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<東京怪談ノベル(シングル)>


人魚自動車と碧摩蓮

 その日、海原みなもは新春の空気に沸き立つ表通りを足速に歩いていた。まだ新学期が始まって間もなく、学校帰りといえど日は高い。それでも、少し前に経験した恐ろしい出来事が、みなもを人通りの多い表通りに向かわせていた。
 人ごみにまぎれているとなんとなく安心感があるし、あちこちのお店から見えるSALEの文字は、みなもの心を幾分軽いものにした。みなもとて、普通の女の子並みには可愛い洋服や雑貨が好きなのだ。ついショーウインドウへと目が行ってしまうのも、自然なことだろう。
 みなもは、角の店のショーウインドウに置かれている可愛い靴に目を留めた。知らず、足も止まっていたらしい。後ろからきていた人が避けきれなかったのか、軽く背中に人がぶつかる衝撃を感じた。
「あ、ごめんな……」
 振り返り様に詫びを入れようとしたみなもの言葉は、けれど途中で遮られた。突然、みなもの口に布が押し当てられたのだ。
「……!」
 みなもは必死に叫び、もがこうとした。が、努力もむなしく、いつかの悪夢をそのまま辿るかのように、みなもの手足からは力が抜け、あっという間に意識も遠ざかってしまった。

「こいつぁ上玉だな」
「ああ、青い髪に青い目は珍しいな」
 いつかもこんな会話を聞いた気がする。ああ、またあの夢を見ているのか。みなもは、眉を寄せて身をよじろうとした。
 が、何やら機械が動くような音がみなもの意識を急速に呼び戻す。寒々とした感覚が、すでに自分は夢の中にいるわけではないということを如実に知らせてくれた。
「おや、お目覚めかい、お嬢ちゃん」
 うっすらと目を開けると、にやにやと笑った男の顔が目に入った。みなもは再び気を失いそうになった。まるであの悪夢そのままだ。いっそ、本当に夢だったならどんなによかっただろうか。
「さて、お嬢ちゃんは車がいい? 冷蔵庫?」
 今更、その言葉の意味を確認する気力もなかったが、怖いものみたさというやつだろうか、みなもはのろのろと視線を動かした。
 前と同じように、そこは倉庫の一室のようだった。簡素なベッドのようなものに寝かされ、身体が動かないのも同じ。ただ、前と違うのは、無造作に置かれているものがマネキンではなく、途中まで組み立てられた車や電化製品ということだった。
 ゆっくりとみなもの背筋を嫌な予感が這い上がってくる。
「一応、お嬢ちゃんのこれからについて説明しとこうかな」
 いっそ軽い口調で、やせぎすの男がみなもの顔を覗き込んだ。
「これから、お嬢ちゃんには海外に行ってもらうよ、この車に隠れてね。日本の女の子は高く売れるからねぇ」
 心底楽しそうに、男は言葉を続ける。
 ああ、やっぱり、と思うと同時にみなもの頭の中は真っ白になった。その空っぽになった頭に、前回みなもを助け出してくれた探偵の言葉がよみがえる。この誘拐劇は、大規模な国際的人身売買組織の仕業だ、今回潰したのはその一部に過ぎない、と。そして、どうやら今回またまたみなもは、その同じ組織に捕まってしまったということなのだろう。
「大丈夫、大丈夫。死んだりはしないから。……多分」
 男は無責任に笑いながら、みなもを軽々と抱き上げた。そして、半分ほど組み上がった自動車の上に無造作に下ろす。
「しかしこないだは、女の子入れた車が他に紛れ込んでわからなくなっちまったからなぁ。ああなっちゃ、もう取り出しようがないし、せっかくの上玉がとんだ大損だったぜ。……お嬢ちゃんはちゃんとお客さんとこ着くといいねぇ」
 脇からスキンヘッドの男が口を挟んだ。その間にも、2人は何やら部品のようなものをみなもごと自動車に取り付け始めた。冷たい機械の部品が、じわじわとみなもを取り込んでいく。まるで命なき怪物に呑み込まれ、ただの機械の部品に変えられてしまう、そんな恐怖にみなもはかすれた悲鳴をあげた。
 男たちは、心底楽しそうな笑みを浮かべてみなもを見下ろしながら、作業を続けていく。
「さて、と」
 みなもの手足と胴体をすっかり車に留めつけてしまうと、男たちは満足げな笑みを浮かべ、何やらものものしいマスクのようなものを取り出した。
「これつけてりゃ死ぬことはないから安心しな。まあ、それでも車ごと他に紛れ込んじゃあしょうがないが」
 やせぎすの男がそう言いながら、もはや抵抗することもできないみなもの口元にそれを取り付けた。
「じゃあな、お嬢ちゃん、元気でな」
 スキンヘッドの男の言葉で、何か大きな部品がかぶせられ、みなもの視界はすっかり真っ暗になった。

