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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


春色幻想 〜桜に謳う昼下り〜


 不意に視界を掠めた淡い色を追って顔を上げると、薄桃色の小さな花弁がひとひら空へと溶けてゆくところだった。
 どことなく夢うつつでそれを眺めていると、今度はほのかな香りが鼻腔を通り過ぎてゆく。
 目の前で空へと吸い込まれていった花びらを追うと、その先にはどこか儚いイメージを思わせる花が咲き零れていた。
 この国の春の象徴だと、辿り着いてすぐに知ったその色と香りに一瞬で包まれて、アドニス・キャロルは小さく息を吐いた。
「どうしました?」
 その吐息が聞こえたのか、モーリス・ラジアルが移植しかけの鉢植えを手に温室の奥から顔を出した。モーリスの呼びかけに気付いたアドニスは、見上げていた木から恋人へと視線を移して微笑んだ。
「見事な桜だなと思って少し見惚れていた」
 風が吹き、その言葉に喜ぶように桜の花弁がまた舞った。

* * *

 太陽が天敵である夜型のアドニスにしては珍しく、その日はモーリスの仕事場である広い庭園へと足を運んでいた。うっすらと見える昼の月は丸みを帯びており、彼が昼に動けるその理由を暗に示している。
 草花の世話をするモーリスの姿に目で追っている最中に視界を遮って通り過ぎた桜の花びらは、温室のすぐ横に立っている桜の樹が降らせたものだった。ガラスの屋根を覆うように広げた枝を揺らして、桜は花びらと葉を舞い散らす。透明な屋根の向こうに見える空が桃色に染まり、窓や入り口から花びらが降ってくるさまは幻想的で美しいとアドニスは思った。
 あまり降り積もると掃除をするのが大変なんですよ、と温室の主は困ったように言っていたが、淡い色から受ける儚い印象とは裏腹に強い存在感を心に残すその風景は、自分の恋人には似合っているとアドニスは感じていた。
 何を考えても最後はいつも同じ想いへと繋げてしまう自分の思考の甘さが少し照れ臭くなり、アドニスはモーリスに注いでいた視線を桜の方へと外した。
「あの下には死体が埋まっていたりするのか?」
 アドニスは少し高鳴ってしまった鼓動を誤魔化すように、どこかで目にしたか誰かに聞いたか、桜に関する有名な一文をそのまま質問にしてみる。
「そんなものありませんよ」
 モーリスが喉を鳴らして軽く笑うと、それに合わせて花が散った。アドニスは手のひらを上に向けて、舞い込んで来たその花弁を一枚受け止めた。思春期の少女の唇を思わせる淡い桃色を見つめていると、どこか現実感がなくなっていくような気がした。
「あなたがそんなに桜が好きだとは知りませんでしたよ、キャロル。さっきから桜ばかり見ていますよね」
 鉢植えを所定の場所に置いてモーリスはアドニスに近寄ると、その手から花びらをつまんで離す。折り良く吹き込んできた風に乗ってそれは温室内のどこかへと消えていったが、入れ替わるように別の花びらの一群が舞い込んで来る。
「仕事の邪魔をしないようにしていただけだ」
 モーリスが触れた手のひらの一部から現実に引き戻されて、アドニスはモーリスの方へと顔を向けた。桜ばかり見ているから嫉妬した? 視線でそう問いながらモーリスの手を取って軽く唇で触れる。そのままちらりと上目遣いで表情を窺うと、モーリスは絹糸のような金色の髪を揺らして微笑んだ。
「今日は何だか機嫌が良さそうですね」
 そう答えた瞬間、モーリスの足元から支えがなくなった。視界の中で温室と空が斜めになる。足を引っ掛けられ抱き寄せられるように転ばされたのだと気付いた時には、葉と花びらの敷き詰められた柔らかな地面のベッドに横たわっていた。
 衝撃が少なかったのは、春の嵐で舞い散らばった桜の花びらと葉が温室の窓から吹き込んで積もっていたせいばかりではない事が、背中と首の後ろ、うなじ当たりに添えられた少し冷たい手の感触で分かる。
「……危ないですよ」
「そうか?」
 突然の行為に驚いて、少しだけ余裕をなくした顔で自分を見上げるモーリスに、アドニスは口の端を上げて答える。こんな真昼から高揚してたまらないのは月が満ちるのが近いせいだけだろうか。それとも桜の色に煽られたからだろうか。
 そのまま淡いピンクの絨毯の上を抱き合ったまま転がる。地面から巻き上がった花弁はそのまま二人に降り注ぎ、ついでに風に揺らされて上からも葉の緑を伴って落ちてくる。
「花にまみれるのは気持ちがいいな。うちのベッドにも降らしてみようかな」
「……仕方のない人ですね」
 機嫌良さげに花弁を掬っては風に流し、アドニスは自分と恋人を花びらに埋もれさせようとする。その腕の中で微苦笑と共に軽く息を吐くと、モーリスはアドニスの髪や指に絡む花びらを払った。
「昼休みにしましょうか。……これ、ちゃんとシャワーで流してくれるんですよね?」
「喜んで」
 花まみれのシャツとその合間に見える肌を指差し、誘うように動く唇に自らのそれで答えて、アドニスはモーリスを抱き起こした。

