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Sweet the first
一月も下旬を過ぎると、街が突然華やかになる。
ケーキ屋の店先に並ぶのは、工夫を凝らしたチョコレート。
それは恋人達が想いを確かめ合ったり、勇気のない女の子の背中をそっと押してくれる、聖バレンタインが祝福する一日。バレンタインデー。
「…って、その日も普通に仕事だからあんまり関係ないけどな」
蒼月亭のカウンターでいつものように煙草を吸いながら、ナイトホークはつまらなそうにそんな事を言った。
従業員の立花 香里亜(たちばな・かりあ)の「二月のイベントと言えば?」という質問に、真顔で「節分とうぐいす餅販売だろ」と言ったほど、ナイトホークはバレンタインに興味がなかったらしい。
コーヒーミルを刷毛で掃除しながら、香里亜は呆れたように溜息をつく。
「えーっ、バレンタインデーは別に恋人だけのイベントじゃありませんよ。私、高校生の時友達と『友チョコ交換』しましたし、この時期デパートに行くと色々なチョコが売っているんですよね…今年は東京だから楽しみなんです」
「自分で食う気満々じゃねぇか」
そうは言いながらもナイトホークは考える。
チョコレートは嫌いじゃない。
恋人や想い人がいるのなら、それぞれ手作りの物を渡したりするのだろうが、全くそういうのに縁がない者もいるだろう。チョコレートと洋酒や、コーヒーなどで楽しむのは面白そうだ。お互い持ち寄ったり交換という形なら、恋人がいないものでも楽しむことが出来る。
「チョコレートパーティーでもするか…」
吸っていた煙草を消し、ナイトホークはふっと天を仰いだ。
「そうよね、チョコレートデーよね」
自宅の台所で、小さな鍋に赤ワインとフォンドヴォーを入れながら、シュライン・エマはウキウキとした気分でバレンタインの準備をしていた。
最初は『ブランデーと生クリーム入りビターチョコフォンデュ』でも用意しようかと思ったのだが、甘い物ばかりだときっと飽きてしまうと思い、変わり種の物を持っていこうと一生懸命用意しているところだ。
「武彦さん、ウスターソース取ってくれるかしら」
パーティーには、いつものように草間興信所の所長でもある、草間 武彦(くさま・たけひこ)も誘っている。
「びっくりチョコでも作るのか?」
煙草をくわえた武彦は、台所に漂う赤ワインの香りに少し不思議な表情をしながら、テーブルの上に置いてあるウスターソースをシュラインに手渡した。
一体シュラインは、ウスターソースなど使って何を作るつもりなのか。そっと横から覗き込んでいる武彦に、シュラインが悪戯っぽく微笑む。
「やだ武彦さん、チョコレートにソースを入れる訳じゃないのよ。今作ってるのはお砂糖の入っていない、お肉にも合う『チョコレートソース』なの」
元々ココアもチョコレートも、同じカカオ豆から作るものだ。シュラインが作っているのは、赤ワインなどに無糖のココアパウダーをくわえるスパイシーなソースであって、普段食べているチョコレートからは遠い。無論ソースだけ持っていっても仕方ないので、今日は『ラム肉のフライドステーキ』に添える感じになっている。
それを聞いた武彦は、何か納得したように頷いた。
「カカオは何も入れなきゃスパイスだもんな…チョコって言われると、先入観が」
「ふふっ、南米とかだとポピュラーで、意外とお豆腐でもスパイス配合によってはいけるの」
赤ワインを煮詰めている間に作るのは、『チョコのフルーツグラタン』そしてもう一つ…。
「ふふふふふふ」
これは自分も口にするのが楽しみだ。中身は蒼月亭に行くまでのお楽しみ。
ほんのりとした嬉しさを感じながら、シュラインはコンロの火を小さくして微笑んだ。
「香里亜何作ったんだ?」
まだ客が入っていない蒼月亭のカウンターで、リキュールの瓶を拭きながらナイトホークが顔を上げた。今のところ店内にいるのは香里亜と「手伝って」と呼び出された太蘭だけだ。
ナイトホークにそう言われ、香里亜はそっと冷凍庫を開ける。
