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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


TRIP―アトリエ村事件―




 なだらかに続く坂道は、遠く丘の頂上へ向かい伸びていく。
 その未舗装の一本道は時折緩やかに折れ曲がり、途中の林に点在する奇抜な色や形の屋根へと続いているようだった。赤や黄色や緑といった、原色の鮮やかな屋根もあれば、コラージュのように様々な色が細々と重ね合わされた屋根もある。様式にすら統一感のないそれらの屋根は、脈絡なく並ぶことこそが唯一の法則であるかのようだった。
 そんな見た目の煩さとは相反し、村一帯は奇妙な静寂の中に包まれている。人っ子一人見当たらない砂利道を、彼は取り立て覇気のない足取りで突き進んでいく。無造作にくりくりと跳ねる黒髪を揺らしながら、時折思い出したように黒縁眼鏡を押し上げている彼の名前は、草間武彦。暖冬だからとレトロな形のスプリングジャケットを羽織って家を出たはいいけれど、今日に限って冷たい風に少しばかり落胆している。都内某所で「辛うじて生活できる程度の儲けしか出さない」興信所を経営している探偵である。
 そんな彼が、歩行のたび大胆に、スリムパンツの裾から足首を覗かせながらも目指しているのは、丘の中腹辺りに建つ建造物。煉瓦造りの明治然としたその洋館に、彼は用がある。
 酷く乾いた冷たい風が、独特の匂いを鼻腔に伝え消えていく。村全体を覆うその匂いは、小学校の時に始めて嗅いだ「図工室」の匂いに酷く似ている。絵の具や油や木工ボンドの科学的な匂いと木や土の自然の匂いが混じり合う、埃っぽく粉っぽいざらざらとした匂い。
 トンネルを抜けた先に広がるこのサイケデリックな色味の村の名は、通称、美術村。またはアトリエ村と呼ばれる。
 自分の前途を洋々と信じて疑わない若手のアーティスト達のアトリエが方々に建ち、時間やお金を持て余した金持ち達の屋敷がまた方々に建つ。若いアーティスト達が何となく集まった密集地にどこぞの暇人の金持ちが目を付け、別荘を建てたのが最初なのか、金持ち達の別荘地に意気揚々と若いアーティストが乗り込んだのが始まりなのか、それとも同時に増えていったのか、その由来や何だということを武彦はまるで知らない。
 ただ彼は淡々と歩いていく。目的地はすぐそこに見えていた。



  ■■

  ■■


 丸くくりぬかれた喫茶店の窓からは、水色に晴れ渡った空が見えていた。
 差し込んでくる光の粒子が、窓際に座る彼女の瞳に降りかかる。青の瞳を眩しげに細めながら、彼女は小さく呟いた。
「あったかいねぇ、今日」
 しっとりとしたハスキーボイスが、緩やかに沈黙する喫茶ヘチマの店内にポツンと浮かぶ。
 彼女は自らの手元に置かれたグラスの中に視線を落とし、黄色いストローでぐちゃぐちゃと中身をかき混ぜた。丸く削り取られた氷の間で、赤い炭酸水が小さく弾ける。しゅわしゅわと浮かぶ泡沫が、浮かんだと同時にまた消えた。
「ねえ。今日あったかいよねえ」
 彼女の向かいに座った青年は、作業からは目を上げず呟くような声で返事を返す。「軽いジョークのつもりで春が顔出してみたんじゃない」
「冗談にしては本気でしょ。若干本気出してきた感あるでしょ、この暖かさは」
「冗談のつもりで顔出してみたけど、本気出ちゃったんだな、たぶんな、これ」
 うんうん、と軽く何度か頷けば、青年の柔らかそうな黒髪を縛り上げている髪留めの、赤と青の丸いボンボリがふるふる揺れる。「何、今日どっか行くんだ、姉御」
「まあね」
 彼女、シュライン・エマは、そのふざけた髪留めをチラリと見やり軽く頷いた。「ちょっとね」
「何かの依頼?」
「普通に遊びに。芸術鑑賞というやつですよ、雪森雛太さん」
「そうなんだ、武彦さんとですか。シュライン・エマさん」
「あの人に芸術が分かってたまるか。興信所でお仕事中よ。興味ないんじゃない」
 シュラインが明後日の方を向き、艶やかな黒髪を指で梳くと、向かいに腰掛けた雪森雛太はふっと小さく微笑んだ。
「その言い方は実はやんわり誘ってみた系?」
「知り合いが面白い所に別荘持ってるから」聞かなかったことにして話を進める。「ちょっと顔出しにね。だけどこの電車を待つ隙間時間って微妙」
「姉御って何だかんだつって割合知り合い多いよね」
「何でかわかんないけど多いよね」
「だってあれでしょ。翻訳家やって、ゴーストライターやって、草間興信所で事務やって、知り合い増えなきゃ嘘でしょ」
「そうかな」シュラインは軽く小首を傾げる。「全部裏方じゃないですか」
「美人なのに勿体ない。どんどん表出る仕事すればいいのに」
「知ってた?」
 シュラインは爪先を弄りながら鷹揚とした声を出す。「美人が表に立つと結構しんどいんだよ」
「美人を否定しないわ、この人」
「美人をしんどいと思う辺り、パソコンに向かうか本読んでろってことでしょ」
「でもあれでしょ。どっちかっていうと姉御が取り仕切ってる感じでしょ。興信所は。だって所長の武彦さん、ぼーっとしてらっしゃるし」
「そうそう」シュラインは小さく体を乗り出す。
「あの人最近、前にも増してボーっとしてきたんだけど。どう思う?」
「えー」
 ポラロイド写真に目を落としたまま雛太はぽりぽりとその柔らかそうな頬を掻いた。「どうって……俺基本的に、あの人のキャラ変わろうがあんま支障ないからなあ」
「ですよねえ」
 椅子にどかり、と体を預け、シュラインは小さく溜め息を漏らす。古めかしいアンティークの木のテーブルを指さした。
「で? アンタは今これ、何? どういう状況。何やってんの」
「イベントにどうよつって集められた子達の中から、今回のイベントに相応しい子達を選び出している状態ですねー」
「仕事してらっしゃるんですか、こんなはしゃぎたくなるような日に」
「仕事してらっしゃるんですよ、こんなはしゃぎたくなるような日に」
「ふうん」
 テーブルの上に肘を突き、そこに並べられているポラロイド写真を一枚掴む。
 一枚につき、一品だけが映りこんでいる。それだけがこのポラロイド写真の定義であることはシュラインにも理解できる。何せ、そこに映りこんでいるものには、何の関連性も脈絡もないのだ。被写体は物、人、色と様々だ。彼はそれを、酷く熱心な顔つきで振り分けている。
 それがどんなに重要な作業であるか、そもそもやらなければならないことであるのかどうかすら、シュラインには分からない。けれど、この覚束無い童顔青年は、それでも真剣なのである。こんなふざけた髪留めで髪を結んでいたとしても、会うたびにどんどんと個性的に垢抜けていく彼は、一端の「イベントディレクター」とかいうクリエータなのだ。
「俺は仕事」若々しく赤い唇が、皮肉っぽくつりあがる。「貴方はお友達と楽しく芸術鑑賞されるんでしょうが」
「軽くやっかみありがとうございます」
「いえいえどうもありがとうございます」
「でもさあ」
 シュラインは不意に横を向き、膝に置いてあったハンカチを口元に当てた。それから、「くしゅん」
「何、風邪かよ」
「んーん。花粉症臭いね」
「えー。マジで」
「真面目ですよ」ずるずると鼻水を啜りながら、グラスのストローに口をつける。「とうとうやって来た臭い。今まで大丈夫だったんだけどな」
「芸術鑑賞してる場合じゃねえんじゃねえの」
「アンタこそ、こんな所でポラロイド写真振り分けなきゃなんないくらい忙しいなら、家帰んなよ」
「俺の場合は基本的にそうでもないんだけど、今日は基本外だよね」
「基本外?」
「ちょっとごたごたしててさ」
「アンタが?」
「いや、ジョウが」
「ジョウって……ああ、アンタの後輩の」
 シュラインは咄嗟にその青年の顔を思い浮かべる。どちらかと言えば泰然自若としたタイプの、好青年とはまた違った魅力のある青年だった。雛太と一緒に「イベントディレクター」としてはしゃいでいるらしい。仕事のサポートやら何やらで、雛太の自宅である「巨大日本家屋」に出入りしているのを何度か見かけたことがある。
「そうそう。その俺の優秀な部下」
「優秀な部下がごたごたすると、アンタは外でポラロイドを広げなきゃなんないんですか」
「いやまあ……今日さ、ちょっとうちにさ」
 雛太はそこでポラロイドをポンと投げて、椅子に仰け反った。小さく背伸びする。「アイツの兄貴が乗り込んで来ちゃってね」
「へえ?」
「アイツんとこ、前々からいろいろごたごたしてたみたいだけどさ。今日もそれでさ」雛太は少しだけ悲しげに瞳を細める。「結構ヘヴィーな眺めだったよ。全然家で仕事できる雰囲気じゃないもん」
「それは、それは」
「あれだよね。普通他人なら絶対踏み込まない部分とかさ。絶対言わないだろー、みたいなこととかさ。身内だってだけでパコっと言えちゃったりするんだろうね。絶対それってただの理想じゃん、とか押し付けじゃんって普通なら気づくこと、血が繋がってるってだけでこう、見失えたりするんだろうなって。感じ。干渉とか支配とか。度が過ぎると痛いよね。俺は一人っ子だし、そういうのもたまにはいいんじゃん、とか思うんだけどさ。羨ましいときもあるっていうか。でもやっぱ、身近で毎日ってなるとしんどいんだろうね」
「その辺の価値観は、合わないとしんどいだろうね、そりゃ」
「そうみたいね」
「で、アンタ。ほっといて出てきたわけ。ごたごたしてるのに」
「そ、ほっといて」何でもないことのように言い、雛太はコーヒーカップを口に運んだ。「先行くね、つって出て来た」
「ふうん」
「だってさ。何ていうかさ。すっごい頑張れって思うし、相談に乗ってやりたいとも思うけど、結局俺は向こうの家庭のことに口出せないし、いろいろあってそうなってんだろうから、一部分だけ抜き出して聞いて話聞いた気ぃみたいなのも違うじゃん。励ませばそれでいいみたいに出す、とりあえずの一言も俺あんま、好きじゃないし。そんな薄っぺらい社交辞令の言葉出してる自分も、何か、気持ち悪いし。仕事の話なら俺、相談乗ってやれるけど、家庭とか個人的なことにはちょっとね。俺、そんな立派な人間じゃないしさ。何言えんだよって思うじゃん」
「頭に変な髪飾りつけてるくせに、中々真面目なこと言うね、アンタは」
「でしょ。真面目なこと言うんだって俺」
「いい男になりつつあるよね、悔しい話」
「そうそう。いい男なわけ俺は。いい男はぐだぐだ知らない話に入ったりしないって。ごたごたしてるの見られたアイツの恥ずかしさってのも考えてやらないとさ。他人のうちにまで乗り込んでこられて、しかもそれ見られてるって、すっごい恥ずかしいでしょ。他人つって俺なんだけど。恥ずかしいじゃない。そんなとこ普通なら絶対見られたくないじゃん。かなり痛かったと思うよ、あいつ」
「重いよね。痛重いよね」
「だからさ。ほっといた。何も言わないで迎えてやる優しさってあると思う。アイツだって合流してきたくなったらするだろうしさ。いいんだよそれで。こっち戻って来たら、そういうごたごた忘れて楽しいことに没頭出来る様にさ。俺は関わらないでやるんだ、そういうネガティブに」
「…………」
「つって!」コロリ、と口調を変えた雛太は、パンと両手を叩き合わせた。その風圧で写真がヒラリ、と舞った。「そしたら喫茶ヘチマで姉御と遭遇した、と。それで合い席してみました、と」
「雛太」
「おう」
「アンタ。大人になったね」
「はい、大人になったね頂きましたー」
「はっくしょん」
「どうせ今日、外で打ち合わせとか待ち合わせとかあったし、別に良かったんよね」
「ふうん、待ち合わせ?」
 ハンカチで口元を押さえながら、もごもごとシュラインが言った。
「三春風太いるでしょ」
「ああ、アンタの従兄弟の」
「そうそう俺の従兄弟の。今度のイベントにちょっと参加させようかなって思っててさ。姉御さ。水ってさ、どう思う」
「いやあ私は、これまでの人生で水について考えたことはなかったものだから」
「水の音ってさ。いいじゃない。水の落ちる音とかさ。癒されるでしょ」
「まあ、そうかな」
「知ってた? そうやって自然の音に風情を感じたりするのは左脳の力なんだってさ。で、しかも!」
 雛太はここぞと体を乗り出す。「普通、音って右脳で聴くんだってさ。音をただ認識するっていうね。だけど、日本語圏で育ってきた人はちょっと違う。何故かってーと、それは日本語の持つ特徴が関係してんだけど。まあとにかく、自然の音を左脳で聴く日本人。だよ。風情を感じる和心。いいと思わない?」
「……んー」
「うわー凄いどうでも良さそうな返事されてるー」
「いまいち見えないよね」
「ああいいさ。たいした……薀蓄でも……なかったさ」雛太は切ない目で遠くを見やる。「ああ俺、何で一人でテンション上がっちゃったんだろー」
「まあさ。他人がどう言おうが面白そうなら、がんばんな」
「おー」
 雛太は芝居がかって両手を突き出し、ソファに仰け反る。「雛っちプロデュースの水と写真のコラボ空間、炸裂させちゃうよ」
「写真?」
「そ、写真。水といえば風太だし。あとは……うん」
 一人で納得したように頷いて小さくはにかむ。「あれなんだよね。ある駆け出しキャメラマンの個展やらねえかって話が先にあって、そこから持ち上がったイベントだしね」
「キャメラマンですか」
「そうキャメラマン」
「新進気鋭の?」
「そう、新進気鋭のキャメラマン」
「キャ〜メラマンかあ。どうでもいいけどアンタも何だかんだつって知り合い多いよね」
「俺の人脈舐めんなって話」
「はっくしょん」
 あーと唸り声を上げながら、ぐじゅぐじゅと鼻水を啜る。「それじゃあ私、そろそろ時間だから行くわ」
「あ、ここは俺が」さりげなく伝票に手を載せて、雛太が柔らかく笑う。「姉御、何でもいいけど気ぃつけてね」
「気ぃつけても何も、絵、見に行くだけだし」
 苦笑しながらシュラインは立ち上がる。「アンタこそ気ぃつけなよ」
「気ィつけても何も、待ち合わせ場所に行くだけだし」
「だといいけど。じゃ、ごちそうさま」
 意味深な台詞と共に掌をひらひらさせて、シュラインは喫茶ヘチマを後にする。



