|
『はじまりの日』
◆1.
空がとても青く綺麗な日だった。
あの空を飛んでやってきたのだと思うとジェフ・チェンの心は躍る。そうでなくてもやっとこの街に来ることが出来たのだ。この街――東京へ。
「やっと来たぞ……待っていろ」
そう。ジェフはただ観光のために東京へ来たのではない。探すべき相手がこの国にいると知り何とか師の許可を得て、ようやくの来日になったというわけだ。必ず見つけ出してやる……と決意も新たに美しい空を見つめる。
――と。
「ちょっと、ジェフ。何ぼうっとしてるのよ!」
ジェフの決意を吹き飛ばしそうなほど元気な声が聞こえた。
声の主はジェフにとっては師の孫娘であり、幼馴染みでもあるマリア・リュウである。彼女もまたジェフについて東京にやってきたのだ。
「本当について来ちゃうんだもんなあ……」
「だって、ジェフばっかり強くなるなんてずるいじゃない。私だって一緒に修行するんだから」
ただし、その目的はジェフとは少々異なっていたが。
それで構わない、とジェフは思う。マリアまで自分の事情に巻き込むわけにはいかない。何と言っても彼女は師の孫であり、守らなければいけない存在だ。それに、男に負けまいと懸命に修行に励む彼女の姿はとても好感が持てた。
「それで? 何してたの?」
「ああ……いや。空が綺麗だからさ。ようやく東京に来たんだな、と思って――」
「何言ってるのよ、まだ空港から出てもいないじゃない。もう! 先行っちゃうわよ」
曰く、女は男よりも現実的である。――残念なことに高名な先人の言葉ではなく師匠の口癖だったが、それだけに有効性も高い。現に、マリアはジェフのロマンティシズムなど切り捨てて、さっさとゲートの向こうへ歩き出していた。
「おーい、マリア! 待ってくれよ」
ふう、とため息を一つこぼしジェフは慌ててマリアの後を追いかけた。
「待てって、マリア。そっちじゃないから」
ようやく追いついたジェフは彼女の腕をとって引き留めた。
「あら? でも出口はこっちでしょ?」
「その前に待ち合わせしてるんだよ。ほら、お師匠様のお知り合いの――」
「ああ、怪奇探偵さん」
ポンと両手を合わせてマリアは顔をほころばせた。
「どんな方なのかしらね。早く会いたいわ」
「とりあえず、煙草を吸う人みたいだね……待ち合わせ場所はBゲートそばの喫煙所、だそうだから」
師から渡されたメモを読みながらジェフが言う。
「Bゲートって」
「さっき俺たちが出てきたゲートだね」
「喫煙所は」
「出口の反対側みたいだな……そこの案内板によると」
「ってことは」
「うん。戻らなくっちゃ」
阿吽の呼吸の応酬は幼馴染みならではのものである。だからそれはマリアに何の感銘を与えもしなかった。
「早く教えてよね、そういう事は!」
……怒りを呼び起こすものではあったらしいが。
「だから待てって言ったのに……」
ジェフの呟きは当然のように無視される。
「ほらっ、早く戻るわよ。ああもう、お待たせしてしまって怒っていらっしゃらないかしら」
踵を返して走り出すマリアの後を追いかけ、ため息を再びこぼすジェフだった。
「お、やっと来たか」
喫煙所には幾人かの人間がいたが、その中の一人である長身の男が片手をあげて合図をよこしてきた。出口そばからトランクを抱えて全力疾走してきた二人は、手前でいったん息を整えてから彼と向きあう。
「初めまして、ジェフ・チェンです」
「初めまして、マリア・リュウです」
拱手の礼をとって二人して頭を下げた。
「申し訳ありません、お待たせしてしまって……」
「いや、丁度良かったよ。今一本吸い終わったところだったからな」
恐縮する二人に対し何でもない、と彼は笑う。
「お師匠さんから聞いていると思うが、俺が草間武彦だ。ま、俺の今回の仕事は紹介だけだがな」
「よろしくお願いします」
もう一度、今度は日本式にお辞儀をする。そんな二人を見て武彦は目を細めた。
「二人とも日本語は完璧みたいだな」
「勉強しましたから」
元気よくマリアが答える。