「お酒とかでほてった舌を冷やすのに、冷たい物があるといいかなって『チョコレートアイス』にしました。そういうナイトホークさんは?」
「俺はチョコレートリキュール使ったカクテルとか、チョコレートドリンク出すからそれで」
一応チョコレートパーティーとは言っているが、あまり甘い物ばかりでも胸焼けがするだろう。味覚を変えるためのチーズやキッシュ、そんな物も並んでいる。太蘭はドアの方をチラと見ると、手に持っていた包みを差し出した。
「俺は今日は客じゃないのか?」
いつもは作務衣姿だが、今日の太蘭はカウンターの外でナイトホークと同じようにベストにネクタイという姿だ。皿を出したりするのを手伝いながら、太蘭は小さく溜息をつく。
「バレンタインに暇な者同士、手伝ってくれてもいいじゃん」
「手伝うことに異存はないが、こんな事なら手みやげを家に置いてくれば良かった」
太蘭が持ってきたのは『ショコラティエ・エリカ』のミントチョコだった。二十年前から白銀台にあるチョコレートショップで、香りと口溶けの良さが自慢のショコラティエだ。
ふうと溜息をつきながらも、しっかりと手を動かしている太蘭とナイトホークに、香里亜が笑う。
「はい、仲良く仲良く。お客さん来ましたよ」
ドアベルを鳴らして最初に入ってきたのは、デュナスと雅隆だった。うさぎの耳が付いたシルクハットに懐中時計姿の雅隆は、どうやら「不思議の国のアリス」のうさぎをイメージした格好らしい。
「いょーう」
「こんばんは、今日はよろしくお願いします」
そう言いながら、デュナスは香里亜に鮮やかなイエローの箱を差し出した。フランスの友人から送ってもらった『パスカル カフェ』のショコラで、洋酒が入っているのといないものの二種類だ。それを見て、雅隆も持っていたカバンの中身を一気にカウンターの上に開ける。
そこから飛び出したのは、十円で買えるチロルチョコの『きなこ餅』の黄色一色…。
「ちょ!一気に出すな、このバカ!」
床に落ちそうになるチョコを皆で受け止めると、チョコをばらまいた当人はけろっと一個手に取り、それをぱりぱりとあけている。
「バカって言った方がバカなんだよぅ。それにこのチョコレート美味しいんだよ。箱買いしてるー」
取りあえずこの二人に関しては少し放っておいても良いだろう。太蘭は客の影を確認し、そっとドアを開けて招き入れる。
「あら、今日は太蘭さんもバーテンなのね」
そう言いながら武彦と手を組んだシュラインが入ってきた。手みやげは『ラム肉のフライドステーキ』に、スパイスを利かせたチョコレートソース。無論甘みは全く入っていないので、ほろ苦い大人の味だ。そして『チョコのフルーツグラタン』と、もう一つ…。
「シュラインがこれ食べるの楽しみにしてたんだよ」
もう一つは武彦が取り出し『日本酒ボンボン』で、灘の白鹿本社でしか売られていない限定チョコだ。シュラインはこれを口にするのをずっと楽しみにしていたという。
それを言われ、少し恥ずかしそうに微笑むシュライン。
「アルコールアレルギーとか大丈夫かしら?」
「あ、ドクターが…」
そっとデュナスが雅隆を示した。アレルギーというわけではないが、お酒はあまり得意ではなく飲むと寝てしまうらしい。
「でも、他の物は大丈夫だから、それ食べるー」
カウンターに座ると、目の前のグラスにシャンパンが注がれる。その間にも皆着々と集まっていた。
「一人一箱です。余ったぶんはスタッフの皆さんで分けてください」
「ひ、一人一箱って、ヴィルアさんいいんですか?ショコラ様ですよ?」
ヴィルアからブルーグリーンの袋を手渡された香里亜は、おずおずそれを受け取りながら何故か捧げ持つようにそれを席に並べた。どうやら香里亜は『パトリック・ロジェ』を知っていたらしい。だが、ナイトホークは何も知らないのか、手渡されたチョコの箱を振っている。
「ショコラ様って、大げさだな」
何か言おうとした香里亜の肩をポンと叩き、ヴィルアは口元に人差し指を立てた。値段を言ってしまうのは野暮だ。美味しい物は美味しい…それだけでいい。
「あと、香里亜サンこれを飾ってください。聖バレンタインのエンブレムの薔薇ですよ」
