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サンシャイン
黒い背景のパソコン画面に、緑色の細かな文字が並んでいる。
向かい合っている男は事務的な動作で淡々とキーボードのボタンを押し込んでいた。画面が変わっていくままに、パソコンが要求してくるままに、そのプログラムを熟知している者の動きでソフトウェアーを稼動させている。その動作からは熱意や意欲や高揚が一切見えず、どちらかといえば減退の果ての倦惰だけが滲み出ているようだった。
男はほぼ毎日、多いときには一日三回くらい、このソフトを稼動させている。入社して三年。初々しい気持ちはなくなり、特別な注意や意識を払うこともない。最早彼は頭の片隅で、今日の晩飯には何を食べようかなあ。などと、どうでも良いことすら考えている。打ち損じがあったとしても気づかぬような素早さで画面を進め、とっとと作業を終わらせたいという意気込みだけで最後のページまで辿り着く。
ポン、とエンターキーを押し込んだ。
ノート型のパソコンから伸びる、くねくねとした色とりどりの配線の先で、四角いアンプのような機械がブーンと稼動する。
男は椅子の背に仰け反り、うーんと大きく伸びをした。
削除、完了。
××
平日昼間のファーストフード店は、ねっとりとした雰囲気の中にまどろんでいた。
圭太は、メニュー表にでかでかと謳われていた新製品を購入し、今からかなり遅めの朝食を取ろうとしているところだった。少し離れた席で、制服姿の男子学生二人が無言で携帯を弄くっている以外に、客の姿はない。店員すらも気を抜いているかのように見えるこの時間帯は、人混みが余り好きではない圭太にとって、最も都合が良かった。
派手な包み紙をかさかさと開いて、中から出てきたハンバーガーにかぶりつく。圭太はその新製品の味に、思わず眉を顰めた。
あー。ビミョー……。
齧ったハンバーガーをもう一度包装紙で包み直し、トレイの奥に押しのける。コーヒーのカップに口をつけながら、新しけりゃいいってもんじゃないだろー、と心の中で密やかに毒づいた。宣伝で見た時はおいしそうに見えたのにな、と少し、落胆する。違うものをもう一度購入するべきかどうかを考えながら、ぼんやりと窓の外の景色を眺めた。そして圭太は、カップを手に持った格好のまま、思わず固まる。
なんだあれ。
今しもこのファーストフォード店に入ろうとしている青年の、その腕の中に目が止まった。
人形が抱きかかえられている。
子供がぬいぐるみを抱きかかえているのでも、見るからに危うい男がフィギュアを手に持っているでもなく、青年が大きな人形を抱きかかえている。真昼間の町で人形を抱きかかえて歩いている人に遭遇する確立は余り高くない。突如として出現したその奇妙な光景に、圭太は思わず見入ってしまう。
青年に不可思議な所はなかった。歩き方がおぼつかないとか、明らかに変な風貌をしているだとか、そういうことも全くない。むしろどちらかといえば整った、可愛らしい顔をしている。周りからどう見えているかだとか、自分が実は凄く不自然なことをしているんじゃないかだとか、そういった不安や恥じらいも見えない。
堂々たる足取りで店内に入ってくると、そのままカウンターへと直行していく。余りに自然で当然のような顔をしていることが実は一番不自然で滑稽だった。
何故か自分がハラハラとしてしまいながら、圭太はその奇妙な青年の一挙一動に目を配る。抱えられた人形の手足が、持ち主の歩みに合わせてカタカタと揺れた。ぶらぶらと垂れ下がる手足はむき出しの肌色で、つなぎ目が見える辺りさほど精巧でもないように見えるが、その頭部の精密さといったらない。誰かモデルがいるのかも知れない。黒い眼球は虚ろに開かれているものの、今そこで、ひっそりと瞬きしても間違いではないような迫力があった。幼稚な体と成人男子の整った顔という奇妙なアンバランスさが見ているものを何とも居心地の悪い気分にさせる。
突然現れた異次元に、店員が微妙に顔を引き攣らせながら応対していた。離れた席に居る学生は、携帯のボタンを押し込みながら、興味のない視線で振り返り、もう一度振り返った。二度見である。露骨に驚いた顔をしていた。
「新製品だってー。どうしよっか」
メニューを見ながら青年は、自分の腕の中にある人形に話しかけている。周りの目など気にしていない。
いいのだろうか。あれは放っておいていいのだろうか。
いよいよ圭太はハラハラとした。
××
「人形が、喋らなくなっちゃったんです」
向かいに座った青年が、その華奢な身を乗り出し、切実な顔で訴えてくる。
「あー」
と、草間興信所所長の武彦は、呻き声とも返事ともつかない声を出し、応接ソファの背に体を戻した。
「なるほど、そういうことか」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
依頼を聞く気で用意していたバインダーとペンを脇に置き、ポケットから煙草の箱を取り出した。
「いいかな」
「あ、はい。どうぞ」
控えめに頷いたのを見て、慣れた仕草で火をつける。煙を吐き出しながら武彦は、後輩が言っていた台詞を思い出した。アイツからは話を聞かないように。
「ただなあ」
「何ですか」
「俺の中では、基本的に喋らないことになってるからなあ、人形は」
石油ストーブの上に置かれたヤカンから、白い蒸気が音もなく立ち上がり室内の中に消えていた。暖冬といえど寒い日が続いている。このクソ寒い中、わけのわからない調査に引っ張り出されてはたまらないと思い、何かと目の前の青年に対して否定するようなことを言ってみているのだが、余り効果はないようだった。
人形が喋らない。いや、喋らないだろう、普通。もしかして、人形を喋らせろとかいう依頼をされる流れなんだろうか、これは。
でも、あいつがそんな依頼を持ち込むか?
武彦は古い知り合いである後輩の顔を思い浮かべる。その人物こそが今回の依頼の主であり、この目の前の青年の知り合いらしいのだが、その人物はまだ到着していない。
「僕のこと、頭がおかしいんだと思ってるんですね」
青年は、大きな黒い瞳を実に悲しげに曇らせ小さな肩を更に小さくした。
「まあ」と思わず頷いてしまいそうになり、武彦は「おっと違うよ」とわざとらしく否定する。
「人形が普通は喋らないことくらい知ってます。だけど彼は違うんです」
「違うというのは、特殊な力があるとかそういうことか」
「前は、前は喋ってた気がするんです。ちゃんともっと」
「前、ねえ」
顎を撫でながら繰り返し、だからそれは特殊能力があるということなのか、と心の中で繰り返す。その時、草間興信所の薄い扉がバタンと勢い良く開いた。瞬間的に、冷たい空気が室内へと入り込んでくる。「すみません、遅れました」続いて実感のない声が室内に響いた。
「おー、いらっしゃい」
武彦は煙草をもみ消して、ソファからゆっくりと立ち上がる。息を切らすでもなくぺこぺこと頭を下げるでもない菅野圭太に近づいた。
「遅いご到着で」
「すみませんでした」折り目正しく頭を下げる圭太の耳に、ひそひそと囁く。「二人きりにされてどうしようかと思った」
「すみません」
「国民お悩み相談室じゃないんだぞ」
「すみません。分かってます……あのそれで先輩、ちょっと」
と圭太が武彦の手を引いた。「ちょっと待ってて」と心配そうに二人を見上げる青年に言い残し、キッチンの奥へと引っぱっていく。
「なんだな。要するに、精神的なアレなら、アレだ。病院に行ったほうが」
「違うんです」
「だろうとも。違って貰わないと困るよ。人形が喋るとか喋らないとか知ったこっちゃないからな」
「人形を喋らせて欲しいわけじゃないんです」
「その前に人形は喋らないからな」
「アイツは何か事情や原因があってそうなってる気がするんです」
「そうなってる、とは? 人形が喋ると思い込んでるということか」
「アイツはそれ以外のことでおかしい所はないんです。本当なんです」
「確かに。一応こっちの言ってることは理解してくれてるみたいだし? 明らかに変な風貌をしてるでもないし」
「ただ、あの人形が喋ると思い込んでいる。その一点だけがおかしいんです」
「ふうん」
「気になると思いませんか」
「本当に喋ってたかも知れないし」
「今人形は喋らないって言ったところじゃないですか」
「そうだったか」
「僕が始めて見た時には、既にあの人形は喋ってなかったんです。アイツ、凄く悲しそうな顔して。凄く焦って。それでたまたまその場に居合わせた僕と目が合ったんですけど」
「ふうん」
「とにかくです。何かが潜んでる気がするんです。あの人形見ました? 顔だけが凄くリアルでしょ。モデルが居るんじゃないかとか、思うんですけど」
「原因ねえ」
「記憶が抜けてるとか、錯乱してるのかも知れないし。前は、って言ってたでしょ。前はって。前は喋ってたって」
「んー。記憶ねえ」
気のない声で返事を返し、草間はぽりぽりと自らの頭をかいた。
「どうでもいいけど。お前はどうしてあーゆー変なのを拾ったんだ」
溜め息混じりに言うと、圭太が小さく苦笑する。
「ファーストフード店で」と、話し出した。
圭太の話を聞き終えると武彦は、「凄い暇そうに見えるだろ」と、徐に言った。
「え?」
「俺だよ。暇そうだろ?」
「……さあ?」
一拍の間を置いて小さく答えた圭太の顔には、質問そのものに対する不審よりも、突然話を変えられた者が浮かべるような狼狽が微かに見えていた。二人がどうやって出会ったかについて話をした後に「暇そうに見えるかどうか」を問われたことが突拍子なく感じられたからかも知れない。
武彦は構わず話を進めた。
「しかしこう見えて、案外忙しいんだよ」
「はあ」
「金の余裕はないが時間の余裕もないわけだ。貧乏暇なし」
「依頼を断ろうとしてますか」
「漠然とし過ぎたそういう依頼を抱え込むことは出来ないってことだよ。だいたい人形は喋らないし」
「この興信所や先輩の噂は知ってますよ。だから僕もここに話を持って来たんです」
「どんな噂か知らないけどな」武彦はずり落ちてもいない眼鏡を押し上げる。「噂は結局噂なんだよ」
「誰にでも解決できることじゃないことを草間興信所は解決してくれる」
「おいおいおいおい」笑いながら呆れたように首を振る。「そんな新興宗教みたいなフレーズとうちの興信所は無関係だって」
「ねえ、先輩。普通に生きてて、あんなのに出会う確立って高いと思いますか」
「高くないだろー」
「ですよね。高いわけないですよ。だけど僕は出会ってしまった。遭遇してしまったんです。他人から見たら酷く些細な、あるいは小首を傾げたくなるような突拍子もないことで悩み困ってるあいつに。僕はあいつを助けたい」
口調や表情は酷く淡々としていたものの、今、この後輩の中に渦巻く想いが酷く真摯であるのだろうということは察しがついた。だいたいこの何にも興味がなさそうな男が、わざわざ興信所くんだりまで足を運ぶのだ。よほどの思い入れがあってのことに違いない。
「そういう、出会うか出会わないか分からない、だけど出会ってしまうような少数派の悩みや絶望の味方であってくれる。草間興信所なら、そういうものを解明してくれるって」
「そんな無責任な噂を流す奴は何処のどいつだ」
「漠然としてることも、自分がどれだけわけのわからないことを言っているかも分かってるつもりです。人形が喋ると思ってるあいつを助けて欲しいなんて……。だけど、先輩なら真実に辿り着いてくれそうな気がして」
「ま、気がするのは勝手だが」
短く言って肩を竦める。「今言ったように俺は忙しいし、いろいろとこれから出かけなきゃならない所もあるし、残念ながら俺は今日一人だし」
「一人じゃないときもあるんですか」
「そういうわけで出直してもらうしか」
「あら、奇遇ね」
言葉が遮られるようにして響くハスキーな声に、武彦はひょいと眉を上げた。別のお仕事で外へと出ていたはずのシュライン・エマがついたての向こうから顔を出した。
「話、聞かせて貰っちゃったけれど。良かったかしら」
壁に寄り掛かるようにして腕を組み、シュラインが小さく苦笑する。涼しげな二重瞼の青い瞳が、全てを見透かす母のような厳しさと慈愛を滲ませ、こちらを見ている。途端に武彦は、この事件は自分の意思とは関係なく動き出すのであろうことを直感する。
人がどう頑張ろうと絶対に逆らえないシステムの流れのようなものが、この世の中にはある気がする。あるいはそれは運命と言い換えてもいい。神様が創る筋書き。結局人は、それには逆らえない。ここでこうして、シュラインと圭太がであったのもまた、運命。
「おやおや」
武彦は溜め息と共に圭太を振り返った。「見つかっちゃったな」
「え?」
「お前は、運がいい」
「断るつもり?」
圭太やその連れの青年――シイと言ったか――から聞いた話を纏めた書類や写真に目を向けながら、素っ気無い調子でシュラインは言った。
「断るもなにもお前が話を聞いてしまった」
「あら。嫌味を言われてるのかしら、私」
「火の車の興信所の経理をやりくりしてくれている女将に依頼を受けろと言われれば俺は受けるよ」
ぎし、と回転椅子を軋ませながら、武彦がうーんと伸びをした。「俺は忙しいから、お前に押し付けるつもりではいるけど」
「気が乗らない理由でもあるの」
確かに、武彦がただの暇人でないことはシュラインも知っている。草間興信所の経営状態はお世辞にも良いとはいえないが、調査の依頼が全くないわけではなく、むしろその逆で、彼はいつも何だかんだと割りに合わない仕事を抱え込んでいる。更にその友好関係は広く、忙しそうに動いていることは事実だった。
しかしだからといって、依頼を断るような男ではないこともまたシュラインは知っているのだった。だからこそ貧乏暇なしなんていう救いようのない状態に陥るわけなのだし、それを影ながら支える自分にもいろいろと危害が及ぶわけなのだし。
あの圭太という青年がどれほど必死でシイという青年を助けたがっているか。それを分からない武彦ではないはずである。しかしどうにも気分が乗らないらしい。その口調や態度からはこの依頼を受けたくないという想いがありありと見えていたし、現にシュラインが私用の前にここへと偶然にも顔を出さなければ断っていたに違いない。
今更、人形が喋る喋らない如きで驚くはずもないくせに。
「あいつは俺の学生時代の後輩でな」と、武彦は、突然俄に話を脱線させた。
回りくどい所から話を始めて、最後にひょこっと本音を漏らすのは彼のいわゆる癖のようなものだ。何十年も一緒に居てすっかり慣れっこになってしまっているシュラインは、「ええ」とそのまま話を促してやる。
「昔から薄い男だったよ。何ていうか、何に対してだって我を失わないような。かといって自己主張もしないような。存在感が無かったわけじゃないんだが、何せあの容姿だしな。ただ何ていうか薄い男だったよ」
「確かに、そういう感じはするけど」
「そんなあいつが、人を助けたいんだと」
「駄目かしら」
「いいと思うか」
更に問い返されて、シュラインは書類から目をあげ武彦を振り返る。デスクの上に肘をついた彼の顔を見つめた。
「駄目かしら」
「困った奴を放っておけないってタイプの人間がこの依頼を持って来たわけじゃない」
「ええ」と頷きながらも、その形の良い頭の中では彼が一体何を考えているのか、と考える。困った奴を放っておけないタイプの人間が、この依頼を持ってきたわけじゃない。それはつまりどういうことだ。それはつまり、「本来なら人のことに関知しないはずの人間が、誰かを助けたいと思った」ということではないか。
では、それでどうして不都合がある?
