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迷想館の午後 -Early Spring, Cherry Blossom and Tea Party-
頂上は見えているのに、いつまでも延々とつづくかに思える坂道。
足を運べど運べど前へ進まず。坂の上に望む館は、実は蜃気楼で、あと数時間歩いたところで辿り着けやしないのではないか――そんなぞっとしない想像が頭を過ぎるほどだ。もっとも彼は、そんな状況をいくらか楽しんでもいた。
道の両脇には桜が花を咲かしており、それがまた彼の目を愉しませてくれた。風もないのにはらはらと花弁が落ち、ふと足を止め、背後を顧みれば、彼の登ってきた坂道はピンク色に染まっているのだった。さながら絨毯のように。
「桜が、この迷宮を作り上げているのかもしれませンネ」
彼はつぶやく。
日本人は、古来よりこの美しい木に特別な感情を抱き、様々な伝承を残してきたというから、何かしらの魔力が備わっていても不思議ではない。
それに、何とも怪しい魅力を放つ花ではないか?
遠い異国からやって来た魔術師は、彼の異国たる東洋の島国で、春のこの時期のみに幻出する魔法に自ら進んでかかる。
魔術師の名前は、デリク・オーロフ。一見して西洋人とわかるダークブロンドの髪と、深い群青色のミステリアスな瞳は、桜の下でやけに映える。
デリクは桜の木を振り仰ぎ、美しい絵画でも見たときのように、ほうと溜息をつくのだった。
何かの間違いで桜の魔法にかかり、そのまま異空間に飛ばされてしまっても、まあ問題はあるまい。あるいは既に異次元に迷い込んでいるのかもしれないけれども……。
デリクは再び、遠方に望む館の影に目をやった。遠い。が、近づいてはいる、気がする。
「もう少し、歩いてみまショウか」
ちょっとカタコトの日本語で独り言ち、魔術師はのんびりと坂を登り始める。
坂道と同様、桜の木立もいつまでも途切れることなくつづくかと思われたが、唐突に視界がぱっと開けた。同時に、坂道も終わった。どうやらここが終着点だ。
どこかで時空を飛び越えませんでしたカ? と、デリクは半信半疑で今登ってきた坂道を振り返ってみるのだけれども、登り切ってしまったらしまったで、何の変哲もない坂道。
代わりに、目の前には古びた洋館がそびえ立っていた。風もないのに、屋根のてっぺんで風見鶏が揺れていた。上空には風があるのかもしれない。しかし雲の流れは遅い。
館のぐるりを周ると、裏手のほうに古ぼけた看板が出ていた。
『迷想館』、と読める。
「はテ? 『瞑想』ではなく『迷想』館ですカ……」
木製の扉の横には小さな黒板が立てかけており、流麗な手書きの文字で、
『本日珈琲二杯まで無料、桜紅茶あります』などと書かれていた。つまり喫茶店ということらしい。魔術道具店でも魔道書店でも十分通りそうな名前だが、実体は喫茶店とな。
「桜紅茶、ですカ」
それはなかなか――美味しそうだ。
折角だらだらとつづく坂道を登ってきたことだし、少し立ち寄ってみようか。『紅茶』と聞くと英国人の血が騒ぐデリクである。
「あ、お客さーん。よろしかったらいかがですかー」
と、背後でやけに間延びした声。一体どこから沸いて出たのか、色白のひょろっと背の高い白人の青年が突っ立っていた。まさに沸いて出たという感じだった。
「ちょっと、君ねぇ、普通の人の前にそういう風にいきなり化けて出るもんじゃな――」次いで店の扉が開き、こちらは純日本人といった感じの青年。「あ、失礼しました。よろしければ少し休憩されていきませんか?」
青年は感じ良く笑って取り繕ったが、『普通の人』とか『化けて出る』とかいう単語はしっかりキャッチしたデリクである。
ほほう、これは、面白いことになってきましたヨ。やはり桜には魔力があるようですネ。デリクは内心にやりとする。
デリクが黙っていたので、青年は日本語がわからないと思ったのか、あ、日本語わかります? などと少し困った様子で言った。
「わかりますヨ。ええ、是非、お邪魔していきましょウ」
デリクはにこりと微笑んだ。
「そうそう、お客さんずーっと坂道登ってきたから、疲れてるでしょ! 美味しい紅茶でも飲んでいくといいよ。お客さん、どこの国の人?」
「英国ですヨ。紅茶は大好物デス」
「それはいいや! ジャパニーズ・サクラティー、これが結構イケるんだよー」
気さくというか無邪気な青年は、はいはい、入った入った、とデリクを店内へ押しやった。店の扉を潜ると、静かにバッハの鍵盤曲が流れていた。
