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<東京怪談ノベル(シングル)>


『化粧』



「ちゃんと言った金額持ってきた?」
 あたしは意識せずとも相手の恐怖をあおるような笑みをくすりと浮かべられる。
 浅黒い肌。
 闇が流れ出した様な黒い髪。
 そして立体的に飛び出したように見えるぎょろりとした両目。
 あたしは出目金だと幼い頃から虐められていた。
 だから、人の心殺ぐような(削ぐような)笑みを浮かべるのは得意。ずっとあたしが浮かべられてきた様な笑みを浮かべれば良いだけで、そしてそれはもう心に刻まれているから。
 ―――そう、あたしが虐める側になっても、あたしはその頃の痛烈に心に刻まれた虐めの記憶を夢に見るから。
 あたしの心は傷だらけで、そしてその傷から流れる紅い血は、あたしの心を真っ赤に染めあげるだけでは飽き足らずに、あたしの心の温度を奪ってしまった。
 だから、
「じゃあ、また来月、ちゃんとお金を運んできてよね。あたしのお財布さん」
 他人を自分と同じ様に虐めるのは得意。



 ―――そう、それはそんな憐れで哀れで愚かな少女が一羽のカラスに出逢う話。
 虐めによって心凍らせたという彼女が一羽のその化けカラスと出逢う時、暗鬱で陰鬱な物語の舞台装置の歯車は噛み合って、物語は始まる。



 Open→


 東京歌舞伎町。
 夜の闇は煌びやかなネオンの光りに陵辱されて、その存在意味を否定される。
 夜の闇とは人の心を浮き立たせるための魔法の手。
 昔は太陽が沈みかけた頃合から男は下品になり、女は卑猥な匂いを身体から醸し出す様になった。
 昼間の太陽の下では明るすぎて、下品な自分、淫乱な私は、良心に咎められた。
 だけどこの歌舞伎町のネオンの光りは、そんな下品な心も、卑猥な欲情も、鷹揚な広大さを持って、肯定してくれる。
 そこはそうである事を許される場所。
 そしてそのネオンの明かりをつける手は、今夜もその魔法の指先で、人に金を落とさせる。
 東京歌舞伎町。
 明るいネオンの明かりに群がるは蛾。
 ひらひらと、ひらひらと、ひらひらと、人間という蛾が、そのネオンの明かりに群がる。
「焼け焦げてしまえば良いのに」
 出目金のように目をぎょろりとさせた彼女は浴室のすりガラスの向こうにたむろう蛾を見据えながらそう囁く様に口にした。
 浴室のタイルの上に転がったシャワーから激しく流れ出る音に掻き消されるまでもなく、彼女の後ろから彼女の身体を貪り喰らっている男は自分の腰を動かせる作業に忙しく、また感じる快感に溺れていて、そんな彼女の言葉など聞いてはいない。
 そして彼女もただ自分の身体を男に貪り喰らわせるだけで、心の隙間を埋めあう様な会話など望んではいない様に、自分の口にした言葉がシャワーの音に掻き消されて、その掻き消した音と共に排水溝に流れていく様な湯を眺めていた。


 ―――別に今更あたしの言葉なんて、誰かに聴いてもらおうとは思わないわよ。


 それは少女の、いや、もはや大人の女性になった出目金そっくりの彼女の本音だった。
 それをすりガラスの向こう、夜の闇に溶け込む黒で身を染めあげているその男は知っている。
 レイリー・クロウ。
 その男の名前だ。
 そして、その男はカラスへと身を変えて、夜の闇に死者が歌うアリアのように一つ、鳴き声をあげた。



 カラスはずっと彼女を見ていた。
 時に空の上から。
 時に電線にとまり。
 時に夜の闇に紛れて。
 その彼女の本質を見極めようとする様に。



 ―――ええ、私は人間の心に、興味があるのでね。



 レイリー・クロウ。
 彼にそのストーキングの理由を訊ねれば、彼は即座に言いよどむ事無くそう答えてくれるだろう。
 決して忘れるな。
 その男、レイリー・クロウは追憶者なのだ。
 故に彼は人間というモノを観察している。
 そして、だからその男に対して優しさも、近親感も、親しみも、人間が仲良く付き合う他人に対して抱く様な感情を抱くな。
 化けカラスにあるのは、ただ光り輝く物を集めてくるそのカラスの習性にも似た、拘りのみだ。