人を助けたいと思うことをむやみやたらに美化する気はないけれど、誰かを思い遣る感情は決して悪いことだとは思わない。
じゃあ、どうして?
シュラインの自問に答えを差し出すかのようなタイミングで武彦が呟いた。
「真実にはリスクが伴う。そう、思わないか」
不意に色つき眼鏡の奥の瞳が、少年のように気弱に翳った。「知らないほうがいいこともある」
「この依頼を調査していったら、貴方の後輩が傷つくかも知れないって?」
「あいつが余りに稀に、人を助けたいと思った。これは尊いことかも知れない。でも神様は、いつでもそれを尊重するような筋書きは書かない、かも知れない」
「要するに名探偵様は今回、知らないほうがいいかも知れない事実が出てきそうな気がする、と分析なさったわけね」
「そうだ。名探偵様はそう分析なさったわけだ」
なるほどつまり。とシュラインは瞳を伏せた。
彼は一先輩として、後輩の身を案じたわけだ。
何処がどうだからそうなるのか、ということを聞いても、どうせ武彦は答えてくれない。説明できないからしないわけではなく、説明するのを面倒臭がるのだ。全く、扱いにくい男である。
「名探偵様のお告げはありがたく頂戴しておきます」
両手を合わせてお辞儀して、テーブルの上に散らかっていた書類をまとめ封筒に入れる。バックの中に放り込んだ。
「私、これからちょっと用事があるの」
「だろうとも。シュライン女史はお忙しい。そんな君をボランティアさせて悪いね」
「そう思うならお手伝いの一人くらいは手配して欲しいわ」
シュラインは立ち上がり、奥のキッチンからマグカップを一つ持ってくる。インスタントコーヒーの粉を入れたそのマグカップに、ストーブの上のヤカンから熱湯を注いだ。武彦の前に差し出してやる。「貴方が嫌なら。調査は私がやるから」
「なあ」当然のことのようにシュラインが差し出したコーヒーに口をつけ、武彦はあちちと眉を顰めた。「お前、どうして調べようと思った? この依頼」
実はコーヒーを飲みたいと思ってたんだ! なんて可愛いことを彼は言わない。それを言って欲しいかどうかと問われると、やっぱり言ってくれなくて良かった気はする。
「持ち込まれたからよ」
「それだけじゃないだろ」
「可哀想だと思ったから」
「圭太が? それともあのシイとかいう青年が?」
「も、だけど。人形」
「人形?」
「凄い歪な形してたでしょ。あの人形。頭と体のバランスが合ってないのよね。気の毒だわ」
「そうかー。そういえば気の毒だなあ」明後日の方を向きながらぼんやりと呟いた武彦は、不意にふと唇をつりあげる。
「何?」
「何でもないよ」
ふうん、とシュラインは肩を竦める。「とにかく私、そういうバランスの合ってないものに弱いのかも。黙って見ていられないの」
例えば、大人の皮を被った少年とか。酷く、極端に偏ったものとか。そういう、何となく何処かが間違っているような歪なものに。
「あと、それから」
シュラインはヴィトンのバッグを肩にかけ、ソファからさっと立ち上がる。「伴うリスクも降りかかってくる火の粉も振り払って生きていくのが人間だと、現実主義の女は思うわ」
「はいはい。これだから、女はねえ」
突端に軽い調子でぼやくように言って、武彦はくるりと椅子を回転させた。
■■
美しく磨き上げられたガラスのドアがシュラインの眼前で静かに開いた。白く清潔に保たれた店内には、民俗調の柔らかい音楽が微かに薄く流されている。銀色のスタイリッシュな棚が楕円形の部屋の中を機能的に埋め尽くしていた。
棚の中には、数々の映画のタイトルが並んでいる。DVDにビデオ。洋画に邦画。新作に旧作。品揃えは悪くない。例え今日が平日の昼間であっても、これだけの品揃えがあればあって然るべき人の姿がない、というのは、いつ見ても壮観な眺めだった。何せ、店員の姿すらない。部屋の隅にはカウンターが設けられてはいるものの、そこにあるのは近未来を連想させる四角い機械だけだ。
シュラインはバックの中から、財布とDVDの入ったパッケージを取り出すと、四角い機械の傍に近づいた。財布からカードを一枚取り出す。ぴ、とそのバーコード部分を読み取らせ、次にDVDのパッケージを四角い機械の中に挿入する。
いわゆる、レンタルしたビデオの返却作業。ここは、女性限定完全会員制のレンタルビデオ店なのである。
大人の隠れ家。それがこの店のキャッチコピーというやつで「キレイ」と「贅沢」がこの店のモットーなのだそうだ。ヘアサロン、ネイルスペース、エステ、更にはレンタルビデオ店が合体した、女性のための娯楽施設というわけだ。どういう勝算や目論見があって、レンタルビデオ店まで合体させようと思ったのかは分からないが、実際あればついつい利用してしまうシュラインなんかは、してやられた、という気がしないでもない。要するに、いろいろなことを考える人間がいる、ということなのだろう。
髪を切ったついでに返却をし、返却したついでにまた何かを借りて帰ろうか、などと、ついでの連鎖をしながら洋画コーナーに足を踏み入れた所で、静かな店内にピリリと素っ気無い携帯電話の着信音らしきものが響き渡った。
「はい、もしもし」
少し癖のある低めの声が応答する。シュラインは当たりだ、と心の中で小さく呟いた。そっと隣の棚の方を覗き込む。そこに、一人の女性の姿があった。
ファーのついたチェリーレッド色のジャケットを、嫌味なく着こなしている。肩にほんの少しかかるくらいの黒髪は、ジャケットの襟元の中に入り込んでいた。無造作にジャケットを羽織っただけ、というスタイルだが、それは彼女の醸し出すアンニュイな雰囲気に酷くマッチしている。
「ああ、武彦。何? 仕事なの?」
彼女は棚に並ぶ映画のタイトルに目を向けながら、携帯電話に向かい淡々とした声を発している。「仕事の依頼なら電話じゃなくてメールでお願いしたいんだけど、え? 手伝い?」
彼女の名前は法条風槻。依頼調査には欠かせない様々な情報を提供してくれる情報屋である。多種多様な使える情報を素早く的確に提供してくれるため、彼女には様々な依頼でお世話になっていた。いわば、インターネットの検索画面に、こちらの知りたい情報だけを読み取る機能がついたようなものなのである。この便利さは外せない。
やっぱり彼女に連絡を取ったか。
シュラインは棚の影で小さく苦笑する。
考えることは一緒ね。
「ふうん。そう、シュライン姉がね。ああ、そう、うん」
全くどうでも良さそうな返答を返していた彼女の視線が、不意にゆっくりとシュラインの方を振り返る。レトロでお洒落なサングラスの向こうで、緑色の瞳が微かに微笑んだ。「んじゃあ、詳しいことは女将から聞くから。……え? うん、いやもう逢ったから。はいはいー」
素っ気なく言って携帯を閉じる。カーゴパンツのポケットの中に携帯をスルリと滑り込ませながら、軽く片手を上げた。
「よう」
「お久しぶり。お元気?」
風槻の傍に歩み寄ったシュラインは、ポンと軽く肩をぶつけた。
「まあね。ぼちぼち」
倦怠的な雰囲気で頷いた風槻は、棚に目を戻し一本の洋画のDVDを抜き出した。空のパッケージを片手に歩き出す。
「ここで逢えて幸運だったわ。貴方を捕まえるのって凄く難しいし」
「メール送っといてくれたら見るけど」
「折り返し連絡するまで待ってろって?」
「そうそう。気分が乗ったら連絡するしぃ」
「乗らなかったら掛かってこない」小さく苦笑し、肩を竦める。「携帯が繋がらなかったらこっちから連絡する手立てはなくなっちゃうのよねえ。真昼間からあの家に押しかけるのは無理だし。掴まらない女」
「使えない女よりまっしっしょ。だいたい情報請負人がそう簡単に捕まったらいろいろ困るって」
「時と場合により、掴まらないと困るわけ」
したり目を向け、シュラインはため息をつく。風槻は「情報」を扱うという仕事柄、多くの危険やら厄介ごとやらといつも背中合わせだ。本人はいたってマイペースに自らの生活を営んでいるようだが、やはり「情報」というものには「危うい匂い」が付き纏う場合も多い。そんなわけで都心に住居はあるもののその明確な居場所がイマイチ掴めない女なのだった。
「基本は繋がるって。今日はたまたま下のサロンで髪切ってたから出なかっただけで」
「だから私はこんな所まで足を運んだのよ。ここならもしかしたら逢えるかも知れないってね」
「うっそ。あたしのせい?」
「そうそう、貴方のせい」
「で? 何か借りた?」
「借りようかなってと思ってたところ」
「依頼抱えてンのに余裕じゃーん。あたしを探しに来たなんて嘘ばっかり」
「何となくお店のシステムに踊らされちゃってるだけよ。貴方の情報収集に間違いはないわ」
「繁盛して貰わないと一応のところ困るよねえ。市場調査を依頼された身としては」
「やっぱりここも黒なの?」
「さあ」
実感のない返事をしながら、風槻はドルチェ&ガッバーナの個性的な形のバックから、これまたサイケデリックなドルガバの財布を取り出す。会員カードを取り出し、機械に読み取らせ、空のパッケージを挿入した。壁の背後で何かの機械が稼動するかのような音がする。
「売れ筋の影に風槻発信の情報ありね」
「今時、ニーズの調べようなんていろいろあるわけ。今はいろんな所でいろんな人間がいろんなこと自由に言えちゃう時代だからね。造りたいと思っている人間と、造って欲しいと思っている人間。要するに需要と供給。調べて差し出してポン」
「ポン、と草間の赤も何とかならないかしら」
「所長を変えない限り無理でしょー」
「やっぱり?」
「情報は所詮、情報。それを利用するのは人間だから」
「ねえ。ところでここに、ついでにスーパーとかあってくれるとかなり便利なんだけど」
「そういえばうちの食料もそろそろ切れるっけ」
機械の下部にある取り出し口から出てきたDVDを鞄の中に放り込みながら、風槻が呟く。
「買い物には出ないのに、ビデオは借りに出るわけね」
「わけなのよねえ。あったら食べるけど、わざわざ買いに出てまでいらないかあ、とか。飯については思っちゃうのよねえ。いつか食えるだろ、と思ってるからだろうけど」
「裕福な日本を連想させる言葉だわ」
「情報収集には外の世界が欠かせないわけだし。いろいろ見とかなきゃ、基本は人だし。だから、仕事以外ではもう外になんて出たくないわけ。私生活くらいインドアでいさせてよ、みたいな。ビデオ借りるので精一杯だって」
何処までが本気か分からないような調子で言い、彼女はペキリと首を左右に曲げた。「あー。疲れた」
■■
天井にぽっかりと空いた歪な穴から、美しい星空が見えていた。