花瓶に薔薇が生けられ、辺りがまた華やかになる。そこに『ザッハトルテ』の箱を持った魅月姫が現れ、入り口で優雅に礼をした。
「今日はお招きいただきありがとう。ザッハトルテと、香里亜にはこれ…」
ザッハトルテは皆で食べるものだが、魅月姫は香里亜に別にチョコレートを用意していた。ウィーンの老舗『デメル』のトリュフ…『デメルを訪れずして、ウィーンを語るなかれ』という言葉があるほど、デメルは歴史のある老舗だ。香里亜はそれを受け取ると、満面の笑みを浮かべて礼をする。
「ありがとうございます、魅月姫さん。今度私からもお返ししますね。でも、どこで買ったんですか?」
「内緒よ。私には何かお勧めの洋酒を頂戴」
そう言いながら椅子に座ると、ナイトホークが薄いグリーンのボトルを差し出した。
「シングルモルトウイスキーの『ブナハーブン12年』を」
シェリー樽で熟成されたウイスキーの香りに、外の冷たい空気が混ざった。中に入ってきた翠は、懐からチョコレートの入った箱を人数分出し、ナイトホークに手渡す。
「日本酒入りのチョコです。手作り…いや、式が作ったので式作りですが」
日本酒入り…それを聞いたシュラインがシャンパングラスを置き、翠に向かって微笑んだ。やっぱり似たようなことを考えていた人がいたか。だが、翠のチョコレートは手作り?なので、中に入っている日本酒でまた味わいは変わるだろう。
「色々なチョコが食べられるのって素敵よね」
近くで雅隆が散らかしたチョコの紙を片づけているデュナスのグラスにシャンパンを注ぎそう言うと、デュナスも嬉しそうに一つ頷いた。
「私、日本酒のチョコは食べたことがないので楽しみです。食べ比べって一人だとなかなか出来ませんから」
大勢だとそういうことが出来るのがやはり楽しい。律花はマフラーを取るのもそこそこに『チョコレートブラウニー』の入った箱をナイトホークに手渡している。
「来てもらってこんな事言うのも変だけど、本命はいないの?」
今年律花が作ったのは、パーティー用とゼミ用だけで、本命はない。まさかいきなりそんな事を聞かれると思っていなかったので、律花は少し慌てた。
「い、いえ、私だって生まれてから一回も本命を贈ったことがない訳じゃないですよ?ただ、ちょっと今は恋より心ときめくことが多すぎるだけで…」
「そういうことを、ストレートに聞くのはどうかと思うが?」
マフラーとコートをハンガーに掛けてくれたのは、クリスマスマーケットで本を引き取ってくれた太蘭だ。思わずぺこりと頭を下げると、それを見て目を細める。
亜真知はいつものように和服姿でドアを開けると、先に来ていた魅月姫を見て少し困った顔をして溜息をついた。
「誘って下されば良かったのに、つれないですわね」
「別に誘わなかった訳じゃないわ」
そう言いながら、ふいと魅月姫が目を逸らす。これもまた良い傾向なのだろう…そんな様子にもう一度溜息をつき、手にした『抹茶チョコレート』の箱を香里亜に手渡した。
「手作りの『抹茶チョコレート』ですわ。こういう和風な物も良いかと思いまして」
「うわー、手作りなんですね。ありがとうございます」
箱を持ち、香里亜は店のフロアを忙しそうに歩いて回った。人数分あるチョコレートは席の一つずつに、ブラウニーやチョコグラタンなど取り分ける物は前菜用の白いプレートに、一人ずつ取り分けてある。食べきれなければ持ち帰りようの箱も用意しているらしい。
「おっと、皆揃っていたようだな」
ドアベルを大きく鳴らしたのは冥月だった。すると、香里亜がぱっと顔を上げニコニコしながらカウンターの隅に置いていたチョコを手渡した。
「はい、お約束していたものです」
後ろ手に隠していた、黒いマフラーを香里亜が冥月の首に巻く。それに、デュナスがあからさまに動揺し、魅月姫も表情を変える。
「本命ですから」
香里亜としてはかなり気の利いた冗談なのだが、事情を知るナイトホークは思わず苦笑する。元々香里亜が冥月にマフラーを編むという約束をしていたのが、たまたまバレンタインになっただけなのだが、何も知らなければ誤解されても仕方がない。