  ■■


 乱暴に繰り返されていく呼吸の音だけが、林の中にこだまする。
 彼はその赤い唇から、絶望的に荒い息を吐き出しながらも、必死の形相で林の中を走りぬけていく。
 幻想的な木漏れ日と、樹陰の濃密な緑が視界の中で錯綜している。吹き付けてくる風にざわめく木々の音。かさかさ、と体に纏わりついてくる細かい葉。湿った土を踏みしめるたび、鈍い音が耳を突く。
 焦燥を追い立てるかのようなそれらの音に聴覚の全ては侵食される。そのたび彼の正気はどんどん錯乱していく。
 逃げなければ。
 漠然とただ、その思いだけが強く、あった。
 逃げなければ。
 上がる息。落ちる体力。
 それでも彼は無我夢中で走り続ける。
 足取りは重く。どんどんと重く。
 覚束無い自らの足の感触は、背筋を伝って這い上がってくる。青年は何度も後ろを振り返り、そうして躓きかけてはバランスを持ち直す。
 血に濡れた白いシャツ。泥に塗れた白い靴。
 森は何処までも、嘲笑うかのように深く、広い。
 彼はまた後ろを振り返る。
 あの恐ろしく強大な黒い影のないことを、素早く散らす視線の中で確認する。右、左。ぶれる視界の中に男の影は見つからない。つかの間の安堵が込み上げる。
 幻想的に沈黙する森は厳かに、今も彼を見下ろしている。錯乱しきった心の中に、それは酷く滑稽に見え。どうして自分がそんなに必死になって走っているのか、彼は一瞬の間、見失った。
 乾いた笑いが、零れる。
 そして次に前を向いた瞬間。体は安堵の中に堕落したのか、これまで辛うじて進んでいた足が、絡まりもつれる。
 保たれていた均衡は崩れ、彼は勢い良くその場に倒れこむ。胸の辺りを強く打ちつけ、うっと喉に息が詰まった。重い息を吐き出しながら、泥の中を這うて行く。
 黄緑色に変色する木の根っこにしがみつき、体をそっと寝返らせた。
 視界の中に、様々な色が飛び込んでくる。光の白、木々の緑、空の青、オーロラのような黄色。混濁しては錯乱していく眩暈の中で、彼はそっとその瞳を閉じる。
 かさ、と小さな音が耳を突いた。
 青年ははっとしてその目を見開く。
 酷く、静謐な二つの瞳。
 怖いくらいに透き通った銀色の瞳が、ただ静寂に、じっと彼を見下ろしていた。
 彼は覚束無い体を仰け反らせ、ゆっくりゆっくり後退る。言葉にならない悲鳴を吐き出し、がくがく震える顎で生唾を飲み込む。
 今すぐにでもこの場を駆け出したいのに、この静謐な瞳から目を逸らせない。それは多分、この男の体から滲み出す圧倒的な力の圧力を体が絶望的に知るからだ。
「こ、殺さないで」
 素っ頓狂に裏返った高い声が出て、自らのそんな切実な声に彼自身が呆気にとられる。「頼む、殺さないで」
 男は、実験用のモルモットでも見るかのような抑揚のない瞳で彼を捉えて、首を小さく横に振った。
 血のように赤い硬そうな髪の毛が、風に吹かれてぱら、っと落ちる。
 不意に、その横顔がはっとするほど上品で、はっとするほど美しく。
「お前は死ぬ」
 男の声は静謐に重く厳かで、頭の中へと直接響いてくるかのようだった。
「お前は、死ぬ」
 脳の拒絶を力ずくで解しきり、心の中に侵入してくる。それは酷く、安らぎにも似て。
 ――どうして、彼は人を殺すのか。
「僕は、死ぬ?」
「お前は、死ぬ」
 そうか。
 青年は小さく首を振りながら、瞳を閉じた。
 僕は、死ぬのか。


  ××


 きゃんきゃんきゃん。
 けたたましい子犬の鳴き声が、狭い小屋の中に響いている。
 体いっぱいで鳴き叫ぶ、可愛らしい子犬の頭をそっと撫でて、桐山は隣に座る巨体の男に目を向けた。
 身動き一つせず、鍛え抜かれた体躯の背をピンと伸ばし、銀色の瞳を少し鬱陶しそうに細めながらモニター画面を見つめている。その無表情な横顔は、画面の中に映りこんでいた「酷薄な殺人鬼」の横顔と寸分違わない。
 上品で、悲しく、酷薄なのに、少し、優しい。
「やっぱ全然格好いいわ」
 桐山はモニター画面へと目を戻し、小さく呟いた。「全然いけますね。こういうのも」
「…………」
「何か。カメラ覗き込んでる時も、本気で殺しちゃうんじゃないかって気ぃして、シビレちゃいましたもんね」
「どうも」
 男は愛想のない返事を返し、オールバックにした前髪を煩そうに撫で付ける。
 しかし男は、決して怒っているわけではない。桐山はこれが彼なりの照れている状態なのだ、ということを知っている。
 彼の名前はCASLL・TO (キャスル・テイオウ)。ある劇団に所属する俳優である。二人が運命的な出会いを果たしたのは、一年前。桐山が、自らのツテを頼りに、知り合い劇団をはしごしていた頃のことだった。
 桐山はとあるフィルムコンペティションの通過を狙う、所謂駆け出しの新人監督である。今回の映画に出演してくれる役者を捜し歩いていた折、偶然にもお知り合いになってしまったのがこのテイオウという役者で、しかし、その頃はまさか、こうしてこの映画の主演を勤めて貰うことになろうとは、思わなかった。
 逞しい巨体に、鋭い双眸。(しかも右目には眼帯)。所属劇団のサイトにさえも「悪役向き俳優」と謳われる彼は、「悪いことを企ませたら右に出る者は居ない」と決め付けたくなるほどの「悪い顔」をしていた。
 もちろんそれは、顔の造形の話をしているのではなく、彼という人間そのものの佇まいが「悪く」見えてしまう、という話である。
 しかしどっちにしろ軽く声をかけることなど出来るはずもなく、これはもう、「東京湾」関係か、もしかしたらもっとヤバくてコアな世界の人に違いない、と、無情にも勝手なるカテゴライズをした結果、テイオウは桐山にとって、ただのお知り合い(しかもお近づきになりたくないお知り合い)に位置されたのだった。
 しかし、縁とは面白いもので、彼とはその後何度か、会話を交わす機会が訪れた。
 戦々恐々としながら、映画について、役者という仕事について、演技について、映像について、などなど。気がつけば深い話すらも平気で出来るようになった頃、桐山はやっとそこで、テイオウという人間の核のようなものを見つけた気がした。
 何度も何度も対面し、話し込むことでやっと見つけた彼自身。桐山が見た彼は、酷くシンプルで不器用で、無骨ながらも温度のある優しさを持った、頭の良い一人の男性だった。
 折り目正しい敬語を使う、耳障りの良い艶やかな声から感じるのは、知性や品性。
 何となくはっとした物を感じ、桐山は監督として、彼の出演作品をもう一度見直した。
 画面の中の彼は、酷く残忍で、時にコミカルで、時に下品だ。普段の彼とは、かけ離れた場所で演じられている、その演技力の確かさ。画面に映った瞬間のインパクト。それなのにとてもナチュラルで、後味の悪さを引きずらない。
 自分が捜し求めていた役者はこの男に違いない、と熱烈に惚れ込み、テイオウに出演を依頼したのが六ヶ月前。
 彼に表現して欲しいのは、残酷で薄情な殺人鬼。けれど一方で、得体の知れない暗い感情に苛まれ。それを罪悪感と気づかず、殺戮を繰り返していく、悲しい一面。
「俺、前々から思ってたんすよ。絶対こういうの、似合うんじゃないかって」
 モニター画面に視線を戻しながら、桐山は呟くように言った。「でもやっぱり、はまりましたね」
「似合いますかね」
「似合いますよ。貴方は、相手に向かって物凄い声で怒鳴ってても、優しさみたいなものがチラリと見えるから」
「それは困りました。悪役が優しそうでは話になりません」
「いや、これはあくまで俺の主観通して見た貴方なんですけど。何となく切なさっていうか、悲しさっていうか、そういう感情も見えるし。本当のこの人はどうなんだろう、って。役の向こう側を想像させるんですよ。で、またその役の向こう側に見える貴方も格好良さそうって所がミソなんですが」
 桐山の言葉に返事を返すかのようなタイミングで、子犬がわんわん、と鳴き声を上げた。
「あとその向こう側に見える、品性。今回の役は物凄いサイコな殺人鬼ですけど、はまり過ぎてもはまらな過ぎても、物語が活きないんですよね。ガツガツ人殺して、それで楽しそうって、ハマって貰ったら困るっていうか。ちょっと、見えない部分が欲しいんですよ。こう……って、これは撮影の時にも言いましたけど」
「はい、聞きました」
「その辺り、テイオウさんの演技。いや、もう佇まいそのものがぴったりきてますよ」
「……そうですか」
「しかもテイオウさんって美形だし。野生ってイメージじゃなくて、怖い人なのに何気にキレイな顔してんじゃん、って感じなんですよね。これって稀有な魅力ですよ。黙って立ってるだけで怖くて悲しいなんて最強じゃないですか。俺、カメラ覗いてて、うわーこの人ヤバイなあ、って何度も思いました。ヤバイな、凄いなぁって」
「それは……どうも」
 と小さく呟き、硬そうな髪を指で梳いた彼の、実は案外色白の耳元が微かに赤らんでいく。不器用さの滲むその衒いのない気まずげな様子に、可愛い人だなあ、と好感を抱いた。
 ピュア、というならそうかも知れない。何せ彼は、「子供番組の体操のお兄さんになること」を夢見たこともあるというのだ。
 最初は何の冗談ですか、と思ったものだが、きっとそれも紛う方なく彼の本気の本音なのだろう。酷く泰然自若とした彼の中の、不器用で幼い核の部分。それが悲しさや優しさや切なさとして、演技の隙間から顔を覗かせているのかも知れない。
 子犬を抱き上げているテイオウの姿を見ながら、桐山はそんなことをふと考える。
「わんちゃん、何か凄い興奮してますね」
 抱きかかえたはいいものの、彼の腕の中でわたわたと暴れまわっている子犬を見ながら、桐山は苦笑する。「映画見てる間は静かだったのに。びっくりしちゃったのかな」
「ああ、いえ」
「可愛いですよね。いつも連れてらっしゃるでしょ。そういえば名前、聞いてなかったな。何て言うんですか」
「メーテル、といいます」
「ふうん。メーテルちゃん」
「あ、いえ。雄です」
「ああ。メーテルくん」
 ニコニコと微笑みながら、桐山はメーテルの首をちょこちょことかいた。
「わんわんわん!」とメーテルが元気良く吼える。
 それをなだめすかしながらテイオウは言った。
「煩くしては、お邪魔ですよね」
 じったばったするメーテルを胸の中に押さえ込む。
「あ、いいえ、そんなことはありませんよ。機材とか壊さないでくれるなら、構いません。俺、あんまり静かだと逆に集中できない時あるんで」
「そうですか」
 はい、と、小さく微笑みながら桐山はくるりと椅子を回転させる。モニター画面に繋がれているパソコンで、編集作業を再開した。
 しかしそうは言われても、やはりテイオウとしては気にしてしまう。一部ではあるが映像も見せて貰えたことだし、そろそろお暇するべきではないか、とそんなことすら考える。
 きゃんきゃん、きゃあああん。
 その腕の中ででメーテルが、また勢いの良い鳴き声を上げた。
「煩くしないで下さい」
「わんわんわん!」
 しかしその鳴き声は、ただの鳴き声ではなく、このような言葉としてテイオウの脳では認識される。
「だけどもう俺、テンション上がっちゃって無理だよー!」
 傍から見れば一方通行。意思の疎通など不可能に思える一人と一匹は、実の所、頭の中という二人だけの異次元で会話を交わすことが出来る。
 メーテルの正体はケルベロスという守護獣だ。ただの子犬ちゃんのように見え、実はただの子犬ちゃんではない。守護者とはいえ、獣なのである。しかし獣には絶対見えない。小さな体にコロンとした瞳。か細い声で鳴き人の同情心を煽り、体を小さく震わせて見せる。まさにテイオウとは逆の意味で「見かけによらない犬」だった。
 しかも意外にハードな奴である。
「駄目だよー! コンチキショーッ!」
 メーテルは何故か、物凄くテンションが上がってしまっているようだった。
「何だよ、お前! やればできんじゃねえかよお!」
 腕の中で千切れんばかりに尻尾を振っては、はむはむと腕に噛み付いてくる。
「お前の演技にご満悦だよーーーーーッ!!」
 きゃんきゃんきゃーんと一際大きな遠吠えをしたメーテルは、テイオウの腕の中でじったばったする。というか、わったわったする。いやもうむしろ、軽く痙攣する。
「俺もう何かやばいよ。全然やばい。これもう、駄目かもしんない。もう死ぬかもしんない」
「それは結構ですが、少し、落ち着かれてはどうですか」
「おう、いやもう。ほんと、結構。結構だよ。良かったよ。見に来て良かったよ! 俺もう、お前にほれちゃったよ。どうしてくれんだよ。お前に恋しちゃったよ。え? 恋だよ、恋。え? どうしてくれんだよ。どうしてくれんだよ。どーしてくれんだよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
「……まあ……まあ」
 しかし彼にそうして褒められれば悪い気はしない。緩む口元を引き締めながら、テイオウは「彼がそう言うなら、ここにきて良かった」と現金に思う。
 編集に口を出す気は毛頭なかったし、取立てその過程にも興味はないが、桐山の別荘に顔を出したのはメーテルが「絶対見たい」と熱望したからである。
 この小屋が建っているのは、U区M町。通称、美術村と呼ばれる、国定公園にも指定されているらしい美しい自然の林の中だ。撮影にその林を使ったこともあり、二人は容易に桐山の別荘を探し出すことが出来た。
 ところで駆け出し新人なのに「別荘」が持てるのか、と、その話を聞いた時には思ったものだが、桐山は別段金持ちのお坊ちゃんであるとかそういうことではないらしく、「駆け出しの貧乏監督でも安く借りられる小屋を借りたのだ」と言っていた。
 美術村は、アトリエ村とも呼ばれるらしい。なるほどこうして、様々な新人クリエータが肩を寄せ合い暮らしているのは、中々どうして見ていて面白い。
「いやもう。俺もう何か、漠然と楽しい! すっごい楽しい」
「そうですか」
「もう俺はね。こういう風景の撮り方も好きなんだよ! 浅い色彩っていうかね。こう、ズシンとくるよね。心に響くよね」
「はい」
「いやもう、いいよこいつ。きてるよ。いっちゃうんじゃね? もう、いっちゃうんじゃねーか、コイツは!」
「私も素晴らしい監督だと思います」
 と。
「え?」と機材を弄くっていた桐山が、間の抜けた声と共に振り返る。
 思わず声が出てしまっていたらしい。テイオウは小さく苦笑する。「いえ、何でもありません」
「あ、はあ……というか。わんちゃん、大丈夫ですか。凄い、興奮してるみたいなんですけど」
「大丈夫です」
 深く頷いたテイオウの腕の中で、メーテルが「もう」と溜め息を漏らす。
「だーから。お前は喋っちゃ駄目なんだって! いくらテンション上がってるつってもさああ。もう、このこの」
「テンションが上がっているのは君です」
「そーんなこと言っちゃってぇ。お前が俺に褒められて、凄い嬉しくなってんの、俺わかっちゃってんだもんね!」
「…………」
「いやでもまあ、分かるよ。その気持ちは。俺にはわかる。お前、すごかったもん。凄い格好良かったもん」
「…………」
「いやあん、照れちゃってぇ」
「…………」
「でもさあ」
「……はい」
「この小屋、いいよねえ」と、徐にメーテルはそんなことを口にする。
「……そうですか」
 不審げにテイオウはメーテルの顔を見やった。
「俺、興味津々なんだよねえ。この小屋」
「……なるほど」
「実はちょっと、見たい……かなあ……なんて」思わせぶりに呟き、テイオウの顔をチラリ、と見やる。「思ってたりするんだけどォ」
「駄目ですね」
「だー。そこをなんとか!」
「駄目です。走り回って機材に何かがあってからでは大変です。大人しくする方が無難でしょう」
「無難無難無難無難てさあ。駄目だよ。そんな硬いこと言うなって、この色男殺人鬼があ」
「煽てても無駄です」
「だーけど俺、見たいんだよー。いろいろわくわくするもんが置いてあるんだよー。そそられるんだよー。この小屋走り回ってみたいんだよー。風を感じたいんだよぅ」
「甘えた声を出しても駄目です」
「絶対?」
「はい、絶対です」
「あーそうかよ」
「そうです」
「……分かったよ」
 珍しくしおらしい表情で頷いたメーテルは、テイオウの腕の中でしゅん、とした。それから徐にごそごそとする。
「っていうか、さっきから痛いんだよ、この馬鹿力」
「すみません」
「イテテ。ちょ、そんなきつく抱きしめるなって」
「あ、すみません」
「イテテ、あ、駄目。変なとこすっごい、イタタタ。この馬鹿力! 逃げないつってるんだから、もうちょっと優しくしろよ!」
「はあ……すみません」
 憮然としてテイオウは腕の力を緩める。確かに相手は守護獣といえど、現在の体格ではテイオウの力がはるかに強い。そんなにきつく抱きしめてしまっていたのだろうか、と思わず心配になった。
 と。
 メーテルはその隙に彼の手の中を抜け出して、ストンと床に降り立った。
「あ」
「なんてな!」
 クルンとした瞳が意地悪く細められた。「甘い甘い」
 騙された、と思った時にはもう遅い。
「イヒヒ。じゃあな」
 メーテルは小屋の中を走り出してしまっていた。