* * *

 温室を出ると窓の開け放たれたテラスが目に入る。その奥がモーリスの部屋らしい。足を踏み入れてみて驚くのはその広さと調度品の質だった。仕事の為の執務室というよりは一流ホテルのスイートルームを髣髴とさせる優雅さだった。
 身体中に浴びた花弁と葉のおかげで、仄かな芳香と青臭さを纏いながらアドニスは室内を興味深げに見渡した。
 昼に動く事が殆どないアドニスにとって、こうして日の光の下で見るモーリスの姿や仕事場はとても新鮮に映る。自分の知らない彼の一面を覗けたようで嬉しくもあった。
「こっちですよ、キャロル」
 そんな事を思いながら部屋を横切るついでに机の上に積み上げられた本の位置を直してみたり、カーテンに手を絡めて揺らしていたりしていると、奥から名前を呼ばれた。
 声のする方へ歩を進め、中を覗くとこれまた十分に広い浴室だった。モーリスは既にシャツのボタンを外しかけて、アドニスを手招きしている。
 誘われるままに脱衣所に入り、花にまみれたお互いの服を向かい合って脱がし合う。自然の芳香はいつしか二人自身の香りになり、それを楽しむために絡まりながら浴室の扉を閉めた後は、温水のシャワーとふざけて泡立てすぎた石鹸の少しきつめの匂いがそれに加わった。
 貼り付いた花びらをきめの細かな泡と一緒に流すと、その下の肌が艶かしく濡れて光る。夜の蒼い闇の中で見るのとはまた違う美しさに、アドニスは目を細め口元に笑みを浮かべた。
「ほら、綺麗になった」
「今日は本当に機嫌が良いんですね」
 どちらかと言えば冷静で、浮き足立つような姿をあまり見ないアドニスが珍しくはしゃぐ様子に、モーリスは温水を肌に浴びせられながら笑った。
「満月が近いからかな、昼でもこうして会えるのが嬉しくてね」
 それに答えてアドニスが耳元で囁くと、モーリスはくすぐったそうに首を竦めた。
「キャロル、さっき部屋の中をいろいろ弄ってたでしょう」
「ああ、知ってたのか……悪かったかな?」
「いいえ、別に。ベッドの寝心地もすごくいいんですよ」
「それはぜひ試させて欲しいな」
 濡れた髪の合間から挑発的な瞳に見つめられて、アドニスも負けじと見つめ返す。モーリスの唇からくすりと笑みが零れ、それを合図にシャワーを止めると、二人は濡れた身体のまま再び広い部屋を横切り、重なるようにベッドに沈み込んだ。

* * *

 どのくらい眠っていたのだろう。ベッドの上にうつぶせのままで薄く目を開けると、室内に差し込んでいた眩しい光が少しだけ和らいでいた。真昼を過ぎ、夕方へ向かう途中の柔らかな日差しだ。
 アドニスは緩く覚醒しながら、隣にあるはずの身体へと手を伸ばした。しかし予想に反してその手は何にも触れる事無くシーツの上へと落ちてしまった。
「モーリス……?」
 芯にだるさの残る身体を半分起こして室内を見回してみたが、モーリスの姿は見えなかった。どこへ行ったのだろうと首を傾げながらアドニスは何となく違和感を感じて、もう一度首を巡らすと己の視界に入る景色を観察し直してみた。
 壁も机も今いるベッドも、眠る前と変わらないはずなのにどこか印象が違って見えた。何がおかしいのか確かめるためにベッドを降りようとして、アドニスはふと動きを止めた。
(……足が届かない……?!)
 ベッドの端から下ろした足は床に届いていなかった。ありえないその状況に、まだ寝ぼけているせいかと二度三度頭を振ってからはっきり目を開けてみたが、やはり足は宙をぶらぶらと蹴っているだけだった。
 アドニスは愕然とした。足が短くなっているのだ。見る限り長さも大きさも子供のそれと変わらない。はっと気付いて手の平を顔の目の前に持ってきてみると、案の定、すらりと長い指は少し丸みを帯び、子供特有のふっくらとした形に変わっている。咄嗟に掴んだ枕と比べてもやはり小さい。
 もう一度顔を上げて室内を見渡す。先程の違和感は目線の高さの違いによるものだと気付いた。
 寝ている間に何があったのか知らないが――いや、何となく見当はついていたが――自分は子供サイズに縮んでしまったらしい。
「モーリス! モーリス!!」
 ベッドの上から、多分この現象を引き起こしたであろう恋人の名前を叫ぶ。すると奥からひょっこりと金色の小さな頭が見えた。
「目が覚めたんですね」
 両手にコーヒーカップを携えて、思った通り子供サイズのモーリスが近寄ってきた。湛えた笑みには悪戯の成功を喜ぶ興奮がちらりと見えた。
「可愛いですよ、キャロル。なんて愛らしい」
「これはどういう事だ、モーリス!」
「何がです?」
「君がやったんだろ」
 にこにことアドニスの頭を撫でるモーリスの手の下で、アドニスは両腕を目の前に広げて今の状況を――子供姿の自分達を示した。
「あ、バレました?」
「君以外にこんな事が出来る奴を俺は知らないよ」
 悪びれもせず微笑んで小首を傾げるモーリスを見て、アドニスはがくりと肩を落とし溜息をつく。
「お気に召しませんでしたか?」
「びっくりしてそれどころじゃない……」
 顔を覗き込んでくるモーリスを上目遣いで見つめ返す。それから自分の手元に視線を落とし、子供のそれに再び大きな溜息をついた。
 春の穏やかな午後を秘密めいた逢瀬で楽しんだ後の、この状況。元に戻るにはモーリスが能力を使ってくれなければならないのだが、目の前の恋人は暫くその気はなさそうである。
「さて、キャロル。もう午後の仕事は休む事にしましたから、これからもっと楽しみましょうね」
 姿形が幼くなってもいつもの魅惑的で挑発的な姿勢はそのままで、モーリスは困惑気味のアドニスに満面の笑顔を向けるのだった。

 春の悪戯はまだ始まったばかり――――。

 
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