と。視線を集めているような気がして、ジェフは辺りを見回した。よく考えてみれば二人は彼らにとっての伝統衣装、いわゆるチャイナ服を身につけて来日したのだった。そして、マリアは歳の割に発育が良い。そこまで考えて、ジェフはハッとする。
「そりゃ頼もしい。その調子で修行も頑張れよ」
「はい!」
そんなジェフの心配をよそにマリアと武彦は和やかに話をしている。とりあえず、マリアの大胆に入ったスリットに執拗に視線を送る男を遮るように彼女の横に立ち、ジェフは慌てて武彦に言う。
「あ、あの、草間さんは車で来て下さったんですよね?」
「おお。お前さん達を送って行かなきゃならんからな」
「じゃあ、つもる話は車の中でという事で……」
「何よ、ジェフったら。そんなに急がなくたっていいじゃない」
自分が注目されてる事になど微塵も気づいていないマリアが口をとがらせる。武彦はそんな二人を面白そうに眺めていたが、
「確かにここで立ち話していてもしょうがないな。車に行こう」
とマリアを促した。納得がいかなそうなマリアだったが、武彦に言われて仕方なく歩き始める。その後ろ姿を追いながら、武彦がポンとジェフの肩を叩いた。
「苦労しそうだな、ジェフ」
いたわるような言葉には多分に笑いが含まれている。
「……頑張ります」
「ま、日本の学校には制服ってものがあるからな。今みたいな服で外出する事も減るだろう」
「ありがとうございます……」
そうして三度ため息を吐くジェフだった。
◆2.
「それで、どんな所なんですか?」
車に乗り込み、一通り互いの紹介や世間話が終わったところでジェフが切り出した。
「うん?」
「俺たちがお世話になる場所です」
「ああ、そうだなあ……」
くわえ煙草でハンドルを握りながら武彦が考え込む。窓を開けてくれているのは煙草の煙に遠慮してくれているのだろうか。
「良いところだよ、うん」
「そうですか……っていやいや、俺たち、まだ名前も聞いてないんですよ?!」
「あれ、そうだったのか?」
おかしいなあ、ちゃんとメールしておいたはずなんだがな、と武彦は首を捻った。
「あの、すみません。祖父はメールとかそういうのに疎くって……」
もしかしたらちゃんと見てないかも、とマリアが恐縮して頭を下げる。
「ああ、だから大事なやり取りは手紙でだったのか。うん、分かった。俺に分かる範囲で説明しておこう」
そう言って武彦は信号待ちの間に、煙草を灰皿に押しつけた。
「まず、暮らす場所だが郊外の静かな寺院に頼んである」
「修行には……」
「広い林の中にあるし川も流れてるんだが、それで大丈夫か?」
「十分です」
「名前は香楓院(こうふういん)。字の通り楓に囲まれた寺だな」
「わあ。じゃ、紅葉の季節が楽しみ」
手を合わせてマリアが目を輝かせた。
「あ、でも観光のお客さんがいらしたりするのかしら?」
それでは修行の邪魔になりはしないか、と一転今度は顔を曇らせる。
「その辺は大丈夫だよ。ガイドブックに載ったりもしていない場所だから、多分わざわざ見に行くやつは少ないんじゃないのかな」
「良かったあ」
ほっと胸をなで下ろすマリア。そんな彼女の百面相を見て、ジェフは思わず吹き出した。幼い頃から彼女とずっと一緒にいるが、くるくる変わるその表情には全く飽きない。そんなジェフに気づいたのか、マリアは「なあに?」と首をかしげる。
「住む場所はそんなところでいいか? 住職もお前たちのお師匠さんの知り合いだそうだから、何かあったら相談すればいい」
「はい、分かりました」
うなずく二人をバックミラーで確認して、武彦は一息ついた。
「で、学校の方だが……こいつは百聞は一見にしかずだな」
「え?」
「車の左側。もうその学校の敷地だよ」
二人は慌てて左の窓を見るが、そこには鬱蒼とした林が広がるばかりだ。
「木しか見えないんですけど……」
「だから、それも敷地の一部なんだ。運動場やら武道館なんかも一カ所にまとまってるからな、かなり広いぞ」
「それは……日本の学校では当たり前の事なんですか?」
「いやあ、名門校だからこそだろう」