  ■■



 林の中の畦道を歩いていく一人の女と一人の男の姿がある。
 襟の大きなタイトなシャツに身を包み、ヒールの踵で悠然とした歩みを進める彼女は、華奢なフレームの近視用眼鏡と右耳の後ろで丁寧に束ね上げられた黒髪が、漠然と「大手企業勤務」を連想させる。隣を歩く男性もその様相は彼女に同じ。紺色の上品なデザインのスーツに身を包み、赤茶色のクラシカルなデザインの眼鏡をかけ、少し長めの襟足を丁寧に撫で付けている。
 そんな見るからに有能そうな二人組が、緑に囲まれた村の畦道を淡々と歩んでいく。林の緑の彼女の白いシャツははっとするほど美しく、長閑な午後の空気にまどろんでいた住人達の意識を引っかく。
 U区M町。通称、美術村と呼ばれるその村の、アトリエ地区に二人の姿はあった。
 付近には、サイケデリックな色味の、奇抜な屋根や小汚い小屋が幾つも並び、辺りには何とも言えず濃厚な匂いが充満している。村の中でも特に、自分の前途を洋々と信じて疑わないアーティスト達のアトリエが密集して建っている地区だった。
 庭先に出て創作に勤しんでいた数人のアーティスト達が、希望の滲む興味津々な視線を二人へ注ぐ。
 どちらかといえば別荘地区にこそ用がありそうな二人組は、そんな視線にも気を留めず、悠然とその歩みを進めていく。そして一軒のみすぼらしい小屋の前で、二人は同時に歩みを止めた。
 二人は小さく頷きを交し合う。
 開け放たれた庭先から、小屋の敷地内へと侵入していった。そこに人の姿は見当たらず、小屋の中はしんと静まり返っているかのようだった。まだ眠っているのかも知れない。彼女はそんなことを考えながら、ためしに玄関の戸をゆっくり引っぱってみた。戸の鍵は掛かっておらず、少し力を込めるだけで、扉は呆気なく手前に開いた。
「すみません」
 彼女は平静な声で室内に呼びかける。
 隣で彼は、室内の様子を見渡していた。
 雑然とした部屋の中は、泥棒が入ったのかと見紛うほどだ。転がる絵筆、塗りかけのまま放置されているカンバス。放り出された小汚いパレット。その上で固まるアクリル絵の具。ニコチン臭と人間の体臭が混じった何とも言えない匂いが、つんと鼻腔を突きぬけていく。
「すみません」
 彼女がもう一度呼びかけた。
「……はい」
 少しの間を開け、酷く面倒臭そうな男の声がそれに答えた。
 奥の生活スペースらしき場所から、一人の青年が顔を出す。
「あ、」
 食事の途中だったらしい青年は、美しい二人組の姿にはっと驚いたような表情を見せた。慌てて口元を拭っている。
「失礼ですが、菊池新さんですか」
 ずっと彼女は前に歩み出る。
「え、あ、はい。そうですが……ええっと」
「失礼。申し送れました、わたくし」
 そう言って彼女は、美しい指先で懐から一枚の名刺を取り出すと、そっと青年へと差し出した。
「こういう者ですが」


  ×


「日本芸術文化鑑査協会、健全流通監視部門てかい」
 ベッド脇に腰掛けた赤茶色眼鏡の男は、組んだ足をぶらぶらさせながら、名刺に書かれた肩書きを読み上げ小さく笑った。「アンタほんとこういう出鱈目考えるの上手いよねえ」
「取材なんて持ち出すと、後々いろいろ面倒じゃん」
 雑然と散らかる部屋の中央で、鏡を片手にコンタクトレンズを取っていた女は、素っ気無い口調で答えた。「だから何となくそれっぽい漢字をそれっぽく並べてみました」
「風槻ってたまに物凄いざっくりするよね」
 希は膝の上に肘を突き、とっとと着替えを進める法条風槻を眺めながら、言った。「確かにめちゃくちゃそれっぽいけど」
 ベッドと姿見が置かれているだけの、簡素な部屋である。床には、書類やら衣服やらバックやら靴やら化粧道具やらが混沌と脈絡なく散らかされ、その上に風槻はでんと腰を下ろし胡坐をかいていた。
 初めてその部屋の有様を目にした時には、整理整頓を決行したくなった希だったが、風槻に「片付けて何が何処にあったか分からなくなったらアンタ、軽く燃やすよ」と言われ、断念した。
 燃やされるのはいやだ。軽くはもっと嫌だ。
 だけどきっと今の状態の方が、「何が何処にあるか分からない状態」なんじゃないかと思う。
 風槻は、性別的に正真正銘の男である希より、時折酷く男前である。すっぱりすっきりあっさりしていて、面倒臭いことだって一切言わない。うじうじしている所は見たことがないし、大雑把過ぎるほど大雑把で、以前彼女の料理を食べた時には、そのダイナミックさに失笑してしまったくらいである。
 曰く「食えりゃあ問題ない」
 しかしまあ、付き合いやすい人間であることは確かだ。
「っていうか漢字の威力舐めんなって話。漢字って凄いんだって。けいさつってさ。平仮名で書かれても怖くないでしょ。漢字で警察って書かれたら、うわ凄いこわそーとか思うでしょ」
「えー。そうなのォ」
 瞳を覆っていた黒のカラーコンタクトレンズが剥がされると、そこに姿を現すのは、深く澄んだグリーンの瞳。光の角度で黄緑にも青にも見えるオーロラのような彼女の瞳を、希は常々羨ましく思っていた。
「漢字見ると面倒臭くなるんだって」
「漠然と凄そうだし言うこと聞いとこーかなぁ、みたいな?」
「そうそう」
「えー。そうなのォ」
「のぞむくんさ。実際絵の写真撮れてんだからガタガタ言わない」
 今度はヘアーピースを髪から外し、わしゃわしゃと髪をかみ混ぜている。金色のエクステンションが散らされた長い黒髪が、パラリと落ちた。「あー、疲れた」
「いやアタシの名前は、のぞむでなくてのぞみだから、希。分かる?」
「最近物覚えが悪くてねえ。どうでもいいけど眼鏡似合ってるよ、のぞむくん」
「のぞむはともかくそれはそうだからもっと言っていいよ」
「はいはい」
 皮肉な笑みを浮かべながら風槻は、胡坐をかいた体制からベッドの上に肘を乗せた。希の隣で起動を待っていたノートパソコンに、カメラを繋ぐ。
「でもさあ。今回の仕事ってちょっと身辺調査入ってるよね」
「ねえ」
 キーボードを叩きながら風槻は、覇気のない返事を返した。「報酬は弾んで頂かないと」
「頂かないとね」
 二人は今、ある画家の描いた絵が「正真正銘のオリジナルであるかどうか」ということについて調査していた。その絵が正真正銘のオリジナルではないと困る誰かが。あるいはそれが正真正銘のオリジナルであることによって、あってもなくても良いような面子を保てる誰かが、何処かに存在しているということだろう。
 しかし風槻は余りそういったごたごたに興味はない。依頼の主が誰であろうが、どんな内容の仕事であろうが、どんな意図の上、どんな策略が渦巻いていようが、自分はただ正確に素早く仕事を処理していくだけだ、と思っている。
 画家の身辺調査に当たっていた希は、その画家がこのアトリエ村に頻繁に出入りしていることを掴み、それらの情報を持って風槻と合流した。
 アトリエ地区からも別荘地区からも程よく距離を保った場所に建つ林の中の山小屋に二人は拠点を置き、素人の絵の画像も撮り溜めて、画家の絵との照合解析が行われることとなった。
 希は、風槻の理整頓能力はともかく、その情報解析の腕は買っている。
 膨大な情報を所有している上に、プログラミングやハッキングといった技術に関する知識も彼女は超一流だ。どうやら義父の影響らしいが、何はともあれ、今回の調査の依頼が回りまわって風槻の元に辿り着いたのは妥当だと思う。
 彼女が噛まなければこの調査はもっと大々的に時間をかけて進めなければならなかったに違いない。
「だけど。この世の中に正真正銘のオリジナルなんて存在するのかな」
 希は、ちりちりと忙しない音を立てながら稼動するパソコンの画面を横からそっと覗き込む。
「だってストールは一反木綿のパクリだし」
 その隣で照合解析プログラムを起動させながら風槻は素っ気無く言った。
「だけど一反木綿は妖怪だしなあ」
「しかしアンタは相変わらず凄いよね」
「それはそうだからもっと言っていいよ」
「はいはい、狼人形は全く凄いよ」
「誰が狼人形ですか」
「Dさん、貴方ですよ。通り名の意味は、狼と人形」
「だから狼ちゃうくて娘だから」
「狼も娘も良いって字は共通してんだから同じなんだって。良い獣か良い女かつったら、アンタは、良い獣側だと思うしぃ」
「あ、ざっくりしたね、今」
「とにかく、狼人形じゃないと出来ない仕事だよねえ、これは」
 襟足の毛を梳きながら、希はふああと欠伸をした。「パソコン覗き込んでる時の風槻は見てて惚れ惚れする」
「欠伸しながら言われても全然褒められてる気ぃしないんですけど」
「褒めてないからね」
「だと思った」
 風槻はいい加減な返事を返しながら、今まで身につけていた衣服を無造作に脱ぎ捨てた。乱雑に散らばっている衣服の中から、黒のタイトなパンツを拾い上げ、足を通す。
「ちょっと顔洗ってくるわ」
 後の解析作業は、愛用パソコンの「ジルちゃん」にお任せし、ブラジャー姿で洗面台へ向かった。
 希は性別の上では男だが、オカマなので男の数には入らない。何をどう観られようが気にしない。意識もしない。
 そもそも、気を使わなければならない相手と長時間一緒に顔を突き合わせていると、じんまんしんすら出てきそうになる風槻である。相手に自分がどう見られているか。そんな曖昧模糊とした問題をいちいち気にするのは好ましい状態ではない。
 最近頓に一緒に仕事をすることが多い二人だが、希でなければ持たないだろうな、と思う瞬間は何度もある。「仕事は一人でするもの」が風槻のポリシーであり、面倒臭いのは嫌いなのである。
 しかし希は面倒臭くない。彼自身のその破天荒な生き様やバックボーンがそうさせるのか、その前では何をしても許される気がする。これは、面倒臭くない。
 顔を洗い部屋に戻ってきた風槻は、床に落ちていたゆったりとしたサイズのグレーのVネックシャツを拾い上げる。部屋の隅に置かれた姿見が、風槻の背中に走る傷跡を映し出す。
「いつ見ても本当、キレイな肌よねえ。羨ましい」
 こちらはこちらで着替えに勤しんでいた希は、そこに立つ風槻の白い肌を見て、恨めし気に呟いた。「アタシも昔はもっとこう、色白でこう、凄い、美少年、だったんだけどなあ」
「金かけないと駄目なんだって」
「何もしてないんですよ、とか絶対嘘だもんね」
「二十五過ぎると不摂生が祟ってきますから。ある日鏡見て、びっくりしますから」
「だけどこれ、勿体ないよねえ」
 呟いた希の華奢な指先が、そっと風槻の背中を傷をなぞった。「背中の出る服は楽しめないよね。勿体ない」
 背後に立つ希吐息が、そっと風槻の首筋を撫でた。
 鏡に映る二人の姿。鏡はありのままの二人の姿を、希はまだ紛う方なく男性の体を持ち、風槻は紛う方なく女性の体を持っていることを、遠慮会釈なく映し出す。
「でさ」
 風槻は呟くようにして言った。「アンタもそろそろ着替えたら」
「そうだね」
 希は小さく頷いた。


