつに罪人が入り込んでる、ってことだろ」
「そうも考えられるの。じゃが、そうなると、罪人の体はどうなっているのやらのぅ。夜行の頭領を騙る、あの化け物にでも喰われたか……」
「騙る? あれは、やぎょうさん自身じゃないってことか」
「確信はないがの。仮にも化け物どもの頭領を名乗るものが、あのような憚るような行いの先端に立っているというのが、得心ゆかぬ。では、偽者ではないか、と考えるのが自然であろう」
「じゃあ、なんで偽装するんだ?」
「夜行が頭領であるからこそじゃろう。罪人への抑止ではないのか。真相はわからぬよ」
「はー、なるほど」
 感心したように、北斗が頷く。神羅は続けた。
「この胡散臭い場所で何が起こっているやら知らぬがのう。……何者かの意思が働いているのは違いなかろう。童が一度戻ったのち、もう一度消えることについてはどう思う」
「実験? 様子見とか」
 ほとんど間髪いれず、北斗が答えた。なかなか頭の回転が速いようだ。
「なるほど。あり得るな。……もしくは、童の皮を被って現世に逃げ戻った罪人どもを看守のようなものが連れ戻しておるのか。それにしては、ここに子供を呼び込む意味が見えぬのぅ。先の件もマヨヒガにおったが、これも何かしら関係があるというのか……」
「なくは、ないんじゃねぇの。同じ場所にいるんだからな」
 あっさり言い切った北斗の言葉に頷き返しながら、神羅はふと、格子の外に目を向ける。北斗もそれにつられて、そちらを見る。
 牢の中が畳敷きであるのに対し、格子を一つ隔てた外側の通路は冷たく黒光りする板敷のそれだった。通路を挟んだ対岸にも、同じような造りの牢がそびえていたが、あいにくそちらに人影はなかった。引き連れられていた罪人たちの数は、およそ二十ばかりはあったと見えた。しかし、その気配も姿も、今はどこにも感じられない。
 北斗の兄の姿が見えないのと、同じに。
 格子戸の際からかろうじて挟まらない程度に首を突き出し、伺い観ると、右側の通路の先に、明かりが灯っているのが分かった。
 小皿に油を注いだ中に、固めた軸を入れただけの簡素な燭台の姿。人影もないのに、そのうす黄色い光は、いましがた油を足されたかのように勢いよく大気を燃している。神羅と北斗の二つの影が、牢の中に長く、巨大に浮かび上がっていた。
「……まずは、ここを、出ねばならんな」
「出るさ。どうやってでもな。全員と合流しないといけねぇし。調べたいこともあるしな」
「同感じゃ」
 前回目にしたのとはまったく違う場所であるだけに、思う。このマヨヒガは、木の根のように何層にも別たれているのかもしれない。ならば、多少大暴れした所で、運がよければ誰も駆けつけまい。



