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<東京怪談ノベル(シングル)>


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 その日は、朝から細い雨が降り続いていた。
 傘を持つ手が悴むほど肌寒いせいか、古い雑居ビルの並ぶ通りに、人の姿はまばらだ。
 そんな雨に滲んでその殺風景さを際立たせる通りを、一人の少女が歩いていた。
 明るい色の傘をくるくるとまわし、この場所にはやや似つかわしくない清楚なセーラー服に身を包んだ少女、海原みなもは目的のビルの前で足を止めた。
 申し訳程度に掲げられた看板には「草間興信所」の文字。
 みなもは慣れた足取りでビルの中へと姿を消した。

 
 草間興信所の呼び出しベルを鳴らすのは客ぐらいなものだ。一度でもその音を耳にした者は、それをないものとして扱う。当然みなももその一人だ。
 一応礼儀として扉を開くが、返事は待たない。
「こんにちは」
 自分で扉を開けながら中へ声をかける。    
 さして広くもない事務所の中には、珍しく探偵・草間武彦の姿しかなかった。
 草間は顔を上げ、みなもの姿を認めると煙草を持ったまま片手を上げたが、すぐにまた視線を落としてしまった。
 長い間換気もしていないのであろう、室内には煙が充満している。この様子ではアルバイトは出来そうにないなと、小さくため息をついた。
 だが、珍しく何かを熱心に読みふけっている草間の姿に興味を引かれ、みなもは草間の元へと歩み寄った。
「なにをしているんですか?」
 机を立ち覗きこむと、そこには白と黒の四角で構成されたシートと問題の書かれた雑誌が置かれていた。
 みなもの問いに、
「あ、いや……あんまり退屈なもんで、ついな」
 そう言って草間は照れたように笑った。
 こういったパズル雑誌には豪華な賞品がつき物だ。おそらくはそれを狙ってもいるのだろう。
 大きなシートの半分は草間の字で埋められている。 
「あたしでよかったら協力しますよ?」
 アルバイトの当てが外れた以上、みなもにも予定があるわけではない。ある意味人助けと、みなもは協力を申し出た。

 クロスワードには老若男女問わずの知識が集結している。仮にも探偵業を営む草間と、若いみなもの手によって、問題は次々と解かれていった。
「198番は、ローライズですよ」
 とみなもが言えば、
「じゃあこれはラッキョウだ!」
 と草間が応じる、といった具合だ。
 あと少しで全ての問いに答えが出せる所まで来た時、みなもは問題を追う指を止めた。
「どうした?」
 不意に黙り込んだみなもに、草間も顔を上げる。
「ちょっと……思い出してしまって」
 訝しげな表情を浮かべる草間に、みなもは柔らかな笑みを向け
「あの暗号です……携帯電話事件の時の」
 ややあってから、草間はああと納得げな表情を浮かべる。
 日々起き続ける多くの出来事に埋もれてしまった過去の事件。
 携帯電話に送られてきた謎の暗号と、それにまつわる不幸な出来事。その依頼を、草間に協力してみなもが解決へと導いたのは、少し前の事である。
「あの事件は、完全に終わったわけではないですよね」
 視線をそらすように窓の外を見つめながら、みなもはそう呟いた。
 あの時送られてきた暗号は、どんなに考えても解読する事が出来なかった。それ故、少女の気持ちを知ることが出来ず、半ば力づくでの終結となってしまった。
 
 助けられなかった。
 
 その事実は、今でもみなもの胸に重く圧し掛かっている。
「今から……解読するか」
 思い沈黙を破るように発せられた草間の言葉に、みなもは弾かれたように振り返った。
「え、でも……」
 みなもの戸惑いを無視するように、草間は机の周りに雑多に置かれたレポート用紙を漁りはじめる。
「あの時の暗号ならその辺に書きとめたのがあるだろう」
「あ、あたしも、あたしも持っています!」
 みなもは鞄からメモを取り出す。あの時書き留めた物が、今で残されている。
 慌ててメモをめくるみなもに、
「今度こそ、暗号を解読してやろう」
 草間は不適な笑みを向けて言った。



『917542 2 7242727255424552727232 2 45527542 2』

『2142455155 2 21 2』

 今となっては、二人の手元に残った暗号文はこの二行だけであった。
 一行目が一番最初に携帯電話に送られてきたもの。
 二行目は、実際に事件の最中にもたらされたもの。それはみなもが初めて見るものだった。
「あの時のメンバーに聞いて書き留めておいたものだ」
 草間がそう補足する。
 それならば自分が知らないはずである。みなもは納得して頷いた。
「やっぱりこの数字は二桁の数字で一つの言葉を表していると思うんです」
「あの時もそう言っていたな」
 草間の言葉にみなもは頷いた。
「ただ、あの時と違って携帯を使わないで考えてみたんです」
 みなもはそう言いながらメモを見せる。
 自分なりに考えた物がそこにまとめられている。草間は興味深げにメモを覗き込んだ。

『あ 2か 3さ 4た 5な 6は 7ま 8や 9ら 10わ』

「二桁の右側の数字が行を表ていると思うんです。そうすると、最初の91の9はラ行を、1はラ行の一番目……つまり、『ら』を表すと思うんです。あの時は、『2』が何を表すか解らなかったんですけど、ア行の1を省いた物と考えれば、『い』を表すのかなって」
 みなもはメモと暗号を照らし合わせながら、草間にそう説明する。
「だが、それを当てはめると──らもちいみち……到底文章にはならないぞ」
「そう、なんですよね……」
 今までその文章に引っかかっていたのだ。思考がまるでループしてしまったかのように、同じ場所へと戻ってくる。
「まあ、落ち込むな。この文章から何かに発展させるのかもしれん。例えば逆さまに読んでみるとか」
 草間は慰めるようにそう言い、暗号をみなもの言った方法ですべて平仮名へと戻した。