シオン・レ・ハイは、その丹精な顔立ちには全くそぐわない表情で、ぽっかりと口を開きながら頭上を見上げている。青い瞳を微かに潤ませ夢みる少年のような表情で星空を眺める彼の心の中には、いつでも、原色の蝶々が飛び交っているようなお花畑が広がっていた。ブランド物のきっちりとしたスーツでそのがっちりとしたスーツを包み、黙っていれば「大変有能な執事」にも見えるという現実や、四十二歳だという年齢の壁を軽々と飛び越えて、彼はいわゆる人生の隙間というやつを生きている。風の吹くまま、トラブルに巻き込まれるまま、慌しく過ぎていく日々が今日もまた終わろうとしている。
「今日も一日、ありがとうございました」
お星様に向かい眠りの前のお祈りを捧げる。
廃屋の雑然とした床に、瓦礫で囲まれた生活スペースのようなものがあった。一部分だけ異常にキレイに磨かれた床の上に寝袋が敷かれている。ここ数日の寝床である。
運よく拾ったウサギちゃんの枕の頭をポンポンと叩き、就寝準備を整える。傍目に見れば「ホームレス」である彼は、実際「ホーム」は「レス」なのだが、「ホープレス」ではないので、特に気にしていない。
だいたい彼は、ダラダラ貧乏なのではなく、少しだけ金銭感覚が常人と違うだけなのだった。
例えば、金を持ったら自分のことより人の為に使ってしまうとか(貢いでしまうとか)。
例えば、金を持ったら身だしなみを整えるのに使ってしまうとか(果敢に高価な服を買うことにチャレンジしてしまうとか)。
「明日くらい、草間さんのところに行こうかなあ」
呟いたシオンの腹の辺りで、ぐうとひもじい音が響いた。「何かお手伝いすることはあるかしらん」
お手伝いをすれば何か飯にありつけることは確かなので、妄想は次第に「何を食べようか」という方向に流れていく。うとうとと眠りの泥の中を彷徨いながら、ポップなデコレーションをされた洋菓子や洋食を想像する。
ああ、頭の中でハンバーグステーキのサラダバーセットが踊っている。
どろどろと眠りの泥が濃く深くなり、覚醒と睡眠が交互にシオンの中を踊り出した頃、その耳が、不意に遠く透き通ったヴァイオリンの音色を聞き取った。
「いい夜です」
どうして廃屋でヴァイオリンの音色が聞こえてくるのだろう、ということは考えない。誰かが弾いているにしろ、レコーディングされた音源にしろ、それを鳴らした人間が居る、ということも考えない。子守歌に最適とばかり、ゆったりとしたメロディに、身も心もすっかり預け切りまたうとうとと睡眠を貪る。
しかし、音は、シオンを苛立たせようとするかのように、ブチ、ブチ、と不規則に途切れた。ああ、いい感じ、いい感じ、と思った瞬間に切れ、また同じ所が繰り返されたりする。
これでは眠れない。
シオンは閉じていた瞳をぱっちりと開き、こそこそと寝袋の中から這い出した。
そこでやっと、これは誰かが弾いているヴァイオリンの音なのではないか。ということに気を回す。練習。そうだ、練習。誰かがヴァイオリンの練習をしているのかも知れない。ぶちぶち音が切れるのは、きっとそういうことだ。
そう思いつくと、今度は好奇心をそそられてしまうシオンである。
音のする方へふらふら引き寄せられていく。足元が暗いため、何度か散らばる瓦礫に足を躓かせ、
と、思ったら、やはり躓いた。
バシン、と思い切り前へと倒れこみ、高い鼻をぶつける。「あう」
「だ、誰!」
懐中電灯の光がシオンの視界いっぱいに広がる。
「あおう、眩しいですよ!」
「あ、ああ。すみません」
慌てたような声と共に懐中電灯の光は離れていったが、目がちかちかする。虹のような点々が浮かぶ視界に、痩身の青年が立っているのが辛うじて見えた。次第に目が視力を戻していくと、片手にヴァイオリンと弓を持ち、もう片方の手に懐中電灯を持っている。
「懐中電灯は要りませんよ、青年」言いながらよっこらしょ、と立ち上がる。「月明かりがほら、こんなにきれい」両手を広げた。
青年は警戒するような目でシオンをじっと見ていた。無言だった。どうしたらいいか分からなくなっているのかも知れない。
「ところで、何をなさってるんですか」
「ヴァ、ヴァイオリンの練習を。っていうか、人が居るなんて知らなくて。すみません」
「いえいえ、結構。私はここに住んでる、こういうものでして」
シオンは、微かに身を引く青年に構わず、いたってマイペースに自らのブロマイドを胸元から取り出した。
「え? 住んでる……え? っていうか鼻血が出てるんですけど」
「あ、あら。失礼」
ははは、と笑いながら、「私のブロマイドです、どうぞ」と優雅な仕草でそれを差し出す。
「はあ……っていうか、写真なんか貰っても。っていうか、鼻血を」
「あ、いえ。裏面が」
「あ、ああ。プロフィール……っていうか鼻血……」
「一枚、百円です」
「あ、お金取る、んすか」
「百円、百円」
青年は、あぶないおじさんに脅迫されている気になってたのかも知れない。困惑した表情のまま、ポケットに手を突っ込んで、シオンの手の上に百円玉を乗せた。
「ああ、明日の銭湯代。なんまいだぶ、なんまいだぶ」
「あの、じゃあ」
「お待ちなさい」
ガシっと腕をつかまれて、青年はいよいよ顔を引き攣らせた。「何ですか」
「先程から聞かせて頂いておりました。中々、素敵な音色です」
「ど、どうも。じゃあ急ぎますんで、これで」
「だから、お待ちなさいってば。ここであったのも何かの縁です。どうでしょう、一曲」
言葉遣いは大層丁寧であったが、シオンの身から拭いきれず立ち込める胡散臭さが青年を確実に追い詰める。深夜の廃屋で練習しようなどと思いついた自分も浅はかだったが、まさかこんな変なものに遭遇するとは想像していなかった。自らの想像範囲のずっとずっと斜め上を行く事態に突然遭遇してしまい、青年はどうしていいか最早分からない。
だいたい何者なのだ、この男は。ここに住んでるって、どういうことだ? ホームレス? だったら何でそんなに身奇麗なんだよ。
「いや、いいです。っていうか、いやです」
「私の睡眠を邪魔しといて、そのまま去るおつもりですか」
「そのことに関してはすみません。だ、だから。は、放して」
「すみませんで済んだら警察いりませんよぉ。目が覚めちゃったんですよぉ」
「だ、誰か!」
「細かいことはお気になさらずに、ささ、一曲」
「だれかーーーー!」
「しー。しー。しー。そんな大声を出したら私が怪しい人みたいじゃないですか!」
「あ、あや」青年は苛立ちを爆発させるかのように声を荒げた。「怪しくないとでも思ってるんですか!」
「怪しかったら駄目なんですか!」
しかし自分以上の勢いでシオンに言い返され、青年は思わず声を弱める。「ぎゃ、逆切れされても」
「おじさんは確かに怪しい。いや、怪しいかも知れない」
「怪しいんですって」
「だけど怪しいおじさんが音楽を分からないと決め付けるなんて差別ですよ!」
「い、いや。全然そんなんじゃないんですけど。っていうか、放してください」
「差別です、差別です」
「ちが」と、俄に慌てたように言って、青年は不意にはあ、と脱力した。「……もう、そんなんじゃなくて」
諦めたように、言う。
「人前は弾かないって決めたんです」
「私の前だから弾かないのではなくて」
「なくて、です。誰の前でも弾きません」
「では練習する意味がないではないですか」
「練習する意味はあります。誰の前でも弾かないけど、たった一人、ある人の前では弾くんです。あの人の為だけになら、弾くんです」
そよ風のように柔らかな声で言い、我に返るかのように肩を竦める。照れたようにはにかんだ。「なんて。おじさんが余りに変なので、うっかり言っちゃいました」
「ああ」
シオンは溜め息のような声をついた。「分かりますよ、分かりますよ」小刻みに頷き、青年の手をがしりと握る。
「その方に聞いて貰う為だけに練習なさるわけですね。愛ですね、愛。尽くしたい、捧げたい。ああ、そういうのおじさん分かるなあ」
「貴方」青年は苦笑のような笑みを浮かべる。「変だけど……不思議な人ですね」
「変で更に不思議なんて、不思議ですね」
「ですね」
「だったらもう、聞かせてくださいなんて無理は言いません。どうぞお帰りになって、存分にその方のためだけにヴァイオリンを弾かれたらいいですよ。っていうか、弾くべきですよ。っていうか、もうむしろこんな所で弾かれてないで、とっとと行きなさいって話しですよ」
「ですよね」
「のんびり頷かれてる場合じゃありませんよ」
「ですよねえ。でも、弾きたくても弾けないんですよ」
「と、いうのは?」
「その人、今、行方不明で」
「なんと!」
「なんて、おじさんが不思議なのでうっかり言っちゃいました」
「本当に行方不明なんですか」
「本当ですよ。っていうか、探しようがないっていうか。その人は僕の兄の……その、恋人、だったんですけど」
「だったんですけど?」
「いえ、まあ」
「青年!」シオンは満面の笑みを浮かべて、青年の肩をバシンと叩いた。「あ、すみません」
「い、いえ」思わぬ力で叩かれた青年が、よろけながら引き攣った笑みを浮かべる。
「違うんです。私、お人を探してらっしゃるなら、力になれるかも知れないんですよ!」
■■
細身のジーンズとラフなTシャツ。その上にカーキ色のファー付きジャケットを羽織った可愛らしい顔つきの青年が、窓際に設置された四人がけのテーブルに向かい、怠惰な歩みを進めていく。青年の名前は雪森雛太。友人達と節分イベントの打ち合わせをするため、深夜のファミリーレストランに顔を出した。
「よお、久しぶり」
席の前に立つと、目鼻立ちのくっきりとした細面の顔の男が顎をしゃくった。
「おー」
雛太はいい加減な返事を返しながら向かいの席にどしんと座る。隣に座っていた青年が煙草をもみ消しながら「お疲れさまっす」と控えめに頭を下げた。シンプルな色の個性的なデザインの服をさりげなく着こなしている。口元に生やした無造作な髭の印象も相まって、酷く大人びた個性的な面立ちの男だったが、これでも雛太より一つ年下の「後輩」なのである。
「何、ドリンクバーかよ」
「安いんで」
注文を取りに来た恰幅の良い女性店員を振り返り、「んじゃ俺もドリンクバーで」と言う。種類は違えど、イイ男が三人も揃うと中々迫力のある眺めになるのかも知れない。女性店員は微かに言葉を噛みながら「かしこまりました」と去って行った。
不意に視線を感じて雛太が顔を上げると、斜め向かいの席で黙々とパソコンに向かっていた女が何故かじっとこっちを見ていた。
怖い。けど、面白い。
改めて、ポツポツと埋まったファミレスの店内をざっと見渡しながら、雛太は、それぞれの抱える事情なんてものを勝手に想像し遊ぶ。深夜のファミレスにはおもしろ人間が満載なので、嫌いではない。
「なあ、雛太よぉ」不意に、目鼻立ちのくっきりとした男が煙草を加えながら言った。「ところでお前が一番最後に到着するってどういうことよ」
「わりい」視線をテーブルへと戻し言った。