 守崎・啓斗は考えていた。
 まず、何故自分が、何の愛想もない、冷ややかな鎖につながれているのかについて。
「これじゃあ、件よりも厳重な閉じ込め方だ……」
 目が覚めた時には、すでにこの状態だった。
 埃くさい、なんともいえないほど重く感じられる堆積した空気に、僅かに咳き込んだ。お世辞にもかぐわしい空気とは言いがたい。だが、それも数度吸い込んで我慢を重ねるうちにやがて鼻の方が根をあげたらしく、麻痺した。
 畳すら敷かれていない、ザラリとした石造りの床。両足に食い込む錆色の輪。その先は、剥き出しの土壁の先に埋もれている。これでは、ここからどこにも動くことができない。
 靴に仕込んだ鍵開け道具を取り出してガチャガチャとやりだしはしたものの、なんとなく得心がいかず、啓斗の手は鈍っていた。
(嘘吐き、という罪がよくなかったのか……北斗がこうまで厳重に囲われていなければいいが)
 手を止めることはないままに、見れば、なぜかこの牢には入口がないことに気づいた。通常、はめこまれている格子には罪人が出入りする為の小さな出入り口のような蝶番のついた部分が存在しているはずだったが、ここにはそれがない。
 なんだ、だったら自分はここにどうやって入れられたんだ、と思ったが、答えがわかるはずもなかった。わかるのは、自分が今、相当強固な意志をもってここに留め置かれていることくらいだ。
 思いがけず、頑強な囚われ方をすることにはなったが、少なくとも自分はマヨヒガが欲していた罪に見合うものを持っていたらしい。
 いいんだか悪いんだか。
 ――幸い、こうして自分を繋ぐ鎖の錠を開けている間の時間は無駄なものではない。
 啓斗は、やはり窓一つない牢の中を見回しながら、北斗の気配を探してみる。離れた所にいようとも、いつもは必ず感じられるあの気配がまったく感じられない。これはつまり、空間以上の何かが仕切られているということなんだろう。
 子供の姿で潜入した時に感じた、あの妙な人の気配。それが今更になって気にかかりだした。
 がちん、と音がして、錆びた鉄の一つが地に落ちた。啓斗を繋ぐ輪はもう一つある。
 あの気配が、いなくなった子供のものだというなら、いい。だが、もし罪人のものだとしたら……?
 戦闘が起こるかもしれない。それは、今の啓斗にとってはあまり楽しい想像ではなかった。
 しばらく、錠をいじるガチガチという硬質な音だけが、響いていた。
 ふと、思いついてポケットに忍ばせていた紙を取り出す。ずっと突っ込んでいたから、少々くたびれかけていた。
 開くと、小さな掘っ立て小屋が姿を現す。件が、描いた絵だった。ここは同じ牢でも、彼がいた場所とは格段に違いがある。こうしてみると、やはり件は囚われていたわけではないのかもしれない。少なくとも、自由に歩き回ることができていたし、今の啓斗のように繋がれたりはしていなかった。
 今も、彼はこの屋敷のどこかにいるはずなのだが……その気配さえも、今は感じることができない。
 囚われの身で、余計なことを考えている余裕もないのだが、なぜか気にかかった。もしもここを出て探すことができるのなら、彼の姿を探してみたいとも、思った。
 がちん。
 二つ目の輪が落ちる。
 小道具を収め、二、三度手を閉じたり開いたりを繰り返して、啓斗は立ち上がった。
 僅かながらにその自分の影がゆらり、と蔵の壁に映りこんだのを見て、どこからか光が忍び込んでいる事に気づく。
光は、一体どこから入り込んでいる?
「……あまり、長居はしていられないからな」
 他の調査員たちとも合流せねばならない。啓斗は小太刀を取り出し、すぅ、と息を吸い込んだ。


2 

一度覚えこんだ匂いを、忘れたことはない。
だから、きっとあの人たちが戻ってきてしまったのだ、と思った。あの時は確かに器であったのに、どうしてまた中身となって舞い戻っているのかがよくわからないが、そんなことは瑣末なことだった。
運ばれてきたということは、新月のはず。新月ということは、またアレが始まるということ。
――――いや、きっともう始まっているのだ。それでなければ、ここがこんなにも生き物の匂いで満ちるわけがない。


「…………ねぇ。嫌な音がしているわ」
 そう切り出したのは、シュラインだった。
 風槻が所持していた内部の写真資料に没頭していた二人、セレスティと風槻その人は、その硬い声音に、はっとなって顔を上げる。

 ぎぃ。……ギィ。ぎぃ。……ギィ。

 声をあげないように、とシュラインが人差し指を唇の前でたてて、合図した。そして目で天井を指してみせる。

 ミシ……ぎぃ、ぎし、ギィ……

 耳を澄ましてみれば、一定の間隔をおいて、聞こえてくる。
 その奇妙な音は、確かに天井から響いているようだった。
 豪華絢爛という文字をそのまま絵にしたかのような繊細な彫りこみを施された欄間。その柔らかな木の曲線が繋がる先の極彩色の絵天井が、何かの重みでたわみ、悲鳴を上げている。
その距離は、三人が立っている場所までほんの数歩の天の上。
何か、これはまずい類のことだ、と誰もが思った。
この無人の屋敷に入り込んでから、初めて感じる他者の気配。その気配は、隠れるどころか、むしろ、ゆっくりとその存在を知らしめるように重く、マヨヒガを震わせる。
――――ああ、足音なのだ。
そう理解できた。
一定のリズムでもって、沈み、軋むその音は、交互に足を差し出すそれに聞こえる。そして一旦そう思うと、もうそれはそれ以外の何者にも聞こえず。三人は決断を迫られた。
その重量からして、真っ当な人間のものではないだろう。
奇怪な足音は、何度も三人がいる空間を含んだ長い長い廊下の天を歩く。
その行ったり来たりを繰り返す音が、いかにも何かを探しているような風体だった。
薄暗い色合いで描かれた十二支たちの目が、ギョロリ、ぎょろり、と動いているような気さえした。湿り気を含んだ息吹が耳に届いた気がした。