「………」
空気の質が変わったのに冥月も気付いた。元からの約束で…と言い訳をしたいのは山々なのだが、それはそれで更に誤解を深めそうな気がするので、言い訳はしない方がいいだろう。
「ありがとうな。お返しは期待しておけ」
だが礼を言わないのも妙なので、香里亜の頭を撫でそう言うと、それを見ていた武彦が苦笑しながらこんな事を言った。
「それで今年何個目だ?四個も食うと太るぞ」
事情を知っているのに、どうしてこの男はこう言うか。開いている席に移動しながら、武彦の頭に裏拳一発…。
「黙れ、ヒモ野郎。ああ、それは皆で切り分けて食ってくれ」
「はいはい。仲良く仲良く」
冥月が持ってきたのは大きな『ビターチョコケーキ』だ。ナイトホークがそれを切り分けるためにキッチンの方に行こうとしたときだった。
ドアに近づいてくる小さな黒い影…ケーキの入った箱を置き、ナイトホークはドアを開ける。
『堪忍…うち、今猫やから菓子や持って来れへんかったわ…』
「クロ、久しぶりだな。お土産か?」
ドアの前にいた猫からぬいぐるみを受け取ると、ナイトホークはちょこんと座って首をかしげる黒猫を抱き上げた。
『こんなんでもええ?』
言葉は能力がある者にしか聞こえてないだろうが、ナイトホークは嬉しそうにクロを抱いたまま店に入る。
「俺の彼女。悪さとかしないから、入れてやって」
『誰がお前さんの彼女やねん!』
ぱしっと肉球パンチをクロが顔面に浴びせると、それを見た皆から笑い声が上がった。
テーブルの上にはたくさんのチョコレートが並べられ、皆おのおのシャンパンやコーヒーなどを味わっていた。
翠はシュラインの隣で、モーツァルトチョコレートリキュールを使った『パパゲーナ』というカクテルを飲みながら雫型の日本酒チョコをつまんでいる。
「持ってきた物が重なってしまいましたね」
「いいのよ。全く同じなら笑っちゃうけど、ここに来る皆ってお酒好きが多いから」
翠がチョコの中に入れたのは家にあった辛口の日本酒なのだが、シュラインが持ってきた物もやはり美味しい。シュラインは翠が持ってきたチョコを口に入れると、手で口元を押さえながらフフッと笑う。
「美味しい…いい日本酒使ってるでしょ」
「それは秘密ですよ」
洋酒とチョコの組み合わせは多いが、日本酒もなかなか乙なものだ。これなら泡盛などが入ったチョコもいけるかも知れない。
その横では、律花と香里亜が、お互い作った物を食べながら「友チョコ談義」に花を咲かせていた。
「友達同士での交換も面白いんですよね。普段料理とは無縁そうな人が意外に美味しい手作り物を持ってきたりして」
律花がそう言うと、香里亜も目を輝かせながらうんうんと頷く。
「そうなんですよね。毎年クッキーとか作って皆と放課後の教室で食べたりして」
「そうそう。受験の年はお互いへの差し入れの意味もあったりしますし、何か懐かしい…」
高校の時の家庭科でチョコレートケーキを作った話や、友達の告白に付き合った話など、同年代だと話題が重なる部分が多いようで、それがとても微笑ましい。
『女の子同士は華やかでええな』
クロはフロアの足下をうろつきながら、皆に背中を触らせたりしていた。長生きしたといっても猫なので、チョコレートは毒にしかならない。それでもチョコのかかっていないラム肉や、缶入りのキャットフードなどクロ用の皿も用意されている。
「にゃんこー♪」
そうやってあちこち歩いていると、ひょいと雅隆がクロを抱き上げた。そして、自分が飲んでいたアイスミルクをクロの鼻先につけようとする。
『なにすんねん!牛乳は嫌やって』
「牛乳ーぎゅーにゅー」
思い切り鼻につけられそうになったクロは、体をひょいと翻し猫パンチを連打で雅隆の顔に繰り出し、ぴょんと床に飛び降りた。子供がいないからと安心していたが、どうも彼は大人の図体をした子供らしい。
「あー逃げちった」
追いかけようとする雅隆を見て、太蘭がクロを抱いた。猫を抱き慣れているだけではなく、クロが顔をすり寄せると目を細めて頭を撫でてくれる。
「博士が人参を突きつけられると嫌なように、猫にも好き嫌いがあるから無理強いするのは良くない」