「ちょっと昨日遅かったからさあ」ポケットに両手を突っ込んだ格好のまま、ふあおと大きく欠伸する。「さみィ。つか、ねみぃ」
「雛太がイベントディレクターねえ」
灰皿の横に置かれてあった小さな紙切れを掴み上げ、吉朗がしげしげと眺めている。
「あ。もう名刺渡してくれたんだ?」後輩であるジョウの方を振り返り、頷かれたのを見て「そういうことなんだわ」とソファに背中を預ける。「ま。外人みたいな顔したお前の名前が実は吉朗だっつよーり意外じゃないけどね」
「いや、意外だろ。お前みたいにグダグダを絵に描いたような奴がさあ」
「俺、もうぐだぐだしてんの卒業したの」
ジョウのグラスを横から奪い、ストローに口をつける。「のっかって楽しいのもありだけどさ。発信する側ならもっと楽しいんじゃねえの、みたいな」
「それで、イベントディレクターってか」
「肩書きには拘ってないんだけど。楽しいこと発信するっていう。それだけ。俺、こう見えて顔広いしぃ? 有能な部下にも恵まれてるしぃ?」
「イベントディレクター、略してED」
吉朗が独り言のように呟いて、プと吹き出す。「下手したら、豊かなカップルライフのためにじゃん、これ」
間が悪くグラスを持って来た女性店員の「失礼します」の声と、吉朗の「お前、勃起機能の低下に悩んでるんだっけ」という言葉が被る。「え」と思わず顔を上げた女性店員は、すぐに顔を赤らめどうしていいか分からない様子でそそくさと去っていった。
「しかも名刺に公言してるし」
ジョウがやはり笑いながら、吉朗のからかいにのっかる。「言われてみれば面白ろすぎ」
「略すな略すな」
雛太は苦笑した。「俺、レモンティね」
グラスを差し出し、ジョウと席を入れ替わった。どうにも昔から席の奥の方に座る方が好きな雛太である。ジョウが出て行ったのをいいことに、壁に寄り掛かれる席の奥へ詰め、やっと落ち着く。
「パシってるし」
文句も言わずジュースを入れに行ったジョウの背中を見送り、吉朗が苦笑する。「そういうとこ学生時代から全然かわんねえ」
「何つーか俺も。大人になっちゃったわけ」
「今、変わってないって言ったんだけど、俺」
「もうじき二十四だしさあ。え? 二十四!? みたいな。突然、ハッとしてさあ。周り、年下増えてくしさ。びっくりだよ。知ってた? 時間って流れてんだぜ」
「多分俺は、お前より百年くらい前から気づいてたね。時間が流れてるなんてことはね」
「うっそー」
いい加減な返事を返しながら、雛太はくたりと壁に寄り掛かった。「ま、でも。だろうな、お前はさ。俺はさあ。麻雀とかパチンコとかして、だらだらゲームとかしながら、テキトー遊んで、笑ってとかってしながらテキトー生活してて、それで別に楽しかったんだけど、何つーか。周り結婚とかしてくるしさ。そろそろ俺も、のっかってんじゃなくて「活かしていくかな」って気ィしたんだよね」
「活かしてく?」
「このままだと俺、エンジンは掛かってんだけど、発進してねえ車みてえ。車って走ってナンボっしょ。だからさ。与えられてる中から選ぶんじゃなくて、今度は俺が、そういう奴らに、俺を活かして与えてく番かなってさ。おもしろいことに乗っかってきた先輩としてさ」
「走り出しちゃったわけだ」
「相変わらず不規則で不健康だけど。やることやってるあたり、かなり成長、みたいな?」
「儲かってンの」
「まあ、トントンってとこだね。まだね」
「っていうか具体的に何やってるわけ?」
「いろいろ楽しいこと発信して発進してこーってのを、企画してあれしてこれしてあれしたりぃ」
「ごめん。コイツの説明、全然わかんねえ」
丁度席に戻って来たジョウに向かい、吉朗が肩を竦める。
「会場押さえたり、ゲスト手配したり、内装決めたり、小道具用意したり、当日、スタッフ動かしたり。イベントもクラブイベントだけじゃなくて、いろいろやってこーって企画があって。要するに、楽しいことと人とを繋ぐパイプ役っすよ、俺ら」
「ふううん」
「今、俺に出来ンのかよ、とか思った、お前?」早速レモンティのグラスに差し込まれたストローに口をつけながら、雛太は吉朗にしたり目を向ける。
「それは思った、悪いけど」
「はいはい、ですよね」
「だいたい、お前が後輩の面倒とか見れてンのって感じだし」
「面倒見てンじゃなくて、見られてたりして」
「だろうな」
「ま、コイツは俺のこの我儘気ままに付き合ってくれるわけだし。何回か一緒に仕事してさ。価値観が似てンだよね。何か。笑うポイント一緒みたいな」
「雛さん、こう見えて案外、手先が器用だし。雑学王だし、運動神経いいし。記憶力とかあるし。あと、人見る目あるし。洞察力っていうか。行き所も知ってるし、何よりセンスいいし、みたいな」
「キモッ。何二人で褒め合ってンの。新婚かよ」
「俺も思った」
雛太は笑い、「さて」と居住まいを正した。
「雑談はこれくらいにして、仕事の話しましょーか」
「俺に作って貰いたいモンあるって」
「大学時代のよしみで、価格はお安めでお願いして頂けると」
「それはどうかな。俺、この間、結構何ヶ月もかかって作ったやつ、とられちゃったところだからな」
「えー、マジでえ」
「製作に掛かった金ごとパアだよ。あれは痛かったな。だから、むしろ大学時代のよしみで、ぼったくるくらいの感じで行きたいわけなんだけど」
「聞こえない聞こえない〜」
軽い調子で言って、雛太は自らの鞄から今回のイベントの会場である「クラブスカッチ」の写真と、他のアーティストの作品の写真を取り出した。テーブルの上に広げる。
「コンセプトは和とサイケって感じで。今回は、インディーズのファッションショーも兼ねてるから……」
指を差しつつ、説明していく。
■■
「と、そういうわけなのよ」
「ふうん」
パソコンを覗き込みながら、風槻がシュラインの説明に生返事を返す。画面には、デジタルカメラから取り込んだ画像データが表示されていた。シュラインが草間興信所で撮影してきた人形の写真である。
「実は腹話術師が自信喪失とかの話だったら笑っちゃうよね」
全然「笑っちゃう」様子ではなく言って、風槻がパソコンから目を離した。脇に置かれたティーカップに口をつける。
「腹話術、か」シュラインは腕を組みながら言って、ピンとこないのか小首を傾げている。
築百五十年は下らないという町家の内装を少しだけ改装して作られた、古書と茶房をコンセプトにしたカフェの中だった。依頼の話を聞くがてら、二人で甘い物でも食べようか、という話になり、風槻がこの店を紹介してくれた。
畳に座布団。アンティークの家具が配置された純和風の内装と、壁を埋める「古書」。しかもまた出てくる洋菓子(そうなのだ。出てくるのは洋菓子なのだ)は、お洒落で美味しい。
生活の見えない風槻であるが、「隠れ家的」で「お洒落」な店を紹介させたら右に出る者は居ない。友人として、この博識さ加減は外せない。
「でも。もし、本当にそういうことなら」
「腹話術師が自信喪失?」風槻は小さく笑い、肩を竦めた。「そういうのならすぐ調べられるよ。該当者なんてすぐに割り出せるね」
「喋ってた気がする、って。言ってたのよねえ。その子。前は喋ってた気がするんですって。そのあたり私としては凄く気になるのよね」
「気になるって?」
「記憶の喪失とか。記憶の変換とか。要するにここ」シュラインは自分の頭をトントンと叩いた。「弄くられちゃってるような、そういう印象を受けるのよね」
「ふうん。脳味噌を弄くった、か。なるほどね。あー、なんかそういうのあったなあ、そういえば」
「そういうの?」
「あたし的にはこの人形、気になるかな」
シュラインの問いには答えずに、風槻はトントンとパソコンの画面を指で叩いた。「すごい精巧。でもさ。何でこの写真、こんなに遠いわけ? ピント合ってないのもあるんだけど」
「ああ、それね。それでも苦労して撮ったのよ」
呆れたように言いながらシュラインは、自家製フルーツケーキにフォークを差し込む。「依頼人がつれてきた、人形が喋ると思ってる子。シイ君なんだけど」
「あ、ちょっと待って、私的にはどうでも良いんだけどさ。つまり依頼人は、菅野圭太なわけ? そのシイって子なわけ?」
「一応、両方、かしらね。お金を出すのは菅野圭太よ。だから私の中では、依頼人は菅野圭太」
「ふうん」
「それでね。えーっと。何を言おうとしてたかしら。ああ、そうそう。写真の話ね。そのシイ君なんだけど。この人形のこと、人のように扱うから」
「人?」
「そうなの、人。しかも……あれは、恋人のように、とも言えるわね」
「きょわいねえ」
「勝手に触ろうものなら、束縛厳しい女みたいに触らないで下さいなんていってくるから」
「怖い怖い」
「人形だって思って扱うと殴られるかもね。写真撮るって言っても、プライバシーがどうのとか言い出すんだもん。正直、あんたが喋らないとか言うからでしょ、ってちょっとムカついたけどね。調べる気あんの、みたいな。だから隠し撮りしたわけ。見れないことはないでしょ」
「喋らないって声に出して訴えるだけで、何とかしてくれるって思ってんじゃない」
小さなカップに入ったプリンのパフェにスプーンをいれながら、風槻がどうでも良さそうに言う。「あるいは、そう圭太という男が言った、か」
「そう言った?」
「過保護な親って居るじゃない。あたしはそういうの本当勘弁って感じだけど」
「ああ、確かに。そういう感じだったかも。子供を猫かわいがりして、子供はコウノトリから生まれてるんだよ、って教える感じよね」
「そうそう」その時だけ風槻は酷く面白そうに笑った。「武彦を魔法使いだとでも教えたんじゃないの」
「現実はもっと、酷く地味で地道なのよねえ。これが」
「だけど。なら人形の作成者もチェックしておく必要あるか。人形師、特撮技術者……念の為にロボット工学も入れときますか」
「ならって?」
「まあ、本当にイタイ子なのかも知れないけどさ。それだけ人目に晒したくない、後ろ暗いこともあるのかなって」
「ああ」シュラインは感嘆するような溜め息を吐き出す。「イタイ子ってことと、顔と体のバランスが滅茶苦茶な人形ばっかり前に出てたから、そこには頭回らなかったわ」
「その場に居たらあたしもそうなってたかもね。人って場の雰囲気に流されるとこあるから」
「あるある」
「じゃあ。合流は明日ね。そっち行く前に、調べられるの調べとくから」
「それじゃあ私はその間、地道に聞き込みといくわ」
「どうでも良いけど、シュライン姉さんは地道が好きだねえ」
「答えだけをポンと出されるのが嫌いなだけよ。パソコン開くくらいなら辞書を開くわ」
「うわっはは。あたし、喧嘩売られてンの」
唇を釣り上げながら肩を竦めて、紅茶を飲み干した。
■■
「ああ、人形が喋らなくなっちゃったんですかー」
シオン・レ・ハイの胸焼けしそうなほどに優しい猫撫で声が聞こえる。武彦は煙草の煙をぼんやり見つめながら、応接ソファの方の繰り広げられている会話に小さく笑った。
