コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


花ぞ昔の 香ににほひける

梅は咲いたか、桜はまだかいな。
 そんな歌があるように、梅よりも桜の方がもてはやされているようだが、香りはやはり梅のほうがふくよかだ。その香りが漂い始めると、東京にも春がやってきた事を感じさせる。
「もし、よろしかったら一緒に梅を見に行きませんか?」
 デュナス・ベルファーが、蒼月亭で働いている立花 香里亜(たちばな・かりあ)に勇気を出してそう言ったのは、バレンタインが過ぎた昼下がりのことだった。
 初めて会ったときからデュナスは香里亜にほのかな好意を寄せているのだが、いまだにそれを告白した事はない。クリスマスプレゼントを交換したりもしたのだが、それも「今年はお世話になったので…」などと言う、無難な理由をつけてしまった。
「梅ですか?」
「はい…今でしたら湯島天神で梅祭りをやっているそうですし」
 カフェオレが入ったカップを持つ手が震えている事に気付かれないよう、デュナスはそっとカップを置く。休日に梅を見に行こうとは前々から思っていたのだが、どうせ行くなら誰かと一緒の方がいい。それが香里亜だったら、梅があまり咲いてなくてもいいぐらいで。
 それを聞いた香里亜は、何かを考えるような仕草をした後、ぽんと自分の手を叩いた。
「あっ、東京ってもうそんな季節なんですね。私ずっと北海道だったから、梅は五月ぐらいに桜と一緒に咲くんだと思ってました。そうですね…一人で行くよりも、一緒の方が楽しいですから、ご一緒させてください」

