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<東京怪談ノベル(シングル)>


Escape!

 仕事が終わった後の酒ほど美味い物はない。
 それが面倒なお偉いさんと顔をつきあわせる、退屈で進展のない会議の後ならなおさらだ。
「ルター曰く『酒と女と歌を愛さぬものは、生涯愚者である』…この格言は人間の真理をよく分かってますな」
 夜の繁華街、ネオンサインと看板の海。その中を矢鏡 慶一郎(やきょう・けいいちろう)は、特殊カーボン製の一本杖をつき心地よい酔いを味わいながら歩いていた。退屈な会議の後には、ちょっと羽目を外すくらい明るく振る舞う方がいい。次の日や急な事態にに差し支えない程度に、だが嫌なことは忘れられるぐらい…この加減はなかなか難しいが、裏の仕事に携わっているとそのうち身に付いてくる。
 慶一郎自身それは『スイッチ』なのだろうと思っている。裏と表を行き来しても世の中が嫌にならないように、その辺りの切り替えが上手く出来なければこの仕事は長く続かない。
「さて、流石に財布も寂しいから巣に帰り時ですか…」
 部下が増えると、面倒を見なければならない機会も増える。今日はちょっと気前が良すぎたか…客引きなどをスッと避け、路地を歩いていたときだった。
「……『サクラ』のガサ入れ?」
 赤いランプをくるくると回すツートンカラーの車。『サクラ』とは警察官に対する隠語だ。この辺りには不法滞在者が勤務している風俗店なども多いので、何処かの店に手入れが入ったのだろう。こんな光景はここでは日常茶飯事だ。
 だが、それに目もくれず慶一郎が裏路地に入ったときだった。
「………?」
 ゴミ用の大型のポリバケツに身を隠すように、小さくなっている影が見える。ずいぶん脅えているのか、隠れようとしているのにカタカタと小さく震えている。そして、その姿に慶一郎は見覚えがあった。
「ルディー?それともクリスティーナ?」
 その名前が本名か、それとも源氏名なのかを慶一郎は知らない。知っているのは彼女がフィリピンパブで働いている不法入国者だと言うこと、歳が二十代前半だということ。 そして…仕事上大事な情報提供者であること。
 自分の名を呼ばれたと思ったのか一瞬ビクッと大きく身を動かし、慌てて立ち上がって逃げようとしたが、声を掛けたのが慶一郎だと分かると大きな黒い瞳に涙を浮かべ、がばっといきなり抱きついてきた。やはり、自分が知っている女性だ。
「タスケテ、ケイサン!ワタシ、クニニカエサレル!」
「ちょっ…」
 先ほどのガサ入れは、どうやら彼女が働いていたフィリピンパブだったらしい。よほど慌てて逃げてきたのか、この寒空に、ステージ衣装らしき薄手のワンピースに足下は裸足だ。綺麗にセットされていたであろう黒い髪も、あちこち乱れている。
「ケイサン、タスケテ…」
「そんな顔で言われると、助けないわけに行きませんな」
 慶一郎としても彼女達の情報をあてにしている所もあるし、家族を養っていかなければならない事情も知っている。彼女にも国にたくさんの家族がいて、弟たちを学校に行かせてやりたい為に危険を冒して日本に来ている事も聞いているので、ここで見過ごしてしまうのは人としてよろしくないだろう。
 自分が来ていたコートを脱ぎ、そっと肩にかけると慶一郎はゆっくりと英語でこう言った。
「It lets it go(逃がしてあげますよ)」
 そう言った瞬間、路地の向こうから声がした。
「いたぞ!」
 ここで捕まるわけにはいかない。慶一郎は彼女の手を引き、人気の多い方へと向かった。普通なら人気の少ない方に逃げたいのが人の心理だが、賑わっている繁華街であれば人気が多い所に向かって逃げた方がまだ追っ手をまきやすい。それに…自分の靴を貸すわけにはいかないので、靴の一つも買ってやらねば。
「警官との鬼ごっこは高校で卒業したんですが…ね」
 何だか映画の主人公にでもなった気分だ。フィリピンパブに売られたヒロインを助け出すヒーローのよう…というと流石に出来過ぎか。
「ケイサン、ヒトガイルヨ…」
「It is safe and doesn't worry(大丈夫、心配ありません)」
 まずは繁華街のど真ん中にある24時間営業の雑貨店に入る。この店は物が細かく並んでいるので店内で人を探しにくいし、出入り口が二カ所ほどある。本当は変装用にパーティー用品売り場でウィッグの一つも買いたいところなのだが、そうしている暇は流石にないので、適当に見繕ったサンダルを持ち五千円札をぽんと出した。
「釣りはいりません。急ぎなので」