足音の主の用向きを深く考える必要はなかった。
ついさっき囁きあった言葉を思い出す。
ここは監獄。自分たちは送られてきた罪人で、今は檻の中に囚われてはいない。
相手は兎を狩る虎。もしくは、亡者を追い立てる牛頭馬頭だ。
逃げてください、と小さくセレスティが呟いた。はっとして、でも、と言いよどんだシュラインに、早く、と重ねる。
「私は、逃げるには不向きです。罪人の行く末を知りたかった。……良い機会です」
この場に似つかわしくない穏やかな笑みでそう言うと、セレスティは右手を天に向けた。左手には蓋を取った小瓶。そこに彼の武器が入っている。
声に反応したのか、足音は止まっていた。無理矢理隔たりのある階層を叩き割ろうとしているかのように、天井板がびりびりと歪み、震える。追跡者は獲物を確信した。
もうあと数分もしない間に、無遠慮にもこの層と上の層には直通の風穴が開くだろう。
その前に早く、ともう一度セレスティが言った。穏やかであっても、それは明確な指示だった。従うべきものだ。
それでも逡巡するシュラインを、背後から強く風槻が引く。
「あっち。音がする。もしかしたら、他のみんなかもしれない。セレスティさんはきっと大丈夫。行こう」
 言いながら、風槻はもう走り出していた。追跡者がこちらを追い始める気配はない。感情を振り切って、シュラインも走る。
 半ば蹴りあけるように襖を開放し、縦横無尽に監獄を駆けた。
 風槻は、自分が撮りためた先のマヨヒガの姿と、今を見比べながら、シュラインを先導する。
 音が聞こえた方向を見失わないように努めた。



ようやくたどり着いたと思えば、もはや手遅れだった。
天井は見事に粉砕され、人の気配は消え、そこには誰もいない。
恐らく、連れて行かれたのだ。ならば、もう自分には手の出しようがない。
行き先はきっと調理場だ。罪あるものの魂を抽出し、こねて、丸めて、料理を施す地獄のような場所。
もうあと数刻もすれば、必ず座敷に真新しい膳が並べられるだろう。
そして、子供が誘われてやってくる。かつての自分たちのように。
運良く会うことができたものは救えても、それ以外はどうすることもできない。
膳を食べてはいけないと、教えることもできない。

深く閉じ込めていた記憶の立ち返りに、吐き気を催し、被っていた布袋を取り去り、えづく。だが、もとより食べ物をとらなくなって長くたつこの体から、何もでてくるはずもない。
とっくに、人間ではなくなっていた。ごわごわとした毛で覆われた口元を押さえながら咳き込む。
この成長しない体。伸びることのない角。顔の横ではなく、頭上についた耳。
人間であった時にはなかったものばかり。そんなことはよくわかっている。もう取り返しはつかない。何者にも劣る行為をしてしまった、其の時から。

だから、せめてできるだけたくさん、助けたかったのに。

それとも。例え死んでしまうかもしれなくても、この口で予言をすれば、其の人たちだけでも助かるだろうか……?
それならば、そうしよう。そうでなければ、かなしすぎる。



「……くだん」
 風槻が小さくそう呟き、頭痛を訴えて倒れるのと、マヨヒガに入り込んで以来、見失っていた三人の姿を見出したのは同時だった。
 大声で呼ばわりながらシュラインたちに近寄りつつあった北斗と啓斗、そして神羅は、突然膝を折った風槻の姿に慌てて駆けつける。
「どうした。何事じゃ」
 問われ、事情が飲み込めないシュラインも首を振る。膝をついた風槻の横にしゃがみこむと、彼女は小さく首を振り、大丈夫、と小さく言った。
「大丈夫ってことないでしょう。真っ青よ」
「本当に、大丈夫。ちょっと、その、『見えた』だけだから」
 額に手をあてるシュラインに、ちょっとした事故だ、と風槻は言った。
 それと一緒に、今見えたものをできるだけ分かりやすく、説明して聞かせた。
 件の意識を『見た』ことを。
 それで、すべてが分かった。マヨヒガのしていること。件が今の姿であるわけ。
「……本気で、しゃれにならねぇな」
 呟いた北斗の言葉は、本気とも場を和ませる冗談ともつかない。
「件はいま、どこにおる」
「わからない。消えた。さっきまで、多分あたしたちがいた方にいたんだと思うけど」
 聞いた神羅に、セレスティも消えている、と風槻は言った。だから、もう本当に時間がないのだ、と。
 マヨヒガは単一に見えて、実は多くの層が重なり合ってできている。罪人が連れて行かれるという調理場に、セレスティはいるだろう。
 件が予言をしてしまったら、彼が作り出された件だとしても、命は助からないかもしれない。
「……なら、行こう。道がいるなら、俺が切り開く」
 二振りの小太刀を構え、毅然と言い放った啓斗に、異議を唱えるものはいなかった。