  ■■



 公道に面した南向きの窓からは、緩やかな午後の陽射しが差し込んでいた。
 時折、車やバイクの走り抜けて行く音が、さっと室内を横切っていく。時間は酷く緩やかに流れ、思い思いの行動に耽る二人の間を長閑にたるませる。
 一人は、部屋の中央にある、赤茶色の革張りソファに腰掛けた青年。
 長い髪を無造作に括り上げた彼は、書類やCDケースで散らかった白いテーブルの上にカメラやレンズを幾つも並べ、黙々とその手入れに勤しんでいる。不意にはらりと落ちてきた黒い前髪を、骨ばった指先が煩そうに後ろへ撫で付けた。
 一方、金髪の柔らかそうな髪がふわふわと散る、そばかす顔の少年は、物珍しげな表情で室内の様子を見渡している。
 部屋の四方を機能的に埋め尽くす、銀色のラックや個性的な形の本棚。そこに詰め込まれたカメラや機材。書籍やレコード。目に映るもの全てが新鮮に見え、彼は一人探索を遠慮会釈なく楽しんでいる。けれども不意に、本棚の間に押し込まれていた写真の束に目を留めて、今度はそれをじっくり眺める。
 沈黙に沈み込む室内。
 微かな物音でさえふんわりと響く室内を、また車のエンジン音が横切っていく。
「ところで」
 ソファに腰掛けた青年は、カメラに視線を落としたまま徐にポツリと呟いた。「風太さ」
 青年の隣でソファの背に尻を預けながら写真を眺めていた少年は、こちらも写真に目を落としたまま、柔らかい声で答えを返す。「んー。なあにい」
「約束の時間、何時だったか覚えてる?」
 ふっと、少年が柔らかく微笑む気配がした。「なあに、ももちゃん、忘れちゃったのォ」
「どうでもいいけどさ」
 青年は眩しげにその目を細めながら、隣に立つ少年、三春風太をじとりと見上げる。「ももちゃんは、やめない?」
「えー。何でよー。よーすけといえばよーちえんでぇ、よーちえんと言えばももぐみのォ、ももちゃ」
「あー何か薀蓄垂れてらしゃるとこ悪いんだけどさ」
 久坂洋輔は胡坐の上に肘を突き、前髪をかきあげながら言った。「雛太がこない話なんだけど」
「え」
 指を折りながら、久坂洋輔を何故「ももちゃん」と呼ぶかについてを熱く語っていた風太は、我に返ったような瞬きをし、洋輔を見下ろした。
「えーっと。ももちゃんの話は?」
「誰だよももちゃんて」
「もう、よーちゃん話の展開早くてついていけなあい」
「あの人さ。がっつり約束の時間オーバーしてらっしゃるんだけど、風太くん知ってた?」
「え」
 風太はくるんとした瞳をぱちぱちさせる。「そうなの」
「どんなけ天然なんだよ」
 洋輔はがくり、と脱力した。「っていうかそれは天然なのかよ」
「具体的にどれくらい遅れてらっしゃるの」
「軽く、一時間……半?」
「えーーーー!」
 大きく体を仰け反らせながら、風太は大絶叫する。「ほんとーう?」
「いやもう俺は、何で今の今までお前が気づかなかったのかってそこが既に分かってないもん」
「この部屋のヒミツの匂いにわくわくしてて全然気づかなかったー!」
「それはないよ」
「ねえボク達……すっぽかされちゃったのかなぁ」
 ぐすん、と鼻を啜りそうな勢いで、風太が悲しげに呟く。垂れ目の瞳が切なげに揺らいだ。「折角楽しみにしてたのになあ」
「嘘ォ。すっぽかすとかありなんだ」
 腕に巻いた時計を見ながら、洋輔が鷹揚に呟く。
 二人はここ、久坂洋輔の自宅兼事務所であるマンションの一室で、雪森雛太という人物の到着を待っていた。三人はこれからイベントの打ち合わせをすることになっていたのである。
 今回、洋輔の個展が開かれるにあたり、最近イベントディレクターとして活躍しているらしい雛太が、それを使って面白いイベントを作れないかと話を持ちかけてきたのが事の始まりだ。
 実の所洋輔は、半年前まで日本には居らず、アメリカのニューヨークに拠点を構え、学びの日々を送っていた。帰って来たのが半年前。その折に雛太とは再会したものの、互いの忙しさも相まって何だかんだと約束を腐らせては接点を持てずに居た。
 確固たる自分の居場所を見つける以前の、不細工な己を見せ合っていた頃からの友人である雛太とは、お互い何かしら「立派な顔して対等に互いのフィールドを見せ合ってみたい」というような思いが心の何処かにあり、きっとまた彼も同じ気持ちだったに違いない。
 そんなフラストレーションがたまっている時に持ち上がったのがこの話だ。洋輔はもちろんすぐに飛びついた。何やらとんとん拍子に話は進み、今日はその話を更に具体化するため打ち合わせをする、はずだった。
「お雛様、何か最近凄い忙しいもんなあ」
 携帯を弄くりながら、何事かを考え込んでいるような表情の洋輔の隣で、風太ははふ、と小さな溜め息を吐いた。
 彼は、埼玉県内の普通高校に通う高校生である。ベルマーク委員会とアメフト部に所属し、学業成績は芳しくないが、委員会では次期委員長候補、部活ではレギュラーとして活躍するという見た目は普通の十七歳だ。何やら立派な職業的肩書きを持っているとかそういうことではなかったが、彼だけが持っている「能力」を買われ今回のイベントに参加する運びとなった。
 その能力とは、「水」を操ることが出来る力。彼は軽く、超能力者なのである。水質を様々に変化させることなんかは結構軽く出来たりするので、主にお風呂を温泉にして小さく一人楽しんでいたのだが、従兄弟の雛お兄様にお目を付けられ、今回のイベントの中で使用することとなった。
 要するに、お正月特番で見かける水芸をやればいいんだな、といい加減に考えている彼は、自分の能力も特に凄いことだとか超能力なのだ! だとか、そういうことは考えていない。その能力の目覚めも「自宅での入浴時に「このお湯が温泉のお湯になればいいのになぁ」と思っていたら出来た」的な、棚から牡丹餅的発想なので、深く追求して考えることはない。
「まあね。大人は基本的に忙しいんだよ、風太くん」
 携帯電話を耳にあてながら、洋輔は小さく微笑み風太を見上げる。
 風太は拗ねるように唇を突き出した。
「だって何か最近、いつも楽しそうなことしてんなあって、ボクだってかなり興味津々だったんだもの。一緒にやりたいなあ、とか思ってたんだけど、雛っちが駄目だって言うから、我慢してたんさあ。そしたら今回は一緒にやっていいよ、って言われて凄く凄くすごーーーーく嬉しかったのにィ」
「まあね。あーゆー場所はそれなりに怪しい誘惑が多いから」
「怪しい誘惑って?」
「うん、それを言っちゃうと元も子もないからね」
「えー」
「だけど。アイツはお前を心配しているんだと思うよ。お前には真っ直ぐ育って欲しいんだよ、きっと」
「えー。雛某はそんなこと絶対言わないよー」
「口に出して言うキャラじゃねえだろォ。って俺が言っていいんかどうかわかんないけど、アイツはきっとそういう男だよ」
「えー。雛んみんってそうなのォ」
「何でもいいけど雛太の呼び方統一してくんねえかな」
「雛男、やっぱり約束すっぽかしちゃったのかなあ。忙しいし人気者だし、もう忘れちゃったのかも知れないィ」
「嘘ォ。俺らってアイツにとってそんなもんなのォ」
 いい加減な調子で相槌を打ち、「あー、駄目だ携帯でないわ」と小さく呟く。
「ねえ。知ってた? よーちゃん。時間て、流れてるんだよ。昔は昔、今は今」
 不意に大人びた顔をしてそんな事を言った風太の顔を、眩しげに見上げた洋輔は、ふっとシニカルに唇をつりあげた。「だと、思ったよ」
 それから徐に立ち上がる。テーブルに転がっていたサングラスを拾い上げ、ラックに掛かっていた帽子を取った。
「さて、行くか」
「え。行くって何処に」
「ま、歩きながら話すわ」



