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<東京怪談ノベル(シングル)>


ノアの箱舟


 東京という名の海は広く果てしない。だがその大多数が穏やかな上辺を華麗に泳ぎ、静かに短い一生を終える。誰が好き好んで光の届かぬ場所へ行くだろうか。深き闇が支配する世界……ここは上と同じ時空に位置する。鮮やかな紺碧を彩るのに必要とされている場所なのだ。誰もがそこへ向かうことを「落ちていく」と表現することで自分の足場を固めていささかの安心を得る。しかし「落ちること」は泳ぐことを放棄したことまでを含まない。彼らは人間に必要な真理を知ったような気のまま、自分勝手にその思考を完結させてしまう。どこにいようとも泳ぎ続けているのならば、何かしらの可能性にたどり着くことができるというのに……


 他人が導く闇の底へと向かって泳ぎ続ける女性がいる。彼女はそこで出会う者に『千夏』と名乗っていた。深淵のみならず、浅瀬にも名の知れた薄幸の美人である。今までは光の差す場所に留まっていたが、ある事情からもっと奥にまで追いやられていた。気持ちを強く持ち続けることで明るく振る舞い、常に笑顔を絶やさなかった彼女。だが一筋の光をも消し去る深淵の中では、うまく自分を維持することができなかった。
 それでも彼女に後悔の二文字はない。今は見失いそうになっているが、心の奥に光を持っているから。自分を育ててくれた両親を守るために望んで飛び込んだ闇の世界。千夏は『絆』という輝きを失ってはいなかった。絆を守ることは誰にでもできるわけではない。深淵のその先に人間が求めるべき宝が眠っているとはなんたる皮肉。ただそれを手にするために背負わされた代償は大きい。どす黒い何かはゆっくりと彼女の心にのしかかり、その身を浮かび上がらせることのない場所へと誘うのであった。

 前よりもずいぶんと静かで小さな部屋へ追いやられた千夏は疲れていた。人当たりがいいので商売そのものに支障はきたさないが、ひとりになった時の反動が大きい。まだ彼女には自覚がないのだ……それを虚脱感と呼ぶことに。自覚症状がないということは、自分から浮き上がるきっかけさえもつかめない。今が一番辛い時期なのだろう。
 ここで出会うのは雑魚ばかり。千夏に色目を使って自分の憂さを晴らす男だけ。そんな日々の繰り返しの中で、彼女は偶然にも大海を自在に泳ぐ鮫に出会う。いつものように愛想よく名を問えば、相手は『鬼鮫』と言うではないか。名前負けしないがっしりとした体躯に迫力満点としか言いようがない強面の男は敬語こそ使わないが、この場では十二分に紳士的な態度を見せた。

 「千葉 奈津美……いや、ここではあえて千夏と呼ぶのが礼儀か?」

 彼女にしてみれば今さら自分の本名など持ち出されても驚きもしなければ困ったりもしない。ただ相手がそれをここぞのタイミングで使わなかったことに戸惑いを感じた。ましてや常連客でもない男が本名を口にするなんて久しぶりだ。千夏は思わず浮かんだ言葉を口にした。

 「どちらでも結構ですけど……あの、ご希望は?」
 「ひとりで湯船に浸かりたい。風呂から上がった後もくつろぐだけでいい。身体も自分で拭く。特にサービスはいらん。この場所と時間は俺が買った。おまえは特に何も気にする必要はない」
 「……湯上りのお飲み物は?」
 「ほぉ、商売屋の発想で口が動いていないところがいい。おまえはこんなところでも家庭的に話すんだな。感心した。水を用意しろ」

 お客が気にするなと言ってもサービスに類する何かをしてしまうのが千夏の魅力。脱いだ衣類をきれいにたたみ、温もりが漂う場所の傍でじっと静かに控えている。鬼鮫は献身的なウサギに情が移ったのか、湯船の中で渋い声を響かせた。

 「なぜ、こんなところにいる?」
 「ふふ……鬼鮫さんにお聞かせするようなお話ではありませんわ」
 「そうか。俺は商売柄、男女を問わず身体に目が行く。おまえはずいぶんと素質がありそうだな」

 千夏はお客の発する言葉の意味がさっぱりわからなかった。ついでに言えば、鬼鮫がどんな職業に就いているのかもわからない。衣類を探れば何かが出てくるかもしれないが、彼女は会話というコミニケーションからそれを聞き出そうとする。

 「鬼鮫さんのご職業に私が向いている……ということですか?」
 「ああ。しなやかな筋肉だな。周りから『運動神経がいい』と言われたことはないか。年齢的にもまだ伸ばす余地がある。同じ闇で暮らすのなら、ここではなく別の場所に向かうのも手段のひとつだと思うがな」
 「あ、あの……失礼ついでに伺います。鬼鮫さんはどのようなお仕事をされてらっしゃるのですか?」

 壁一枚を隔てて会話は進む。鬼鮫は彼女を新たなる深淵へと誘った。そこは本当の意味での闇の世界。浅瀬では『オカルト』の一言で片付けられるような事柄がさまざまな形で具現化し、それを利用したり退治したり……と、千夏にはまったく無縁な話が次々と耳に飛び込んでくる。科学が発達した今のご時世に「心霊テロ組織が実際に存在する」などと言われてもピンと来ないのは至極当たり前のことだ。
 しかし、彼女には確信があった。この人がウソをついているように思えない。おそらく自分が目にしたことのない現実を語っているのだろう……なんとか真正面から彼の話を受け止めようとがんばる千夏。その気持ちの空白を狙ったかのように、鬼鮫が湯船から上がった。ワンテンポ遅れてそれに気づいたウサギは慌てて最高級のミネラルウォーターをキンキンに冷えたグラスに注ぐ。

 「おまえは選ばれた人間になってもよさそうだな。自分では大いに慌てたようだが、それでも動作に無駄がない。こんな箱庭で飼われているような女ではない」
 「お戯れで私の身体をお褒めになる方はいらっしゃいますが、そのような観点から褒められたことはありませんわ」
 「ノアの箱舟は生き長らえるべき存在だけを乗せた。俺は神でもなんでもない。ただ、おまえはこっちでも十分やっていけるだろう。気晴らしに覗いてみたらどうだ。ここほど甘い世界ではないが、おまえが得るものはおそらく大きいだろう」

 大切なグラスを手渡す途中で、千夏は不意にある言葉を思い出す。そう、最初に鬼鮫が自分を「奈津美」と呼んだあの時。彼女はもっと早くに気づくべきだった。自分の本名以上の何かを彼が知っていることに。

 「もしおまえがその気になったら、ここに連絡しろ。昔取った杵柄だ……ここから出してやる。おまえを箱舟へと誘おう。次に俺と会う時はここではないどこかになるだろうな」
 「ノアの、箱舟……」
 「守るべきものの中におまえ自身を入れるのを忘れるな、奈津美」

 彼女ははっとして顔を上げた。今の自分らしさが鬼鮫の一言で戻ってきたような気がした。彼と過ごせる時間は短い。それまでに聞けることを聞いてしまおう。もちろんお客様としてだが……
 千夏が、いや奈津美が新たな光を得た瞬間はまさに今だった。深淵を優雅に泳ぐ人魚姫となる、まさにその瞬間は今。