シオンの隣に座るのは、圭太が連れてきたシイという青年である。昨日依頼を持って来たばかりだというのに、昨日の今日で早速「何とかなりそうですか」と押しかけてきた。だいたい人形は喋るものではやっぱりないと思うので、やはりそれは何とかなるわけはない。
追い払おうかとも思っていたが、そこに丁度シオンが「人探しをしている依頼人を連れてきました」とやって来た。それであのツーショットが完成してしまったのである。
シオンはその青年の話を何かの法に触れるのではないか、と思うような優しい声で聞いてやり、同情してやり、慰めている。胡散臭い詐欺師が路頭に迷う青年に人生を説いているようにも見えて、そのツーショットは中々笑える。しかも、話してる内容は「人形が喋ってた」だとか「何だとか」なので、視覚と話の内容のアンバランスさがまた笑える。
特別盗み聞きしてやろうとか耳をそばだてているというわけではなかったけれど、静かな事務所の中には二人の声が良く響く。
「おお、おお。それはそれは、可哀想に」
シオンは目元の涙を拭うような仕草をした。「私に任せてくださいよ。おじさんが喋らせてみせましょう」
「ほんとに?」
「ええ、ええ。私に出来ないことはありません」
二人の異世界は武彦だけを置いて着々と広がっていく。
「どれどれ少し、見せてくださいな」
しかし、シオンがシイの腕の中にある人形へと手を伸ばそうとした時である。
「あ、やめてやめて」
悲痛な声が訴えた。「触らないで。駄目です。絶対駄目」
「絶対?」
「絶対です。駄目です」
「おじさんが頼んでも駄目?」
「駄目です」
「ああ。でも触ってみたいなあ。私、そういうの興味あるんですよ。腹話術っていうか」
「腹話術じゃありません!」
「ええ! 腹話術の人形じゃないんですか!」
「腹話術の人形だと思ってたんですか!」
「お二人さん」
三十分くらいずっと話し込んでおいて、その見解は全くかみ合ってなかったということが判明した所で、武彦はぼんやりと口を挟んだ。「そこそこ面白いんだが、ちょっといいか」
「あら、武彦さん。何時からそこに」
「ずっとだし。依頼人来ないしい」
「依頼人?」
「お前、人探ししてる奴連れてくるんじゃなかったのか?」
「ああ、そうでしたそうでした。ええ、ええ、そうですよ」
「だいたい、お前これは、連れて来ましたって入って来たら反則な状態だよ。つれてきてない」
「気持ちの上では連れて来た感があったんですが」
「つれてきたんじゃなくて、つれてくるはず。いや、つれてこれたらいいな。いやむしろ妄想なんじゃないか」
「酷い! 妄想だなんて! 私はね昨晩間違いなく痩身のヴァイオリニストに」
武彦の怪訝そうな瞳に見つめられたシオンは、丹精な中年顔に似合わず唇を尖らせる。
アホな顔……。ヴァイオリニストって何だよ。武彦の中でいよいよ疑惑が確信へと近づいた。
と、その時。
ガチャリ、と興信所のドアが開いた。武彦は思わずその身を乗り出す。しかし、入って来たのは。
「なんだよー。風槻かよー」微かに落胆しながら背中を戻す。
「なんだよって悪いわけ。頼まれて手伝いに来たはずなんだけど、あたし」
風槻は、特別気にもしてないような口調で文句を言う。「シュライン姉は?」辺りを見回した。
「挨拶もなく早速仕事の話かよ」
「挨拶で出迎えて貰ってないからね」
「シュラインなら今、聞き込み中」
「あっそ」空いた方のソファに腰掛けて、向かいに座るシオンとシイに目を配る。それから武彦の方へと顔を向けてきた。
「この少年? 人形が喋ると思い込んじゃってるのは」
「まあ」
と言葉を濁しながら頷いて、短くなった煙草をもみ消した。「思い込んでるっていうか、喋ってたっていうか」
「ふうん」
風槻の頷きを最後に事務所の中は、不意に短い沈黙の中へと落ちる。それを遮るかのような勢いで、突然、デスクの上の電話が着信音を響かせた。
「おっと。……はい、草間興信所。お、圭太」
意識するでもなく武彦の視線は自然とシイの方へと向いてしまう。
「ああ、おう。来てるぞ。ああ、ああ。うん、分かった」
受話器を耳から放した武彦は、受話器をソファのシイへと差し出した。「あー。シイ君。電話だ」
「え?」
「圭太だ。心配してる。突然居なくなった、って」
「はあ」
おずおずと頷いたシイは、慌てたように立ち上がり受話器の元へと駆け寄ってきた。「はい、もしもし」と両手で受話器を握り締める。
両手で。
人形は、無防備にもソファへと置きっ放しにされていた。あれだけ必死に触るなと訴えていたはずなのに、要するにそれくらい大事な人形のはずなのに、不意打ちのような電話に驚いてしまったからかも知れない。あるいは……。いや、その理由などどうでも良い。とにかくシオンはその隙を見逃さなかった。ちろちろとシイの方を盗み見ながら、人形へと手を伸ばしている。武彦は笑いだしたくなるのを堪えながら、そのチャレンジャーな動きをじっと見ていた。
「うん、ごめん。だけど、ちょっと草間興信所に行くだけだからと思って」
子供が悪いと知りながら悪事を働く時の顔つきで、人形をそっと自分の元へと手繰り寄せると、くるり、と裏返した。
腹話術の人形じゃない、と断言されたにも関わらず、まだ話させようとしている。そこまでしてやってみたかったんだな。武彦は堪らずプ、と吹き出した。
「あ」
声に反応したのか、シイが顔を上げた。
「ワタシノナマエハ」
人形を左右に振りながら、シオンが裏返った声を出す。武彦は堪らず笑い声を上げてしまう。馬鹿だ、と思った。
「あ、やめてやめて。やめてその人に触らないで!」
その場の空気にそぐわない悲痛な声を上げたのは、もちろんシイだ。話の途中だったにも関わらず、受話器を放り出し人形の元へと駆け寄った。シオンの手から人形をひったくると、「触らないでって言ったのに!」と唇を噛みしめる。
そして、平手。バチン。
『もしもし? どうした? シイ? シイ?』
殴られてやんの。
「ああ、すまん、圭太」放り出された受話器を手に取り、武彦は淡々とした声を出す。「ちょっと知り合いがシイとかいう青年に悪戯を」
『い、いたずらッ?』
「なるほど」
頬を押さえて涙目になっているシオンを見やり、こちらも実に淡々とした声で風槻が言った。
「な、なんですか。っていうか私が殴られてるのになるほどってなんですか」
「いや、人形を調べようとすると、そうなるんだな、と思って」
「だ、だいたい誰なんですか、貴方は」
「名乗る必要があるか」
素っ気無い台詞と共に睨まれて、いよいよシオンはしゅんとした。途端に真面目な顔つきになりしおらしく頭を下げる。
「嘘です、すみません。シイさん、人形触ってすみません」
「なんてな」
どうでも良さそうに風槻が言った。「人に名前聞く前に、おじさんが名乗りなよ」
「なんてな、が遅いですよ」
「どうでも良いけど鼻水出てるよ、おじさん」
武彦はまたプ、と吹き出した。
「ああ、すまん。こっちのことだ。えーっと。それで迎えに来るのか? ああ。そうか。分かった」
電話口の圭太に向かい言って、「じゃあな」と電話を切る。「迎えに来るってさ」とシイに視線を投げた。
それにしても、と風槻は考えていた。触っただけで殴られるなら。
もう一時もこの人形を放すまいと意気込むように抱きしめる青年ぼんやりと見やる。
あの人形を調べるのは無理か。
風槻はじっとシイの手の中にある人形を見つめる。神経を集中させ念を込めると、遠くにあるはずの風景が自分の眼前へと突きつけられるかのような感覚の中に陥る。本来なら見えるはずのない人形の細部に至る画像が、脳内へと入り込んでくる。
風槻の持つ特別な能力。利便上、それは「遠見能力」と呼ばれている。例えば、飛び出す絵本の絵のように、視界に映るあらゆる物が眼前へと差し迫り見えるのである。普通の人にならば見えない遠くのものも、風槻なら手に取るように見ることが出来る。
そしてそれら読み取られた画像達は、風槻の脳の中にある情報庫に保存される。普通の人が記憶する感覚とはまた違う。しっかりと「保存」されるのだ。ただし、この便利そうに見える能力も完全ではない。見る範囲が広くなればなるほど、そこにある「全て」が「保存」されてしまうのだ。脈絡もへったくれもあったものではない。不必要な画像もくそも全てをデジタルなまでに保存されてしまう。必然的に、脳の中の情報庫はごちゃごちゃと要らぬ画像で溢れ帰り、整理するのにまた手間取る。
だから風槻は余りこの能力を好んで使わない。が。手にとって人形を見れないのならば仕方がない。
あらゆる角度でその画像を検証しながら、そこに人形の製作者へと繋がる情報はないか分析する。
もちろん読み取った「情報」は共有できなければ意味がない。脳内に取り込んだ画像を外へと出力するための装置もあるが、何はともあれ、今回の遠見で「使える」情報が出てこないと、その装置にも意味がない。
しかし暫くして、風槻ははっとその顔を上げた。駄目だ。天井を見ながら息を吐き出す。
人形の製作者に繋がりそうな物は見当たらない。
風槻は情報庫を二つ持っている。
一つは、自宅にあるオーソドックスな隠し部屋と、そしてもう一つは脳の中の情報庫である。シュラインから話を聞いたところで、人形の製作者に関するある程度の情報は集めてみたが、確信をつく何かはまだ見つかっていなかった。もっと確実に絞り込める手がかりが欲しい。
例えば。製作者のサインとか。
しかし「遠見」は「透視」ではないので、それらが隠された場所にあるならば自分の目ではやはり発見することは出来ない。でも、何処かにはきっとあるはずだ、と思う。
だいたいクリエーターなどというものは、押しなべて自己主張の強い人間のはずなのだ。作ったものに、何かしら自分というものを入れ込みたくなるはずに違いない。
また風槻は、じっとシイの手の中にある人形に目を凝らす。
その時、再び草間興信所の電話が着信音を響かせた。「全く、今日は良く電話が鳴るな」
経営者としてどうなのか、というようなぼやきを溢しながら武彦が憮然と電話を取る。
「はい、草間興信所。あ? シオン?」
視界の隅で、鼻水をたらしていたあの風変わりなおっさんが、何故か落ちつかなげにそわそわしている。かと思ったら、立ち上がった。そのまま武彦の元へと直行する。
「いや、アルバイトにはそういう奴は居ないが、限りなく遠い知り合いになら、そういう奴も、おっと」
「お電話代わりました。シオン・レ・ハイです」
人形の何処か。あるはずの、手がかり。
と。
不意に、風槻はきょとんとした表情で目を瞬かせた。
「え?」と、思わず漏らす。
ふさふさとした人形の黒髪の下、頭皮の部分に赤く浮かび上がる何かが見えた。そう、サインらしき「何かが」
え?