 その意識が育ったのは、昔ともいえないほどの、ほんの少し前のことだった。一人の人間が生まれて、成長を遂げ、土に還っていくほどの時の、前。
 意識はただただ小さく、愚かで、無力だった。
 誰にもその姿を見てもらうことはできず、誰にも触れてもらうこともできず。
 ただ意識のみが、時折吹き上げては霧散してしまう空風のように浮遊していた。存在しながら、誰にも存在を認めてもらうことができない、そんな空虚な生き物として。
 意識が体を欲しがるようになるまで、大した時間は必要なかった。人が住む家を建て始めて、建て終わるほどの時間。
 だが意識には知恵がなく。その方法を探るのに膨大な時間を費やした。
 しかしどれほどに方法を模索しても、やはり意識は愚かだった。一つも方法を見つけることはできず、相変わらず誰にも触れられず、誰にも見出されない。
 意識は慟哭する。久遠と呼ばれるに等しい、長く、長く、長い時。
 ――――やがて、その哀れな鳴き声は聞き届けられた。
 意識の前に、一人の存在が現れ、言った。
 手伝いをするのなら、願いをかなえてやろうと。
 ただ願うだけで、自ら何もできぬ。矮小で愚鈍なだけのお前に、触れてもらえ、見出される大きな体を与えよう。
 意識は、狂喜した。断る理由がなかった。
 そうして意識は、マヨヒガとなる。

 その体を与えてくれた誰かは、体の中に、たくさんのものを連れ込むようになった。
 時に子供。時に色とりどりな生き物たち。
 生き物たちには、実に多彩な扱い施すように指示された。四角い格子のはまった部屋に閉じ込めたり、引き出しては、真っ白いタイルが一面に敷かれた部屋で切り刻み、磨り潰し、搾り出し、そうしたものを獣の肉と混ぜて膳に盛り付けるように言われた。
 子供は現れては消えていき、戻ってくることも、こないこともあったが、色とりどりな生き物たちはみな他ならぬ意識によって粉微塵にされていった。
 その内に、知らぬ間に獣の顔をした子供が一人体内の奥深くで飼われだし、彼は常にそこにいるようになった。
 その子供にだけは、危害を加えるな、ときつく言い聞かされた。意識は何度も頷いた。もちろんそれを破ることはなかった。

 マヨヒガとなった意識は、ただ嬉しかった。
 自分に触れるもの、自分を見出すもの。
 これでもう、何もさびしくはないのだ。
 だから、その内部で行われていることが何なのか、考えようともせず、体を与えてくれたものの言う通りに、体を開き、時には隠し、閉じて誰も入ってこれないようにした。そうしながら、生き物たちを丁寧に料理していった。
 ずっとだ。ずっとずっと、長い間。
 
 だがそれが今。できなくなっていた。



 調理場と呼ばれていた場所は、あまりに壮絶な状態だった。
 このマヨヒガの中にはあまりにちぐはぐな、唯一現在を思わせる造り。床には一面、タイルが敷き詰められ、部屋のきわには、細長く伸びる溝が辺りを巻くように掘られていた。
 タイルは、元の色が何であったのかさえも分からないほどに、ただの一色で埋め尽くされていた。
 赤。
 一面を埋め尽くす、夥しい量の赤い液体と、原型をとどめていない、ぐちゃぐちゃな肉片と。
 誰のものなのか、などということは、考えなくとも理解できた。だから、誰もが一瞬目を逸らす。
 しかし、そう長く逸らしている暇はなく、皆すぐに視線を戻した。
 部屋の中央に、唯一目を洗う水の障壁が立ち上がり、その中に見知った青年の姿がある。――セレスティだ。
 その前に立ちはざかる、巨大な気配だけのもの。
 その姿はまるで陽炎のように、はっきりとした輪郭を作らず、ただゆらゆらとゆれている。
 そして、皆は見た。
 水の絶対障壁と、巨大な気配の間に立ち――――まるでセレスティを守るように手を大きく両側に広げ、静かに気配を睨みつける。件の姿を。
「……件!」
 たまらず、一人が叫んだ。北斗だった。手には、兄から受け取った件の描いた絵を持っている。
 小さく、件が振り返った。続けて神羅が声を張り上げる。
「件、こちらに来い!」
 だが、件は黙って首を横に振る。すう、と小さな呼気が響いた。
「件、いけない――――」
 水の障壁を咄嗟に解き、手を伸ばした、そのセレスティの手が届くか、届かないかという刹那。

