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<東京怪談ノベル(シングル)>


パーフェクト・バード


 ほら、見ておくれ。レイリー。
 うつくしい鳥だ。鳥の世界だ。素晴らしい。これ以上のものが、あるだろうか。
 完璧なのだ。
 この鳥は、完璧な装置なのだ。
 完璧な鳥の世界が、ここにあるのだ。
 ――黒の紳士の来訪に、青年はそう自慢げに、微笑んだ。


「そう……あれはたしか、年の末のこと」
 違いましたか。促されて、女は彫像のような顔を僅かに上向けた。
 整った容貌の女だった。その造形はレイリー・クロウの嗜好に合うものではあったが、人形的すぎて頂けない。今も、返答のために開かれた唇の周囲、白い頬が久方ぶりに動かされた筋肉であることを教えた。不自然な引きつりがある。
 ああ。いっそこれは、人間でなければいいのに。レイリーはその口許を見遣って思う。人間でなく、人形であれば、コレクションに加えることも、できたのに。
「……ええ。そう、ですわ。あなたが前に訪れたのは、昨年の十二月で、ございました」
 掠れた声だった。
 レイリーは柳眉を顰め、皮手袋の指先を女の口許に運ぶ。声音同様に渇いた唇に押し当てて、黙らせた。
「ひどい声だ」
 女の頬がまた痙攣を起こす。
「その声では、もうここにはいられないでしょう」
 女の表情は動かなかった。そのかわり、無意識の静けさで咽喉元に触れ、人差し指でゆっくり、そのラインをなぞった。


 ほら、見ておくれ。もっとここへ、こう。この角度で見たときが、一番素敵だと思わないか。
「ええ、しっかりと眺めておりますとも。しかしそうは仰いますが、どの角度でも世界は素晴らしいのでしょう?」
「そう! そうだ、僕は今、下からこの世界を眺めていたが、たしかにどこからでも……いや、やはり、こうか?」
 青年は、近くの椅子を引き寄せて、靴のままその上へ乗った。背もたれに膝を預けて、『世界』を見下ろす。
「ああ、嗚呼、アア……!」
 喧しい。何度も感嘆に叫ぶ彼へちらりと視線を投げて、レイリーは庭に設えられた白いテーブルに片肘を据える。帽子は今は卓上に。艶やかな黒髪が微風に流れる。師走の夜風だというのに、甘すぎた。
 青年が今『世界』と称して眺めているのは、吊るされた鳥籠である。
 優美な曲線に繊細な細工、触れれば硝子のごとく欠けほろび――そのような、華奢なものではない。籠というより、檻だった。四角く太い鉄製の、檻。このまま巨大化させれば、まさに牢獄であろう。
 その無骨な代物を、屋敷でもっとも映えるテラスに彼は設置した。
 リビングルームから外を眺めたとき、ちょうどその隅に鳥籠は映りこみ、広大な庭に繁る樹木の葉の下で、ひっそりとこちらを見返しているのだ。


 秋の終わりに、彼は言った。
「レイリー、なあ、商人よ。おまえに扱えぬ品物はなにひとつないはずだ」
「はい。幸福を呼ぶ壺。握れば千の血を啜らねば手から離れぬ剣。どんな物もこれで掬えば美味となるスプーン。あなたが望むのなら、たちまちここへ」
「眉唾物だな。……だが、そう。たとえばこんな品はどうだ?」
「このレイリーを試すおつもりと、見えますが」
「なに、そんな気はないが、僕も退屈しきっている。――僕が鳥を飼っているのは、知っているな?」
「ええ。書斎の鳥籠に、小鳥が一羽」
「新しい鳥を、飼おうと思っている。そこで、その鳥に相応しい鳥籠が欲しいのだ」
「籠の主は?」
「漆黒の翼、金の瞳の、美しい鳥、」
 落葉がテラスを駈けていた。使用人らしい女が、庭の隅で黙々とそれを掃き集めていた。