何これ。
しかし、髪の毛の下にあるのなら見えるはずがない。隠れているのだから「見える」はずはないのだ。
そう、例えば。透視でもしてしまわない限り。
これは一体、どういうことだろう。風槻は思わず、小首を傾げる。
■■
市街地から抜け出すと、タクシーの窓から見える景色は殺伐とした灰色から、優しい緑色へと変化し始めていた。
シュライン・エマは、タクシーの運転手に「この辺りでいいです」と車を止めて貰い、朗らかな田園風景の中に降り立った。隣を追い越し発進していくタクシーの背から、左の方へと視線を移す。だだっ広い敷地を持つ、古めかしい日本家屋の姿が見えた。
築二百年は下らないというその家屋の外装だけを見れば、怨念によって人が殺されたり、古き良き時代の名探偵が登場して事件を解決したりしそうである。しかしそこには、しわがれた声の怪しげな老婆も、能面のような顔の怪しげな執事も存在しないことをシュラインは知っている。
艶やかに黒いワンボックスカーと、ブリキ細工のようなフランス製のクラシックカーが無造作に駐車される敷地内を、慣れた足取りで横切っていき、鍵の掛かっていない玄関の戸をがらがらと引いた。
瞬間、視界の端に人の姿を捉える。シュラインははっと玄関の脇を振り返った。
「なんだ、人形か」
思わず、素っ頓狂な声が出てしまう。
シュラインと同じくらいの身長はありそうなそのマネキン人形は、顔だけが驚くほど精巧だった。しかしじっと見ていると、顔の部分にお面をつけられているのだということに気づいた。
何だ、お面か。
これは一体、何をモチーフにして作られたお面なのだろう。毛糸のように乱れ広がった黒髪のてっぺんの辺りから、ひょっこりと顔を出しているものがある。角だ。と、いうことは鬼だろうか。しかし顔だけは驚くほど美しく、少し、ハーフっぽい顔立ちをしている。顔には奇抜なペインティングが施されており、何とも言えず、個性的な造詣であるということだけはいえた。
でもこれって。そういえば、あのシイ君の持っていた人形に似ているような……。
「ちいーす」
若い男性の声が耳を突き、シュラインはその思考を中断させる。顔を上げると、この屋敷の主である甚平姿の雪森雛太が立っていた。「姉御、久しぶり」
「お久しぶり、少しやせた?」
シュラインがそう問うと、雛太は「どうかな」と小首を傾げながら、腹の辺りをぽりぽりとかいた。大きな欠伸を一つ漏らす。
「ごめ。昨日ちょっと仕事でさ」
「アンタの口から出るとその言葉はとても新鮮に聞こえるわ」
「だろうね」
「男はやっぱり仕事を持ってナンボだとお姉さんは思うわけ。今のアンタ、とても洗練されてるわ」
「マジで? 姉御からそんなお言葉貰えちゃうなんて、長生きはしてみるもんだなあ」
「寝起きの姿は変わらないけど」
「はいはい。人はそう簡単に変わらないんだって。まあ、入りなよ」
小さく顎をしゃくり、廊下を歩いていく雛太に続く。その背中は以前よりも少しシャープに、しかし少し広くなったように見える。余分な肉がそぎ落とされて、生きていくに必要な活力を身につけた、というような感じだ。
草間興信所を宿代わりに、うだうだと遊びほうけていた頃とはやはり全然違う。もちろん興信所のアルバイターとして、依頼を手伝ったりもしてくれていたが、あれはやはり悪魔で手伝いなのであり、職業ではなかった。
独立し自立した彼は、最早「少年」とも「坊ちゃん」とも形容できない、「男性」になってしまった気がする。久々に再会した仲の良かった従兄弟の男の子が「実はもう大学生なんです」と頭をかくのを見るかのような。
「仕事で忙しいときに、悪いわね」
「えー」
見た目だけは酷く華奢な「男らしい」背中が小さく笑う。「そういう社交辞令言っちゃうか」
「あら。私は、アンタと違って大人だもの」
「困った時においらを頼ってくれて嬉しいよ」
はあ、とシュラインは小さな溜め息を吐いた。「何ていうか。そういうことさらりと言えちゃうくらい大人になったってことよね」
「まあ、さらりと言えちゃうくらいには? っていうかまあ、今の俺があるのも草間でいろいろ動いてた経験のお陰ってのもあるし、草間のおっさんにも恩があるわけだ。姉御の要請ならいつでも大歓迎」
「お母さんの気分」
「なんだよ、それ」
「そう言ってくれて嬉しいような。淋しいような。微妙な感じだわ」
「っていう感想がビミョー」
シュラインを和室へと通し自分もその向かいに座りながら、雛太が笑う。
「で?」と大きく背伸びした。
「聞きたいことあるって?」
「ええ、そうなの。今抱えてる依頼のことなんだけど」
シュラインはバックから一枚の写真を取り出す。「この子」
「聞き込みする側からされる側になるって、これまた新鮮だね」
軽口を叩きながら雛太が写真を覗き込む。
その時、「すみません」と衾の影から一人の男性が顔を出した。
「おお、ジョウ」
「あ、来客中でした」
「うん、ちょっと」
「ふうん」
と、一瞬、値踏みするかのような目にねめつけられた、と思ったのは、シュラインの勘違いだっただろうか。
「ショーゴさんから電話あったんですけど、かけなおしてもらうように言っときますわ」
「そーして」
去っていく痩身の男を指さし、雛太が得意げに笑う。
「あれ、俺の後輩。ジョウ。結構、いい男っしょ」
「あー、名前が出てこないんだけど俳優に似てる」
「似てるか?」
「どうでもいいけど、人をパシる癖は直ってないわけね」
「はいはいどーもすみませんね」
「と、いうわけで。私も手詰まりっていうか。日常生活が見えないのよねえ、この子。家も調べてみたんだけど、驚くほど物を持ってない子でね。家族とかに行き当たりそうなものもない。友達とかも全然居ないみたいだし。何の為に生きてるのって感じなのよねえ。彼から聞いた話で、周りの人間から証言取ってこうと思ったんだけどさ。てんで駄目。その周りの人間が居ないわけ」
「うーん」
雛太は胡坐をかいた膝の上に肘をついた格好で、じっとシュラインが差し出した写真を見つめている。今、彼の小さな頭の中では、これまでに会った様々な人物が入れ替わり立ち代りスライド画像のように表示されているに違いなかった。彼は常人にはない優れた記憶力を持っている。その中でも人の顔というのは特に覚えやすいのだという。今はその彼の「記憶」の中に、シイに該当する人物が居ないかどうかを調べて貰っているのだったが。
「思い当たらないなあ」
暫くして雛太は悲鳴のような声を上げて、力尽きたように後ろへと仰け反った。「コイツは見たことはないわ、多分。イベント会場の客とかの顔の中にもコイツは居なかったと思う」
「ああ」
シュラインは前髪をかきあげながら、小さな溜め息を吐いた。「やっぱりね。そう」
「わざわざ来て貰ったのにすまんね」
「いいわ。聞き込みって、そういうものだもの」
「まあな。そういえばそうだな。有益なたった一つを見つけるために、結構苦労するもんな。しかも、聞き込みしてない時に限って、ひょっこり真実が顔出したりしてきたりして」
「ところで、表にあったマネキン人形なんだけど」
「ああ? マネキン……ああ、あれね」
「あーゆーインテリア?」
「なんでやねん」
「でしょうね。仕事で使うの?」
「まあね。今度さ。節分コンセプトにしたショーやるから。そこで使うのよね、あれ」
「どう使うわけ? あれ被って種巻きさせるとか?」
「いやいや、それも面白いけどさ。ファッションショーやるんだよね。で、デザイナーの一人がさ。日本人っていうか、人間らしさをモデルから排除したいって言ってさ。モデルっつーからにはスタイルは抜群なんだけど、顔がね。人間臭いからって」
「いろんな人が居るのね」
「人が着るんじゃねえの、服って? みたいな」
「そこまで来るともう、実用って意味じゃなくて芸術って意味なのかもね」
「だね。ま、俺はいろいろ見たい人だから、使おうかってことになってさ」
「アンタのそういう幅の広いところ、私、好きだわ」
「知ってる知ってる」
「これ」
シュラインは、バックの中からまた数枚の写真を取り出した。辛うじて撮影した人形の写真である。「これが、その子の持ってた人形なんだけど」
「見にくい写真だな」
「そう言われると思ったからあんまり出したくなかったんだけど。ねえ、良く見て。似てる気、しない?」
「んー。確かに、吉朗が造りそうな顔、ではあるかな。何とも言えないけど」
「その人と、連絡取れるかしら?」
「確かめさせたいわけね」
「一応」
「うん、オーケー分かっ、た」
雛太は顎を撫でながら、他の事を考えているような顔で頷く。「確認は必ず取ってくるよ」
「確認は、って?」
「人形を直接見せた方が確実だし、姉御が直接聞き出したいって気持ちは分かるんだけどさ。もしかしたら連れて行くのは難しいかも知んないってこと」
「ああ、そう。でもいいわ。アンタが聞いてくれるんでしょ。誰が聞いても、真実が分かれば問題ないし。だいたいもしも、本当にこの人形がその吉朗とかいう人の作品なんだったら、後々話を聞きに行くことだって出来るんだし」
「オッケ。じゃあ……俺、この後ちょっと打ち合わせ入ってるから、とりあえずそれ終わったら興信所の方に顔出すわ。最悪、そいつは連れて行けなくても、情報だけは確実に持ってくからさ」
雛太の後輩だという青年に近所の駅まで送って貰い、電車へと乗り込んだ所でシュラインの携帯が振動した。
メールの受信を告げる着信メロディが、人気のない車両の中に短く響く。
誰からだろうと思い慌てて携帯を取り出すと、画面を開く。風槻からだった。短くも、インパクトのある文面がシュラインの目に飛び込んでくる。
「人形の製作者が判明。至急連絡されたし」
「判明?」
いらいらとしながら電車が次の駅へと停車するのを待って、すぐに風槻へと電話をかける。
「もしもし、シュライン」
「ああ、シュライン姉さん。おげんこ?」
「どういうこと? 人形の製作者が判明って」
「話せば凄い長くなるけどいい?」
「良くない」
「でしょうね。とりあえず一つだけ言いたいのは、私、自分では全然自覚してなかったんだけど、透視とか出来ちゃうかも知れないって話なんだけど」
「はあ?」
「とにかく。いろいろ積る話もあるし」
「焦らさないでさっさと要件だけ言いなさいよ」
「焦らすのは知ってる者の特権だって、この前、どっかの小説の台詞に書いてあったなあ。あれ、何の小説だったかなあ」
「風槻」
「分かった、分かった。でも、電話で説明できるもんでもないから。画像、見せたいし」
「画像?」
「整理して出力するのに一旦家帰りたいから、この間の店で待ち合わせで。後、人形制作者の情報じゃないけど、脳味噌弄くった方面の情報で、面白い話、掴んだから」
「掴んだって」
「悪いけど、辞書には載ってないからね。風槻の検索技術舐めんなって話」
「私、喧嘩売られてるのかしら」
「じゃあ、あの店でねえ。よろしこ〜」
ブチ、と電話は一方的に切れた。
「一体、何なわけ?」
シュラインは携帯を見やりながら、小首を傾げる。
■■
「ところで武彦さんは、どちらにいらっしゃるおつもりですか」
のんびりとした速度で歩きながら、シオンがにこやかに聞いてきた。
「お前に付き合うおつもりですよ」
こちらものんびりと足を進めながら武彦は素っ気なく答える。空が青かった。
「お前が依頼人を無事に連れてくると思うか」
「んな、アータ」シオンは肩を竦めて小さく微笑む。「私だって子供じゃないんですから、別に一人で行けますよ」
「万が一行けたとしても、無事に帰って来れない気がする」
「おっしゃるおっしゃる」
「冗談じゃないんだって」
武彦は不審がるような目をシオンに向けて、続ける。「俺はお前の人格ではなく、トラブルメーカーとしての性質を疑っている」
「まあ、確かにちょびっと、トラブルに巻き込まれることは多いですけど」
「それは分かってるんだな。っていうかちょびっとじゃないけどな」
「大丈夫ですよ、私一人で。むしろ全然大丈夫ですよ、一人で。っていうか、一人の方がいいなあ、私」
「なんだよ、俺についてきて欲しくないのかよ」