 ブーンと下降していくエレベーターの中で洋輔は徐にこう切り出した。
「アイツ何か多分、わけわかんないことに巻き込まれてんだと思う」と。
「わけわかんないことって漠然と」目をぱちくりさせながら風太は洋輔を見やる。「わけわかんないね」
「そうだね」
「何でそんなわけわかんないこと思ったの」
「普通にすっぽかすってことはないとして」
「えー何でぇ」
「親友のカン」
「どうだかなあ。あてにならないなあ」
「お前さ。たまに軽く意地悪い目つきするよね」
「そんなことないよ」
「まあいいや。でーえーっと。そうそう、何かの事情でめちゃくちゃ遅れるんだとするなら、連絡してくるはずでしょ」
「そうかな」
「ちょっとの遅刻くらいなら面倒臭がって電話してこないとは思うけどね。一時間半だしね。でも電話はなかった。それはつまり」
「つまり」
「電話できない状況の中に居るのではないか、と」
「え? つまり?」
「つまりって?」
「うわああ!」
 突然風太が大声をあげ、洋輔は軽くぎょっとする。「あんだよ、お前!」
「うわぁたいへんだぁ雛っちがゆーかいされちゃったぁ!」
 風太は狭い箱の中でわたわたと不意に足踏みを始める。エレベータがガコガコと揺れた。
「ちょ、やめ。こわ、怖いから!」
「どうしようどうしようどうしようどうそーうどうしようどうしよう」
「いや今途中、軽く噛んだし」
「どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。雛んこうがうーかいされちったあ」
「いやまだ、うーかい、されいたと決まったわけでは」
「誘拐だよォ。それが一番面白いんだよォ」
「え、何今。面白いっつった?」
「どうしよーう。心配だよォ。雛ボルター!」
「ま、普通に寝てるって落ちでもありはありだけど」
「それはなしだよォ」
 不意にパタリ、と白けるように呟いた風太は、じとりと横目で洋輔を睨む。
「あ、今。ほらまた! 凄い意地悪そうな目ぇした!」
「してないよ」
 ぷん、とそっぽを向いた風太はポケットから携帯電話を取り出した。コールして耳に当てる。
「お、何。何処電話してんの」
「し、ちょっと黙って……あ、もしもし? お母様」
「お母様てかい」
「ボク風太。うん。うん。今よーちゃんと一緒に居てねぇ。そうなの。うん。だけどね。雛っちがね。うん。うん。分かってるよ。ちゃんとしてるよ。うん。いや、違うんだよ。うん。そう。それでね。実はね。ボクこれからね。雛っちを探しに出る旅に出るからね。戻らなくても探さないで欲しいの。心配しないで……え? うん……うん。分かった。うん。じゃあねー」
 ピッ。
「えー。戻らなくてもつってんのに思い切り普通に切ってはるやん」
「うん。大丈夫だよ」
「ていうか何で電話したのかそこからしてもう既に俺はわかってないんだけど」
「だって。どっか行く時はちゃんとお母さんに電話しなさいって、雛っちの言いつけなんだもん」
「もう俺何だか泣けてくる。多分絶対電話の向こうのお母さん理解してない辺りが更に泣けてくる」
「気をつけて行って来てねって言ってたよ」
「もうお前の家はそんなんばっかりか」
「で。よーちゃん。何処行くつもりなんさ」
「ま」
 エレベーターがガコン、と停止する。開いた扉を潜り抜けながら、洋輔は呟いた。
「とりあえずアイツんち、行ってみるかえ」



  ■■



 そこにあったのは一枚の絵だった。
 テイオウは床に落ちたクリーム色の布を見やり、それからもう一度その絵を見た。
「これは、君が剥がしたんですか」
「まあ何つーか、ちょっとした出来心でその……」
 自分の足元にこそこそと纏わり着いてくるメーテルは、もごもごと言い訳がましい口調で呟いた。「いやさあ。俺もこれ見つけてさ。ちょっとへヴぃーっつーか」
 何の心の準備もなく飛び込んできた絵が、よほど怖かったらしい。クンクンとか細い体をテイオウの足に擦り付けてくる。
「軽く布を剥がしてみたら、こんなん出てくるだろー。びびっちゃってさあ」
「人様の家の物に勝手に触れるからですよ」
 たしなめるように言うと、メーテルはしゅんと項垂れ黒い瞳でテイオウを見上げた。
「まさかこんなん出てくるとは思わないじゃんさあ、だってさあ」
 桐山の家を勝手に走り出してから数分後、テイオウはメーテルの尋常ならざる呼び声に呼び寄せられ、アトリエ小屋二階の回廊に顔を出した。
 そこでこの絵を見つけたのである。
 木製の支えの上に立てかけられたその絵は、まだ未完成だった。何かの風景画を描こうとしたのか、絵コンテで何十にも引かれた線の上、一部分にだけ絵の具が塗られている。しかし問題は、その絵の上に引かれる赤い乱雑な打ち消し線だ。
 絵の中の全てを拒絶するように、赤黒い線は方々に散る。
 これが赤い絵の具なら何の問題もないのだが。
 テイオウは鼻をそっと近づけた。ツン、と鉄の錆びたような匂いが鼻腔を抜けていく。
「血ィ、でしょ?」
「そのようですね」
「事件の匂いがぷんぷんするよね」
「そうでしょうか」
「やばいよ、これは。絶対やばい。何かあるんだって」
 テイオウは、小さく小首を傾げて小さく声に出して呟く。「しかし、キレイな絵なのに勿体ない」
「そうでしょう」
 突然声が降って来て、テイオウははっと後ろを振り返った。苦笑を浮かべた桐山が、階段の途中からトントンと勢い良く駆け上がってくる。「びっくりさせちゃいましたかね」
 床に落ちていた布を拾い上げ、自然な仕草で絵を隠す。
「これは、貴方が?」
「いいえ? 俺の友人が描いた絵ですよ」
「ご友人が……」
「死んでませんよ」
「え?」
「いや、そんな顔されてたから」
「…………」
「この村に住んでる奴なんです。一応、今も絵描きですけどね」
「そうですか」
「ここって。いろいろな夢見てる奴が集まってる場所でしょ。それでまあ、いがみ合ってる奴らも居るけど、志一緒にするもん同士、仲良くしてたりもしてたんすよ。山の中だし、順番に買出し行ったりとかして。それでアイツとは仲良くなって。ジャンルは違うけど、性格的っていうのかな。凄い惹かれるものがあったんですよね」
「…………ええ」
「その絵を描いたのはそいつです。絵の上に自分の血ィで×印なんて、はまりすぎてて笑っちゃいますよね」
 優しく細められた目尻に刻まれる皺には、懊悩や心配が滲んでいるような気がして、テイオウは思わず布をかぶされた絵に視線を移した。
「だけどそんな無意味にはまったことしたくなるほど、追い詰められてたってことなんでしょうかね」
「…………」
「アイツ、凄い孤独に戦うんですよ。いや、画家って皆そうなのかな。俺にはわかんないけど。でもそうですよね。結局最後の所で頼りになるのは自分の両手と頭ン中だけなんだから。かなりしんどいんでしょうけど、仕方ないから戦うんでしょうね。ずっと。それで、アイツの場合は爆発するんです。真っ青な顔してたかと思ったら、突然凄い勢いで暴れ出すんですよ。結構壮絶な眺めですよ。あの平均より華奢な体の何処に、一体それだけのパワーが秘められてんだって思うくらい。家ン中にあるもんに手当たり次第八つ当たりして、物投げて、奇声発して。この絵も、救おうとしたんですけど。ガラスで切った手で、思いっきりめちゃくちゃにされちゃいました」
「……そう、だったんですか」
「でもテイオウさんて、こういうのにも興味あったんですね。意外だな」
「こういうの?」
「いや、絵とか」
「まあ。ええ。嫌いではありません」
「じゃあ、見て来たらいいですよ。こいつの絵、今、村の中回ってるんです」
「回ってる?」
「月間最優秀新人賞に選ばれて。別荘地区とかで見れるんじゃないかな。結構いろんな所で見れると思うんですけど。あ、そうだ。矢切邸にアイツの傑作がありますよ。エデンっていう」
「エデン……」
「矢切さんなら俺知ってるし、是非見せて貰ったらいいですよ」
「貴方の友人は、凄い方なんですね」
「ええ、凄いですよ」
 小さく呟いた桐山は、また少し悲しそうな表情をした。「凄いんです。でも……本人煮詰まってからその絵に注目が集まるなんて、ちょっと皮肉ですよね」



  ■■



 そのポスターの前で、風槻は徐にその歩みを止める。
 帽子の影から取立て覇気のない瞳を上げて、エデンと名づけられたその絵のポスターを凝視した。
 そのポスターは今、この村の中を回っているその絵を描いた人物が、そこに住んでいるということを表す、表札のようなものだった。
「ねえ、この絵の感じ、いいね」
 隣で希が小さく呟く。「こうタッチの絵を描く子なら、先方が出してるイメージと合うんじゃない」
 こくり、と風槻は無言で頷く。
 先程、林の小屋で着替えを済ませた二人の姿は、再び美術村のアトリエ地区の一角にあった。
 今回、二人がこの村に拠点を構えた理由は、オリジナル調査の以外にもう一つある。それが今、やっている新人発掘作業なのである。
 銀行のイメージキャラクターのデザインを、若手の無名アーティストにお願いしたいという、どこかのドラマのような話は実際にあり、二人はその若手新人アーティストの資料を集め易くするため、この場所に拠点を置いた。
 二人は今、その資料集めをしている最中だ。
 これについてはどちらかと言えば風槻の範疇外の仕事内容なのだが、オリジナル調査があるならついでのおまけと引き受けた仕事である。元々、美術品には余り興味がない。情熱だってない。そんな自分が何やら直向に描かれたらしい絵の選定などをしていいのか、とも微かに思うが、そこはそれ、仕事なので仕方ない。
「とりあえず唾とか付けといたほうがいいんじゃない」
 希がひそひそと風槻に囁く。
 彼女が頷こうとしたまさにその瞬間だった。
「こんにちは」
 と、背後から男の声が降ってくる。「この絵に、ご興味がおありなんですかね」
 二人は同時に振り返る。
 そこに、一人の男が立っていた。この薬品臭いアトリエ地区で、プンと上品な香水の匂いを撒き散らし、高そうなスーツを着こなしている。
 気障な男だ、というのが風槻の印象である。
「失礼、僕は。こういう者なんですが」
 差し出された名刺をジロリと睨み下ろし受け取る気配すらない風槻の隣で、希がさっとそれを受け取った。
「あら、画商さんなんですね」
 心なしかその声が弾んでいる気がする。
「はい。あのもし、この絵をお買いになりたいのなら、いつでもご連絡下さい」
 爽やかな一礼を残し、男はずかずか屋敷の中に入り込んでいく。
「希、行こうか」
 その背を見送りながら、風槻が呟いた。
「え、何で?」
「だってもう既に唾付けられてんじゃん。面倒臭いよ」
「うーん」
 視線の先で男が玄関入り口の戸をノックしている。
 中から一人の青年が顔を出した。
 華奢な体に青白い顔。今しもパタリと倒れてしまいそうな青年である。
「うわー、あれもう絵ぇ描けないんじゃないのォ」
 よろけながら表に出てくる姿を見ていると、言葉は思わず口を吐いて出た。「ありゃ駄目だわ。ね、思わない希?」
 しかし男は溌剌とした声で青年にこう呼びかけている。「やあ。調子はどうだい」
「調子も何もないよね、あれは」
「もう描けません。お願いです。頭の中が真っ白なんです。もう勘弁してください。お願いします」
 青年はぼそぼそと弱々しい声で囁いている。男は小さく微笑みながら、その肩にポンと手を置いた。
「何を言うんだ。まだまだこれからじゃないか。君の絵に注目が集まってるんだよ、薫くん」
 その手に小さく赤い引っかき傷のようなものを目ざとく見つけた風槻の耳元に、希がこそこそ、と囁いた。
「ねえ、風槻。先行っててよ。アタシ、後で合流するし」
「え、何で」
「え。いや、ちょっと後つけようかなあ、とか思って」
「え、誰の」
「あの画商」
「え、何で」
「うん、ちょっとタイプ?」
「えー!」
「しー」
「いやあんた、男なら何でもいいの」
「そぉんなことないわよぉ。アタシのタイプは上品で、頭の良さそうな、お、と、こ?」
「嘘だよー。何でもいいんだよー」
「小ばかにするように笑わないで下さい」
「小ばかじゃなくて、馬鹿にしてんですよ」
「ひどーい」
 希のじっとりとした恨みの声と。
「眠ることと死ぬこと以外ではもう、この思考を止める術が思いつかないんです」
 青年の弱々しい声が重なった。



  ■■



 どうしてこれがエデンなのだろう。
 シュライン・エマは静謐に静まり返る廊下に佇み、そこに掲げられた一枚の絵と対面している。
 どうしてこれが、エデンなのだろう。
 青い額縁に収められた、砂漠の絵。エデン。
 題名こそ直訳すれば楽園だったが、そこに広がるのは一面の黄色い砂漠だった。駱駝もいなければ人も居ない。オアシスが描かれてあるわけでも、華やかな植物が描かれてあるわけでもない。
 冷たい静けさだけをただただ感じる風景画である。
 この絵を描いた人物は、これを楽園と思ったのだろうか。それとも他に、そこに込められた教えがあるのか。
 一面の砂漠。そして、藍色の空。
 エデンの意味を考えながらその絵の隅々にまで目を走らせていた彼女は不意に、その空が実は様々な青を重ねられたグラデーションであることに気づく。
 良く良く見ればその砂漠の黄色も、様々な色の混濁の果てに出来ており、さっと目を走らせた時に感じるのとはまた違う、美しさのようなものを彼女は感じ取る。
 深い慈愛のような、神聖な美しさ。
「キレイな絵……」
 ハンカチ片手にひっそりと呟いた彼女は、思わずくしゅん、とくしゃみをする。
 ここへ来て、益々花粉症が悪化しているような気がするシュラインである。そもそも山の中と言えば木であるし、木といえば花粉症の大敵である。花粉症熟練者なら、絶対的に近づかなかった場所だろう。けれども残念ながら彼女は花粉症初心者であり、花粉症を舐めて掛かっていたところがある。
 さっさとこの場を後にして家に帰るべきかということを、頭の片隅でチラリとは考えつつも、シュラインは何故かその絵から目が離せなかった。
 精密に描かれる砂漠。オーロラのように翳り輝く藍色の空。
 そして不意に、彼女は草間武彦を思い出す。
 ああそうか。
 この絵は少し、あの人に似てるんだわ。
 一見すれば地味で退屈な構図や外見の中に隠された、コアでヘヴィーな魅力や楽しさ。
 見てくれの良いものならこの世の中に溢れ。派手で大々的な技で人を楽しませる技を持った物は、この世の中に溢れ。
 チープに手っ取り早い楽しさを求める時がある。けれども結局、ゆっくりと時間をかけ深くのめり込むようにして手にする喜びや楽しみを人は何処かで求めている。
 この絵は、そういうことを思い出させてくれる絵なのかも知れない。
 そうしている間にも彼女の鼻腔には重く鼻水がたまり、目の淵がジンジンと痒い。
 ――そういえば花粉症って。
 体に入ってくる異物を追い出そうとする抗体のせいで起こるんだっけ。
 様々な場所に触発された思考が、頭の中で錯綜する。
 砂漠の絵とエデン。
 深い、魅力。
 ――ありがとうやさようならで済ませる、狡さと心地良さ。
 ――花粉という異物。それから体を守ろうとする抗体。
 異物を出来る限り体外に放出しようとした結果がくしゃみや鼻水鼻づまり。
 体を守るため体がすること。それはいつもいつも、人に害を及ぼさないとは限らない。
 グワン、と不意に視界が傾いだ。
「おっと」
 と、軽い声を発して、彼女はさっと体を持ち直す。
「あぶないあぶない」
 小さく頭を振りながら、酷く霞む目を凝らし。
 え?
 そして小さく目を見張る。
 そこに見えた絵の中に、毒々しい色のメリーゴーランドが回っていた。
 砂漠の中のメリーゴーランド。砂漠の中の、メリーゴーランド?
 けばけばしく脳を刺激する音。奇妙にも明るい電子音に合わせ、メリーゴーランドはくるくる回る。
「音……?」
 赤、青。黄色、緑。ピンクにオレンジ。たくさんの色の風船が、ふわふわと藍色の空の中に浮かんでいる。
 こっちにおいでよ。
 遠く漠然と、頭の中に響いてくるような声。
 ――こっちにおいでよ。
 移動遊園地に電子音。回るメリーゴーランドの屋根の赤。
「どういうことなの」
 こっちにおいでよ。
 不意に背中に視線を感じ、彼女ははっとしたような表情で振り返る。
 風船を持った一人のピエロが、ひっそりと静寂に彼女を見つめ、佇んでいた。