『ら も ち い み ち み み の ち と に み み し い と に も ち い』
 
『か ち と な の い か い』

「いちもに──駄目みたいです」
 逆さまに読んでも文章になるとは思えなかった。
 
 その後も、二人は意見を出し合い数字をアルファベットへと変換してみたり、そのアルファベットをローマ字、英語、フランス語へと変換を試みてみたりした。
 だが、そのどれもがハズレと言わざるをえなかった。
「……この方法も駄目か」
 草間は手にしていたペンを置き、ぐったりと背もたれに倒れこむ。だいぶ長い時間が過ぎ、窓の外の景色も急激に闇へと落ち込んでいる。
「やっぱり、駄目なんでしょうか」
 沢山の辞書の中に埋もれそうな声で、みなもが呟く。
 少女の気持ちを知ること、あの事件を完全に終わらせること。
 やはり自分には出来ないのだろうかと、みなもがそんな暗澹たる気持ちになっていると、
「諦めるな」
 という草間の言葉と共に、大きな掌がみなもの頭に乗せられる。
「人を救うなんて、どのみち簡単に出来る事じゃないんだ」
 そう言ってみなものさらさらの髪をくしゃくしゃに撫で回す。
 草間の心遣いと、その言葉に、みなもは自分の頭を撫でながら大きく頷いた。
「……はい!」
「じゃあ、初めから考え直そう」
 草間は余分な紙を捨てながら、再び暗号へと目をやった。
「どうも難しく考えすぎなんだよな」
 独り言のようにそう呟く。
「この暗号を考えたのはプロと言う訳じゃないんだ、そんなに難しいもののはずがない」
 暗号のプロっているのかな……そう思いながら、みなもも同意を示す。
「そうですよね。あたしとそんなに年齢も変わらない筈ですから」
 みなもの同意を受け、しばらく考えていた草間は、
「このままこの文章を漢字変換してみるか」
「漢字、ですか?」
「ほら、なんかあるだろうギャル文字っていうのか?なんかそんな感じの文章になるかもしれん」
 そう言いながら、草間は先ほどのレポート用紙の更に下から古ぼけた機械を取り出した。
「ノートパソコン……ですか?」
「……ワープロだ」
 憮然とした表情のまま、草間はワープロを開く。長い間使われていない雰囲気が色濃い。
「紙で変換するより早いだろう」
 そう言いながら、立ち上がった画面に草間はメモを見ながら文字を打ち込み始めた。
「……らもちいみちみみのち……」
 興味深げに画面を覗いていたみなもがはっと口を押さえる。
「草間さん!」
「どうした?」
 メモを見ていた草間が急いで画面へと視線を送ると、そこに『おまえなんか』の文字が明滅していた。
「どう言う事だ?」
 確かに自分は『らもちいみちみみのち』と入力したはずだと、草間はメモ用紙とキーボードを見比べた。
「……草間さん、カナ入力なんですね」
 画面を見つめたまま、みなもがそう言う。
 しかし、画面上では入力方法が「ローマ字」となっている。
 みなもは大きくため息をついた。体から力が抜けていく感じがする。
「そうか……そういう事か……」
 草間も納得が言った様に頷いた。
 あの暗号は、みなもの言った方法で平仮名に直した後、パソコンやワープロで『ローマ字入力』のまま、カナ打ちの要領で文字を入力した時に初めて解読できるのだ。
 思った以上に単純で、捻くれた方法に草間もがっくりと肩の力を落とす。
「つまり普通にカナ入力しただけや、数字に置き換えただけではすぐに見破られてしまうと思ったわけだ……ずいぶんと回りくどい方法だ」
 そう言いながら、草間は続きの文字も入力する。
「おまえなんかしんでしまえ」
 現れた文字を、みなもが静かに読み上げる。憎しみのこもった恨みの言葉。
 少女はどういう気持ちでこの呪いの言葉を発したのだろう。
「じゃあ、もう一つの方も入力するぞ」
 言葉と共に画面に現れた文字に、みなもは息を呑んだ。
 草間も遣り切れない表情でそれを見つめた。
「たった一言、この言葉を言うだけで終わったのにな」
 暗号ではなく、言葉で。

 『たすけて』

「……その一言が、彼女には何よりも難しかったのかもしれません」
 明滅するそれを見つめながら、みなもはしぼり出すように言った。
 たとえその姿が現実の物でなくなってしまったとしても、誰にも言えない言葉が存在する。
 複雑で回りくどい暗号文。そこに隠された想い。それを誰かに解いて欲しかったのか、それとも解いて欲しくなかったのか。
 今となっては、誰にも解らない。

「そう、かもしれないな……」
 みなもの言葉に同意するように、草間は小さく呟いた。

 あの時、その言葉に気付いてあげられたら。
 水を通して伝わってきた少女の心の悲鳴。それは今でもはっきりと思い出すことが出来る。
 しかし、ようやく終わりを迎えられたのかもしれない。
 もう、彼女はどこにもいない。
 今更それを知った所で、あれ以上に彼女を救う事は出来ないのだから。
(遅くなりましたが、任務完了です)
 雨に滲む町を硝子越しに見つめながら、みなもはそっと心の中で呟いた。



 あなたの言葉は、今あたしに届きました……。