 拘りとは、何かと?
 ―――それは、人間の心を理解する事。



 レイリー・クロウ。
 闇夜が濡端の闇色の形を成した様な怪人。
 一羽の化けカラス。
 追憶者。
 故に観察者。
 だからその化けカラスの怪人は、人間の研究者が試験管の中の薬品の効能を知るためにモルモットを使う様に、
 ―――――人間に、不幸を運び、それによって身を崩す人間の心というモノをただ観察している。


 だから、その化けカラスの怪人に、心許すな――――。



 +++


 ベッドの上であたしは裸で横になっていた。
 男は下半身だけを洗い、とうに部屋は出て行ってしまっている。
 何かの小説で読んで仕入れたネタなのだそうだ。仕事で一日中外で過ごす男の身体には予想以上に匂いが染み付いているから、かえって情事の後にそれらの匂いを消してしまうシャワーを浴びるのはよくない。下半身だけを洗い、その後居酒屋などに寄って、さらに酒の臭いを身体に染み付かせれば、アリバイ工作は完璧なのだと。
 あたしに言わせれば、そんなものはただの机上の空論としか思えないけど。
 女の、妻が嗅ぎつける旦那の臭いは、男の身体に漂う精の臭いではない。心が放つ、甘い腐臭なのだ。
 だから身体の臭いをどんな工作で誤魔化そうとしても、それは無駄だ。
 それにあーいう男はきっと、そのうちにスーツのポケットに入れっぱなしのままにしてある娼婦の名刺を見つかって、喧嘩になってしまうものだ。あたしの父親がそうだった。
 その時の事を思い出して、あたしは笑った。
 あたしはいじめられっ子だった。
 それで登校拒否になったが、父親はそれに怒り、あたしの言い分など何も聞いてはくれずに、ただあたしを叱り付けて、無理やり学校に行かせていた。
 そしてそれは父親への不満はあるものの、されど離婚をしても、その後の何の保証も無い生活が怖くって、離婚を言い出せずに、その挙句娘への無関心、ネグレクトで、あたしに八つ当たりをしていた母親も同じだった。
 そんな家庭環境だった。
 最悪の家庭環境だった。
 人一倍世間体を気にする癖に、自分は会社の若いOLに手を出している最低の父親、そんな男に自分の生活のためだけに媚びへつらい、娘をネグレクトする母親。
 そしてそんなそんなそんな、最低の環境で育つあたしを虐める、恵まれた家庭で育つ子どもたち。
 ―――いや、恵まれているからこそ、彼らはあたしを虐めたのだ、と、今ならあたしもわかる。
 子どもとは、自分よりも弱く可哀想な存在を見つける事に関しては天才的だから。
 だけど、ある日、その立場は逆転した。
 あたしはいじめっ子のリーダーだった娘の弱点を掴んだのだ。
 それはあたしが高校生になった頃の事だった。
 有名私立女子高に進学した彼女が万引きをしている現場を携帯電話の動画で撮ったのだ。
 そしてそれであたしはその娘を強請った。
 その事に罪悪感は無かった。
 向こうもあたしを虐めたのだ。ひどく虐めたのだ。だから、これは復讐。相手が悪い。こいつが悪い。この女の自業自得。
 ―――やられた事を、やり返すだけだ!
「これなーんだ?」
「あら、そんな命令口調で言って良いの?」
「この携帯電話のペアにはまず最初にあんたの学校の電話番号とメアドが登録してあるのよ? あと、このご時世、素晴らしきネット社会。動画掲示板なんて物もあるわよね? あー、あんたは自分のHPも持っていたよねー。有名私立女子高校の生徒が万引きだなんて、きっと、退学処分、いえ、自主退学しろ、って学校に言われちゃうんでしょうねー。お父様は議員でしたっけ?」
「くすくすくす。泣いて謝れば許してもらえると思っているの?」
「っていうか、謝るのってさ、あたしを虐めた事を謝るべきなんじゃないの? あんたがあたしを出目金みたいだなんて言うからあたしはその後ずっとそうやって虐められたのよ?」
 万引きの証拠を突きつけられた彼女はあたしの言いなりになった。
 彼女はさすが議員の娘で、あたしの言うままにお金を貢いでくれたのだ。
 あたしはお小遣いもお年玉も貰った事なんか無かったけど、彼女は幼い頃から高額なお小遣いとお年玉を貰っていて、それを溜め込んでいた。
 だから、あたしはどんどん彼女に高額な金銭を要求していった。