  ■■



 静謐な廊下は黄色い照明でライトアップされ、上品な匂いに満ちている。
 メーテルを抱えたテイオウは、等間隔に並ぶ絵の一枚一枚を眺めながら、その度感嘆の溜め息を吐く。
 勢い、威圧、情熱、パワー。その一枚の前に立つだけで、圧倒的な空気感がテイオウの体を支配する。
 それはきっと、画家の想いだ。
「何ていうか、凄いな」
 メーテルがポツリ、と頭の中で呟いた。
 テイオウは無言で深い頷きを返す。
「本気だよ、こいつら」
「ええ」
「本気の精一杯で描かれた絵だよ、これ全部」
「そうでしょうね」
 しかし、それでもこれらは皆、人の極めて個人的な好きや嫌い、趣味嗜好で値段を付けられ売り買いされる商品なのである。
 本気かどうかは関係ない。何を想うか、どう解説するかは関係ない。最後の価値を決めるのは、自分でなく「お客」なのである。
 そしてその絵は、こうして全ての泥臭さを排除され、美しい額縁に収められ、壁を飾る。
 それを知ってて、それでも彼らはまだ、生きる糧の職業として本気でその一枚を描く。
「どうしたらこんな仕事にそれでも就こうと想うんでしょうか」
「そりゃ、好きだからなんじゃないか」
「…………」
「それともそれしか、結局のところ、出来ないからか」
「…………」
 エデン。
 桐山の友人である村山薫が描いたらしい一枚には、まだ辿り着けていない。
 ゆっくりゆっくり歩みを進めるテイオウの目の前で、廊下は直角に折れていた。
 それに沿うて彼はその角を曲がる。
 そこに、一人の女性の姿を見つけた。
 あれは、と彼は咄嗟にその女性の名前を思い浮かべる。草間興信所の大黒柱、シュラインエマ女史ではないか。
 テイオウはその歩調を微かに速める。
 そして彼は信じられない光景を目にすることになる。

 彼女が一枚の絵の中に吸い込まれていく瞬間を。



  ■■



「ごめえん、お待たせぇ」
 黄色い声をあげながら、希がポンと肩をぶつけた。
「待ってないよ、それは別に」
「どうだね、資料はちゃんと集まってますかね、風槻くん」
「何かしんないけど、あんたに上から物言われると凄いカチンとくるよね」
「またまたぁ」
「わー何か、この人凄い楽しそうで気持ち悪い」
「嘘ォ、分かっちゃうぅ?」
 風槻の肩を叩きながら、希がその形の良い唇をつりあげる。「アタシって本当、運が良いのよねえ」
「あー、そうですか」
「ほんと、もうヤバイ。最高なの。展開的に全然サイコー。むしろサイボー」
「あーそう、良かったねえ」
「良かったの。ほんっと良かった。アタシって運いいじゃない?」
「さあ?」
「いいのよ本当に」
「あーそうなんだ」
「何よアンタ。もうちょっとテンション上げていってよ」
「いや無理だよ。話の内容が全然見えてないもん」
「人の話ちゃんと聞いてるぅ?」
「いやアンタ、実は運が良いってこと以外何も言えてないからね」
「嘘ォ。風槻が聞いてないんじゃなくて?」
「今回ばかりは聞いてないんじゃなくて」
「嘘ォ。ごめえん」
「いいよ別に聞きたくないから」
「いや、だからさあ。アタシさっき、男の後追っていったじゃない? あのエデンの絵ぇ書いてた画家のさ家でさ、遭遇したさ、画商さ」
「あの、数学だか物理だかの教師みたいな、一見優男ね」
「そうあの格好良い人」
「格好良いはあたし、言ってないけどね」
「それで物陰からひっそり覗いてたんだけどさ」
「良くばれないよねえ、アンタって」
「希ちゃんのストーキング能力、舐めんなって話」
「まあ、どっちかっていうとそれが仕事だもんね」
「何か。色白童顔の可愛い顔した男とイチャイチャしてたのよね。髪の毛を何か、変なボンボリみたいな飾りついた髪留めでとめてた男」
「ふうん」
「軟禁、いや、監禁プレイかなあれは」
「ああ、プレイでいちゃいちゃしてたんだ」
「そうだね。プレイでいちゃいちゃしてたよね」
「アンタそういうの好きだもんね。縛られたり打たれたり」
「いやあん、虐められたーい」
「それでそのシーン押さえるだけ押さえて、普通に帰ってきたんだ。その軟禁されてる人放って」
「プレイだと思ったんだけど、違うかな」
「いやそれは違うでしょ、多分」
「そっか。でもま、助ける義理はないからね」
 皮肉っぽい笑みを浮かべながら、希は自らの両手をそっと合わせる。軽く礼をした。
「まそれは、そうだよね」
 風槻は同じ仕草をしながら頭を下げた。
「アタシって何ていうかさ。尽くすタイプっていうかさ。そういう人間だからさ。彼の邪魔したくなかったっていうか」
「とか仰ってる希さんは、それをネタにまたゆすらはるんですかね。あの何時かの誰かさんの時のように」
「あー、何か本当何か最近、耳の調子が悪いなあ」
「そりゃもう証拠とかガッツリつかんでらっしゃるんでしょうな、希さんのことだから」
「え、何。見たいの」
「見たくねえよ」
「何ていうかさ。あーゆー真っ当だって顔して生きてる人がさ。じっくりじわじわ堕ちていく様を見るのがすきなの、アタシ。時間をかけて追い詰めていくの」
「……ふうん」
「わー、凄いどうでも良さそうー」
「でさ?」
 風槻は前方の建造物を指差した。「一緒に行くんだ?」
「それは行くでしょ」
 二人の前には明治然とした匂いを持つ洋館が、透き通るように青い空をバックにひっそりと佇んでいる。「仕事なんだから」
「その仕事をほっぽり出して、ご趣味の男性の情報収集をなさっていた貴方の口からそんな言葉が出るとは驚きですよ」
「何それ、妬いてンのォ」
「わーこの人気持ち悪いィ」
 開け放たれた両開きのドアを、風槻は先に通り抜けていく。希がそれに続いた。



 壁にかけられた様々な絵を、時間をかけず眺めていく。
 二人は、黄色くライトアップされた廊下を無言のままに歩いていった。そして、直角に折れた廊下の角を曲がったところで、希が徐に呟いた。
「何やってんだ、あの人」
 視線の先で一人の男が一枚の絵を前に不審な動きをしている。
「見るからに悪そうな男だなあ」
「あれは一種の反則だわ」
「あれってさ。明らかに盗もうとしてない?」
「やだなあ。面倒臭いもん見ちゃったな」
「見なかったことにとこうか」
「まあね。関わる義理とかないからね」
「失礼、思い切り、聞こえているのですが」
 二人の姿に、体格の良い男が振り返った。足元できゃんきゃん、と子犬が鳴いている。
 男は向こうの方から近づいてきた。
「私は、泥棒ではありません」
「うわー。間近で見ると益々極悪人だ」
「そう言われても百パーセント嘘にしか聞こえないよねー」
「嘘ではありません。私はこの絵を盗もうとしていたわけではありません」
「だろうと思うよ」
「別にどっちだっていいけどね」
「ですから」
 男は焦れたように少しだけ声を荒げた。
 見かけによらず静かな物腰の男である。
「私はこの絵を盗もうとしているわけではないのです。ただ、ああ、何というか。この絵に女性が吸い込まれていく瞬間を」
「あー。はいはい。あるよね、あるある」
 風槻は鬱陶しそうに男の言葉を遮って、いい加減な相槌を打った。「いいよ別に見なかったことにしてあげるし」
「ですから、本当なんです。嘘ではありません。その、私の知ってるシュライン・エマという女性が」
「え?」
「ですのであー、その、草間興信所に」
 そんな風には見えなかったが、実は相当慌てているらしいその男は、支離滅裂なことを言った。
「草間興信所?」
 男が信用するに値するかどうかは別としても、その言葉には、引っかかるものがある。



  ■■



「ったくよォ」
 微かな呻き声を上げ、青年はがっと首を後ろに仰け反らせた。
「アンタ、薬の分量とかちゃんと分かって使ってンの。間違ったんじゃねえ?」
 人を食ったような掠れた声が発せられるたび、その細い首筋が酷く苦しげに上下する。「もう何か、頭くらくらするんだけど」
「君が静かにしてくれないからだよ」
 傍らに立つ男は、当然の正義でも語るかのような表情で、静かに言った。
 上品なスーツから香水のきつい匂いが立ち込めている。青年はムッと顔を顰めて首を降った。
 柔らかそうな黒髪を無造作に結び上げている髪留めの、赤と青の丸い飾りがふるふる揺れた。
「いや、普通騒ぐでしょ。こっちは小さい頃から知らないおじさんについてっちゃ駄目つって親に教え込まれてんだからさ」
 人を嘲るように小さく笑えば、彼と手と柱を繋ぐ拘束具が軋み音をあげる。「だいたい、突然絵のモデルなって欲しいつっても断らないのは、多分相当、アホな子か痛い子だけだよ」
「すぐに解放してあげるよ。彼が気に入らなければ君に用はないんだ」
「とりあえずこれ外してくんねえかな。痛いんだわ」
「彼には何としてでも新作を描いて貰わなければならないんだ」
「あー、俺の話は無視されるみたいな展開ですか」
「風景画ばかり描いてるから煮詰まるんだよ。彼もいつかは人物画を描きたいと言ってたんだ。彼にはまだ描いて貰わなきゃいけない。彼の時代がきてるんだ。今新作を発表すれば必ず高値で売れる! 私はそのためなら何だってする」
「頼まれたわけ? あー、その……そうだな。絵描きか? モデル連れてこいってか?」
「言われなくても分かるんだ。彼は私には歯がゆいくらい何も言ってくれないが、きっとこういうことなんだ。私には分かってる」
「まあ、だろうね。お気の毒に」
「どういう意味だ」
「何かわかんないけど、アンタ、確実に履き違えてるんだと思うよ」
「分からないなら、分かったような口を聞くのはやめてくれ」
「ガキん時にね、意味のないことで笑いが止まらなくなったみたいなことが必要なの。何かを造るってそういうことなの。目的とか理屈とか理由とか説明とかゴールとか。そんなことだけで無理やり走ってたらしんどくなってくるのは当たり前だ。アンタは、きっとそいつの目的は作ってやれても、視覚や心に訴えかけるような嬉しい刺激は作ってやれない。要するに、バラバラなんだよ、アンタとそいつは」
「申し訳ないがそれが私の仕事なんだ。地位や名声やお金を得ることはいずれ彼のためにもなる。アイツら、プレッシャーを与えてやらないと、自堕落になるばかりだ」
「まアンタがそう言うならそれでいいんだろうけどさ」
 イチチ、と軽い呻き声を上げながら青年が体制を変える。「そんなことばっかりしてたら多分、その人本当に二度と絵ぇ描けなくなるよ」