そう言いながら武彦はハンドルを切った。すると左窓には赤煉瓦造りの塀と柵、そしてその間から見え隠れする植木の緑が映り込んできた。
「名門校……」
「かなり偏差値も高いぞー。修行だけにかまけてないで勉強も頑張れよ」
「勉学も修行の一環ですから」
そう言ってジェフは微笑んだ。隣ではマリアもうんうんとうなずいている。実際母国の学校では二人ともかなりの成績を残してきているのだ。あの調子でいけば日本でも上手くやれるだろう。
「そりゃあ良かった。で、名前だが……そろそろ校門が見えてくる頃だろ。自分たちの目で確かめたらどうだ?」
武彦の言う通り、塀が突然ひらけて大きな門が見えた。あいにく今日は学校は休みなのかその門は閉ざされていて生徒の姿も見えなかったが、門柱に大きく掲げられた名前は確認できた。
「明桐(めいとう)学園……」
「校章は名前にちなんで桐の葉がモチーフなんだそうだ。ああ、制服やら教科書は香楓院の方に届いているはずだから」
「あっ、制服で思い出しました。日本の学校って、髪型なんかも指定されるって本当ですか?」
長い自分の髪に触れながらマリアが心配そうに問う。なるほど、髪の手入れには人一倍気を使っているマリアの事だ、そのことは気になるだろう。
「いや、明桐学園は確かその辺の校則は割と自由だったと思うぞ。髪も派手に染めるとかするんじゃなければ大丈夫なんじゃないか」
「良かったあ」
先刻と同じようにマリアはほっと胸をなで下ろした。今度は密かにジェフも安堵する。――マリアの美しい黒髪が見られなくなるのは、とても寂しい事だから。
「俺に分かるのはこのくらいかな。あとはまあ、生活していくうちにおいおい慣れていくだろう」
「はい。ありがとうございました、草間さん」
「ここから香楓院はすぐだ。登校は徒歩で大丈夫だろうな」
学校を後にし、車は前方に見え始めた林の中に入っていく。
◆3.
「素敵な離れねえ。良かったわね、ジェフ」
香楓院につき住職に挨拶も済ませ案内されたのは、小振りながらも小綺麗な離れだった。簡単な炊事が出来る台所やシャワー付きの風呂もある。勉学も修行のうち――先程ジェフが言った言葉の通り、勉強部屋もあり一人で生活するには十分すぎるほどの建物だ。
「こんな居心地の良さそうな場所だと修行にならないかもな」
苦笑しながらそうマリアに告げる。
「そんな事ないわよ。私達一人で暮らすのも初めてなんだから」
東京では生活そのものが修行、そのことをゆめゆめ忘れるな。出立前に師に言われた言葉を思い出す。確かに、今までは食事は修行中の皆と一緒にとっていたし、その他の家事全般も何かと周りに助けられていた。これからは、それらをすべて一人で――そこまで考えたところで、ジェフはある点に思い至る。
「俺は大丈夫だけど、マリアは?」
「失礼ね。私だってその気になれば何とか――」
「何とかなるようなレベルじゃないだろ、お前は」
幼馴染みの壊滅的な家事の腕前を思い浮かべジェフは青ざめた。天はマリアに容姿と家業に関する才能、頭の良さなど二物も三物も与えたが、残念ながら家事の才能だけは与えてくれなかったらしい。
と。
そんな二人のやり取りを不思議そうに眺めていた武彦が言った。
「何言ってるんだ、お前ら。ジェフが大丈夫なら、何とかなるだろ?」
「そうですよね、草間さん。ジェフに出来る事なら私にだって……」
「いや、そうじゃなくてだな」
根本的な勘違いが互いの間にある事に気づいた武彦はゆっくりと噛んで含めるように、爆弾をジェフとマリアの間に落とした。
「お前ら、ここで二人で暮らすんだぞ?」
「は?」
「え?」
その言葉の意味を理解するのには、たっぷりと数秒はかかった。
『ええええええええ?!』
そして理解した後は二人の絶叫が響き渡る。
「二人って、だって俺とマリアで……」
「そうですよ、私とジェフでって……」
「何か問題があるのか?」
『大ありです!』
二人は声を揃えて武彦に詰め寄った。
「どうして事前に教えてくれなかったんですか?」
「てっきり聞いているものだとばかり……」
「それにしたって普通おかしいと思うでしょう?」