 ―――だけど、そのお金で買った物は、どれも買った瞬間につまらない物になって、どれほど美味しいと言われている料理だって、味は無かった。
 彼女に要求するお金をあたしはただ無為に自分の机の引き出しの中に仕舞い込んでいった。
 そう、泣いている彼女の顔を殴る度に、彼女に金銭を要求する度に、彼女に携帯電話の動画を見せる度に、あたしの中のもうひとりのあたしが叫ぶその言葉を一緒にそこに仕舞いこむように。



 そしてある日、もう彼女が貯金が尽きたのでお金を払えない、と泣いて言ってきた、そのメールを受信した時、これでやめよう、だけど、それを伝えるメールは彼女に送らずに、その後もずっと彼女があたしの影に苦しむ様に、そういう形でこれを終らせようとそう思った。
 でもそこであたしはさらにあたしの運命を変える重大な出会いをした。
 最後に彼女から強請り取ったお金全額を使って豪遊してやろうと思って行ったホストで、あたしは運命的な出逢いをした。
 人生で初の重大な恋をした。
 あたしはこの人のためなら何にだってなれると思った。
 そしてこの人の喜ぶ事をしてあげたいと思った。
 あたしが彼を指名して、初めて指名してもらえた、って、喜んだ彼のとても嬉しそうな笑い顔を見た瞬間に。


 あたしはその夜、初めて女になった。


 彼を歌舞伎町のNO1のホストにしてあげる、それがあたしの生き甲斐になった。
 そして、そのためにあいつから巻き上げるお金を使う事にももう良心は痛まなくなった。
 あたしの一番大事な人の為に、あたしを苦しめた奴から巻き上げたお金を使う。なるほどそれはとても正しいお金の使い方に思えたのだ。
 ああ、あたしは最高に幸せだ―――。
「貯金が尽きたのなら、あんたが稼げばいいでしょう? その身体でさ。あんたの高校のネームバリューを利用しない手はないんだしさ」
 あたしは、あたしを虐める時にこいつが浮かべていた表情、そっくりの表情を浮かべてやった。
 ―――そして、そのあたしの表情を見て、とても怯えたこいつの顔を見て、とても嬉しく思い、
 同時にあたしを何かとても醜いものであるかのような、そんな風に見ているのであろう、こいつの目の色にムカついて、
 彼女を殴って、蹴った。


 そしてあたしはまだ当時16歳だった彼女を堕とした。


 彼はその事を知っていたが、しかし知らないフリをして、あたしに高額なお酒やフルーツを買わせた。
 あたしを抱いた。
 ―――ねえ、聞かせて? あんたはあたしをどんな思いで、抱いていたの? 笑える楽器、それともただの便所?



 そしてあたしの誕生日、あたしは18歳になって、
 彼に彼のお店の系列店である女が大人のサービスをする店に売られた。
「な、頼むよ。もう少しなんだ。もう少しで俺は歌舞伎町でも有名なホストになれて、そしたら、自分の店が持てる様になるんだ。だからさ、な。お前が俺を支えてくれよ。俺はお前にも俺と同じ夢を見て欲しいんだよ」
 その言葉は、あたしにあたしを捨てさせる事を、躊躇わせなかった。
 あたしはこの恋に全てをかけていたから。
 だからあたしは、彼のためなら何にだってなれるんだから。