 そして、しばしの後にゆらりと軽い振動が伝わってきた。どうやらみなもは無事――という表現もおかしなものだが――「出荷」されてしまったようだった。

 ただひたすら真っ暗な空間の中で、みなもはどうすることもできずに横たわっていた。車に留めつけられた身体は、当然ぴくりとも動かないし、これといった音さえも聞こえてこない。口元のマスクのおかげだろう、呼吸は苦しいとは感じないし、口の中には少しずつ甘い雫が落ちてくるため、餓死することもなさそうだった。
 とはいえ、同じ体勢をずっと強いられるのは辛い。身体のあちこちがぎしぎしときしみ、下になった部分がじんじんと痛んだ。その痛みに、そしてこれから先自分が辿るであろう運命に、みなもの瞳からはまた涙がこぼれ出る。
 この車はどこに向かっているのだろう、これから自分はどうなってしまうのだろう、きっとみんなは今頃心配しているに違いない、大好きな家族にももう二度と会えないのだろうか、みなもの頭の中を延々とそんな考えが巡る。辛いことを考えまいとしても、他に何もすることもできることもないのだから、どうしても否定的な考えを止めることができないのだ。
 それでも、後から思えばこの時はまだマシだったのかもしれない。
 どれほどの時間が経ったのか、身体の感覚がすっかり消え失せた頃には、頭の方も疲れ果て、ただただ意味のない光の粒のようが脳裏を漂うだけになっていた。苦痛も感じないが、自分が生きているという感覚もない、あたかも本当に機械になってしまったかのような状態のまま、みなもはただその真空のような空間を漂っていた。

 そうしてさらに時が過ぎた頃。不意に息苦しさを感じてみなもは正気に戻った。ついさっきまで意識せずに楽にできていたはずの呼吸が、空回りしているのだ。懸命に息を吸おうとしても、決して肺は満たされない。
 もしかしたら、マスクの効果が切れてしまったのかもしれない、そう思うとどくん、と心臓が高鳴った。かあっと顔が熱くなり、キリキリと頭が痛んだ。体中の血管がにわかに激しく働き出す。ぎゅうっと胃のあたりが締め付けられる気がして、みなもは空腹を思い出した。
 そういえば、自分は売られるために送り出されたはずだ。なのに、いまだに車から出られていない。ひょっとして男が言っていたように、この車はどこかに紛れ込んでしまったのだろうか。
 そんなことを考えている間にも、息苦しさはどこまでも大きくなりながら胸元をせり上がってきた。そういえば、身体の中で一番酸素を消費するのは脳だと聞いたことがある。けれど、そんな無駄なことを考えている間にも、ますます息は苦しくなってくるのだ。
 耳の内側で、否、体中で血管の脈打つ音がする。あたかも、最後の抵抗のように。そう、このままでは死んでしまう。
 「死」という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、さあっと首筋が冷たくなった。嫌だ、と本能的な拒否と恐怖がわき起こる。それは、さらにみなもの動悸を激しいものへとしていった。
 どくん、どくん、どくん、と全身の血管が膨れ上がる。それは、みなもを押しつぶしてしまいそうなほどに。目の前に極彩色のたくさんの星がちかちかと慌ただしく瞬く。どうしようもない圧迫感に、みなもは最後の息を吐いた。これで肺が空っぽになってしまったと、みなもがそう感じた瞬間に、体中の血管――それはひょっとしたらみなもの自我だったのかもしれない――が一気に弾けた。
 それはみなもの肌を突き破ると、するすると車の中を伸びていった。あたかも植物の根のように枝分かれをし、自らの領分を広げて行く。そして、それはついに自動車の内部にまで入り込んで行った。
 同時に、みなもは押しつぶされそうだった息苦しさから急に解放された。頭にこもった熱もすうっと下がり、そしてほとんど失われていたはずの感覚がなぜか研ぎすまされていく。
 そして、そのせいでみなもは今自分の身体に起きていることを如実に悟ることになった。
 今、みなもの身体は自動車を取り込もうとしているのだ、「生き残る」ために。みなもはぞっとした。取り込むと取り込まれるの違いはあれ、どちらにせよ今、みなもはみなもではなくなろうとしているのだ。
 そうでなければ死ぬしかないとわかっていても、みなもは溶け広がり続ける自我を必死でかき集めようとした。しかし、死に瀕したみなもの身体――正確には人魚の血というべきか――は、みなもの意志に関わらず、ますます勢いを増して溶け、自動車を包み込み、侵食していく。あたかも、思考を持たぬアメーバが、その本能のみで獲物を包み込み、補食するかのように。
 自らの身体の変化に翻弄され、みなもの瞳から絶望の涙がこぼれた。否、こぼれたような気がした。もはや、涙を流す器官がどこにあるのかすら、みなもにはわからなかった。
 溶け広がったはずの肌が、徐々に固まり始める。それは、冷たく突っ張って、金属のようだった。内臓もまた、固く強ばり、動きを止めた。いまや、腹の下についた分厚いゴムのような皮膚がコンクリートの地面の感触を伝え、ずいぶん低い位置にある目線が、横に並ぶ他の車の姿を捉えていた。
 ああ、自分は本当に車になってしまったのだと、みなもは溜息をついた。が、実際にはボンネットの隙間から何やら空気の漏れる音がしただけだった。どうしようもない絶望感と、一種の諦めが胸に去来する。と、今度は、みなもは、猛烈な空腹感を覚えた。それは、免れたはずの死を思わせる、焼け付くような焦燥感だった。
 みなもではないみなもが、とにかく食物を、否、栄養源となるべき有機物を渇望し、そして、それを見つけて歓喜の声をあげた。
(やめて!)
 心中そう叫んだみなもの声に耳を貸すはずもなく、みなもではなくなったみなもは、タンクに入っていたガソリンを吸い上げ、それを分解し始めた。体中がぽうっと温かくなり、飢えが遠のいていく。
 ついに、最後に残った人間性のひとかけらさえ失った気がして、みなもは声なき声をあげて泣いた。だが、みなもの思いとは裏腹に、みなもの身体は満たされて行く。そうしていつしかみなもは眠り込んでいたのだった。