  ■■



「あー。やっぱこっちには来てない、か」
 洋輔は溜め息を滲ませた声で呟くと、興信所のソファに体を傾けた。「もー、何だよあいつ、何処行ったんだ?」
「俺は知らないからね。だいたいあの人とは最近ご無沙汰だもの。顔すら見てないね」
 所長である草間武彦は、緊迫感のない口調で言いながらコーヒーの入ったマグカップをそっと傾けた。黒縁眼鏡のレンズがさっと曇る。
「どうしようどうしよーう。雛っちが誘拐されちゃったあ。草間っちでも知らないなんて、ボクらは一体これからどーすりゃいいんだあ」
 洋輔の隣に腰掛けた風太がふがふがと珍妙な雄叫びを上げる。
「まとりあえずアイツのことだから心配はないんだろうけど、心配だよな。だってさあ。家行っても居ないし、後輩の男とか居るし、しかもそいつ、何かすっごい顔に青痣ついてたし」
「犯人きっとそいつだよ」
「携帯繋がんないし、家は普通に出たつってたし。で? 何でこないわけ? っていう」
「雛太も大の大人なんだからさ。いろいろと事情があるんだよ。そのうちひょっこり帰ってくるんじゃないのか」
「いや、俺の予想では、多分、ちょっと想像の斜め上いく感じの出来事に遭遇してると思うよね」
「雛っち雛っちぃ」
「ちょっとさあ。一緒に探してくんねえ?」
「それは何ですか、依頼ですか」
「おうじゃあ依頼でいいよ。お仕事ですよ。一緒に探そうよ」
「別にいいけど、今いろいろ立て込んでるから、三日後くらいにまた来てくれる?」
「優雅にコーヒー飲んでる奴には一番言われたくない台詞だよね、それはね。っていうかさ。シュライン姉さん何処よって話なんだよね。一番頼りになるあの人は何処? 何でボーしか居ないわけ?」
「あの人は今、ちょっとお出かけ中だから。友達と遊びに行くって言ってたよ」
「言ってたよじゃねえよ」
「だいたい探す探すって。漠然と言っても難しい話でしょ。どんな服で家出たって?」
「服装はフツーに……何だろう」
「特徴がないと更に難しい」
「えーっとねえ。何かね。赤と青のボンボリ付いたふざけた髪留めで髪の毛括ってたらしいよ。家に居た後輩の男とかいう奴に聞いたんだけど」
「ふざけたボンボリねえ。じゃあそういう死体の情報見かけたら、連絡するってことで」
 淡々とした声で言った武彦が、マグカップをまた傾ける。
 その時、草間興信所のドアが勢い良く開いた。そこから顔を出したのは、二人組の。
 男女? 女?
「あ。今、あの眼鏡の男。アタシのこと見て凄い失礼なこと考えてる顔した」
 風槻の隣に立つ、男なのか女なのか、はまたまた「そっち系の人」なのか、若干判断に戸惑う人物が、微妙な声色で微妙なことを言った。
 武彦は微妙な笑みを浮かべながら眼鏡を押し上げる。「いやあ、そんな。気のせいすよ」
「いや、絶対考えた。ね? 考えたよね。こいつ絶対。そう思わない風槻?」
「それはどうでもいいけど、武彦。シュライン姉さんが大変だよ」
「アチアチッ」
 武彦は口元に運んでいたマグカップを慌てて剥がした。火傷したらしい唇を慌てて撫でている。「もう、突然大声上げないでよ」
「誰がいつ大声上げましたか」
「だって俺、シュラインの名前突然聞くとビクッとするんだよ」
「なんでビクっとするんだよ」
 ソファで三人の会話を見守っていた洋輔が、ポツリと呟く。風太と顔を見合わせた。
「それでさ。あれだよ。姉さん、とある所に絵ぇ見に行って。その絵の中に落ちてるから」
「は?」
 とまた、洋輔と風太は顔を見合わせる。「絵の中?」
「あたしも若干、どうかなって思うけど、あの姉さんの名前出されるとねえ。一応、報告しに来ました」
「ふうん。絵の中ねえ。面白い所に落ちるな、あの人は」
「場所はアトリエ村。えーっと」
「あー。何かもしかたら俺、その場所知ってるかも」
「え、何で武彦知ってんの」
 武彦は散らかった机の上をごそごそとかき回す。一枚のはがきを取り出した。
「確かねえ、同窓会がね」
「ふうん。じゃあ話早いじゃん。地図載ってる? ……うん、間違いないね。ここだね」
「嘘ォ。じゃあ俺も面白いの見て来ていいかなあ」
「別に見に行くのはいいけど、この二人組は放っておいていいわけ?」
「うん、全然いいよ」
「よかねえよ」
「ずるいよォ。草間っちだけえ! ボクも面白いのみたいよー。絵の中に落ちるって何だよー。凄い見たいよぉ」
「お前は雛太を探すのが先だろォ」
 洋輔に肘打ちされ、風太はぶうと唇を膨らませた。
「何かこの人達、人探してるんだって」
 さっさとコートを羽織っていた武彦は、淡々と事務所内を横切った。「赤と青の変な髪留めで髪留めた男。あれよ。時間あるなら話聞いてやってよ。俺は面白いの見てくるから。じゃあ後、よろしくね」
「あ、武彦」
 その間にソファへと腰掛けていた風槻は、その背後に呼びかける。
「姉さんが落ちた臭い絵のある屋敷は、矢切邸だから。適当に探してりゃ見つかるから」
「矢切邸ね、はいはい」
 バタン。
「何あれ。思い切り心配なんじゃん」
「何か見てて哀れになるよねえ」
「素直じゃないよね」
「素直とか言うか、もうあれだよね。ボーっとしてるからさ。自分の気持ちが心配だってことにも気づいてないかも知れないよね」
「ありえるありえる」風槻の言葉に深く頷いた洋輔は、小さく笑いながらソファに仰け反った。「可哀想な眼鏡だ」
「でさ。さっきの人探してるって話なんだけどさ」
 徐に、風槻が切り出した。「赤と青のぼんぼりつけてるって?」
 小さく隣の希に目配せする。
「そうそう。でもそれだけで探し出せるほど、世の中は狭くないっていうか」
「そうでもないけど」
 希が襟足をなで付けながら呟いた。「アタシ、知ってるかも」
「え?」
「えーーー!」
 希は、身を乗り出してきた二人の男にさっと手を翳した。ピース。
「なによ」
「二万」
「え?」
「いい男だから、二万円でいいよ。あと。何を見ても警察には連絡しないこと。おおごとにしないこと。約束できるなら、もしかしたら君らの友達かも知れない男の居場所、教えてあげてもいいよ」



  ■■



 なだらかに続く坂道は、遠く丘の頂上へ向かい伸びていく。
 その未舗装の一本道は時折緩やかに折れ曲がり、途中の林に点在する奇抜な色や形の屋根へと続いているようだった。赤や黄色や緑といった、原色の鮮やかな屋根もあれば、コラージュのように様々な色が細々と重ね合わされた屋根もある。様式にすら統一感のないそれらの屋根は、脈絡なく並ぶことこそが唯一の法則であるかのようだった。
 そんな見た目の煩さとは相反し、村一帯は奇妙な静寂の中に包まれている。人っ子一人見当たらない砂利道を、彼は取り立て覇気のない足取りで突き進んでいく。無造作にくりくりと跳ねる黒髪を揺らしながら、時折思い出したように黒縁眼鏡を押し上げている彼の名前は、草間武彦。暖冬だからとレトロな形のスプリングジャケットを羽織って家を出たはいいけれど、今日に限って冷たい風に少しばかり落胆している。都内某所で「辛うじて生活できる程度の儲けしか出さない」興信所を経営している探偵である。
 そんな彼が、歩行のたび大胆に、スリムパンツの裾から足首を覗かせながらも目指しているのは、丘の中腹辺りに建つ建造物。煉瓦造りの明治然としたその洋館に、彼は用がある。
 酷く乾いた冷たい風が、独特の匂いを鼻腔に伝え消えていく。村全体を覆うその匂いは、小学校の時に始めて嗅いだ「図工室」の匂いに酷く似ている。絵の具や油や木工ボンドの科学的な匂いと木や土の自然の匂いが混じり合う、埃っぽく粉っぽいざらざらとした匂い。
 トンネルを抜けた先に広がるこのサイケデリックな色味の村の名は、通称、美術村。またはアトリエ村と呼ばれる。
 自分の前途を洋々と信じて疑わない若手のアーティスト達のアトリエが方々に建ち、時間やお金を持て余した金持ち達の屋敷がまた方々に建つ。若いアーティスト達が何となく集まった密集地にどこぞの暇人の金持ちが目を付け、別荘を建てたのが最初なのか、金持ち達の別荘地に意気揚々と若いアーティストが乗り込んだのが始まりなのか、それとも同時に増えていったのか、その由来や何だということを武彦はまるで知らない。
 ただ彼は淡々と歩いていく。目的地はすぐそこに見えていた。



 そして彼は、そこにかけられた一枚の絵と対面する。

 風槻が言ったこと。そしてこの屋敷の前で遭遇したテイオウが酷く慌てた様子で言い残し去っていったこと。
 つまり、シュライン・エマがこの絵の中に落ちたということ。
 それが真実かどうかはまだ、分からない。
 エデンと名づけられたその風景画を眺めながら、武彦は思案するように顎先を撫でる。
 そもそも絵の中に落ちるとはどういう状態なのか。
 それは何かの呪いであるのか。それが誰かの手による何かの陰謀なのか。
 それすらも今の段階ではまだ、分からない。
 エデン。
 武彦はそっと腕を伸ばした。
 だけどもし。
 本当に彼女がこの絵の中に落ちてしまったのだとして。
 その指先が額縁の青にそっと触れる。
 どうすれば戻ってこられるのか。
 そもそもここから、戻ってこられるのか。
 一方通行ではなく、戻り道は用意されているのか。
「調査するまで戻ってこないつもりか」
 そして武彦は苦笑のような笑みを浮かべ、眼鏡を押し上げた。
「あんまり……心配させないでよ」


  ■■



「誰かに呼ばれている気がして」
 と、戻ってきたシュラインは言った。
 案外本人はさっくり元気で、そもそも自分が絵の中に落ちたことすら自覚していないようだった。しかしどうやら間違いなく落ちてはいたようで、その事実を知るや否や、彼女は「この絵を調べなきゃ」と、屋敷の主に交渉しに行った。武彦は武彦で、俺は同窓会に来ただけじゃない。と、屋敷の外で合流した風槻らに全てを押し付け、その場を去って行った。
 あの絵の前に二人が向かうと、そこにはもう既にシュラインが居り、例の「誰かに呼ばれてたような気がして」という台詞を言ったのだった。
 シュラインを呼んだのは武彦だったのか。
 そもそもどんな風に彼女が絵の中から抜け出してきたのか。
 彼はやっぱり彼女を心配していたのか。
 心配されると戻ってこれるのか。
 一体全体それはどんなからくりなのか。
 ところで二人は絵の前で、感動の対面を果たしたのか。そこで勢い余ってチュウの一つもしてみせたのか。
 それは風槻の知りようもないことである。
 ただ一つ分かっていることは、絵の調査をすることが決定した暁には、自分も借り出されてしまうのだろうな、ということだけだった。
「何か、面白い人達だよね」
 刻々と黄昏色に滲み出す夕日をバックに畦道を歩いていると、希が思い出したように呟いた。「さっきの二人」
「面白いよね」
 同じ歩調で歩みを進めながら、風槻はのんびりとした返事を返す。
「でもあの人、本当に絵の中に落ちてたのかな。そんなこと、あるのかな」
「あったみたいよ」
「でもだとしたら他に出てくんでしょうね。あの中に閉じ込められてる人」
「普通に絵ぇ見てて落ちるんだから、笑っちゃう」
 全然笑っちゃうような口調でなく言って、風槻はふわあと欠伸をする。
「でも、関連ありそうな行方不明って聞いてないよね。まだ」
「そうねー。聞かないね。あんま興味ないけど」
「出た。風槻の興味ない」
「届けられてても、警察が動いてないか。それとも。この世の中には案外心配されず放置されてる人が結構居るのか」
「誰にも心配されなくてあの中にまだ閉じ込められてる人が居るとしたら、軽く悲しい話よね」
 全然悲しそうな口調でなく言って、希がふっと皮肉っぽく微笑む。「あれって。心配して呼んで貰うと戻って来られるのかな」
「さあね」
 帽子の影で、風槻はふっと瞳を細めた。
「でも、だとしたらあたしらは、試されてるのかも知れない」
 さっと風が二人の間を流れていく。「絆はあの絵に、試されるのかも知れない」
 ふっと隣で希が微笑んだような気配がした。
「だけどアタシはアンタが居なくなったら心配するよ」
 ポン、と風槻の肩に肩をぶつけてくる。
「何言ってんだこの人気持ち悪い」
「アンタはアタシが初めて惚れたおんな」
「はっくしょん。あー、何か。鼻がむずむずするな。ヤだな。花粉症かな」
「いや、聞けよ」
「希さんよォ」
「はい、なんざんしょう、風槻さん」
「とっとと仕事終わらせて、さっさとかえろーか」
 風槻は怠惰な声で呟いてこめかみを押さえた。「何かいろいろあって、凄い疲れた」
「はいはいではそうしましょ」
 希は軽い調子で頷いた。



  ■■



 暗く沈んだ廃屋のような小屋の床に、さっと夕日の光が伸びた。
 不意に飛び込んできた光に目を射られ、雪森雛太はそのアーモンドのような瞳を思わず細めた。
「助けに来たぜ!」
 聞き覚えのある声が耳を突く。
「雛っちぃ。助けに来たよォ」
 見覚えのある二つのシルエット。雛太は少しだけ驚いたように目を見開き、それからそっと唇を釣り上げた。
「おせえんだよ、ばあか」