 そうしてその男は、あたしを売って、
 あたしの他の女も売って、
 女たちに貢がせたお金で公言通りに店でNO1になって、晴れて系列店の店長となり、そうしてホストを取り扱ったテレビ番組などで有名になって、今は芸能人となって、テレビで活躍している。
 しかも、女たちには貢がせた事は一度も無い、枕営業一切無しの清廉潔白なホストだった、ととても甘く綺麗な笑みを浮かべて嘘を吐いて。
「よくもまー、そんな嘘を幾つも言えるわよね」
 だけどあたしは、呆れていたけど、怒ってはいなかった。
 そんな感情なんか、当の昔に無くなっていた。
 身体をどれだけ男に触られてももう感じはしないし、舌も機能しなくなっていた。何にもあたしには無くなっていた。
 そして、いつも稼いだお金は全てあたしが働く店から系列店のホストに筒抜けになっているので、あたしがサポートしているホストに全部巻き上げられて、ただただ味もしない、気付けばあたしの身体がお酒と胃液臭くなるだけの液体を喉に流して、そうやってボロボロになって帰っていると、
 その出会いは唐突にそこにあった。
 道端に酔い潰れて、吐いていたあたしの背中を、誰かが摩ってくれて、そして、驚く事にあたしはその手の感触に覚えがあったのだ。どれだけ触られてももう反応しない身体だったのに、なのにその手にあたしの身体はとても心安らかになっていったのだ。
 あたしが振り返ると、そこにはあたしの初恋の彼が居た。



 +++


「おや、あなたの初恋は今はカレーの箱を手に歌って踊っている男じゃなかったのかい?」
「それは二番目の恋よ、カラスさん」
「だけどあなたはホストが一番愛した男だと言わなかったかい?」
「女にとってその恋は、いつだって一番なのよ。ああ、カラスには女の複雑な心は理解できないかしらね?」
 皮肉げに笑う彼女に私は肩を竦めた。
 そして彼女はそこで、さらに苦そうに顔を歪めた。
 ああ、だけど私に皮肉を言った事を悔いての事では無い。
 ―――それが、彼女の心の隙間で、私がつけ入った物だ。
「それを直したいのかな?」
 私は彼女に微笑む。
 彼女はそんな私の表情を見て、厭らしい男、と言ったが、しかしそれを否定しなかった。
「彼が好く女はあたしの様な女じゃない。あたしを虐めていたあの女の様な、女の子女の子した娘だったのよ」
 そしてそこで彼女は、よく男の批評をする女が口にする言葉を彼女も口にした。
「本当に男って、馬鹿よね。本性を見抜け、って言うのよ」
「おや、あなたは彼氏の事が好きなんじゃないのかい?」
「だから、好きだからそう言うのよ。本当に女心、わかってはいないわね」
 私は肩を竦め、それからマントの内側からそれを出す。
 私の手の物を見て、彼女は眉根を寄せる。
「化粧ポーチ?」
 私は、彼女に微笑んだ。



「そうだよ。あなたが望むのは、あなたが彼の好く女の種類の女になる事。それは至極簡単な事でね、私に言わせれば。あなたが先ほど私に口にした様に、本性を隠せば良いのさ。つまり、顔に、心に仮面を付ければ良い」



 化粧という行為の名前に化ける、という言霊が使われているのは、そういう事だから。
 女は、自分の顔を化粧する事で、まったくの別人となる。化ける。
 仮面を付ける。
 その化粧で、仮面をすれば良い。
 そうすればあなたは、彼が好く女になる。



「そういう理屈はわかるだろう? あなたが仕事の時は、あなたが一番嫌いな母親の香水と同じ香水を使っているのとそれは同じ事なのだよ」
 
 
 +++


「そういう理屈はわかるだろう? あなたが仕事の時は、あなたが一番嫌いな母親の香水と同じ香水を使っているのとそれは同じ事なのだよ」
 あたしはそれを戯言だと切り捨てなかった。
 もちろん、あのレイリー・クロウとかという妖しげな男(しかも自分の事をカラスの化け物と呼んでいるし)の言う事は眉唾物で、この化粧ポーチの中の化粧品だって道端や化粧品店で無料配布している試供品にしか見えなかった。
 それでも彼の語った事は納得できた。
 それはつまり精神論なのだ。
 そしてそれをあたしは彼が言う様に18歳の誕生日から確かにやっていたのだ。
 あたしはあの18歳の誕生日に研修と言う名の暴力を受けた日から、店に出る時は父に暗い感情を抱きながらも離婚できなかった大嫌いな母親と同じ香水を身体に付ける様になった。
 ―――大嫌いな臭いを香らせるあたしは、あたしじゃないでしょう?
 つまりあのレイリー・クロウとはとんだ詐欺師か、もしくは優秀なカウンセラーと言ったところ。
 そしてあたしは、
「本当に馬鹿ね、あたしは。それでその気になっているんだから」
 愚かな女。
 鏡の中のあの化粧道具で化粧したあたしは、彼が好くあたしになっていた。
 あたしは、そういう仮面をかぶった。