「ふうん、生きている自動車ねぇ」
 不意に降って来た覚えのある声に、みなもは目を覚ました。
「一晩で色が変わったり、ガソリンが勝手に減ったり、エンジンかけてないのにあちこち動いたり、不審な物音がしたり、か」
 ふうむ、と値踏みするような目でみなもを見下ろしていたのはチャイナドレスに身を包んだアンティークショップの店主、碧摩蓮だった。こんなところで知り合いに会えるだなんて地獄に仏とはこのことだ。
(蓮さん、助けて下さい!)
 みなもは必死に叫んだが、やはりボンネットがふがふがと鳴いただけだった。
「ふぅん、なるほどねぇ。これはいいや。物好きに売りつけるもよし、誰かに押し付けてカタつけされるもよし。わざわざ海外まで来て目当てのものが空振りに終わったと思ったら、こういう出会いがあったなんてねぇ。足を運んでよかったよ。ま、どっちにしろあんたにゃ楽しませてもらえそうだ」
 みなもの気持ちに気づく風もなく、蓮はみなものボンネットをぽんぽん、と軽く叩いた。あくまで商品を値踏みするような冷ややかな眼差しを向けたままで。まるで自分の内部まで見透かされるような、一種残酷な目つきに、みなもは心底震え上がった。
 蓮はその場で契約を交わし、みなもはレッカー車に取り付けられた。再び真っ暗な船内へと積み込まれる。出港したのか、がくんと大きな揺れが伝わってきたところで、みなもは目を覚ました。

「夢……」
 朝日の差し込む自室の布団の上に座り込んで、みなもは呆然と呟いた。慌てて自分の手足を確認する。それは、まぎれもなく人の少女の形をしていた。
 あまりに怖い思いをしたために、奇妙な夢を見てしまったらしい。胸にじわりと再び恐怖が、そして安堵が湧いてくる。
 みなもは、悪夢の残滓を追い払うように大きく伸びをした。そして、冬の柔らかな朝日を浴びる。そうすると、少しずつあの嫌な感触が消えて行くような気がした。
 朝食と身支度とを済ませ、みなもは外へ出た。足に任せてぶらぶらと歩いていると、ふとアンティークショップ・レンの前へと出ていた。夢で蓮に逢ったせいか、無意識にたどり着いてしまったらしい。ついでとばかりにみなもは店の扉を押した。
「いらっしゃい。いいところに来たね、と言いたいけどお嬢ちゃんじゃぁねぇ」
 カウンターの奥で紫煙を吐き出した蓮はいつも通りの眼差しを寄越した。面倒そうだけれど、その奥底に優しさを秘めて、でもそれを決して表に出すまいとする眼差し。ついでに、こちらもいつも通りに何か押し付ける気満々のようだったが、みなもの顔を見て少し言い淀む。
 蓮がいつも通りであったことへの安堵と、そしてどこか冷酷な蓮を夢に見てしまったことへのちょっとした罪悪感がみなもの胸にわき起こる。
「どうしたんですか?」
 自分にできることなら何でもやろうと、みなもが軽く首をかしげると、蓮はやれやれとばかりに肩をすくめた。
「いや……、面白いブツがあるんだけどねぇ、そいつがクルマなのさ。一晩で色が変わったり、勝手にガソリンが減ったり、エンジンかけてないのにあちこち動いたり、不審な物音がしたりと、まあ、『生きている』みたいなんだとか……」
 ふわり、と宙に上る紫煙を、みなもは言葉もなく見つめたのだった。 

<了>