 小さな。とても小さな。だが、はっきりとした無垢な子供の声が場を打った。

「この建物は、崩れ落ち、囚われた人は皆救われるだろう」
 よって、件の如し、と。


 ――――気配が、ぶるり、と震えたように思われた。
 そしてしん、と静まる。

 数秒の間、誰もが動かなかった。
 やがて、天井から小さな欠片が一つ、カラリ、と音をたてて落ちた。

 風槻がはっとして叫ぶ。
「だめだ、崩れる……!」
 その声にかぶさるように、激しい轟音が耳を劈いた。
 ぐにゃり、と地団太を踏むように大きく歪んだ床に、北斗がシュラインを、啓斗が風槻を抱えて飛び退る。
 神羅は、倒れる件を抱えたセレスティにいち早く駆け寄り、代わろう、と手を差し出した。礼を言いながら、セレスティが叫ぶ。
「出口に! そこまで出れば道があります、急いで!」


 件の予言が、成就する。
 マヨヒガのすべては、意識ごと、今崩れ落ちていこうとしていた。



 その数日の後に。
 無数のモノノケどもを飲み込んでは日々を騒ぎ立てる化猫銀座では、まことしとやかに囁かれている噂があった。

――ここのところ、黒吉大将の店がずっと閉じているが。
――ああ、知っている。どうやら、何かかくまってるらしいじゃないか。

――なんだ、それは。何をかくまっているってんだ。
――なんでもね……例の「件」だという話だ。

――件だと! なんとおっかねぇ。

――いや、待てよ。俺はこう聞いたぞ。
――なんだ。
――件は件でも、予言をせぬ件だと。早い話が、もう件ではないんだとよ。

――……なんだそれは。
――よくわからんがなぁ。

 バケモノたちが述べる噂は、真のこともあれば、偽りであることもある。
 故に、此度の噂の真相もやはり、定かではない。




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名         / 性別 / 年齢 / 職業    】
【0086    シュライン・エマ       女性    26   翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0554    守崎・啓斗          男性    17   高校生(忍)】
【0568    守崎・北斗          男性    17   高校生(忍)】
【1883    セレスティ・カーニンガム   男性    725   財閥総帥・占い師・水霊使い】
【4790    威伏・神羅          女性    623   流しの演奏家】
【6235    法条・風規          女性    25   情報請負人 】

(整理番号順)
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■         ライター通信          ■
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いつもお世話になってます方も、はじめましての方も、ご挨拶申し上げます。
猫亞です。

まずは、大変申し訳ございませんでした。
体調管理の甘さから、納期を遅らせてしまいましたこと、心からお詫び申し上げます。
お待ちいただいていた皆様に、本当にご迷惑をおかけいたしました。申し訳ありません。

今回のお話ですが。
エム・リーWRとのコラボ作品ということで、初の試みを致してみましたが……。
も、申し訳ございません。プレイングも反映できたりできなかったりと……(前回もこんなことを言っていたような・汗)
陽に比べてうまく書き込めていない箇所が目立ってしまいました。

それよりも何よりも当初予定していた伏線消化だの、話の大筋だのを強行しつつも、何とか纏め上げよう作戦が、後半からかなり早足になってしまいました……。
あまりの長文になっていることに気づき、慌てて削ったり、省けるところはできるだけ省いたり、とやってみたものの……。逆にそっけなくなってしまっている点も多々あり、あまり成功はしていないような気がします。
今後これをバネに、日々精進致します……。

ただ、皆様のプレイングがどの方もとても鋭くて、当初あったプロットからどんなお話に持っていこうか、とか、ここはどういう風に使わせていただこうかなぁ、とか、本当に楽しく考えさせていただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

それでは、あとがきまで長文になってしまいました。
またご縁がありましたら、どこかで。

この度はご発注いただき、まことにありがとうございました。

猫亞