『そやそや、もっと言ったって』
「ごめんねー。もう飲ませないから膝乗せたーい」
雅隆のそんな様子を見ると、デュナスはどうしても「落ち着きのない子供を持った親」の気分になる。何となく手持ちぶさたにシャンパンのグラスを持っていると、それに気付いた亜真知がそっと洋酒入りのチョコを差し出した。
「よろしければ、こちらの洋酒チョコもいかがですか?」
それを聞いたナイトホークも、煙草を灰皿に置いて手を伸ばす。
「一個もらう。洋酒入りチョコとか好きだ」
「頂きます」
それを口にしたのを見て、亜真知がにっこりと微笑む。それを見たデュナスが思いきり額に手をやった。チョコの甘さの後に、灼けるほどのアルコール…。
「何か目の前がクラクラするんですけど…」
「亜真知…これ、すごい強い…」
亜真知が作ったのは、どんな酒豪も撃沈するほど強いチョコレートだった。思った通りの反応が、何だか嬉しい。
「ちょっとした悪戯ですわ。すぐ収まりますから安心してください」
流石に皆が倒れてしまったら困るので、酩酊感があるのは一時的だ。中の洋酒があまりに強かったので、目の前にあるシャンパンがチェイサーになりそうだ。
ナイトホークは少しだけ頭を振ると、顔を上げて冥月のグラスにシャンパンを注ぐ。
「マスター、そのチョコそんなに強いのか?」
笑いながら煙草を吸う武彦と、頷くナイトホークを前に冥月は不敵に微笑んだ。
「そう言えば今日はバレンタインだな。お前らは甘い物よりこれだろう」
そう言って影から取り出したのは、ファイアーキングのコーヒーカップ一セットと、キューバ産高級葉巻一箱に、ヴィンテージ物のZippoライターのセットだった。
いきなりそんな物を出されたらどんな反応をするだろうか…そう思っていたのだが、二人はそれを前に同じタイミングで冥月の顔を見た後、お互いの顔を見合わせた。
「欲しければひれ伏せ」
笑って言う冥月に、武彦が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「そう簡単にくれるとは思ってなかったよ。普通そうだよな」
「でも、ファイアーキングのターコイズシリーズなら俺は欲しい。二年しか生産されなかったんだから」
「待て、マスター、それは罠だ」
その様子を見ているのも一興だ。別に自分が持っていてもしょうがないので、いつもの礼代わりに渡す気ではいるのだが、ただ渡しても面白くないのでしばらくこうしておこう。
ヴィルアと魅月姫はザッハトルテの口溶けを味わいながら、『グレンファー15年』を味わっていた。チョコレートと合わせるのなら、やはりシェリー樽で熟成させた物が良く合う。
「『デメル』のザッハトルテは、やはり口溶けが良いですね」
「チョコレートを大理石の上でよく練って、カカオの粒子を丸くしているのが特徴なのよ。この口溶けは独特だわ」
二人ともヨーロッパが長いことと、お互い吸血鬼であることを何処かで感じているのだろう。日本のチョコも美味しいが、やはり一粒で完成された味は格別だ。
「貴女の持ってきた『パトリック・ロジェ』のショコラも美味しいわ。フルーツを使ったショコラの評判が高いから、一度味わってみたかったの」
「魅月姫サンのお口に合ったようで光栄です…」
夜が更け、美味しいチョコレートとお酒が皆の心をほぐしていく。
カウンター席では律花が少し身を乗り出すように、ナイトホークにリクエストをしていた。
「チョコレートと合うワインがあるって聞いたことがあって、一度飲んでみたかったんですよね」
『バニュルス』の名を律花が出すと、あらかじめ用意してあったのか深い青のボトルがスッと差し出された。発酵途中の果汁にアルコールをくわえて発酵を止めるために、糖度が高い、南フランス産の極甘口の赤ワイン…そのコルクが抜かれ、深いルビー色のワインがグラスに注がれるのを律花は、ワクワクと見つめている。
「バニュリスの余韻の後に、チョコレートをどうぞ」