 多少釣り銭に未練を残しつつ、慶一郎はレジを抜けその場でサンダルについていたタグを切り、彼女に履かせる。
「これで足が冷たくないでしょう?」
「アリガトウ、ケイサン」
 サンダルは履き心地と走りやすさだけを追求したので、あまりしゃれたものではない。それでも裸足よりはまだマシだろう。そっと外をうかがうと、ゆっくりとミニパトが走っているのが見えた。
「ミニパトが駐禁の切符きりだといいんですが、応援だと厄介ですね…」
 それでも警官の格好をしているのなら、見ただけで何とか隠れることが出来る。問題はスーツ姿の刑事達だ。彼らも仕事だし、親方日の丸同士邪魔したくはないのだが、今回は義を見てせざるは何とやら…だ。出来るだけケガをさせない方向でいくしかないだろう。
「行きますよ」
 ミニパトが去っていったのを見送ってから、慶一郎は細い手を引いて走った。その走りは、左足が義足であると言うことを全く感じさせない。
 レジを通ったところは見られているし、店員が「釣り銭を受け取らない不審な客がいた」と連絡したら面倒だ。
「さて、問題はここからですな」
 正面切っての戦闘であれば、最後に生きていた方が勝ちの世界で慶一郎は生きているが、実は撤退戦などの方が戦いとしては難しい。特に今回は彼女を守りながら、無事に安全なところまで逃げなければならないし、相手が化け物であれば思う存分息の根を止めてから逃げることも出来るのだが、相手が警官であればそうはいかない。
 このまま繁華街を逃げ回れば、スタミナと数で押し切られる。ひとまずお互いの間に距離を置いたら、次は退く…それも安全に。
「………」
 自分は逃げるのが仕事なのかも知れない。
 いや。人間生まれた瞬間から、死との追いかけっこは始まっている。それが絶対に勝ち目のない逃亡でも、追いつかれたときに「自分は良く逃げた」と思うか「抵抗せずに追いつかれた」かでは全く違う。足掻かない人生なんて、冗談じゃない。
 なぜだか口元に苦笑いが浮かんだ。慶一郎が笑ったのを見て、彼女は心配そうに脅えた目で顔を見上げる。
「ドコイクノ?ケイサツコマル…」
「取りあえず安全な場所までですよ。走れますか?」
 こくっ。彼女は無言で一つだけ頷いた。手を引きながら走っていても、一生懸命自分達を捜そうとしている警官達の気は感じられる。
「そこの二人!止まれ!」
「…っと、見つかりましたか」
 スッと細い路地に入ってすぐの場所にゴミ箱を置く。いきなり角を曲がった時に人はなかなか止まれない。
「振り返らないで!」
 後ろを確認するのは自分がやればいい。振り返ればそのぶんだけ歩みが遅くなる。彼女の後ろ姿が見えないように、肩を抱きながら慶一郎はチラ…と振り返った。がらん…と鈍い音と大きな声が聞こえたので、取りあえず引っかかってはくれたようだ。
 所々工事の看板を移動させてみたり、進行妨害になるように道に物を移動させたりしながら、少しずつ追っ手をまいていく。
「流石にそろそろきつくなってきましたか…」
 走っていた彼女の足がもつれ始めた。慣れない日本の寒さと、追いつかれるかも知れないという恐怖はじわじわと体力を奪う。時々ゴホゴホ咳き込みながらも、慶一郎の手だけは強く握っている。まるでそれが命綱だと言わんばかりに。
 順調に繁華街から離れているのに、ここで止まらせるわけにはいかない。この大きな路地を一本曲がれば人気が少ない道に入れて、そうしたら無事に休める場所がある。そこまでは立ち止まれない。
「もう少しだから頑張ってください」
「………」
 彼女は何か喋ろうとしたが、それは言葉になっていなかった。小路を曲がると、蔦の絡まった建物に木の看板が見える。
 『蒼月亭』と書かれている看板が見えた途端、慶一郎は後ろを確認した。
 誰も来ていない。入るなら今だ。
 勢いよくドアを開け、彼女を先に入れると慶一郎は店の中へ飛び込んだ。いつもより大きく鳴り響くドアベルの音が心臓に悪い。
「いらっしゃいませ…蒼月亭にようこそ。どうした、矢鏡さん。間男にでもなったのか」
 ぜいぜいと息を切らせている彼女と、後ろ手にドアを閉めている慶一郎に、マスターのナイトホークが溜息混じりにニヤッと笑った。
「…せめて『映画の逃亡シーン』と言って欲しかったんですが」
「無茶言うな。訳ありなら鍵しめていいぜ…そこのドアプレートもひっくり返していいから」
 取りあえず店の中に客がいないのは運が良かった。
 息子がアルバイトに来ていなかったのは、もっと良かった。
 ひとまず事情を話しながら、慶一郎は彼女をカウンターに座らせた。ナイトホークは気を利かせて入り口のライトをそっと落とす。