「私がここを訪れるのは、今日で三度目」
 指に誘われたように女の咽喉へと視線を落としながら、レイリーは浮かんでいた不機嫌さを消して、微笑んだ。ある確信めいた、笑みだった。
「一度目は、十月の終わりに」
 彼から、鳥籠を所望された。
 その日のうちに、彼の希望に副った品物を届けた。
「二度目は、十二月。クリスマスの、数日前でしたか」
 ほら、見ておくれ。そう自慢げに鳥籠を見せ、籠を上方から眺めた彼は、ひどく興奮していた。
 人はなぜ、鳥を捕らえるのだ。檻に入れて、傍に置くのだ。美しい声で啼くからか。その動きが、愛らしいからか。違う。それは違うぞ。優越感だ。空を飛びまわるその姿に、嫉妬しているから、おまえらなぞは所詮人間の観賞対象に過ぎぬという、単純な、優越感を味わうために、捕らえているのだ。
「そのように評した彼だからこそ、鳥らしいことを、鳥へ求めなかったのでしょう」
 彼の鳥は、啼かなかった。
 そうして、飛びたちもしなかった。
「あなたはどうお思いになられますか? それは、鳥と呼べるのでしょうか?」
「……さあ」
 ふたたび口を開いた女は、思考をとうに放棄している。意識のごく浅い部分が、問われた内容に反応しているだけだ。
「しかし旦那様は、そのような鳥こそを心底、愛していらっしゃったのですわ」
 虚ろな視線が、レイリーから外れてゆく。最初から、興味などない。女はその身すべてを、一直線に彼へ向けている。
「嫉妬、ですか」
「単なる事実です。わたしを呼び寄せて、この屋敷へ留め置いて、毎日々々ただ歌を歌わせて、」
「そう、あなたは籠の鳥だった。美しい歌を紡ぐだけの、金糸雀だ」
 彼の姿は、テラスにあった。冷たい床の上で、彼はまだ鳥籠を眺めては言葉未満の音を洩らし続けている。ときおりそれが意味のある文章になっても、いちいち耳を傾ける必要はない。言っていることはすべて同じだ。同じ台詞を延々と繰り返している。


 ほら、見ておくれ。レイリー。
 うつくしい鳥だ。鳥の世界だ。素晴らしい。これ以上のものが、あるだろうか。
 完璧なのだ。
 この鳥は、完璧な装置なのだ。
 完璧な鳥の世界が、ここにあるのだ。
 ――黒の紳士の来訪に、老人はそう自慢げに、微笑んでいる。


「三度目の来訪は、二月」
 本日。
 前の訪問からは、まだ二ヶ月しか、経っていない。
「あなたが、気づかぬはずはないのです。毒を見抜くのは、お得意でしょう?」
 女とともに、彼を眺める。
 彼は、著名な書家の孫で、両親は実業家だった。非常に裕福な家庭で、大して苦労もせずに大学まで進み、卒業後は職に就くわけでもなく、この別荘で過ごしてもう数年になる。
 留年も、浪人もしていない。彼は今年で二十五歳である。
 だが視線の先の彼は、どう見ても還暦を過ぎた年寄りだった。
 眼差しを細めたレイリーは、あえてそれ以上は口にしなかった。一歩ゆっくりと、後方へ退く。
「もう、お立ちに?」
「私には、このように整えられすぎた世界はそぐわない」
「人間が造ったものは、お嫌い?」
「いいえ、むしろ愛してやみません。ただ、完成されたものよりも壊れたものの方が、どうやら私の趣味には合うらしい」
「あら、ここは壊れてなんか、いないのに」
 女の口調はいつの間にか砕けている。視線は窓から動いていない。
 テラスには、女が愛した男が、鳥籠の世界に在る。
「それに私は、籠に飼われる鳥ではないのです」
「自由なのね」
「過ぎるほどに」
 レイリー・クロウを飼い馴らすなどおこがましい。この鳥は観賞対象にあらず。立ち位置は世界の外にあるべきで、どの角度から、たとえ足下からでも、捉えることなどできはしない。
 影である。
 それも明かりひとつない夜道で、けれどたしかに後ろに添う、闇に同化した影である。
「私は最初から、気が乗らなかった」
 女に背を向けて、黒の外套で身を包んだ紳士は、その表情さえも布の下に隠した。
「レイリー・クロウを飼うための鳥籠を所望するなど……ああ、人間とはなんと愚かで浅はかで……」
 続いた台詞は、羽音がさらう。ただどうやら、語調は上。
 月の光をひと撫でした、その姿は見当たらない。


 瞬くと、無人のリビングルームは、完全に闇のなかだった。
「あのひとが愛した完璧な、完成された世界なのですもの……壊しては、だめ」
 言い聞かせるように呟いて、テラスへ出た。
 鳥籠のなかには、相変わらず貪欲な黒い鳥が棲んでいる。その姿が、揺れていた。腹が減っているのだろう。
 餌を与えなければならない。
 鳥が死んでしまうから。
 世界が崩壊してしまうから。
 この美しく整えられた世界から、永遠に終焉を遠ざけておかなければ。
「醜いものを、あのひとはひどく、嫌うから」
 だからたとえば、鳥籠を吊るした台に寄りかかる、この老人の躰など特にここにあってはならないものだ。
「おかしいわ……庭の掃除はちゃんとしていたはずなのに。なぜこんなものを、わたしは捨てずにおいたのかしら」
 本当に、おかしいわ。
 わたしは干からびた手を取り、その指先を、そっと籠のなかへ挿し入れた。


 <了>