 彼は大学を卒業して大学院に進んでいた。
 専攻は発達児童心理学で、将来は小学校や中学校、高校などでカウンセラーとして子どもの悩みなどを聞く事を職業にしたいと彼はとても綺麗な笑みを浮かべて語ってくれた。
 それはとても彼らしいと思った。
 彼だけだったのだ。教師にすら虐められたあたしが授業中に笑い者にされても、笑わなかったのは。
 そう、それはとても彼らしい未来―――


 あたしはそんな彼の未来がとても嬉しかった。
 ―――喜べるあたしとなった。
 レイリー・クロウ。彼がくれた化粧品という仮面のおかげで。
 23歳のあたしたちはまるで思春期の少年少女のような初心な恋をした。
 いくども男の初めての女をして、男を満足させてきたこのあたしが、彼の前では初心な生娘だった。
 蝶よ、花よ、そんな風に大切に、大事に育てられた娘の様にあたしは幸せに過ごせた。
 そしてあたしは、殺された。



 +++


 ある雷の日に、あたしたち夫婦は彼女を殺した。
 とっくの昔に、あのホストと切れた日に、あたしはもう彼女の事は放ったのだ。
 彼女はあたしと同じ娼婦に身を堕とし、そしてドラッグ中毒で、あたしよりも最下層の女となっていたから、もうそれで良かった。
 そんなあたしに、彼女はドラッグのせいで真っ青な顔をして、包丁を持って、襲い掛かってきて、
 そして彼女に殺されそうになっていたあたしを、彼が助けてくれた。
 彼は彼女を後ろから羽交い絞めにして、それで右腕で頚動脈を絞めて、殺したのだ。
「大丈夫か?」
 彼女の死体を足下に転がし、彼は力無く笑い、その後に泣きながら笑って、やがてそれは号泣に変わって、彼は警察に自首すると言い出した。
 あたしはそれを止めて、
 そして、あたしは彼と一緒に彼女を借家の裏にある沼に捨てたのだ。
 それであたしは全てが終ったと思った。
 あたしたち夫婦が暮らす家は、山間の村の隅にあり、その日は酷い雷で、村人は誰も家から出ていなかったから、あたしたちがした事は誰にも見られてはおらず、
 あたしは安心していた。
 過去の亡霊はこれで完全に消えた。消滅したのだ。あたしの仮面の下の素顔以外は。
 彼は豊かな森がある場所で、念願どおりに小学校、中学校、高校へと赴いては、カウンセリングをしていた。
 夢を叶えていた。
 だけど、一つの噂が聞こえてきた。彼は病気なのではないのか、と。
 そう。目に見えて彼の顔色は悪くなり、顔は酷くやつれていったからだ。
 あたしの素顔もそうだった。
 化粧を落とした29のあたしの顔はしかし、老婆の様であった。
 しかしあたしはその素顔を化粧という仮面で隠したのだ。
 若い妻。
 かわいらしい奥さん。
 あれだけ夢見た、蝶よ花よ、と大切に大切に育てられた娘が、綺麗な良い歳の取り方をした、そんな女の仮面を付け続けたのだ。
 だけど、そんなあたしを彼女は許さなかった。
 彼女は幽霊となって、あたしをストーキングし、どれだけ掃除しても掃除しても家の床は沼の水と泥で、彼女の足跡と、抜け落ちた髪で汚れた。
 いや、それだけじゃない!
 家の壁、天井、床、扉、窓は彼女の手形や顔の址で汚れて、
 彼女はあたしの傍らに毎夜立つ。
 あたしの素顔はやつれ、
 その顔をあたしは化粧と言う仮面で隠し、


 隠し、隠し、隠し――――


 そして、やはり同じ亡霊を、悪夢を見る夫と同じ精神の薬を飲んだあたしは、とうとう風呂場の蓋を開けたら、ぐつぐつと煮立った風呂の湯の中から、あたしを暗い瞳でぬぅー見上げる彼女と目が合って、
 心臓麻痺で死んだ。



 ――――誰も居ない、死体となったあたしの亡き骸と、それを見据える幽霊のあたし以外誰も居ない霊安室に、一羽のカラスが舞い降りた。
 レイリー・クロウ、化けカラスの怪人だ。