 ×


「お前ほんっと可愛くねえ」
 殴られた頬をさすりながら、洋輔が恨みがましく呟いた。「ばあかの時点からカチンと来てたけどね、俺はね」
「お前がイキって写真とか撮るからですよ」
 隣を歩く雛太は淡々とした口調でフン、と鼻を鳴らす。「どっちかっていうと殴られて当然ですよ。しかも全然助けにくんのとか遅いし」
「お前ね。俺はこれでもめちゃくちゃ心配して駆けつけたんだって。だからどうせなら、監禁された暁の記念の一枚くらいだな撮らせてくれてもだな。ベストショットだったよ。中々悩ましげで」
「嘘ォ。ま俺が男前だってことは知ってるけどさぁ」
「もー、手錠外れてんなら、とっとと逃げりゃ良かったじゃんさあ」
「外れてたんじゃなくて、外したからね、そこは」
「お前、びっくり人間だな。どうやって両手ふさがった状態で手錠の鍵を外すんだよ」
「それは企業秘密ですけど。俺は逃げる隙を見てただけなの。別に助けて貰わなくても全然へーき」
「そんな可愛くないこと言う子は、もう二度と助けてあげませんよ」
 と。
「うわあああ!」
 前を歩いていた風太が、突然大きな声を上げた。
 後方を歩いていた洋輔と雛太はその突拍子もない雄叫びに、ぎょっと身を竦ませる。
「あんだよ!」
「凄いよ、凄いよォ!」
「あにが!」
「このスリーショットだよォ! びっくりするくらい絵になってるよォ! ボクら三人てめちゃくちゃ男前じゃない?」
「何だそれは」
「無視だ、無視、無視」
「あー。酷いよォ。無視しないでよォ」
「っていうかどっちかっていうと、俺的にはお前が待ち合わせ時間に遅刻した件について怒りたいくらいなんだけど」
「それはしょーがないじゃんだって」
「罰として雛太は俺に何か奢ること」
「よーちゃん、写真撮って〜」
「どうでもいいけど。お前、もっと便利な場所に事務所構えろって」
「何よ、いきなり」
「あの家さあ。デカイけど交通の便が悪すぎ」
「写真写真〜」
「そうだなあ。事務所なあ」
 暮れ行く夕日をバックに、三人の男の影は少しずつ小さく遠ざかっていく。



  ■■



「どうもー」と漏らしながら扉を潜ると、「おう」と軽い声が武彦を迎えた。
「なんだ。来たんだな、武彦」
 珍しい珍獣でも発見したかのように、男は立食式のテーブルから武彦の元へと歩み寄った。中学校時代同窓だった、斉藤である。
 武彦は「ん」といい加減な相槌を打ち、コートのポケットから一枚のはがきを取り出した。「とりあえずこれ、案内状」
「おう、俺が送った。暇なら来いって書いた」
「書いてたな」
「暇じゃないと来ないよな。同窓会なんてわざわざ」
「極限に暇だったんだよ、俺」
「ああ、分かるよ。あの興信所暇そうだもん」
「お前さ、何で主催者でもないのに俺の所に案内状送ったの」
「前の同窓会ン時にさ。主催の奴に泣きつかれたんだよね。草間武彦の消息だけ掴めないって。ほら、こういうイベント事になると何でか燃える人って居るじゃない。確実に集めてやるって」
「…………」
「今回のこの場所選んだのも、そいつだしね。知人のツテか何か頼ってこの監視会館かして貰ったんだって」
「…………」
「一風変わった場所でパーティしてみたくなったとかってさ。でもさ。ひそかにちょっとそそられるよね。アトリエ村って何だよ、みたいなさ。思わねえ? 武彦」
「え? あ、ごめ。全然聞いてなかった」
「思いっ切り横で喋ってんのに、何だーこの人」
「でもさあ。結構集まってんな」
「だろ。集まってんだよ」
「こんな所に来るのは俺とお前の暇人だけかと思ってたんだけどな。何だ、俺の同級生は暇人ばっかりか」
「何回かやってるけど、お前みたいに中々来ない奴の方がむしろ珍しいよ。皆「昔」が好きだからさ」
「ふうん」
 武彦は改めて周りを見回す。広い吹き抜けのスペースにオードブルの並ぶテーブルが点在し、数十人の男女が雑談している。しかし十余年という時は、確実に武彦の記憶をぼやけさせていた。元々、昔から余り「人」に対して興味のなかった男である。最早もう、誰が誰だかわからない。同窓なんて何かの間違いなんじゃないか、とふと思う。
「でも、それにしたってアイツはなしだな」
 不意に武彦はポツリと呟き、二階の回廊を指差した。
「え」と斉藤がそちらを見やる。
「見てみ。あいつ、明らかに若くない? 本当に俺らの同窓か?」
 斉藤は「うーん」と小首を傾げた。確かに若い青年である。まだ十代後半だといっても通るだろう。二階の回廊で、そこにかけられた絵にじっと見入っている。
「っていうか……あの人いつ入って来たんだろー。俺ずっと入り口見てたのに」
「お前これもうこれ、何かのドッキリなんじゃないの。俺ら同窓会とか言って騙されんだよ」
「はいはい」
 と軽く受け流すような返事を返しながらも、だんだん本気であの謎の青年が気になってきてしまった斉藤である。言われてみれば、と気づいたそれが、途端に気になってしまった、という状態なのかも知れない。しかし当の武彦はいそいそとオードブルの乗ったテーブルへと移動して、何食わぬ顔でお皿を埋めていた。自分で言っておきながら、別に同窓だろうが同窓じゃなかろうが、どうでも良い、と思っているのかも知れない。
「なあ、アイツ誰だろう」
「気になるなら、聞いてくれば」
「何だよ、お前が言ったんだろおが」
 斉藤が視線を戻すと、青年は、そのまた隣で他の人との雑談に興じていた男に話しかけたようだった。見知らぬ人に突然話しかけられ、男は少し驚いていたのかも知れない。不審げな表情で青年の言葉に返事を返す。
「……は……」
「…………が」
「……に前にあった絵です!」
 ぼそぼそとしていた二人の会話が、次第に輪郭をはっきりとさせていく。それはつまり次第に興奮し上がっていく青年の声やその会話に、皆が注意をひきつけられ始めたことの証拠だった。静まり返った吹き抜けの空間に二人の声は良く響く。
「だから、ここに前にあった絵ですよ!」
「はー。いや。その絵なら皆に見て貰うために、各屋敷を回ってるんじゃないかな。売れちゃって村の外に出てるかも知れないけど」
「何てこと」
「は?」
「あの絵を回収しないと」
「はぁ」
「大変なことが起きるんです。あの絵は呪われてるんです。何かが……とりついているのかも知れない」
「…………」
「村山薫の絵は呪われている」
「……何言っちゃってんだ、あの青年」
 斉藤は呆気に取られたように小さく漏らす。「っていうか、そもそも誰だアイツ」
「何かどっかの錯乱した絵描きなんじゃないの」
 隣で武彦は、緊張感のない欠伸をしながら呟いた。「何せアトリエ村だし」



  ■■



 今、なだらかに伸びる林の中の畦道を頂上目指し歩いていく、二人の男の姿がある。
「いいですか」
 桐山の手を引っぱってきたテイオウは、そこでガシっと桐山の細い肩を掴んだ。「貴方の友人は今、酷く混乱し錯乱している状態にあります」
 その様子はどう見ても強面の男が好青年を恐喝している場面にしか見えなかったが、実のところ対面する二人は、この上なく真剣にある一人の青年画家についての意見を交わしている。
「彼は今、あの建物の中に居るはずです」
 丘の頂上を指差して、テイオウは桐山を振り返る。
「どうしてそうだと?」
「私の飼っている……ああ、この子犬が。矢切邸から駆けていくあの方の後をずっとつけていてくれました」
 二人の間で小さな子犬は、その足元に纏わり付くようにしてわんわん、と元気の良い鳴き声を上げる。
 桐山はその子犬を見下ろした。
「へえ、凄いわんちゃんなんですね」
「真面目に聞いてください」
「聞いてますよ」
 桐山は鬱陶しげに瞳を細めた。「聞いてます」
「まさかあの方が矢切邸にいらっしゃったなんて」
「多分、自分の絵を返せと直談判でもしに行ってたんでしょうね」
「貴方が言うようにあの方は相当追い詰められた状態だったのでしょう。こういっては何ですが、これ幸いと言わんばかりに、自分の絵は呪われているなどと言いふらして歩いているのですよ。関係のない、他の絵まで全て」
「これ幸い、か」
 桐山はふっと小さく吹き出す。「いやでも多分、本当にそうですよ。これ幸い、ですよ」
「桐山さん」
「しかし、エデンエデンの絵に問題があったことは事実でしょう」
「それはそうですが。しかし、そのことを騒ぎ立てても彼に何のメリットがあるんですか。無意味な混乱を招く前に、貴方が救ってあげなければ。このままでは真実彼の絵を愛する人が、彼の絵を欲しいと思う人が、居なくなってしまうだけです」
「分からないじゃないですか。他の絵だって、そうかも知れない。アイツはそう思ってるんだと思いますよ」
「…………」
「どうせ彼が言いふらさなくても、エデンの絵のことだって、すぐに噂になりますよ。そういうネガティブな話は、びっくりするほど回りが速いんです」
「そのことに関しては、きっと大丈夫でしょう。私の知り合いがその絵を調べてくれています。そういった問題の処理に関しては、一流の腕を持った人達です。だから彼がこんなことさえしなければ、問題は大きくならずに済むはずなんです」
「だからって俺にどうしろって言うんですか」
「止めてあげるべきです。友人である貴方が。今すぐにでも、何を馬鹿なことをしてるんだと、彼を一喝し、引き戻してあげるべきです」
「出来ませんよ」
「桐山さん」
「出来るわけないじゃないですか。俺に何を言えって言うんですか。あいつが望んでやってることなんだら、俺にはどうすることも出来ませんよ」
「彼の絵に、何の意味も生み出さない付加価値がつくのを、友人として黙って見てるっていうんですか。むしろ彼は、自らが筆を取ること自体を呪われた行為なんだと思ったのかも知れない。このまま二度と
「天の」
 桐山はそっと囁くように言葉を溢した。
「天の助けなんですよ、きっと。アイツもそう思ってるんですよ。もしも呪いなんてものがこの世の中に本当に存在するのだとして、芸術の神がその矛先の一枚に、アイツの絵を選んだのだとしたら。天の助けですよ。言ったでしょう? アイツはもう無理なんですよ。今までの自分全てを否定したくなるほど深く追い詰められてたんですよ。怖いくらいに誰ともその懊悩を共有しないで。馬鹿みたいな……そうですよね。絵のことなんて分からない人間から見れば実に馬鹿みたいなことで、傷ついて、苦しくなって、疲れ果てて。眠ることと死ぬこと以外では、絵のことを考えない場所を作れないほど。だけどそうして不器用なやり方でしかアイツは絵を描くことが出来なかった。いつかは壊れるはずだったんです。危うい均衡の中でやっと辛うじて立ってただけなんですよ。いつかは壊れるはずだった……今がその時なんですよ」
「…………」
「一番傍で見てたからこそ俺には出来ない。例えアイツの絵がこの一件でもう二度と日の目を見なくなるのだとしても。それはアイツが自分でやったことなんです。呪われてるなんて噂が立つ絵なんて、身近にあって気持ちの良いもんじゃないですからね。だけどそれはアイツが望んだことなんですよ。あいつは自分で自分に見切りをつけたんです。解放されたんです。それを止めることは俺には出来ない」
「…………」
「アイツの絵はあの脆さから生まれるんです。だけどそれを、受け入れて楽しかった時期もあったんでしょうね。だからこそ、絵描きになんてなった。ただ、きっといつからか自分のその過ちに気づいたんですよ。絵を描くことに苦しさしか感じられなくなった人間にはもう、絵は描けない。丁度良かったんですよ。今、この状態で折れるような脆い人間なのなら、先にこうして折れて置いたほうが良かったんですよ。向いてないんです、多分。それでいいじゃないですか」
「本気でそう思われているのですか」
「…………」
「桐山さん! 今、貴方が救ってあげないと、彼はもう二度と絵を描けなくなってしまうかも知れないんですよ」
「何を言うんですか今更。救う前から描けてない」
「違いますよ」
 テイオウはゆっくりといい含めるように首を振る。
「確かに、休息は必要なのかも知れない。これからもっと、そんな自分とも上手く付き合える方法を模索しないといけないのかも知れない。けれど、二度と絵を描かないということがどういうことか。あの方は本当に分かってらっしゃるのだと思うのですか」
「…………」
「あの人から描くことを奪っていいのですか」
 桐山は酷く困惑したような表情でテイオウの顔を見上げる。
 そこにあるのは静謐な銀色の瞳。
「描くことをやめて、あの人は生きていけるのですか」
「…………」
「物を造ることが、どれほど素晴らしいことか分かっている貴方が、今、何もせずに彼が壊れていくだけの様を見守るのですか」
 桐山はふっと溜め息を吐き出しながら顔を伏せ。
 それから、丘の頂上を眩しげに見上げた。
 そには一際大きく近代的な様式の建物がポツンと静かに佇んでおり、丘の麓に立つ全てを監視するかのように見下ろしている。
「行きましょう」
 低く艶やかな声が彼を促す。
「…………」
 促されるようにして桐山は、今、小さくその一歩を踏み出した。





















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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号0086/ シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号3453/ CASLL・TO (キャスル・テイオウ) / 男性 / 36歳 / 悪役俳優】
【整理番号6235/ 法条・風槻 (のりなが・ふつき) / 女性 / 25歳 / 情報請負人】
【整理番号2254/ 雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた) / 男性 / 23歳 / 大学生】
【整理番号2164/ 三春・風太 (みはる・ふうた) / 男性 / 17歳 / 高校生】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 ライターの作り出す世界観と皆様のプレイングやお預け頂きました「彼」や「彼女」との化学反応をお楽しみ頂けたら幸いです。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。