言われたとおりにワインを口にすると、重すぎない甘さの後にブドウの心地よい酸味がやって来る。それからチョコを食べると、今まで甘かったはずのワインがスッキリとした後味に変わり、チョコの甘さとワインの酸味が丁度良く口の中で溶け合っていった。
「あ、甘いけどこれは結構飲めるかも知れません。他のお酒も試してみたいです」
「秋月さん結構いける口だからな。バニュリスが甘すぎたらカンパリとペリエで割ってもいいし、他にも色々あるからゆっくり色々味わって」
そう言うとナイトホークはブランデーを飲んでいる魅月姫の方を見た。魅月姫が持ってきたデメルのザッハトルテと同じ、オーストリア産のアップルブランデー『ホホストラッヤ』だ。
「産地が同じだと、また格別だわ…そのワインも後で頂こうかしら」
オーストリアはワインの方が有名だが、ワインが美味しいということはそれを蒸留したブランデーも同じように美味しい。自分のグラスを律花の方に差し出し、魅月姫は優雅に微笑む。
「乾杯しましょう」
「はい」
そうしていると、香里亜が冥月の持ってきたチョコレートケーキを切り分けて皆の前にそっと置く。全員に行き渡るだけある大きなケーキの一切れを、冥月はそっと一つ横に取り分けた。
「私には一切れだけ残しておいてくれればいい」
それを聞いた香里亜が、何かピンと来たように持ち帰り用の箱を出しながらそっと耳元で囁いた。
「恋人さんにですか?」
実はその通りなのだが、冥月の恋人が既にこの世にいないと言うことを、香里亜はまだ知らない。でもやはりいなくなったとは言え、自分の手作りなのだから供えてはやりたい…少し複雑な心境で、冥月は曖昧に笑ってごまかす。
にこっと笑った香里亜は、デュナスの所にもチョコレートケーキを持ってきた。
「あの、香里亜さん…もしよろしければこれを…」
そう言って差し出したのは、可愛らしいマスコットの付いたブックマークだった。元々デュナスに取ってバレンタインは、想いを寄せる人にカードや贈り物を渡す日だ。だが、そこまで重たいのもきっと困るだろうからブックマークにしてみたのだが、やはり何だか耳まで赤いような気がする。
手渡されたそれを受け取ると、香里亜は少し吃驚した後で微笑みながらカウンターの奥から小さな箱を出してきた。
「ありがとうございます、私からもデュナスさんに」
「………!」
添えられたカードには『クリスマスプレゼントありがとうございました。またお出かけしましょう♪』と、可愛らしい字が書いてある。ちょっと、もうそれだけでどうして良いか分からず、デュナスは何故か急におろおろし始めた。
「あのっ、そのっ…」
「あ、魅月姫さんにもチョコレート渡さなくちゃ」
そんな様子を見ながら、武彦は吸っていた煙草を消しながらふっと笑う。
「青春だな」
目の前にはシュラインが頼んだ、深炒りで濃いめのブラックコーヒーのカップが二つ。コーヒーも来たところだし、新しい煙草に火をつけようか…武彦がそう思っていると、横からシュラインがすっとシガレットケースを渡した。
「はい、武彦さんにも。ドイツ、リッターのチョコレートよ。口溶け良くて濃いコーヒーとすごく合うの」
フフッと微笑みながらシュラインにそう言われて開けたシガレットケースの中には、チョコレートが行儀良く並んでいる。
「ありがとう。煙草は取りあえず置いといて、一緒に食うか?」
「ちゃんと煙草も用意してあるから、それもね」
味と一息と、ひととき。一緒にチョコレートを食べながら、自分が良いなと思ったものが伝わっていることを実感し、コーヒーの後にまた一息。
「気分が良いから、バイオリンで何か一曲演奏しましょうか」
ヴィルアはすっと立ち上がると、持参してきたバイオリンで『Can you make me a cambric shirt』を演奏した。マザーグースの詩の一つで、恋人達がお互い難問を出し合いそれが出来たら真の恋人になれる…という歌だ。
バイオリンの演奏をヴィルアがしているということは、かなり気分が良いのだろう。その曲に耳を傾けながら、翠は太蘭と酒を酌み交わしながら話をしている。
「太蘭殿は刀匠なのですね」
都内でそんな事を営んでいるのは珍しい。翠が持っていたチョコレートを食べながら、太蘭は自分の家がある方向を指さした。