そんな二人の様子をにやにやとながめながら、逆に武彦が問い返す。
「どうしてだ?」
「え?」
そんな切り返しに思わずジェフ達は勢いをそがれてしまう。
「そもそも、お前さん達はここに何しに来たんだ?」
「――修行です」
「そう。それで二人で同じ離れに住む事に何か問題が?」
「ですから! 修行中の身とはいえ俺たちは……」
「幼馴染みで、同門の修行者同士。そうだよな?」
「うう……」
武彦に言い負かされてジェフは押し黙ってしまう。そんな彼に代わって勢いよくマリアがまくし立てはじめた。
「だいたい若い男女が一つ屋根の下に二人っきりってその時点でおかしいじゃないですか!」
「そうか?」
「そうですよ! そう言うのは普通こ、恋人同士とか、そう言う人達がするのであって……」
「でも、お前さん達は家族みたいなものなんだろ? 家族が同じ建物で暮らすのは自然だぞ?」
「で、でも、もし何かあったら……」
「何か間違いがあったら。つまりお前はジェフの事を間違いを犯しかねない相手だと思っている、と」
「! 違います! そうじゃなくて……」
うう、とジェフと同じように押し黙ったマリアの目には涙までたまっている。
そこまでだった。
「あっははははは!」
武彦が腹を抱えて笑い出した。
「お師匠さんから聞いていたけど、本当にうぶなんだな、お前ら」
「草間さん……?」
「いや、悪かった悪かった」
まだひーひー笑いながら武彦は二人に謝る。
「俺たちをからかったんですか?!」
「二人ともあんまり必死なもんだからつい、な」
「酷いですよ」
「だから悪かったって」
笑いがおさまらないまま言われても説得力がない。
「じゃあ私の暮らす場所は――」
「あ、それはここ」
何でもない事のように武彦は言う。
「それじゃ、何も解決して無いじゃないですか!」
「大丈夫だって」
ぽんぽんとマリアの肩を叩きながら、武彦は真面目な顔になって言った。
「信頼してやれよ、大事な幼馴染みなんだろ?」
「それは、そうですけど……」
そのまま彼はジェフの方を向き確認する。
「お前も、マリアを泣かせるような事はしないって約束できるよな」
「当たり前です!」
考えるより先に言葉が出ていた。そうだ、当たり前だ。マリアは大切な幼馴染み。守るべき人。泣かせるような事なんかするわけがない。
「じゃあ、やっぱり大丈夫だ」
優しく微笑みながら武彦はそう断言する。
「ここできちんと修行のために暮らしていけるな?」
そして、最後の確認。
「……はい」
「……頑張ります」
ようやく。ジェフとマリアはこれからの生活に肯定的な返事をする事が出来たのだった。その言葉を聞き、いい子いい子と二人の頭を撫でると武彦は出口の方へ向かっていく。
「じゃあ、俺はそろそろ行くから。何かあったらいつでも興信所の方に顔を出せばいい」
「色々とありがとうございました」
頭を下げる二人に背を向けたまま手を振ると、彼はそのまま本当に出て行ってしまった。
しばらく二人ともその場に立ちつくしていたがこのままでは埒が明かないと決心し、ジェフはマリアに話しかけた。
「あの……マリア?」
マリアはぶつぶつと何事かを呟いていた。
「そうよ、家族なんだから。今までだってほとんど一緒に暮らしてきたようなものじゃない。ジェフはお兄さん、そうじゃなきゃ図体だけ大きい弟。そうよ、そうなのよ」
……どうやら必死で自分に暗示をかけていたらしい。その呟きを聞きジェフとしては少々複雑な気持ちになったりもするのだが、今までの自分たちの関係を考えてみれば仕方のない事かもしれない。それに――
「マリア」
「あ、ジェフ……」
彼女の目の前に立ってジェフは断言する。
「さっき草間さんの前でした約束は本当だから。俺は、絶対マリアを泣かせるような真似はしないよ」
そう言って「お兄ちゃん」らしく微笑んでみせる。
マリアは大切な人。それは何があっても変わらない。
「……うん。信じてる」
ジェフの気持ちを感じ取ったのか、マリアも微笑んでそう答えた。
そうしてここから、二人の新しい生活がはじまる。
<END>
|
|
|