「彼女に何か飲み物を…私は冷たいカフェオレで」
「かしこまりました。取りあえずその前に水飲みなよ…日本語は大丈夫?」
「スコシ…」
 慶一郎から詳しい事情を聞きながら、ナイトホークはまず彼女のためにカクテル用のパイナップルジュースを飲みやすいように氷を入れずに出した。走ってきて喉が渇いていたのか、目の前の水を一気に飲み干し、やっと安心したというように大きく息をつく。
「アリガトウ。コノヒト、ケイサンノトモダチ?」
「そうですよ。信用出来る…Good friend」
「褒めても何も出ないぞ」
 そう言いながらもナイトホークは、小さなイチゴの乗ったケーキを二人に差し出した。コーヒーを入れる間食べていろという意味なのだろう。
「で、矢鏡さんこれからどうするんだ?取りあえずその娘さんの服ぐらいは貸してやるし、裏口から逃げるのも手伝うけど、俺あんまりコネとか持ってないよ」
 コーヒーミルに入れた豆を挽きながら、そんな事を言うナイトホークに、慶一郎は水を一口飲んでからポケットに入れていた煙草を出した。カフェオレが出来上がる前に、一服するぐらいの時間はありそうだ…煙と共に溜息を一つ。
「まあ、裏からなんとかしますよ。叩けば埃がでる役人なんぞ腐るほど知ってますから…」
 ひとまずここまで逃げられて、今日の手入れを免れれば後は道があるのだ。ただ『サクラ』とのコネはないので、そこを切り抜けないと使えない切り札ではあるのだが。
「蛇の道は蛇か。でも、使えるものがあるのはいい事じゃないか?」
「そうですな。にしても、ゾンビと警官…私はゲームの主人公になった気分ですよ」
 苦笑しながら慶一郎がそう言ったときだった。挽いた豆をミルに入れようとしているナイトホークが、何故か妙な表情をする。
「待て、ゾンビと警官なら主人公は警官だろ。つか、どっちゾンビよ」
「………」
 つい勢いのまま口走ったのだが、よくよく考えるとゲームでは追いかけているのがゾンビで、逃げ回るのが警官だ。ゾンビが逃げ回るのでは、何だかおかしな事になってしまう。
「……雰囲気と言うことで勘弁していただけませんか?」
「考えとく」
 流石にこの辺りのやりとりになると、日本語が複雑なので彼女には分からないようだ。きょとんとした表情をしているが、二人が友人だという雰囲気は伝わっているようで、慶一郎を見てにこっと笑う。
「ケイサン、アリガトウ。ワタシ、ケイサンノコト、ダイスキヨ」
 立ち上がり慶一郎の頬にキスをすると、悪戯っぽくウインクをしてナイトホークに手洗いの場所を聞いた。
「そこのドア。綿棒とかコットンもあるから、勝手に使って。これ、取りあえず上だけでも着なよ」
「アリガトウ。アナタモイイヒトネ」
 さっと裏に回り男物の黒い長Tシャツを渡すと、彼女は今度は小さく投げキスをして手洗いに入っていく。
「………」
 彼女がいなくなった後の気まずい沈黙。頬につけられたキスマークをいきなり落としてしまうのも悪いし、かといって、こういうところはナイトホークにもあまり見られたくないわけで…出されたアイスカフェオレにガムシロップを入れ、カラカラと氷を鳴らしながら混ぜ倒していると、それを遮るように声がかけられる。
「ご褒美は美人のキスか?」
「これぐらい役得がなければやっていられません。それにヒーローへのご褒美は、美女のキスと相場が決まっているものですよ」
「ほっぺたにキスマークつけてたって言ってもいい?」
「それは勘弁してください」
 この気まずさから逃げる為には、コネも切り札も使えないか。グラスの水を一口飲み、慶一郎はカウンターに肘をつきながらナイトホークを見上げる。
「私はどうしたらいいんでしょうね」
「俺に何か賄賂でも渡せばいいんじゃない?」
「定食屋の昼食でで勘弁していただけますか?」
「考えとく」
 これはまあ、彼女と自分をかくまってくれたお礼ということにしておくか。
 自分に微笑んだ彼女のグロスが塗られた唇の感触を思い出しながら、慶一郎はもう一度苦笑し、甘いアイスカフェオレを飲んだ。

fin

◆ライター通信◆
ありがとうございます、水月小織です。
不法入国の女の子を逃がすために走り回る話とのことで、サンダルを買ってあげたりコートをかけてあげたりしながら、街中を逃げる話を書かせていただきました。進撃よりも撤退の方が実際大変なようなので、その辺りを慶一郎さんの職に重ねてみたりしています。
そしてやっぱりナイトホークとの会話がボケツッコミになりました。
リテイク、ご意見は遠慮なく言ってください。
またよろしくお願いいたします。