「ところで、なぜ私が坂道を登ってきたとわかったのデ?」
「だってお客様、髪に桜の花びらがついていますよ」
日本人の青年は、自分の髪を指差して、ちょっとおかしそうに言った。
「ああ……」
ダークブロンドの髪に触れると、ぱらぱらと花弁が舞い落ちた。しっかり、魔法にかかっていたようだ。
「ご覧の通りがらがらですから、お好きな席へどうぞ」
「それでは、遠慮ナク」
デリクは青年の勧めに従って、窓際の日当たりの良い席に腰を降ろした。闇の世界に生きる魔術師だって、春は人並みに太陽の光が恋しいのだ。
窓の外に目を向ける。遠方に霞む東京の街並みは、ところどころが桜色に彩られていた。何とも贅沢な眺めではないか。
「お待たせしました。ご注文はお決まりですか?」
日本人のほうの店員がエプロン姿でやって来る。
「是非、桜紅茶をいただきたいデスネ」
「畏まりました。あ、音楽のリクエストは御座います?」
「音楽?」
デリクはあらためて、先ほどから流れているバッハの鍵盤曲に耳を傾けた。
「クラシックの範疇に入るものなら、何でもお流しできますよ」
「そうですネ……ホルストの『惑星』は――」
「御座います。『木星』ですか?」
「イエ、私が聴きたいのは『天王星』デス」
「はあ、……『魔術師』ですか?」青年は不思議そうな顔でデリクを見た。「変わった、と言っては失礼ですが、マニアックなチョイスですね?」
青年はわかりました、と一つ頷くとその場を離れた。
間もなく、グスターヴ・ホルストの『天王星』が流れ始めた。G-E♭-A-Bの四音によって構成される不気味なモチーフがブラスセクションによって提示されたかと思うと、スケルツォ風のリズムで忙しなく音楽が展開し始める。曲はハ長調で書かれているが、調性感は曖昧で、かといってドビュッシーのようにふわふわとどこへも落ち着かないわけでもない。惑星のダイナミックな動きが目に浮かぶようだ。軽快なリズムと重いオーケストレーションが相俟って、何とも迫力のある魔術に仕上がっている。
デリクは、故郷を同じくする作曲家の音による魔術に耳を傾け、堪能する。魔術師たるもの、一度はこの音楽を聴きながらお茶を楽しまねば。
「お待たせしました」
ちょうど折り良く桜紅茶も届いたので、桜の魔術と音の魔術をいっぺんに楽しむことにした。
ソーサには、オマケでちょこんと桜の形をした砂糖が載っている。紅茶は淡く透き通った琥珀色をしており、カップに口を近づけると、ふわりと甘い匂いが香った。
「これは贅沢な香りですネェ」デリクは香りを目一杯堪能してから、紅茶に口をつけた。ほんのり甘いがさっぱりとした、舌触りの良い味が口の中に広がった。「そしてテイストも絶品デス」
「本当ですか? そう言っていただけて嬉しいです。実は当店のブレンドなんですよ。桜の花びらもちゃんと入っていますよ」
「洋と和の絶妙な融合ですネ」
「お客様は、どちらから? 日本語がお上手ですけれど」
「日本で働いていますが、英国の者デス」
「あら、それじゃあ紅茶の本場の方ではないですか」そのデリクを唸らせるのだから、なかなかのものだと思う。「桜紅茶、さっきの不躾な従業員の発案なのです……味に免じてご無礼をお許し下さいね」
青年の古風な言葉遣いがなんとなくおかしかった。デリクは笑いながら、
「とんでもナイ。偶然このようなお店を見つけて、私も良い気分デス。宣伝したいような、私だけのとっておきにしたいような、複雑な思いデスネ」
「まあ、やはり偶然でしょうねぇ。たまにいらっしゃるんですよ、散歩がてらあの坂道を登ってやってこられる方が」
「桜に誘われたのかもしれませんネ。あまり見事な桜並木だったものデ、つい」
「そう、そう、この頃特に、桜につられて来たというお客様が多いんです。ですので、期間限定で桜紅茶などというメニューを……」
「桜の魔法でしょうカ。それとも普段から魔法がかかっているのデ?」
「え?」青年はきょとんとした。
デリクはにこりと唇の端を上げて微笑む。青年はどう答えたものか考えあぐねている様子だったが、
「……ワームホールくらは、開いてるかもしれませんよね」
なぞと、暗にここらの空間は歪んでるんですよというような言い方をして、誤魔化し笑いを浮かべるのだった。やはり飛ばされたのだろうか、とデリクは思った。
青年は一礼して店の奥へ消えた。
デリクは桜紅茶を味わいながら、なんとなく桜の季節について思う。
春の気配が訪れ始める冬の終わり。何気なく道端を歩いていて、おおいぬのふぐりが小さな青い花をつけているのを見ると、桜の季節の到来を感じる。日本では、春と桜は切っても切り離せないものらしい。