「そういうわけじゃないんですけど」
「もしかしてお前、あれだろ」がし、と骨っぽいシオンの肩を抱く。耳に囁きかけるようにして言った。「人探ししてる依頼人とやらに、お前、だいぶ、ほら吹いたんじゃないか。格好つけてさ。私が居ないと草間興信所は回らないんですよーとか、頼りにされちゃって困ってるんですよー。とかさ。だからお前、俺が行くと困るんだろう」
「ままま、まま、まさか、そんなわけないじゃないですか。はははは」
明らかに顔を引き攣らせてシオンが否定する。なるほど、図星だな。と一人で納得し、その肩を解放してやった。
「心配するな。そういうことなら、お前のことをいろいろ言ったりしないからさ」
「本当ですか」
「ま、嘘に付き合ってやるまではしないけど」
「うう。だったらついてきてくれなくていいんですってば。興信所を留守にしてまで、申し訳ないですよ」
「いいだろぉ。暇なんだよ」
「暇……じゃないじゃないですか! 人形の依頼を抱えてらっしゃるでしょ」
「あの依頼には、俺は口を突っ込むつもりはないんだ」
「どうしてですか」
「調べたくないから」
「どうしてですか」
「人形をさ。恋人みたいに見てるんだ、あの子」
「はあ」
「人形を恋人みたいに見てるシイを、見てるんだ、圭太は」
「はあ」
「ちょっと居なくなったくらいで心配して興信所にまで電話してくるくらい、シイって男を見てるんだ。あの、圭太がさ。これって、恋って気がしないか」
「はあ」
「本気の恋だ。例えば、だ。恋愛してるときの男なんてものは、だいたいが相手の期待以上の自分を見せようとしたりするだろ? 格好つけたりしてさ。多くを捧げるわけだ。自分を作ったりしてさ。器用な人間は、そこを結構簡単に使い分けて、出来たりするわけだ。自分を創ってることもちゃんと自覚している。これ以上捧げたら破滅する、ってこともちゃんと理解している。だけど」
と、武彦はそこで言葉を切って、欠伸をする。「正真正銘、ずっぽりはまってる奴は、そういうのを自覚しない。これは怖い状態だ。今の圭太を見てると、俺はその恐怖を感じる。捧げすぎて、見返りを求めるようなら、捧げないほうがいい。アイツ、俺に言ったんだ。何で、あんな風変わりな奴を助けたのかって聞いたらさ。助けてって言われてる気がしたんです、って。あの庇護してくれよって目に、弱いんですって。どんなことでもしてやろうって思うんです、ってさ」
「はあ」
「あの圭太が、だぞ。笑うって」
「はあ」
「多分、シイって子は、あの人形そのものに惚れてるわけじゃないと思う」
「はあ」
「あの人形が喋らない、ということを突き詰めて解決していけば、圭太の恋が破れる可能性が高い、と俺は思う。あるいは、もっと惨い。気持ちだけが圭太にない、という宙ぶらりんな状態になるかも知れないとすら、俺は踏んだ。誰にだって、惚れた相手を自分だけの物にしたいって気持ち、あるだろ? 愛ならいい。見返りを求めない、真摯な愛なら。だけど、これがまだただの恋で、だけど本気の、生涯唯一の恋なら。ただ捧げるだけ。そんな恋に耐えていけるほど、圭太が達観した人間なのかどうか、分からないしな。
俺は、アイツに見返りを求めるな、とはいえない。言ってやりたくない。そんな捧げるだけの恋に生きろなんて、言ってやりたくない。先輩として、そんな後輩を見たくない。だから、俺は逃げてるわけだ」
「はあ」
「で、お前、俺が何を言ってるか分かってないだろ」
「はあ」
「っていうか、聞いてないよな、たぶん」
「はあ、結構最初の段階から」
はは、と武彦は軽い笑い声を上げる。「お前のそういうところが、多分、いいんだな」
「え、いいんですか」
「犬とか居るだろ。犬に喋ってるときって、人って癒されるんだよ。相手は答えないし、頷きもしないけど、その分、勝手に喋れる。その依頼人もきっと、お前のわけの分からない包容力に魅せられたんだろうな」
「はあ」
「着いたぜ」
武彦は軽い調子で言って、シオンの肩をポンと叩いた。「でかい家じゃないか。当たりだな」
尻が埋もれてしまいそうな柔らかいソファの感覚に辟易しながら、武彦は向かいに座る青年の話に耳を傾けている。
「僕のヴァイオリンが好きだって、言ってくれたんですよね。その人。上手いとか下手とかの次元じゃなくて好きだって。元気になれるって。癒されるって。特に才能があったわけでも、それで食べていこうと思っていたわけでもなかったんですよ。ヴァイオリンは趣味っていうか。僕、とてもヴァイオリンを弾くことが好きで。だけど、何か。家で練習してると、親が変なプレッシャーとか期待とかかけてくるもんで。鬱陶しくなりかけてたんですよね。そこを、救って貰ったっていうか。恩人なんですよ」
「恩人ね。で。行方不明だと?」
「あー。実は。言いにくいんですが」
「旅の恥はかきすてですよ。言っちゃえ、言っちゃえ」
シオンが絶妙な間で話を促す。
「失礼。この人、ちょっと可笑しいんです」
「あ、いえ」
「しかしまあ、彼の言うように」武彦は苦笑しながらもシオンの言葉に便乗することにした。「私どもは他人なわけでね」
「は、はあ」
「話を聞いてくれる他人、というのは案外、便利なものですよ。興信所の扉を叩く人は結構ね、身近過ぎる人物には相談しにくいことを相談したりするんですよ。美化するのも、貶めるのも、あるいは自分を下卑するのも、犯罪者扱いするのも、自由ですからね」
「はあ」
「更には。依頼が終われば、私どもは貴方のことを忘れる。私たちは警察でも役人でも裁判官でもありません。ただの人助けが好きな他人です」
「人助けが好きな、他人」
武彦の言葉を繰り返し、青年は小さく微笑む。「まあ、そうですよね。僕がこのおじさんに連絡を取ったのも、そういう他人を求めてたからかも知れないし」
「ええ、ええ。わかってますよ。だけどおじさんはもう他人じゃありませんよ。貴方の味方ですよ」
「あの。お恥ずかしい話なんですが。ああ。その、探して欲しい人は兄の恋人だった人で」
「ほう」
「僕としては、僕の恩人であるその人に一言、謝りたい、というか。もちろん、またヴァイオリンを聴いて欲しいという想いもありますけど。そんなことより、自分の兄が犯した罪を、弟である僕が摘発するべきなんじゃないかって」
「罪?」
「探して欲しいのは」
武彦の問いには答えず、青年はソファの上に置いてあった写真をテーブルの上に突き出した。「この人です。名前は、矢原椎太」
武彦は差し出された写真を見やり、小さく目を見開いた。
二人の男性が会話している最中を撮影したものらしい。双方とも、楽しそうに微笑んでいる。
「隣に移っているのは、僕の兄で」
これが、その恋人。
ほら、やっぱり。と、武彦は心の中で小さく呟く。二人がどちらも男性であったことに驚くよりも、そこに映っていたのが「シイ」であることに武彦は驚いていた。
最初からこうなることが決まっていたみたいに、何時の間にか飲み込まれ繋がっている。
これは偶然なのか、それとも、神のほんの悪戯なのか。
武彦は小さく息を吐き出した。
■■
草間興信所の扉を引くと、がちゃと硬い感覚が掌の中に伝わってくる。
「なんだよ、留守かよ」
雛太は小さく肩を竦めると、尻の辺りぶら下げた小物入れから興信所の合鍵を取り出した。それは以前、アルバイトをしていた時に、作ったものである。どうせ留守なら留守番でもしながら待っててやろうと、事務所の中に入り込んだ。
懐かしい匂いが鼻を突く。
硬いソファの上にどっかりと腰掛けて、一人所長気分を満喫した。
「んー。久々に座るとこのソファの硬さが何とも」
にやにやしながら呟いていると、突然、興信所の窓がガタガタガタ、と凄い音を立てた。
え、何。
雛太はぎょっとして、武彦のデスクの後ろにある窓の方を振り返る。
何処からともなくヴァイオリンのヒステリックな音色が聞こえた。かと思ったら、凄い体制で窓から男が侵入してくる。悪戦苦闘しながら、ひょっこりとまず顔を出し。「やあ! 諸君」
しかし、その声は驚くほど小さい。しかも、独り言のようにぼそぼそとしている。
「び、ビルの二階なのに」
雛太は余りの出来事に呆然と呟いた。
「よっこらしょっと」
遠くに聞こえてきたヴァイオリンの音色がいよいよ大きくなる。音は、男の手の中にあるラジカセから漏れ出しているようだった。な、何でラジカセなんだ。っていうか、何で窓からなんだ。っていうか、誰だコイツ。っていうか、あの肩に下げてるもんは何なんだ!
最早、突っ込みどころが満載で、雛太は何から言っていいかも、もう分からない。青白い顔に、黒い唇。真っ赤な髪に真っ赤な瞳。左目には何故か眼帯を付け、痩身の体を軍服のような物で包み、顔の造形は悪くないあたりが、少し間違った「ビジュアル系バンドのヴォーカル」だ。
うわ。うわ。いやだ。お近づきになりたくない。
若干身を引き気味で珍入者を凝視する雛太の向かいで、男は一切、雛太とは視線を合わせようとせず、ラジカセのボタンをポチリと押した。キンキンと鳴り響いていた音が止む。肩に下げていた白い袋をどかりと下ろした。重そうだ。プレゼント満載のサンタクロースの袋のようである。ただし、あの男が下げているとそれは不穏な物にしか見えない。
貧弱な体つきに見えて、案外、力があるのかも知れない。脈絡なく飛び掛られたらどうしようと、雛太はいつでも逃げられる体制をとった。
男が呟く。
「ボクのテーマ曲……グノーのファウストによる演奏会用幻想曲。なんてな。パブロ・デ・サラサーテの作曲なんだよね」
「え?」
雛太は思わず耳に手を当てる。「え?」
男の言ったことも謎だったが、何より男がぼそぼそとしか喋らないので言っている言葉が聞き取りにくいのである。こちらを見て喋ってるわけでもないので、独り言かも知れない。
危ない。
危ないっていうか、殴りたい。
「いいよね。サラサーテ。スペイン人の作曲家なんだけどね。自身もヴァイオリン奏者でね。サン=サーンスさんと仲が良かったんだよね。あれだよね。ツィゴイネルワイゼンとか有名だよね」
「え、何喋ってんだ。っていうか俺に喋ってンのか」
「草間武彦クンはお留守かな」
「え? 無視?」
「ドン松持ってきてあげたのにな」
男はごそごそと袋の中を弄くり出した。いよいよ雛太は腰を浮かせる。四角い、菓子折りのような箱が突き出された。
「ほら、コレ見て。ドン松。いいでしょ」
「え、っていうか、俺に言ってンのか。っていうか、え? 何処見てンの」
男の視線の先に何かがあるのか、と思わず探してしまう雛太である。
「大量に余っちゃってさ。在庫処分しなきゃ、倉庫いっぱいだからさ。でも、本当はこんなにいいんだよ。だからおすそ分けに来たんだよね」
それからうふふ、と一人で笑う。挙動不審で人が捕まるなら、コイツは絶対に今頃、鉄格子の中だ。
どうしよう。
全然、帰る気配見せないんだけど。
っていうか、あの菓子折りのような箱の中身は何なんだろう。ポップな包装紙に包まれた「ドン松」なる得体の知れないそれを、雛太は凝視する。
「風槻が掴んでくれた情報と、雛太の知り合いの情報を照合すれば人形の製作者には簡単に辿り着けるわ」
草間興信所へと続くビルの階段を上りながらシュラインが意気込んで言う。後ろを歩く風槻が、ふふんと小さく鼻を鳴らした。
「姉さんうれしそー」
「真実に近づいてるって思うと燃えるじゃない」
「燃えない」
「アンタは何にも燃えないんでしょ」
素っ気無く言って、シュラインは興信所のドアを開く。「あら。雛太、来てたの」
ソファに腰掛けている雛太を発見した。
「いよいよいいわ。グッドタイミング」
「あ、姉御」
「風槻、あちらが雪森雛太さん。雛太。こちら、法条風槻さん」
「いや、姉御」
「え?」
ふと見ると、雛太がちょいちょいと前方の方を指さしている。
「あら」
と言ったっきり、シュラインは固まった。「え」
佇まいが観葉植物のように静かだった為に見落としてしまっていたらしいが、そこには風変わりな男が腰掛けていた。チラチラ、とシュラインの方を窺い見ながら、ソファに「の」の字を書いている。
何者?