 +++


 私はその霊安室に舞い降りた。
 そして自分の死体を前に、だけど妙にさばさとしている彼女に小首を傾げた。
 彼女はそんな私を見て、チェシャ猫のようにニヤニヤと笑った。
 私は観念して肩を竦めた。
「だから感情の深さでは男は女には敵わないし、とくにカラスのあんたには無理よ」
「では単刀直入に訊きましょう。あなたは彼を恨んではいない?」
「騙していたのはお互い様だしね。あたしも、彼も、お互いを騙していた。彼はあんたにもらった仮面で、復讐者の素顔を隠していて、あたしはその彼の仮面に幸せを見ていた。彼と彼女はあたしの仮面を見て笑っていた。でも良いのよ、あたしは、もう」
 私はふむと頷く。
「てっきりと私はカラスの癖にコウモリの様に両方に良い顔をしていた事を詰られると思っていたのだがね」
「そうね。あたしは思っているわよ。本当に不幸で可哀想なあたしが、そんなあたしを虐めたあの女を虐め返して、復讐しただけなのに、なのに何でその可哀想なあたしがこんな風にあの女と、夫に殺されなきゃならないのよ、って。自分が可哀想で可哀想でしょうがないわよ」
 ふん、と鼻を鳴らした彼女に私はほくそ笑む。
 そういう人間の概念は、既に学習済みだ。
「ああ、人間にはそういう魂のルールの様な物が存在するね。人間はそれの事を、【人を呪わば穴二つ】と言う。あなたの事もそれ。自業自得だ」
 私は追憶者にして観察者。
 故に私は優しくない。
 だからここでかの怪奇探偵の彼の様に彼女に奇麗事は言わないし、諭したりもしない。彼の妹の様に彼女と共に何がいけなかったのかを一緒に考えもしない。
 私はただの観察者だ。


 だから、すっかりと変わり果ててしまった初恋の女性の変わり様に嘆き苦しみ、彼女の治療やリハビリに専念していた彼の、彼女に復讐をしてやりたいという願いを、その願う感情こそが私の研究対象として相応しかったから、
 そしてそんな事とは知らずに、復讐心に般若の形相となる、そしてまた同時に哀れみをも感じてしまう心を隠すための仮面を必要とした彼に恋をして、すっかりと醜くなった自分を恥じるその乙女心をさらに際立たせる仮面を必要とした彼女の前にも、その感情もまた私の研究対象として相応しいから、
 だから私は彼と彼女の前に、舞い降りた。
 仮面の二面性の研究として。
 私はここで彼女に告白するべき事を思い出し、それを口にする事にする。
「一つ、ネタばらしをしても良いですか?」
「何よ、化けカラスさん。まだ何か企て事をしていたの?」
「ええ。実はあなたや彼に、それからあの彼女にも渡した化粧品は、ただの路上や化粧品店で無料配布されている試供品の化粧品をただ、永遠に無くならない様にしただけのモノで、効果自体は、ただの無料配布の化粧品です」
 そしてこの私の告白に、彼女はニヤリと笑った。


 ―――知ってたわよ、そんな事は。あの化粧品を使い出して、肌が荒れたから、ああ、やっぱりこれは安物以下の無料配布品の化粧品だ、ってね。



 私はあの世へと彼女の魂が旅立ってしまった霊安室で、彼女の遺体を前に、肩を竦め、それから彼女の顔から、まるで彼女の顔の皮膚を剥ぐ様に、その妙にあたしの人生、悪くは無かった、と言っているような顔の表情の膜を剥がし(パックを剥がす様な感じを想像して欲しい)、
 この霊安室から私も消えた。


 余談だが、高額な財産を持っていた妻に更なる高額の保険金をかけて殺した彼女の夫と、その殺された妻とは小中学校が一緒で、高校進学時から殺された妻に強請られて、酷い人生を歩まされた彼女は、その悪行がばれて、警察に逮捕された。
 あの雷の日の惨劇、夫婦に殺されたはずの女が、しかし妻が死んで直ぐに夫の後妻になった事に驚いた村人(夫婦にとても世話になったし、どう見ても正当防衛だったので、その村人は黙っていた。)が警察に密告したのだった。


 →closed