誰もいない場所でひっそりと桜を楽しめれば最高だが、日本の酒宴にはちょっとゲンナリしているデリクだ。一応顔を出しはするのだけれども、もう少し慎ましやかに、花を愛でることはできないのだろうかと思ってしまう。
そういえば何年か前の春先、表向きの勤め先である英語学校の生徒に誘われ、半ば無理やり、ほんの少しの好奇心も手伝って花見に出向いたことがあった。桜の木の下で食事をいただくなんてなかなか風流なものだと思ったが、酒まで入るとは予想していなかったのだ……。
それならまだしも、桜に憑いた霊か鬼か――いわゆるデリクの裏の稼業(そちらが本業である)のほうで遭遇する類いのモノが白昼の宴に乱入するなどという珍事も起き、いっそ関わらないことにしてずらかろうとも思ったのだけれども、仕方なくその場に居合わせた彼が処理する羽目になったのだった。もちろん、表の顔を装いながら、誰にもバレないように。骨の折れる仕事だった。
……頭のイタイ思い出ですネ。デリクはふぅと溜息をつく。
東京というのはそも魔術や妖術や怪奇現象といったものが蔓延る街で、人々は常にそれら闇の世界と隣り合わせに生きている。ただ、知らないだけだ。イギリスも幽霊話やファンタジーでは負けていないけれども、日本の、特にこの東京という街は、何か異様ですらある。
春は出会いと別れ、新生活の節目を迎える季節。
が、実は怪奇現象の多い季節でもあるのですよネ。多分、桜のせいなのでショウ。
いつの間にか『天王星』は終わり、BGMは最初のバッハに戻っていた。
「紅茶のお代わり、いかがですかー」
と、今度は『沸いて出た』ほうの得体の知れない店員がやって来て、さっきと同じ、気さくな調子でデリクに声をかけた。
「ええ、いただきマス」
「美味しいでしょ? 美味しいでしょ? お土産に茶葉持ってかえらない? もちサービスですよー」
「それでは是非」
「了解しましたー、お代わりと一緒にお持ちしまーす」
店員はくるくると踊り出しそうな様子で、軽いステップを踏みながら店の奥へ消えた。BGMはイギリス組曲第二番のブーレUだった。
*
サービスと称してたっぷり茶葉を持たされて(小さな洒落た紙袋には、アンティークな『迷想館』の金文字が書かれていた)、デリクは店を後にした。
一旦店を出ると、そこで出会った人々も、ホルストの『天王星』も、何か幻でもあったかのように、現実感を失ってしまうのだった。手元には、幻想と現実空間を繋ぐ迷想館ブレンドの桜紅茶。この紅茶を飲む度に、不思議な気持ちになるのかもしれない。
今度こそ空間の歪みを捉えようとしたのだけれども、相変わらず何だかわからないうちに坂道の終着点に辿り着いてしまった。
顧みれば見事な桜並木。丘の頂に館の影が見えたが、果たして自分は、本当にあの喫茶店へ行ったのかどうか……。
「桜の花が散った頃に、また来てみましょうカ」
桜の魔法が解けたら、案外何でもない古びた洋館なのかもしれない。
ざっと一陣の風が吹き、桜の花びらが一斉に舞った。
ダークブロンドの髪についた花びらはそのままにしておき、デリク・オーロフはのんびりと歩き始めるのだった。
Fin.
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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■デリク・オーロフ
整理番号:3432 性別:男性 年齢:31歳 職業:魔術師
【NPC】
■麻生清春
性別:男性 年齢:20歳 職業:音大生
■アルトゥール
性別:男性 年齢:17歳 職業:学生(?)
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■ ライター通信 ■
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はじめまして。『迷想館』シナリオへのご発注、ありがとうございました。
東京は既に桜の季節でしょうか? ライターの住む地域はまだ雪が残っており、桜が恋しい今日この頃です。
桜には何か不思議な力がありますよね。ホルストの『天王星』と一緒に、桜の魔法を堪能していただければ幸いです。……あ、英語学校の花見の下りは勝手に捏造させていただきました。
それでは、春の宴をお楽しみ下さいませ。
改めまして、ありがとうございました!
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