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<東京怪談ノベル(シングル)>


ANOTHER STORY――女と獣――



 どれくらいの時間、気を失っていたのか――。
 薄暗い工房の中で、異形の馬は意識を取り戻した。
 ――馬?
 いや、馬の細胞に侵されて獣に成り果てた、少女の姿だった。
 少女の面影そのままの青い眼と赤く柔らかな唇、そして可愛らしい鼻――。なのに唇からは獣のにおいを吐き出し、鼻を野生動物のようにひくつかせている。
 眼はクルクルとよく動く。周りを鋭く伺うように。
 これが人か。
 これが獣だ。
(あたしは誰)
(あたしはみなも)
 今まさに、獣は死を迎えようとしていた。


 少女が獣になったのは、元はバイトのためだった。とある専門学校の生徒個人の依頼で、特殊メイクのモデルになることを頼まれていたのだ。
 度々お世話になっていた依頼先の生徒ということで、金銭よりも義理を優先して引き受けたのだが――何かがおかしいと気付いたのは当日になってからだった。

 狭い路地の階段を降りた先の工房に入った瞬間から、少女は現実をすり抜けて夢の世界に入ったような違和感に襲われていた。

 工房の中はわざと薄暗くしてあって、生徒の女に手を引かれて少女は奥へ奥へと進んでいく。
 初めての場所に緊張する少女に、女は含み笑いをしてみせた。吐息のような笑い声に淫靡なものを感じたのか少女は身体を固くしたが、ほどなく女に服を脱がされた。
「照明が暗くしてあるんだから、恥ずかしくないでしょう?」
 女はケンタウルスの話をした。
 一糸纏わぬ己の姿に、顔を赤らめて抵抗しながらも、少女は女の話に頷いている。
 が、女が持ってきた物を見た瞬間、悲鳴を上げた。
 ひ。
 少女の目の前に置かれたのは、生きて脈を打っている馬の胴体である。
 ピクピクと動いている顔のない馬。
 少女は肩を震わせた。
 ――そ、それを、どうやって、あたしに。
 言葉にならない声。
「ここを見て?」
 馬の首元を見せられた。中が空洞になっているので、足から徐々に入れていけばいいのだという。
 胴体の内側は生暖かそうなピンク色をしていた。照明が暗いために赤色にもどす黒くも見えて、それが艶かしくうねっている。
 少女は恐怖から眼を瞑りながら、足を差し出した。

 瞬間、工房中に響き渡ったのだ。
 獣と少女の歓喜の声が。

 後で少女が語ったところによれば、それは神経に根を張られた感覚に近いという。
 シメコロシノキが寄生した木を枯らしてしまうように、少女は身体を獣に侵されてしまったのだ。

 ねっとりとした馬の胴体は熱かった。足を入れると“キュウ”と絡み付いてきて、勝手に少女の身体を飲み込んでいった。
 自発的に足を入れたものの、馬の胴体の勢いに少女は怯えた。
 足を引き抜こうとしたが上手くいかない。いやいやをするように首を振って拒絶したが無駄だった。
 脈打つ胴体は“ここを、ここを”と言わんばかりに、中の空洞をグッと近づけてきた。少女が自ら入ってきてくれないと知るや、少女の肉体を探して這いずり回った。脳のない筈の胴体は本能で少女を求めていたのだ。
 それはもう、特殊メイクのモデルというバイト内容の範囲を超えていた。胴体だけの馬は本性を現して、少女に襲い掛かっていたのだから。

 少女は無力だった。
 最初は恐怖で身体を強張らし、後半は死に物狂いで暴れて抵抗した。
 自由のきく上半身を床にこすりつけて、ほふく全身のような動きで逃げようともがいた。
 けれども、赤子同然に無力だったのだ。

 腰が胴体に溶けていった。
 ぬめついたピンク色の“唇”は大きく開いている。
 胸が飲まれた。
 腕が侵された。
 首の中を、馬の神経が、我が物顔で張っていく。
 頭が飲まれたときには、ひどい眩暈で前が見えなくなった。


 目を覚ました獣を、一人の女が見下ろしている。
「あなたはみなもちゃん――の方じゃなさそうね」
(あたしはあたし)
(みなも)
(うなばらみなも)
(あなたは誰)
(あなたは生徒さん)
「これからあなたは死ぬのよ。細胞が壊死してね」
「…………」
「わかる? 細胞が死ぬの」
「…………」
「頭でわからないのなら、感じているのかもしれないわ」
 ――喉が凄く痛い。
 舌の感覚は既になかった。グチャグチャにかき回したゼリーを口の中に詰め込まれているみたいに、ただぐにゃぐにゃしたものになっていた。
(あたしはみなも)
(海原みなも)
 足は冷えていた。
 身体に力が入らない。
 呼吸だけが荒い。
 頭の中で子供の頃に聴いたオルゴールの曲が流れ続けている。

 助けて。死ぬの。
 助けて。死ぬの。

 目の前の女の心を読むことが出来ない。
 視界は既にぼやけている。女の姿は大きく歪んで――微笑んでいるようにも、怒っているようにも、泣いているようにも見えた。
 茶色い肌を撫でられる。死んでいく神経ごと愛撫されるように。
(女は誰)
(女は生徒さん)
 獣は最期の力で、身体を大きくびくつかせた。


 冷たい床に、あたしは横たわっていた。
「生徒さん……」
 掠れた声で呼んだ。
 すると、あたしの足を撫でていた人は優しく微笑んで――こう言った。


「おはよう」


 
終。