その隣で、風槻がすっと一歩を踏み出した。
「で、そこの童顔君」
「…………」
言葉を聞き流したような間を空けてから、雛太が大袈裟にぎょっとし振り返る。「え! 俺?」
「人形の製作者に心当たりあるって?」
「わっはっはー。感じわりぃ、このねえちゃん」
「っていうか、雛太。誰、それ。っていうか、何?」
「ああ、いや。泥棒?」
「え?」
「っていうか、窓から侵入してきた、泥棒?」
「何って言ってンの」
「いやわかんない。っていうか、コイツがわかんない」
「だからボクは泥棒なんかじゃないんだなあ」
独り言の域を出ない声で、男が一人ぼそぼそと呟く。怪しい、怪しすぎる。しかもあの傍らに置かれた、白い袋は何なのだ。何が入ってるのだ。
「た、武彦さんの知り合いなの?」
シュラインが恐る恐るソファの表面に「の」の字を書いていた男に問いかける。すると突然、男は何を想うのかテーブルの上に乗りあがった。
「ボクの名前はレディ・ファウスト」背筋が泡立つようなダミ声が事務所の中に響き渡る。「つづりはRED、FAUST」
「うわー。コイツはよっぽどのことだー。俺予想外の展開にどうしていいかわかんねえ」
いよいよ頭を抱えてしまった雛太の隣に、平然としながら歩み寄ったのは風槻である。シュラインは弾かれたようにバックから携帯を取り出し、コールしていた。武彦に連絡を取っているのかも知れない。
「でさあ。人形の製作者の話、聞かせてくれる」
「マイペースだなあ、この姉ちゃん」
「あたしの調査では、あの人形制作者の名前は、神崎吉朗であることは判明してるわけ。知り合いなんでしょ」
「いや、知り合いだけどさ」
「人形に心当たりアリなわけ」
雛太は机の上でくねくねと身をくねらせながら変テコリな踊りのようなものを踊っている男をチラリ、と見上げふうと大きく溜め息を吐き出した。風槻の方へと向き直る。
「心当たりどころか、完璧繋がってンよ」
「繋がってる?」
ファウストが口ずさむ「急度馬鹿〜急度馬鹿〜奴らは急度馬鹿なのさ〜」という、歌なのか何なのか良く分からないものが、耳元で飛び回る蚊の羽音くらいには癪に障る。苛立ちを咳払いで追い払った。
「いや、だからさ。吉朗とシイって子? 知り合いだったみたいね。どうしてもその人形が欲しいって、たまたまアトリエに遊びに来た時、言ったらしいよ。理由はわかんないけどさ、とにかくあんまり欲しそうにするもんで、上げちゃったってさ。俺、最初そいつが作った人形とられたって言ってたからさ。盗まれたってことなんだと思ってたんだけど、違ったみたいね。ってのは余談だけど。シイって子の本名は、矢原椎太で……ごめ。ちょっと待って」
突然話を中断させ、雛太はガンとテーブルを蹴った。
「てめ、マジで殴るぞ。おいこら、ファウスト」
名指しされ、ファウストはびくり、と体を震わせた。けれどすぐにえへへへ、と不気味な笑いを漏らす。
「ボクを殴ってただで済むと思うなよ。なんてな」
へらへらと引き攣った笑みを浮かべながら、ぼそぼそとファウストが反抗する。
「うわー。どつきたいー」
「ボクはマサという秘密組織の最高権力者なわけ。最高権力者なわけ。最高権力者なわけ。三回言ってみた。ね? 無駄に広い敷地と研究施設があるわけ。日々、世界に役立つ物を開発促進してるわけ」
「役立つ物がドン松かよ、ふざけろよ」
「あとは、芯のないトイレットペーパーってあるでしょ」
「あー。あるね」
「トイレットペーパーには芯なんて必要ないだろ、と最初に言ったのは、ボク。なんてな」
「いや、言っただけじゃん」
「だからドン松の在庫処分と新製品のご案内にわざわざやって来てやったわけ」
「うわー。頼んでないのに、何故かえらそー」
「ねえ。マサってさ。MASAのマサ?」
突然、風槻が口を挟んだ。関わらない方が、と雛太は心の中で忠告をする。
「おふぉふぉふぉ、おふぉふぉふぉふぉ。そうです、ボクがMASAの総帥です」
嬉しいのか何なのか、もじもじと身をくねらせてファウストが頷いた。テーブルから降りて、風槻の前に歩み寄り、手を差し出そうとしているのか何なのか、挙動不審に身をくねらせる。
「ちなみにさあ。新商品ってどんなの」
「それはちょっと、武彦さん以外には……」
「ふうん。じゃあ、売れ筋商品は?」
「突っ込みどころ満載なのに、この姉ちゃん相手にしないで会話してる……」
「れ。恋愛に悩む人々のために、恋の記憶を消してあげちゃう便利なソフト」
「ですよね」
何を思うのか、風槻はすくっとソファから立ち上がり、のんびりとした足取りで「ファウスト」とか言う怪しい男の元へと歩み寄る。
腕をがしっと掴んだ。
「え」
「プログラムの開発者。捕まえた」
風槻に突然腕を掴まれたせいか、ファウストは挙動不審の状態から更なる挙動不審へと発展し、見ている者には最早、酸欠に陥った「患者」のようにしか見えなかった。
「だ、大丈夫かコイツ」
呆然と雛太が呟いた瞬間、どべっとファウストが吐血する。
「え!」
「あ、うん。全然大丈夫、はは、大丈夫。良くある良くある」
今にも死にそうな声でぷるぷるしながらファウストが呟く。
「きゅ、救急車、呼んだ方が」
「ねえ。コイツなら知ってると思うよ。依頼人の脳味噌弄くった奴ら」
風槻だけが一人、淡々と呟いた。
「知らなかった」
風槻の説明を聞き終えると、シュラインは呆然としたように呟いた。
「まあね。姉さんには関係ないトコで流行ってた噂だからね。でも、その筋では結構有名な噂だったよ」
「有名だったの」
「要するにさ。人って、自分の知ってる世界のことしか知らないってことなんじゃん。他の所では常識なことでも、そこへ踏み込んだことのない人間には分からないことってあるし。ソクラテスも言ってるでしょ。私が知ってることは、私が物を知らないことだけだ」
「じゃあ、つまり。辛い恋愛の記憶を消してくれる会社が、この現代に実在していて、それは若い子の間ではかなり有名な噂だった、ということね」
「若い子の一部、ね。俺の耳には入ってなかったし。あ、いや。そういえば、その噂じゃなかったけど、元彼が突然冷たくなったって話は聞いたことあったなあ、そういえば。自分のこと、忘れちゃったみたいに、ってさ。でも、良くある愚痴だと思って聞き流しちゃってたし」
「あたしは姉さんから話聞いた時、パッと引っかかってはいたんだよね。言ってたでしょ、何かそういうのあったなって」
「言ってはいたけど。まさかそんな会社がねえ」
「何でも商売にしちゃう世の中だからね」
「何よりそんな会社に軽々と言っちゃう人が居ることが信じられないんだけど。記憶を消すのよ?」
「ムカついてキレちゃったらさ。コイツのことなんて忘れてやるーって、案外簡単に行っちゃうんじゃね? 残念ながら多いよ、そういう勢いの奴は」
頬杖をつきながら、雛太が呟く。
「後で行ってみたらいいけど、結構キレイな会社よ。美容整形外科みたいなノリだよね、あれって多分」
「美容整形ねえ」
「顔にメス入れンのも、脳の中の記憶ちょっと弄くられちゃうのも、同じような感覚なんじゃない」
「で? そのソフトを開発したのが、コイツ?」
雛太は呆然としたように呟き、ソファの上でまたもじもじと「の」の字をかきながら半笑いで俯いているファウストをじっと見つめた。「嘘だろー」
「マサはエリートな集団だからなあ」
「お前を見る限り、絶対信じられない。だいたいこんな怪しげな団体から、物買ったりする奴居るわけ?」
「営業する人はまともなんだよねえ」
「つまり、自分はまともじゃないって、それは分かってるんだね」
「ねえ。そのソフトっていうのはつまり、どういうソフトなわけ?」
「具体的なことを口で説明するのは難しいなあ。素晴らしいソフトだってことは保障できるけど」
「その素晴らしいソフトのお陰で、困ってる人が役一名出てンですけど」
「ボクぁ、悪い会社には売ってないと思うけどなあ」
「悪気がなくても、人を困らせることは出来るんだよ、知ってた?」
「人助けだったんだけどなあ」
独り言のような声で一応は抵抗しながらも、「ソフトの回収しようかなあ」などと気弱なことを呟いている。雛太の指摘に困っているらしい。
「とりあえず、一度消しちゃった記憶は戻らないんだよねえ。あはは」
「他人事の顔してるこいつは、とりあえず一発殴っていいかな」
「いいわけないでしょ」
誰とも視線を合わせないまま、ぼそり、とファウストが突っ込む。その後、一人でふふんと笑った。
「うわ。殴りたい。っていうか、殴りたい」
「そういうソフトがある、という事実が判明した所でこの先どうするか、よね。まず、シイ君が本当に記憶を消されているかどうかも確かめなきゃいけないし。例えば、彼が記憶を消されてるとして。人形が喋らなくなったんです、にどう繋がるか、もあるし」
「そこはほれ、聞き込みでしょ。姉さんの得意な」
「地道にマイルドに」
「そうね。それしかないわよね」
まずはそのクリニックを訪れて……と、シュラインは手帳の空白にメモをしていく。
と。
「残念ながら、聞き込み調査の必要はないんじゃないかな」
事務所内に響く、聞きなれた男性の声。
「武彦さん」
シュラインは手帳から顔を上げて困ったような表情で入り口に立っている武彦を見やった。「すまんな。俺の居ない時に、ファウストが押しかけて来たって?」
「あら、シオンちゃん」
ソファでもじもじしていたファウストが顔を挙げ、武彦と共に登場したシオンにちらり、と視線を送る。「ボク、一人で結構頑張ったよ」
「おお、ファウストさま、ファウストさま」
「どうでもいいけど、知り合いなのかよ」
「おやおや雛太さん。いえ。ファウスト様は私の上司でしねて」
雛太はハンと鼻を鳴らすと、ソファにどかりと仰け反った。「いよいよただの怪しい集団じゃん」
■■
「と、いうわけで、今回の調査の結果です」
シュラインは草間興信所のロゴが入った茶封筒から、調査結果に関する書類とカセットテープを取り出した。
「私達が調べた結果、貴方は記憶の一部を削除されていることが判明しました」
「記憶の一部?」
「その人形は、貴方の元恋人にとても良く似てらっしゃるそうよ」
「似て、る?」
「その人形が喋っていたわけではなく、貴方の元恋人である男性の記憶が一部削除し切れず残っていたせいで、貴方の脳はその人形と彼を取り違えてしまっていたのね。喋っていたのは、人形ではなく、その男性。貴方が何をするにも相談して頼りきっていたのは、その人形ではなく、元恋人の男性よ」
「男性? 恋人の、男性?」
「ええ」
「だけど、僕も男なのに」
「そうね。でも、貴方は間違いなく恋をして、それが余りに辛い恋だったから、その記憶を消した」
――機械を扱うのはヒューマンだからねえ。
ファウストが言っていた言葉を思い出す。医者だってミスをする。警察官だって、犯罪を犯す。人間に、絶対はない。
人が関与した時点で、何事にもやはり、絶対はないのだ。
彼はその哀れな「削除ミス」の被害者だったのである。
「僕が……自分で記憶を消したってことですか」
「ええ」
「どうして?」
「聞きたい?」
「はい」
「余り、お奨めできる事柄じゃないんだけど。何せ、消すくらい嫌なことだったわけだし。ま、真相はこのテープの中に入ってるわ」
「言って下さい。どうして僕は記憶を消したんですか」
「簡単に言ってしまえば」
「はい」
「捨てられたからよ」
「……はい」
「貴方は随分とその人に尽くしていたみたいね。そして、頼り切っていた。信じきっていたし、捧げられるものは全て捧げていたんでしょう。だけど、結果的に捨てられた。彼が、女性と結婚するために」
「そんな」
「シイ……」
「貴方が邪魔になったのよ。それでも貴方は潔く身を引こうとして、どうにも出来ない自分を持て余し、記憶の削除を依頼した」
「その。その人は今、何処にいるんですか。僕、僕」
「それは言えません」
ぴしゃり、とシュラインはシイの言葉を遮った。
「だいたい。会ってどうするつもり? その人はもう、貴方に気持ちはないの。今、貴方がまだどんなにその人を想っているのだとしても」
そう、その人に似た人形を、喋らせようとしてみたり、独占してしまうくらいにまだ、その男性を想っているのだとしても。いや、想っているからこそ、教えられないのだ。
知らないほうがいいこともある。
武彦が言っていた事実を思い出す。けれど、人には逃げられない過去や未来に立ち向かって行かなければならない時が必ず来るのだ、とシュラインは思っている。
わざわざ記憶を消してまで逃げてみたって、またそうして事実と対面しているこの青年のように。
これは、神の悪戯なのか。それとも、人に与える試練なのか。
「シイ」
「どうしよう、僕はまだ、その人のことが……好き」
「シイ」
圭太の腕が、そっと華奢なシイの肩を掴んだ。
「僕が守ってあげるよ。僕が、君の傍に居てあげる」
「だけど僕は、人形の彼に会いたい……」
「大丈夫だから。いつかちゃんと忘れられるから」
「もう一度、ちゃんと削除して貰うのも一つの手」
「いいえ、シュラインさん」
シュラインの言葉を遮ったのは、圭太だった。「大丈夫なんです。僕は、彼を助けてやれると思います。機械に頼らなくても、僕の手で」
「だと、いいわね」
「待てるんです。ねえ、シイ。他の誰にも代わりになんてなれなくなるくらい、君が僕を必要としてくれる日まで。僕は待ってあげるよ」
「圭太」
「大丈夫だから」
よしよし、と子供の頭を撫でるように、圭太はシイの頭を撫でた。
「ねえ、武彦さん」
「んー」
「あの二人、上手く行くといいわね」
「ま、それは神のみぞ知るってやつだな。しかしお前に任せてよかったよ。俺はどうもあーゆー湿っぽいのは駄目でね」
軽い調子で言った武彦は、ふうと大きく煙草の煙を吐き出している。
「たぶん、上手くいくわ」
シュラインは、興信所から返って行った二人の姿を思い浮かべ、きっと大丈夫だ、と一人ごつ。
圭太は、神様がシイという青年に用意した、一筋の陽射しなのかも知れない。そしてまた、シイも、圭太にとって人生を生き抜く一筋の光であればいい。
誰かを守るために、人はまた強くなれたりするのだから。
助け合い、高めあい、例えばそれが傍目から見て「依存」している関係なのだとしても、共に手に手を取り合って生きていけるなら。当人達がそれで幸せなら。
それは、やはり、希望の光なのだ。
「ま。辛いか辛くないかは、俺が決めることじゃない、か」
武彦がデスクに向かい煙草の煙を燻らせながら、どうでも良さそうに呟いた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号0086/ シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号3356/ シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい) / 男性 / 42歳 / 紳士きどりの内職人+高校生?+α】
【整理番号6235/ 法条・風槻 (のりなが・ふつき) / 女性 / 25歳 / 情報請負人】
【整理番号3787/ RED・FAUST (レディ・ファウスト) / 男性 / 32歳 / MASAの会長(ゾンビ)】
【整理番号2254/ 雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた) / 男性 / 23歳 / 大学生】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。
サンシャインへのご参加、まことにありがとうございました。
愛し子をお預け下さいました、皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
また。何処かでお逢い出来ることを祈り。
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