「ああ。大きな蜜柑の木と、たくさんの猫がある家に暮らしてる。通ればすぐ分かると思うが、刀は気が向いたときにしか打たないな」
「近所にいても、付き合いがないとなかなか気付かないものですよ。私も刀を持っていますが、よろしければお譲りしましょうか?使いませんし」
「いや、押型を取らせてもらえればそれでいい。収集家ではないので」
蒼月亭を中心にしているとはいえ、来る時間や曜日が違えばなかなか顔を合わせることもない。そんな常連達が一堂に会するのも、こう言うイベントならではだ。毎回同じ顔ぶれもいれば、初めて会う者もいる。長く生きていても、やはりこうやっと人と出会うのは面倒な部分もあるが面白いものだ。
『ええ気分やね』
「そうですわね」
亜真知はクロを膝に乗せ、皆が和気藹々としているのを楽しんで見ていた。クロはこういうイベントの時に顔を出すのは初めてだったが、それで皆やナイトホークが楽しそうなのを見ているのが嬉しい。
「お待たせいたしました、ブレンドコーヒーになります」
「ありがとうございます。やっぱり人がたくさんだと楽しいですわ」
ナイトホークが入れてくれたコーヒーを手に取り、亜真知は皆を見るように体を動かした。そのタイミングでクロは膝から飛び降り、テーブルで突っ伏している雅隆の足下をぱしぱしと叩く。
『お前さん、寝とるんかいな。おーい、生きとる?』
「あら、もしかして…」
雅隆が座っているテーブル席の上には、亜真知が持ってきた洋酒入りのチョコの箱が置いてあった。妙に静かだと思っていたら、元々酒を飲むと眠ってしまうほど弱いのに、残っていたそれを食べてしまったらしい。
「あらあら…お酒に弱かったのですね。洋酒入りって知ってらっしゃったはずなんですが」
「皆で強い強い言ってたから、好奇心に負けたんだろ…」
カウンターから出たナイトホークは、足下にいたクロを抱き上げた。亜真知は自分が肩に掛けてきたショールをそっと雅隆の肩に掛ける。
「うーん、僕ねむねむー。ここで寝るー」
「ここで寝たら風邪を召しますわ」
『放っときなはれ。うさぎの耳つけとるのに狸寝入りや』
人それぞれのバレンタイン。甘い一日。
「店で寝たら外放り出すぞ。今日は彼女が来てるから泊める場所ないし」
『だから誰が彼女やねん』
ナイトホークが雅隆の頭を叩くのと同じように、クロがナイトホークの顔に猫パンチをし、蒼月亭からは甘い香りと共にいつまでも楽しげな声が響き渡っていた。
fin
◆登場人物(この物語に登場した人物の一覧)◆
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
2778/黒・冥月/女性/20歳/元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒
6392/デュナス・ベルファー/男性/24歳/探偵兼研究所事務
6118/陸玖・翠/女性/23歳/面倒くさがり屋の陰陽師
6777/ヴィルア・ラグーン/女性/28歳/運び屋
4682/黒榊・魅月姫/女性/999歳/吸血鬼(真祖)/深淵の魔女
1593 /榊船・亜真知/女性/999歳/超高位次元知的生命体・・・神さま!?
6157/秋月・律花/女性/21歳/大学生
5686/高野・クロ/女性/681歳/黒猫
◆ライター通信◆
バレンタインのチョコレートパーティーにご参加いただきありがとうございます、水月小織です。
今回はオープニングのみ個別で、後はわいわいと皆様一緒にチョコとお酒を楽しんだり、それぞれプレゼントを渡したり…という感じになっています。バレンタインは女子のイベントなのか、参加された9人中8人が女性陣で、何だか華やかな感じがします。
恋人達だけではなく、チョコを食べながらゆっくりとしたひとときを皆様で共有出来ていたら良いなと思っております。
リテイク、ご意見は遠慮なく言ってください。
参加された皆様に、精一杯の感謝を。
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