「……夢じゃないですよね」
 梅祭りでは土日に野点や催し物もやっているのだが、ゆっくり梅を観賞したりするのなら平日の方がいいだろうということで、出かけるのは香里亜が休みだという二月の金曜日という事になった。
 方向音痴だという香里亜が地下鉄で迷わないように、店の前で待ち合わせをしているのだが、まだ一緒に出かけるという実感がない。
「おはようございます。今日もよろしくお願いしますね」
 前に一緒に紅葉を見に行ったときと同じピンクのハーフコートの香里亜が、階段を下りてやって来た。ベージュのトートバッグに今日はピンクのスカートだ。そして……。
「あ、バレッタ…」
「ふふっ、気付いてくれました?クリスマスにデュナスさんから頂いたバレッタです」
 香里亜の髪の毛には、デュナスがクリスマスに渡したバレッタがついていた。今日はデュナスも香里亜から貰ったベージュのマフラーをしているのだが、何だかそれがくすぐったくてお互い顔を見合わせて笑う。
「おはようございます、香里亜さん。じゃあ、行きましょうか」
「はい」
 前もって交通機関は調べておいた。千代田線に乗り、湯島駅で降りたらすぐ湯島天神はある。道真公を奉っているので、学問などに御利益があるようだ。
「わぁ、ほのかに梅の香りがしますね」
 駅から出て、男坂に向かうと既に白梅が咲いているのが見える。鳥居へと続く石段を見て、デュナスは香里亜に梅林の方を指さした。
「こっちの男坂よりも、少し遠回りですが女坂の方から回りましょうか?」
 少し急な石段を登るのは香里亜には大変だろうか…そう思ったのだが、香里亜はにこっと笑い石段の方へと歩いていく。
「大丈夫ですよ。梅も楽しみですけど、やっぱり先にお詣りしたいですし…」
 一礼してから鳥居をくぐり、香里亜に教わりながら手水舎で手や口を清め、二人仲良くお詣りをする。そこでデュナスはそっとこんな事を祈った。
『今年はもう少し香里亜さんと仲良くなれますように』
 学問の神様にこんな事を祈るのもおかしいかも知れないが、そこまで心は狭くないだろう。日本に来てデュナスが驚いたのは、広い宗教感とそれらを受け入れられる懐の広さだった。日本には八百万の神がいるというが、その中にクリスマスなども入れて祝ってしまう所は、フランス生まれのデュナスにとってかなりカルチャーショックだったのだが、この懐の広さがあれば、宗教が原因で戦争などしなくなるのではないだろうか…と思う事がある。
 最後に一礼して下がると、香里亜が嬉しそうに微笑みながらこんな事を聞いてきた。
「デュナスさんは何をお願いしたんですか?」
「えっ…いや、それは……」
 本人の前で言う勇気があれば、もう少し進んだ付き合いをしているのだろうが。どういおうか困っていると、くるっとスカートを翻した香里亜がデュナスを見る。
「願い事を口に出すと、叶わなくなっちゃいますから秘密ですよね」
「ええ、秘密です…」
 言ってしまった方が良かったか、それともこれで良かったのか。
 二月にしては少し強い日差しの中を、二人は並んで梅を見た。香りの強い白梅や、色の美しい紅梅…ここに咲いている梅の八割は白梅の『白加賀』なのだが、本殿の側には色々な種類の梅があり、香里亜はその名に感心している。
「梅にも色々な種類があるんですね」
「そうですね。『月影』とか、やっぱり風流な名前が多いような気がします」
 梅の名前が書かれたパンフレットを見ているデュナスに、香里亜がある梅の名を見て指を指した。
「この『想いのまま』って名前は、何か色々感じさせますね。一本の木から紅白の花が咲くっていうのも素敵です。行ってみましょう」
 本殿の横に咲いている『想いのまま』は、本当に一本の木から紅白の花が咲く不思議な梅だった。その香りを胸に吸い込もうとするように、香里亜は少し背伸びをする。
「香里亜さんは花が好きなんですね」
 少しだけ梅の枝が届くように寄せながらそう言うと、香里亜がにこっと頷く。
「そうなんです。でも、東京だと季節がはっきりしてるから、何月が梅の季節…ってのがいいですよね」
 しばらく立ち止まって梅を見て、また歩いていく。
 そこで香里亜はデュナスに、北海道の春は梅や桜にコブシ、ツツジまでが一斉に咲くので賑やかだという話をしてくれた。六月にライラックやスズランが咲くまでは、雪解けと共に何もかもが一斉に咲くらしい。
「でも、春が来たって感じで賑やかでしょうね」
「ものすごく賑やかなんですけど、北海道の桜って山桜が多くて葉っぱと一緒に花も咲いちゃうんで、桜だけ…ってのに憧れてるんですよ。それに桜吹雪もピンクですし」
 それはそれで美しそうだが、香里亜としては白っぽい桜吹雪に憧れがあるらしい。そんな様子にデュナスはついこんな事を言ってしまう。
「じゃあ、桜が咲いたらまた一緒にどこか行きましょうか」
 ……しまった。
 どさくさ紛れに言ってしまったが、我に返るとかなり恥ずかしい。
 耳元が熱くなり、心臓の音が何だか妙に大きく響く。今日は日差しが強めだが、多分自分も発光しているのだろう。
 そんなデュナスを香里亜の大きな瞳が見つめている。そして、それが嬉しそうに細くなった。
「是非ご一緒してください」
「いいんですか?」
「私で良ければ…ですけど。卒業式や入学式に桜って、ちょっと羨ましいんですよ。北海道の卒業式はまだ雪がたくさん残ってますし、入学式は泥はねとの戦いですから」
 とんでもない。断る理由はどこにもない。
 あまりの事に夢ではなかろうかと思い、デュナスはそっと自分の手の甲をつねってみたが、ちゃんと痛いので現実なのだろう。夢だったとしても、それはそれで幸せなのだが。
「こちらの梅園にも行きましょうか」
 本殿を周り、今度は女坂の横にある梅園へと向かう。レジャーシートを広げれば梅を見ながらお弁当が食べられそうだ。時間も丁度いい具合になっている。
「じゃあこの辺でお弁当にしましょう。今日はおにぎりにしてきたんですよ…デュナスさんは梅干しとか大丈夫ですか?」
「食べられますよ。納豆のネバネバはちょっと苦手なんですけど、あまり食べられないものってないんです」
 おにぎりの具は種を抜いた梅干しと、鮭だった。他には豚肉の梅しそフライに卵焼き、レンコンの梅和えに鱈のごま揚げなどが入っている。
「美味しそうですね。いただきます」
「はい、どうぞ。ポットに暖かいお茶も入れてきました」
 持ってきたコップに温かいお茶を注ぐと、香里亜も両手を合わせてから梅和えに箸を伸ばした。そしておにぎりを包んでいるアルミを取り、梅を見上げる。
「何か梅ばっかりで酸っぱくないですか?」
「そんな事ないですよ」
 フライに入っている梅はそんなに多くないのでさっぱりしていて食べやすいし、料理が好きだというだけあってどれも美味しい。それにデュナスにとっては、たとえ香里亜が料理下手だったとしても、手作りというだけでご馳走だ。
 ほんのり甘い卵焼きを食べ、満足そうにデュナスは頷く。
「すごく美味しいです。何だかいつもお弁当を作ってもらってばかりで、申し訳ないですね…」
「いいんですよ。デュナスさんには、いつも素敵なところに連れてきてもらってますから。それに『どんなお弁当にしよう』って考えるのも楽しいんです」
 そう言ってもらえれば、社交辞令でも勇気を出した甲斐がある。
 今年は東京に雪が降らないという話や、境内の中にある梅林の中に泉鏡花の筆塚があるという話をしながらお弁当を食べる。
「そういえば、『湯島の白梅』…って、湯島天神は泉鏡花の『婦系図(おんなけいず)』の舞台にもなっているんですよ」
 そう言ったときだった。
 香里亜がデザートのうぐいす餅を出しながら、デュナスの顔をじっと見る。
「デュナスさん…本当は日本人なんじゃないですか?」
「えっ?どうしてですか?」
「だって、秋の七草の事とか、日本人の私よりもよく知ってますし…」
「いや、梅の名所を調べていたら出てきたんで、覚えてただけなんです…ちゃんとフランス人ですよ」
 あまりにおろおろしたせいか、香里亜がくすっと笑った。そしてそっとうぐいす餅の入っていた小さな重箱を置く。
「冗談ですよ。デュナスさんは確かアルザス地方の生まれなんですよね」
「そうです。覚えていてくれたんですか?」
 それを言ったのは、クリスマスマーケットでのことだったのだが、すっかり忘れられていると思っていた。時々こうして花を見に出かけたりはしていても、香里亜から自分がどう思われているかは全く分からないので、そんな些細な事がものすごく嬉しい。
「『クグロフ』と『タルト・フロマージュ』が名物なんですよね…って、お菓子のことは知ってるんですけど、他は何が名物なんですか?」
 自分を知ってもらうのも、親しくなるための一歩だろう。
 香里亜が自分の故郷である北海道の事を教えてくれたように、自分も色んなことを教えたい。お茶を飲み、デュナスはアルザスの名物について話す。
「アルザスはドイツに近いので、酢漬けのキャベツの『シュークルート』をよく食べます。あと、フォアグラやワインが有名ですね…白ワインが美味しいですよ」
「そうなんですか…フォアグラはちょっと無理ですけど、今度『タルト・フロマージュ』を作ったら、味見してくださいね」
 出来ればそれは自分からお願いしたいぐらいだ。
 にこにこと笑ってうぐいす餅のきなこが落ちないように、そーっと手を添えて食べる香里亜を見て、デュナスも笑いながらうぐいす餅を手に取った。

「そう言えば、デュナスさんは梅の花が出てくる百人一首の句って知ってますか?」
 香里亜から唐突にそんな事を言われたのは、境内に戻って梅林を歩いていたときだった。百人一首という遊びがあるのは知っているが、それは流石にデュナスも知らない。
「残念ながら…」
 そう言って首を横に振ると、香里亜が柔らかく微笑む。
「ふふっ、やっと日本人っぽくデュナスさんに教えられるものがありました」
 それは百人一首の三十五番、紀 貫之(きの・つらゆき)の歌だった。

 人はいさ 心も知らず ふるさとは
 花ぞ昔の 香ににほひける

「『人の気持ちは分からないけれど、ふるさとでは梅の花だけが昔と同じ香りで匂う』…みたいな意味です。香りって思い出に刻み込まれるっていうから、詠んだ人もそんな気持ちだったのかも知れませんね」
 そうかもしれない。
 今でもデュナスは、香里亜と一緒に出かけたときの記憶と香りを思い出せる。初めて二人で出かけたバラ園でのバラの香りや、その時に香里亜がつけていたマグノリアの練り香水。紅葉狩りでの冷たい空気や、クリスマスマーケットでのグリューヴァインの香り。
 くすぐったいように少し笑い、デュナスはそっと香里亜の横を歩く。
 きっと今日の事が遠い過去の事になったとしても、ここの梅たちは毎年変わらずに、柔らかい香りと共に咲き続けるのだろう。でも、出来ればこの先もずっと、一緒にこの香りを感じられれば…。
「勉強になりました。良い歌ですね」
「そうですね。今度は桜の歌も覚えてきますね。桜を詠んだ歌はたくさんあるんですよ」
 ゆっくりと香里亜と一緒に歩いている事を感じながら、デュナスは思う。
 人の心は分からないけれど。
 それでも、今幸せだと感じているのは事実なのだから。
「桜が咲く頃が楽しみです」
「私もです。約束ですよ、デュナスさん」
 香里亜はそう言うとそっと小指を差し出した。どうやら約束の指切りのつもりらしい。だが、そんな事を予想していなかったデュナスは、どうして良いか分からず立ち止まってしまう。
「あ、指切り知りませんでした?」
「いえ、知ってますけど…」
「じゃあ、指切りしましょう。はい」
 これで絶対忘れる事はないだろう。多分何年経ってもずっと。
 小指に残る感触に、デュナスは地面を見てそっと赤くなった。

fin

◆ライター通信◆
いつもありがとうございます、水月小織です。
香里亜と一緒に梅見に…とのことで、湯島天神の梅祭りにお出かけする話を書かせて頂きました。天神様というと「飛梅」ですので、そのあたりも入ってます。
ほのぼのとお弁当を食べたり、日本通のデュナスさんに「日本人疑惑」を持ってみたりと、楽しい一日になったようです。タイトルは文中にもある百人一首の下の句です。
リテイク、ご意見は遠慮なく言ってください。
またよろしくお願いいたします。